第9話 魂の凱歌、そして、世界の瞬き
「歌ってみた、だと?」
フレアは、ディスプレイに殺到する民からのリクエストを眺め、心底不思議そうに首を傾げた。
我が芸術(という名の落書き)や、料理(という名の生命創造)は理解できた。
だが、歌。
それはあまりにも、個人的で、魂の根幹に関わる行為だ。
『魔王様の歌声が聴きたい!』
『ぜひ、魔王軍の軍歌をお願いします!』
「ふん、面白い。我が魂の歌を聴きたいか、愚かなる民草よ」
フレアの口元に、不遜な笑みが浮かぶ。
よかろう。貴様らが望むなら、見せてやる。
いや、聴かせてやろう。
我が魂の真の輝き、その鼓動を。
「ベルゼ、今宵は儀式の準備だ。我が覇道を刻みし、あの歌を世界に響かせるぞ」
「はっ!……え、あの歌、でございますか!?」
机の隅でヒマワリの種を頬袋に詰めていたヴェルゼスが、素っ頓狂な声を上げた。
その小さな瞳が、焦りと困惑で見開かれる。
「お待ちくだされ、主よ! 『赫焉の凱歌』は、我ら魔族の魂を直接高ぶらせる禁断の旋律! その脆弱な人の器では、歌い終わる頃には干からびたミミズのようになってしまいますぞ!」
「ミミズだと? 面白い! ならば我が魂の輝きが、この器の限界をどう超えるか、とくと見るがいいわ!」
フレアは、忠臣の的確すぎる進言をいつものようにズレた解釈で一蹴すると、迷いなく配信開始のボタンをクリックした。
今宵、世界はその歌を聴いてしまう。
真の王が奏でる、魂の歌を。
◇
「――聞け、我が民よ! 今宵は特別だ。貴様らの矮小なる魂に、我が覇道の記憶、そのものを刻み込んでやろう!」
高らかな宣言と共に、フレアは息を吸い込んだ。
ボロアパートの六畳間に、古の言葉が響き渡る。
――最初は、いつもの甲高い、少しあどけなさの残る少女の声だった。
荘厳なはずの歌が、どこか童謡のように聞こえる。
そのアンバランスさに、コメント欄はいつものように沸き立った。
『かわいいwww』
『魔王様の童謡かな?』
『どこの国の言葉? 歌詞は絶対「鏖殺」とか「蹂躙」とか言ってるんだろうに、声がロリで草』
ヴェルゼスは、主の身を案じながらも、ひとまずは安堵のため息をついた。
(ふぅ…この程度なら、まだ大丈夫か…)
だが、彼の安堵は、次の瞬間、戦慄へと変わる。
――サビに差し掛かった、その時だった。
フレアの歌声が、変貌した。
甲高い少女の声に、まるで深淵の底から響くような、荘厳で、力強く、そして絶対的な威光に満ちた『王の声』が、完璧に重なり始めたのだ。
それは、一人の人間が発しているとは思えぬ、神々しくも禍々しい、二重音声。
魂そのものが、歌っている。
あれだけ騒がしかったコメント欄が、水を打ったように静まり返った。
誰もが、ディスプレイの向こうから放たれる、人知を超えた魂の響きに、ただただ圧倒されていた。
◇
歌が終わり、しばしの沈黙。
完全燃焼したフレアは、ぜぇぜぇと肩で息をしながらも、かろうじで王の矜持を保ち、最後の言葉を振り絞った。
「ふん…我が魂の鼓動…少しは、理解…できたか…」
その決め台詞が、まるで合図だったかのように。
フレアのPCから、『ポーン♪』という、気の抜けたシステム音が一つ鳴り響いた。
そして、デスクトップ画面の隅にあった「ごみ箱」のアイコンが、ぴょこん、と一度だけ、まるで生きているかのように跳ねた。
フレアは、息も絶え絶えながら、その現象を見てニヤリと笑う。
「ふ、ふふ…見たかベルゼ…我が歌の力に…この世界の…カラクリそのものが、驚いてしゃっくりをしおったわ…!」
そのあまりにも魔王様すぎるポジティブ解釈に、コメント欄は『さすが魔王様!』『世界のしゃっくりwww』と、畏怖と笑いが入り混じった反応で再び盛り上がりを見せる。
だが、その喧騒の中、ひときわ異彩を放つコメントが、一つだけ投下された。
いつもの長文考察でお馴染みの、信徒からだった。
『†漆黒の考察者†:…おかしい。今の現象、ただの偶然じゃない。何かのトリガー? 何を試した?』
その指摘は、ほとんどの視聴者の目には留まらなかった。
しかし、ヴェルゼスの小さな瞳は、その一文を確かに捉えていた。
◇
配信が終了し、SNSでは『#世界のしゃっくり』がトレンド入りを果たしていた。
一方、ボロアパートの一室。
フレアは魔力を使い果たし、椅子の上で「う…動けぬ…ベルゼ、水…」と、完全に燃え尽きて干からびかけていた。
その傍らで、ヴェルゼスはいつものようにSNSの反応を調べていた。
彼の目に、トレンドワード『#世界のしゃっくり』が飛び込んできたのだ。
「ふん、主の決め台詞が早速トレンド入りか」
忠臣はいつものように鼻を鳴らし、何気なくそのタグを開いた。
――その瞬間。
ヴェルゼスの小さな体が、凍りついた。
彼の表情からいつもの冷静さが消え去り、鬼気迫るものへと変わっていく。
ぐったりしている主に気づかれないよう、彼は息を殺した。
そこに並んでいたのは、ファンのおふざけツイートだけではなかった。
『今、世界中の株価チャートが一瞬だけ全部同じ形になったってマジ? #世界のしゃっくり』
『うちの会社のサーバー、日本時間の23:15に0.5秒だけ全停止したらしい。原因不明だって。#世界のしゃっくり』
『世界各地の交通信号が、一斉に1秒間だけ黄色点滅したってニュースになってる…』
『アマゾンの奥地で衛星電話が一瞬だけ繋がらなくなったらしい。何これ怖い』
それは、国境も、時差も、物理的な距離さえも無視した、地球規模で同時多発的に起きた、デジタルインフラの不可解な『しゃっくり』の報告で溢れかえっていたのだ。
全ての異常が起きた時刻は、フレアが歌い終わった、まさにあの瞬間と一致していた。
ぞわり、とヴェルゼスの全身の毛が逆立つ。
これは、偶然ではない。
主の歌が、この世界の「何か」の神経に触れ、本当に痙攣させたのだ。
世界中で起きている異変の報告を目の当たりにし、ヴェルゼスの脳裏に、配信中のあの言葉が蘇った。
『†漆黒の考察者†:…おかしい。今の現象、ただの偶然じゃない。何かのトリガー? 何を試した?』
その言葉は、今やただの考察ではなく、恐ろしいほどの真実味を帯びてヴェルゼスに突き刺さった。
(この世界の裏側に潜む、得体の知れない「何か」の正体…そして、あの『†漆黒の考察者†』とかいう人間…。調べねばならぬ…!)
彼は、ヒマワリの種を一つ、決意を固めるように口に運び、カリッと小気味よい音を立てて殻を割った。
フレアが知らないところで、忠実なる参謀の、静かなる戦いが始まろうとしていた。