第10話 智謀の参謀、そして、ハムスター
深夜。
ボロアパートの六畳間は、安らかな静寂に包まれていた。
この部屋の主、もといフレアは、ベッドの上で「むにゃ…我の勝ちだ…ベルゼ、戦利品のぷりんを…」などと幸せそうな寝言を呟きながら、大の字で熟睡している。
昨日の熱唱で、文字通り魂まで燃え尽きたのだろう。
その傍ら、机の上では、小さな影が一つ、ため息をついていた。
忠臣ヴェルゼスである。
彼は、ペットボトルのキャップに注がれたなけなしの水をちびりと飲むと、人間でいうところの胃のあたり――おそらくは頬袋の奥――をさするような仕草をした。
「はぁ……。今宵も、なんとか乗り切った……」
ここに来てからというもの、心休まる日がない。
ヴェルゼスの脳裏に、この世界に転生してからの、怒涛の、あまりにも怒涛すぎる日々が走馬灯のように蘇る。
まず、降臨初日。
鏡の前で「なんだこの脆弱な生物はーーーっ!!!」と絶叫する主君の姿。
赤い印も生々しい督促状を指さし、「ふん、我への挑戦状か?」と本気で目を輝かせていた、あの純粋な狂気。
あの時は、本気でこの世界での終わりを覚悟した。
次に、初配信と事故。
「背景など些事だ!」と高らかに言い放ち、全世界にシミだらけの天井と、生活感あふれる干しっぱなしのジャージを晒した、あの伝説の初配信。
カメラが落ちた時の自分の焦りっぷりを思い出すと、今でも顔から火が出るようだ。
いや、この豊かな体毛のおかげで、赤面しても誰にもバレないのが唯一の救いか。
そして、お絵描き配信と失態。
Ctrl+Zの機能を「時の魔法」と勘違いし、恍惚の表情で連打していた主の顔。
そして、自分が誤ってソフトを終了させてしまった時の、あの絶対零度の瞳……。
思い出すだけで、小さな体がブルブルと震える。
極めつけは、料理配信と忌まわしき生物。
自分が産み出した紫色の謎の生命体を「待てー!」と無邪気に追いかけ回し、あろうことか、それに『ベルゼ弐号』などという忌まわしき名を授けた、あの悪夢のような光景。
「……いかん、いかん」
ヴェルゼスはぶんぶんと頭を振って、記憶を霧散させる。
「あの紫色の粘液と、この黄金に輝く我が体毛とでは、種族からして全くの別物。我は我、断じて壱号ではないし、弐号などという異形の兄弟は存在せぬ…!」
自己暗示を終え、ヴェルゼスはふぅ、と息を吐く。
だが、思考が冷静さを取り戻すと、新たな悩みが頭をもたげてきた。
昨夜の『世界のしゃっくり』事件。
そして、あの『†漆黒の考察者†』とかいう人間の、不気味なコメント。
「しかし……ただのドタバタ劇で済ませるには、不可解な点が多すぎる」
ヴェルゼスは、フレアがどこかから拾ってきたチラシの裏に、折れた鉛筆の芯でキーワードを書き出していく。
人間用の筆記用具は、この体ではまだ扱いきれないのだ。
――『不相応な配信機材』
(そもそも、なぜこのボロアパートに、最新とは言えないまでも、Vtuber活動が可能なレベルのPCと機材が揃っていたのか? 元いた人間が使っていたのか?家賃も払えていないというのに)
――『出来すぎた初配信の熱狂』
(カメラが落ちて、天井のシミや生活感が露呈した、あの絶望的な状況。それがなぜ、これほどの熱狂に繋がった? まるで、そうなることが決まっていたかのように…)
――『その後も続く、都合の良い展開』
(即日払いの規約、ゲームでの奇跡、そして昨夜の歌。主の失敗や暴走が、なぜか常に最高の形で肯定され、物語として昇華されていく。この一連の流れは、本当にただの幸運なのか?)
――『主の歌に呼応した、デジタル世界の痙攣』
「まるで、何かの大きな流れに、都合よく乗せられているかのようだ…」
「幸運…? いや、初配信の時から感じていたこの感覚は、もはや幸運と呼ぶにはあまりに出来すぎている」
「では、一体、誰の…何の『意思』が、我々の背後で働いているというのだ…?」
そこまで考えて、ヴェルゼスは再び思考を打ち消した。
「いや、考えすぎか。主の強運と、あの底の知れないカリスマが、全てを引き寄せているだけやもしれぬ」
今は、憶測で動くべきではない。
気分転換も兼ねて、情報収集だ。
ヴェルゼスはPCの前に陣取ると、慣れた手つきでブラウザを開いた。
まずは、敵を知ることから。
主とは真逆の存在はいないか?
対極を知ることで、主の立ち位置がより明確になるはずだ。
検索ウィンドウに、小さな前足で懸命に文字を打ち込む。
『Vtuber』『清楚』『癒し』『聖女』
エンターキーを「ポチッ」と押すと、検索結果のトップに、一人の女性Vtuberのサムネイルが表示された。
純白の、天使のようなドレス。
背中から広がる光の翼。
柔らかなプラチナブロンドの髪に、慈愛に満ちた、どこか憂いを帯びた微笑み。
動画タイトルは、『【癒しの歌枠】皆様に、安らかな眠りを……』。
ヴェルゼスは、そのあまりにもフレアとは対極の存在に、ゴクリと息をのんだ。
おそるおそる再生ボタンをクリックすると、スピーカーから、透き通るような、清らかな歌声が流れ出す。
コメント欄は「浄化される…」「女神様…」「今日の疲れが全部溶けた」といった、フレアの配信では決して見ることのない、穏やかで純粋な信仰心に満ちた言葉で溢れていた。
だが、ヴェルゼスはその歌声と、画面に映るアバターの姿に、なぜか強烈な胸騒ぎを覚えていた。
(この魂の響き…どこかで…)
(そうだ、思い出した。かつて我が主が最も忌み嫌っていた、あの『光』の音だ)
(全てを一方的に『救済』の名の下に塗りつぶし、異論を許さない、あの独善的な輝き…)
(魂が、本能が叫んでいる。この女は、主とは決して相容れぬ、世界の対極に立つ者だと…!)
ヴェルゼスは、その聖女Vtuber――『聖告のアリア』というらしい――のチャンネルを、ブックマークに追加した。
「これは……注視しておく必要がありそうだ」
彼は、ぐっすり眠る主の寝顔と、PC画面に映る天使の微笑みを交互に見比べ、深く、ふかーいため息をついた。
主の奇行だけでなく、今度は外敵(?)の心配まで増えるとは。
我が胃(頬袋)が、パンパンに膨らんだヒマワリの種のように、いつか破裂してしまうのではないか。
忠臣の憂鬱な夜は、まだ始まったばかりだった。