だれかの心臓になれたなら
雨が降っている。
私――工藤未来は、雨の中、傘も差さないで佇んでいた。
止むことを知らない雨は、私の髪を、服を濡らす。
濡れた横髪が私の頬に張り付く。服に滲みた雨水が、私の肌に触れる。
――冷たい。まるで……この世界の、人間みたいだ。
私は、この世界が嫌いだ。醜く、理不尽で、私にとって残酷な世界。
人の欲動に巣食う愚かさばかりが、この目に映ってしまう。
結局人間という生き物は皆利己的で、自分さえ良ければ他人が不幸になろうとも構わない。みんな、みんな同じだ。こんな世界、無くなってしまえばいい。
脳内の思考が雨に融けて出るように、私は無意識に言葉を紡ぐ。
「――こんな世界なんて……」
――――――――――――――――――――――――――
高校2年の私は、いつも独りだ。両親はとうに亡くなり、一人暮らし。朝起きて学校へ行って、授業を受けてバイトして、買い物を済ませ、帰ったらお風呂に入り、夕食を食べて寝る。それだけの日々。
ただ、最近は、学校にいくのが、いつも嫌だった。なぜなら――
「おーはよっ、“ひとりぼっち”のみーくちゃんっ」
教室の扉を開けた途端、嫌味全開な口調で話しかけてくるのは、クラスの一軍女子、天崎香織だ。
――朝から、わざわざご苦労様ね。
口に出すことはないが、内心で毒づく。
「ねーえ、無視しないでよー」
無視しても終わらない香織のちょっかいに、私は思わずため息をつく。
「……何度も言ってると思うけど。別に私に関わらないでもいいでしょ」
私はそう軽くあしらい、自分の席へ向かう。
いつもこうやってちょっかいを出してくる。いい加減、やめてほしいものだ。
「……調子乗んなよ、クソが」
その声は周囲の雑音にかき消され、私の耳に届くことはなかった。
その日はそれ以上絡まれることもなく、いつも通りの一日だった。
翌日、自分の席に行くと――
「………何、これ………」
周りは目を逸らしていて、他数人の女子はクスクスと笑っている。
――ああ、あいつか。
「………ねえ」
私が後ろから声をかけると、他の女子生徒と話していた香織はこちらを振り向き、いつも通り愛想良く笑いながら、されども厭味ったらしく話す。
「んー?あー、一人ぼっちの未来ちゃんだー。どうしたのー?」
「あの落書き、あなたでしょ」
「だとしたら何ー?」
相変わらずヘラヘラとしている彼女。周りにいる女子達も薄気味悪く笑っている。
「消して」
「え、やだよ」
「……え?」
さも当たり前のように答える香織。全く気負いもせずに拒否する香織の様子に、私は思わず声が漏れる。
「ってかさー、あんた最近調子乗りすぎじゃない?前から思ってたんだけどさー、話してあげてんのに何その態度?」
「……何度も言わせないで。わざわざ私に関わる必要なんてないでしょ」
「ふぅん……。そう」
意味深げに呟くと、彼女はその口に不気味な嗤いを浮かべる。
「まあいいや。これからどうなっても知らないから」
それだけ言うと、彼女は自分の席に戻っていく。
「……?」
――何が言いたいの?これから何か起きるとでも?
私も席につきながら、彼女の言葉に思考を巡らす。だが、やはり何か解るわけでもない。
とりあえず私は落書きを消し、今日を過ごした。
「――……ただいま」
言っても返事は全くない。当然だ、一人なのだから。
あれからは特に何もなかった。結局朝のあれはなんだったのだろうか。ただの脅し?或いは負け惜しみか何かなのか。
―― 気にしても仕方ないか。
そう思い、私は考えるのをやめ、夕食の準備に取り掛かる。できたら、誰もいない空間で手を合わせ、独り「いただきます」と呟き食べる。食べ終わったら、お風呂に入り、勉強をして、寝る。今日も、何一つ変わらない。そう、何も変化など無い一日だった。
翌日の昼休み、ご飯を食べていると、嫌がらせの張本人、香織が呼び出してきた。一体なんだろうか。
連れてこられたのは、人気の無い校舎裏。香織の他にも、数人の取り巻きの女子がいる。
――何か、嫌な予感がする。
「……あのさあ、いつも思ってたんだけど、あんたのその態度何?ほんっとムカつくんだけど」
「……私、あなたに何かした?」
「だからそういうのがムカつくって言ってんだよ!」
パシッ。乾いた音が私の耳朶を打ち、ヒリヒリとした痛みが頬を襲う。
―― 何が起きた?目の前のコイツは今何をした?
突然の衝撃に、一瞬だけ思考がとび、頭の中が真っ白になる。
だがすぐに、何をされたのかを理解する。
――私を、叩いたのか。
「ほんっと、気に入らないわ。孤高のお姫様気取りだか何だか知らないけど、あんたのその態度、その余裕、全部がムカつくんだよ!マジで調子乗んなよ!」
パシッ。
ついでとばかりにもう一度私を平手で打つと、彼女はイライラをぶつけるように、大きく足音を立てながら去っていく。
それからの日々はすごいものだった。やることは日に日にエスカレートしていき、ついには持ち物まで盗られるようになった。
今日だってそうだ。傘を取られ、雨に濡れながら帰っている。
――誰も、助けてくれない。
無意識のうちに、私は歩くのをやめていた。
それは、もう、進みたくないという、私の心の表れだったのかもしれない。
――面倒ごとに巻き込まれたくないから。先生すら相談したとしても聞き入れてくれない。みんな自分を優先して、他人を助けることはない。誰も手を差し伸べることなんて、ない。
機械のように冷たく、化け物のように醜悪な世界で、私を打ち続ける雨と共に、心の声が、ポツリと零れる。
「……こんな世界なんて……」
その時、雨が当たらなくなった。
「大丈夫かい?傘差さないと風邪引いちゃうじゃないか」
「……あ……」
――――――――――――――――――――――――――
「――大丈夫かい?傘差さないと風邪引いちゃうじゃないか」
「……あ……」
そこには、傘を差し出し、微かに笑顔を浮かべている少年がいた。その制服は私と同じ学校。よく見れば、同じクラスの子だ。名前は確か――
「……相星……くん?」
「わあ、僕の名前覚えてくれてたんだ!嬉しいなぁ、えへへっ!」
相星翔太。クラスで誰とでも仲がいい、けど悪ノリはしない、優しい子だ。
私がその名前を呼ぶと、彼は先程の微笑みとは打って変わって、屈託なく笑う。
「そりゃ覚えるよ、クラスで人気なんだし」
「あははっ、そうなのかなあ。……ところで、何かあったのかい……って工藤さん!?どうしたの!?」
何のこと……と聞く前に、はっとした。私の視界が、何故か歪んでいた。
私は――泣いていた。
「……あれ、なんでだろう……」
いや、わかっていた。何かあったのか、なんて言われたのは久しぶりだ。誰も助けてくれない、と諦めかけていたところに、心配してくれたのだ。その言葉が、ただ嬉しかった。その心が、ただ暖かかった。
「ううん、なんでもない。実はね――」
私は、今自分の身に起こっていること、香織のこと、全てを話した。
「そんなことが……。ごめんね、気づいてあげられなくて……」
「い、いや、そもそも私が話さなかったんだし……」
「……先生には、相談したの?」
「うん。してみたよ。だけど……相手にしてもらえなかった」
「そっか……うーん……」
そういって相星くんは何か考えるような仕草をして、ふと思いついたように顔を上げた。
「……じゃあ、僕と一緒に登下校しないかい?そうすれば君が何かされる心配なんてないし、仮に何かされても、すぐに助けれる」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。何度かその言葉を自分の中で反芻し、ようやく理解する。
「……え?い、いいの?」
「うん。休憩時間もできるだけ君のそばにいるよ。そうすれば彼女も来ないんじゃないかな?」
「で、でも、私なんかにどうしてそこまで……」
私は、彼の言葉の真意が解らなかった。自分の時間を割いてまで、こんな私なんかを助けてくれようとしてくれる、彼のその言葉が、その想いが、私には理解し難かった。
「困ってる人がいれば助ける、ただそれだけだよ」
その言葉とともに浮かんだ笑顔は、雨の中でも燦然と輝く太陽のように、眩しかった。
「……ありがとう」
「感謝されることなんてしてないよ。僕がしたいことをしてるだけだからさ。さ、それじゃ帰ろっか」
―――――――――――――――――――――――――――――
――数日後。
あの出来事があった翌日から、相星くんが迎えに来てくれるようになった。
「やあ、おはよう」
「おはよう」
「今日も雨か……憂鬱だなぁ……」
「だね……」
「「…………」」
――……気まずい。
普段からあまり話さないから、何を話せばいいのか全くわからない。ましてや、相手はクラスの人気者で、さらには男子だ。解らない。全くもって、解らない。
そうして沈黙がしばらく続いたあと、少し気まずそうに相星くんが声を発した。
「……ねえ」
「……どうしたの?」
「えっと……その……なんで、そんなことされてるのかなー、って……」
「……っ」
彼の問いに、私は息を呑む。
「……私にもわかんないんだ」
少し、自嘲気味に笑いながら私は言う。
「わからない?」
「うん。いつも、アイツに嫌がらせされてるんだけど、私が何も反応見せないからか知らないけど、態度が、余裕がムカつく……とか言ってた」
――ダメ。泣いちゃ、ダメ。
「………」
何も言わない相星くん。黙って、私の話に、真剣に耳を傾けてくれている。
――泣いちゃ、ダメ、なのに。
「ほんっと馬鹿みたい。余裕なんて、全っ然無いのに。自分と少し違うからって、からかって何が楽しいの?私は……私は、好きで独りでいるわけじゃないのに!」
やっと頼れる人ができたからか、今まで溜めてきたものが、一気に爆発した。それと同時に、心の中にある、ダムのようなものが決壊したかのように、とめどなく涙が溢れる。
「誰も信じてくれなくて、誰も頼れなくて!そんな周りのせいで、誰も信じられなくなって!何で私がこんなことされなきゃいけないの!?なんで私だけが……!…………」
その時、何かにふわりと包まれる。
相星くんが、私を、抱き締めていた。
「……ごめん。僕には、君にどんな言葉をかけたら良いのか、解らない。簡単に、辛かったね、苦しかったねなんて、言いたくないから。君の感じてきた、今まで耐えてきたその苦しみは、その辛さは、多分僕には理解できない。気づけなくて、ごめん。でも、話してくれて、ありがとう。……始業まで、まだ時間はある。今は人もいないし、気が済むまで泣いていいよ」
「うっ………ううっ…………ぐすっ………」
彼のその温もりは、冷え切り、凍りついた私の心を、優しく溶かすように、私の中に広がっていく、そんな感覚がした。
――どれくらいそうしていただろうか。
「落ち着いた?」
「……うん。ごめんね、ありがとう」
私の言葉に、目を細めながら顔を近づけてくる相星くん。
「ほんとに?ほんとに大丈夫?」
「っ……!?」
――ちっ……、近いよ……!
「し、心配性だなあ……。大丈夫だよ、ありがとう」
「……その言葉、信じるからね?」
相星くんの念押しにコクコクと頷くと、ようやく顔を離す。
「さて……。それじゃあ、学校行こっか」
今までの想いを吐き出したからか、かなり、私の心は楽になった。
――頼れる人がいるって、いいな。
そう、改めて感じた。
授業が終わり、昼休憩。
今日もまた、香織が近づいてくる。だが、香織が何かを言うより早く、相星くんが声をかけてきた。
「工藤さーん!一緒にお昼ご飯食べよ!」
「あ……、ああ、うん、解った」
扉の方から相星くんに呼ばれ、彼の元へ行く。ふと、私はチラリと後ろを振り返る。そこには、顔を青褪めさせながら睨む香織がいた。
――屋上にて。
「ありがとう、助けてくれて」
「助けるって言ったからね。それに、あれ何か言わせたら絶対やばいって思ったから」
「あはは……、よく解ってるじゃん」
多分、また校舎裏へ呼び出すつもりだったのだろう。あのまま言われていたら、おそらくまたついて行っていた。
「っ…ぅ……」
突然、相星くんの顔が苦悶の表情に歪む。
「どうしたの、相星くん?」
「い、いや、大丈夫、なんでもないよ」
言いながら、相星くんは苦し紛れといった様子で笑う。
だが、すぐにいつも通りの、いや、いつもよりも真剣そうな表情になる。
「……ちょうど、言いたいこともあったしね」
「……言いたい、こと?」
「うん」
相星くんは私に向き直り、続ける。
「昨日も言った通り、僕は君を助ける。君に頼られたいと思ってる。これまでも、これからも。何があっても、君を守る。だから、えっと……その……」
――え?これって……
「ぼ、僕と、付き合ってくれませんか!」
――告、白……?
「……え?……ほんとに……?」
彼の言葉が、私の中の何かを満たす。その言葉は、いっぱいになったコップに尚も注がれ続ける液体のように、二筋の雫となって、私の頬を伝う。
「うん、僕は本気だよ……って、ええ!?な、泣くほど嫌だったかな!?」
――どうしてそう鈍感なのか……。
「嫌なわけないじゃん、バカっ!」
「え?……ってことは………?」
今度は相星くんが、意表を突かれたような表情になる。
「……うん、これからもよろしくね、相星くん」
私は泣きながらも、私なりの精一杯の笑顔を浮かべ、彼の手を握る。
まさか、告白されるなんて、思ってもなかった。これだけは、香織に感謝しなければいけないかもしれない。
――そんなこともあって放課後。
先に掃除などの諸用を終えていた私は、まだ掃除中の相星くんを生徒玄関前で待っていた。
何気なく青空を見ていると、私の前で誰かが止まる気配があった。空から目を離してみると、そこにいたのは、香織と、その取り巻きの女子が二人。
――ああ……、これ……絶対めんどくさいやつ……。
そう思える私は、相星くんのおかげでかなり楽になった何よりの証拠だろう。というか、いじめてくるやつにそう思えることがすごいと自分でも思う。
私の眼の前で止まるなり、睨みながら、一言だけ告げる。
「ついてきなさい」
「…………」
言われるがままに、私は香織達について行く。
少し歩いた後、連れて来られたのは、何度目とも知れない、人のいない校舎裏。
立ち止まり、彼女はこちらへ振り向くと、怒鳴り気味で私に突っかかってくる。
「あんたさあ、翔太君とどういう関係なの?」
「……あなたに話して、何になるの?」
「いいから答えろよ!答え次第によってはただじゃ済まないからな!」
一切変わらない私の態度にイライラしたのか、声を荒げる香織。
「へえ……?何をするの?」
その声は、私ではなく、香織の背後に現れた人物からだった。
「決まってるでしょ。とりあえず学校に来れないくら――って……し、翔太君!?」
香織の驚きの声には反応をせず、こちらへ歩いてくる相星くん。
「玄関の所で誰かについて行く未来が見えたから、まさかと思って来てみたら……。にしても、君も何でついて行っちゃうかなあ?」
相星くんは頭の後ろを掻きながら、口を尖らせて不満を零す。
「う……ご、ごめん……」
ぐうの音も出ず、一先ず私は謝る。
そして私達の様子を見て、彼女達は察したようだ。
「…………嘘、でしょ……?なんで、そんな奴と………?ウチだって、翔太君のこと………」
「あのさ」
まさに絶望といった表情の香織を、相星くんが軽く睨む。
「人をいじめるような奴に好きになられても嬉しくなんかないよ」
「………っ」
「未来がどれだけ我慢してきたか、どれだけ苦しんだか、君には分からないだろ?君と未来の立場が逆だったら耐えられる?まあ、簡単に人をいじめるような人に言っても解るわけないだろうけど……これだけは言わせてもらうよ」
その瞬間、相星くんの雰囲気が変わった。
「俺の未来に、これ以上手を出さないでくれ………!」
「ひっ…………」
その言葉で、その声で、この場の空気の温度が数度下がったような、そんな感覚に襲われる。こんな相星くんは初めて見た。それでも、私の為なんだと思うと、少し、いやすごく嬉しかった。
「……さて。帰ろ、未来」
「う、うん」
そう言って私たちは踵を返し、その場から去った。
後に残ったのは、香織の呆然とする姿と、何とかご機嫌を取ろうとする取り巻きの女子だけだった。
「――やっと終わったかな、これで」
現在下校中。
私たちは手を繋ぎ、近くの公園に寄り道していた。
「それにしても、驚いたよ。相星くんって、あんなに怒ることあるんだね」
そう。あの時の相星くんの怒りは、尋常じゃなかった。普段は温厚な者ほど怒ったら怖い、とはよく言ったものだ。
「あー……それがさ、あの時、こいつが未来を追い詰めた元凶なんだって思ったら、抑えられなくて……」
――どうしよう。恥ずかしいけどすごく嬉しい。
私の様子に気づいたのか気づいてないのか、相星くんがキョトンとした顔で問うてくる。
「……?未来、どうしたの?顔真っ赤だよ?」
「……もう!鈍感!」
「ええ!?僕何か悪いことした!?」
「知らない知らない!」
「ええ!?ごめんって未来〜!」
そんな声が帰り道の公園に響くのだった。
「そういえば、相星君怒ってた時、一人称変わってたよね?」
「え?ほんとに?」
「うん。『俺』って言ってたよ?」
「へえ〜、僕もそんな言葉使うことがあるんだねぇ……」
何故かしみじみと言う相星くん。
「え?無意識だったの?」
「うん。と言うか、使ったことなかった」
――無意識に一人称が変わる人っているんだ。
そんな他愛もない話をしていると、私の家に着いた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。送ってくれてありがと」
「気にしないで。じゃ、明日も迎えにくるね」
「うん、バイバイ」
そうして相星くんは帰って行った。
そこからはいつも通り、夕食の準備をし、できたら一人で食べ、お風呂に入り、勉強して寝る。いつも通りとはいえど、日常の中では変化が起きたことが、私は嬉しかった。
それからというもの、相星君は毎日迎えにきてくれた。一緒に学校へ行って、勉強して、一緒に昼食を食べて、一緒に帰る。私の隣には、いつも相星くんがいてくれるようになった。その安心感が、その温もりが、とても心地よかった。
――翌日。
今日は、相星君のお家に招待してもらった。私のところへ迎えに来るとのことだったので、相星くんが来るまで待つ。
――どうしよう、ニヤケが止まらない。すっごく楽しみだ。
そう思いながらスマホをいじって過ごしていると、数十分もしないうちにインターホンが鳴る。
「はーい」
返事してドアを開ける。その声はとても弾んでいた。
「やあ、迎えにきたよ」
「うん、ありがと」
「どうしたの?なんかずっとニヤニヤしてるけど……」
「あ、ああっ、いや、その……えっと……相星君のお家に行くのがすごい楽しみで……」
「あははっ、そんなにかい?普通の家と変わらないよ」
――そんなに笑わなくてもいいのに……。
少し恥ずかしくなった私はそっぽを向く。
「……今度はどうしたの?そっぽむいて」
「……はあ。相星くんのせいだからね!」
「ええ!?ごめんって未来〜」
――なんかデジャヴだな、その言葉。
そんなこともあったが、駅前のカフェでジャンボパフェを奢ってもらうことで落ち着いたのだった。
「さ、上がって」
「お、お邪魔しま〜す……」
入った瞬間の私の第一声は――
「へえ〜、思ったより綺麗な家じゃん」
「思ったよりってなんだよ〜」
間の抜けた声で相星くんが突っ込む。
「あ、にいちゃんおかえり……って、え?何、その人?」
――弟さん……かな……?でも、兄弟がいるなんて聞いたことないけど……
「あ、いや…その、えっと……か、彼女?」
しどろもどろしながら相星くんは答える。
「何で疑問形?」
「ええっ、にいちゃん彼女いたの!?」
弟らしき男の子が驚愕の声を上げる。
「うん、まあ、その、はい」
「え、言ってなかったの?」
ここでようやく私も悟る。
「うん、友達が来る、としか言ってなかったんだ」
これには驚いた。呼ぶんだから、一応でも言っているものだと思ってた。
「まあ、これから家に泊まるんだし、改めて紹介するね。僕の弟の飛彩」
「よ、ヨロシクオネガイシマス」
なぜかカタコトな飛彩くん。
「んで、彼女は未来」
「よろしくね、飛彩くん」
「まあ、飛彩は生意気なところもあるけど、仲良くしてあげてほしいな」
「にいちゃん、一言余計だろ!」
「そういうところだよ」
――うん。なんていうか、ザ・兄弟って感じだな。
「ふふっ、あははははっ」
「未来、何で笑ってるの?」
「いや、なんていうか、お兄ちゃん的なイメージなかったから、少し意外だっただけ」
――そもそも弟がいるなんて知らなかったしね。
「あー……、まあ、確かに言ってはなかったけど……そんなに意外かなあ?」
「うん。一人っ子だと思ってた。普段そんな感じじゃなくて、おとなしいから」
「別に大人しいとか関係ないと思うんだけどなぁ…」
と言いながら苦笑している。
そして弟の飛彩はと言うと。
「このにいちゃんが大人しい?アッハハハハ、ないない、だっ――」
「だって………何かな?」
「ナ、ナンデモナイデススイマセン」
それこそ余計なことを言おうとして威圧されていた。
「なんか、普段の相星くんとは違うね」
「そうかな?いつも通りな気がするんだけど……。それはそうと、今日は僕が夕食作るよ」
「ほんと!?楽しみだなあ」
「失敗したりしてな」
「飛彩、何か言ったかい?」
「い、いや何でもない」
そんな兄弟のやりとりが家の中に響いていた。
相星くんの晩御飯はとても美味しかった。その後は弟の飛彩くんも交えてゲームをし、12時を少し過ぎた頃に寝た。とても楽しい1日だった。
翌日。
「じゃあ、お邪魔しました」
「また遊びにきてね、未来さん」
「うん、またね」
「じゃあ未来、行こうか」
「うん」
そう言って、私達は相星くんの家を出ると、手を繋いで歩く。
「楽しかったなあ」
「満喫してくれたようで何よりだよ」
ほんとに楽しかった。こんなに楽しんだのは久しぶりだった。
――いやまあ、相星くんと一緒にいる日々は毎日楽しいけどね。
色々話をしているうちに、私の家に着く。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、バイバイ」
そう言って別れた――その瞬間。
バタッ。
「……え?」
相星くんが、倒れていた。
「……相星くん!!!」
―――――――――――――――――――――
「……っ。……ここ、は……」
「相星くん!よかった、目が覚めたんだ!」
うっすらと目を開けた相星くんは、病室のベッドに横たわったまま、ゆっくりとこちらへ首を向ける。
「……僕は……確か………君を見送った後、倒れて……」
「救急車で運ばれたんだよ、間に合ってよかったぁ……」
「………一応、想像はついてるけど……病名は、何?」
「……白血病……。かなり進行してる、って……」
そう。相星くんは、血液のがんを患っていた。
医者曰く、先はあまり長くない、とのこと。今は薄氷の上を歩いているようなものだ、と。
「……そっか」
「し、死なない……よね?」
「死ぬわけないよ。君を残して」
それを聞いて私は少しだけ安堵した。医者から診断結果を聞いた時から相星くんがいなくなってしまわないかと、ただそれだけが心配だった。
「さて、それじゃあ、早く治さないとね」
身体を起こし、私に微笑む相星くん。でも、その笑顔は、やっぱりどこか苦しそうで。
「うん……治療、頑張ってね」
その表情に、私は居た堪れなくなり、それだけ言って病室を出た。扉を閉めた瞬間――
「……なんで……俺が……………」
「……っ」
そう呟いたのが聞こえ、何もしてあげられない私は、歯を食いしばることしかできなかった……。
それから、抗がん剤治療のため、相星くんは髪を剃った。
副作用がひどい中、とても頑張っている。そんな相星くんを見て、心が痛まないはずがなかった。
何もできない自分が無力で、自分のことが本当に嫌になる。
――そして、数日の時が過ぎ。
ある日、相星くんが吐血した。
「か……はっ……」
「相星くん!」
「大丈夫ですか!」
ちょうど通りがかった担当医が見つけてくれたが、医師の様子を見るにかなり悪い状況らしい。
「これは………かなりマズい……。すぐに緊急手術の準備を!」
「緊急手術って……。どういうことですか……?」
「今この方はかなり危ない状況です……このままだと、亡くなられてしまう恐れがあるほどに。仮に今から手術を始めたとしても、間に合うかは………。こうなるまでに何か、予兆のようなものがあってもおかしくないはず……」
そう言って、医師は口を閉ざした。
――もし、かして……。あの、告白してくれた時の……?
あの時の、あの苦しそうな表情。もし、あれが、この病気の前兆だったとしたら。なぜ、真っ先に気づけなかったのだろう。私が一番、そばにいたはずなのに。
「やだ!死なないでよ相星くん!!治していろんなところに行くんでしょ!?約束破らないでよ!」
「申し訳ありません、この先は立ち入り禁止ですので、後はお任せください」
「大丈夫……なんですか………?」
医師はしばらく無言で見つめ、こう言った。
「…………最善を尽くします」
「………っ!」
それは、助かるかは分からないという、私への、残酷な宣告だった……。
――数時間後。
執刀医が、手術室の奥から出てくる。
「……どうだったんですか………?」
もしかして、という不安ばかりが募る。その度に、大丈夫、相星くんは死なない、だって約束したもん、と、自分に言い聞かせる。
だが、そんな淡い希望を、木っ端に砕くほどの、無慈悲な事実が、私に告げられる。
「………………先ほど………相星翔太さんの………死亡を、確認しました」
「……………う、そ………でしょ…………?」
それを聞いた瞬間、私の中で何かがガラガラと崩れる音がした。嫌だ。受け入れたくない。受け入れられない。自分の脳が、それを理解することを、拒否していた。
「最善を尽くしましたが――」
「癒着が激しく――」
医師の方が何か説明しているようだが、全く頭に入らない。
その後何をしたのか、どうやって帰ったのか、全く分からなかった。何かをする気力も起きる訳もない。
ただ、心はポッカリと開いた虚無感が支配していた。時間が経つにつれて、本当に、もう彼はいないのだと、理解した。否、理解させられた。私の前でいつも微笑んでいる彼の姿は、もう見れないのだ、と。
それを理解した瞬間、とめどなく涙が溢れた。
「うっ………うあああああああああああっ!!!!!」
私は涙が枯れるほど泣き叫び、泣き疲れ、いつの間にか眠りに落ちてしまった……。
―――――――――――――――――――――――――――――
「――おーい、走るとこけちゃうよ!」
「いーから!早く行こ!」
とても懐かしい、いつかの遊園地での思い出。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、私たちは帰り道で別れる。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また」
「……ん……」
そして、目が覚める。まただ。最近いつも似たような夢を見る。〝彼〟との楽しかった、様々な思い出。
その夢から覚める度、〝彼〟はもういないのだ、と思わされる。その度に、枯れることを知らない涙が溢れ出す。
――もしこのまま夢を見続けてたら、〝彼〟がいないことを知らずに済んだのかな……。
彼と繋いでいた手の温もりも、今はもう、思い出すことができない。いや、そもそも――
「――そもそも……〝彼〟って……、誰……?」
いつも、隣にいてくれた〝彼〟。どんな時も、温もりを与えてくれた〝彼〟。
この世界に絶望したあの日、微笑みながら、傘を差し出してくれた〝彼〟。
同時に、私の生きる理由となってくれた、〝彼〟。
――思い出せない……。何も……。
最近、学校の帰りに、とある病室に行ってしまう。何も解らないはずなのに、〝彼〟のいた病室だと、なぜか確信が持てるのだ。
この部屋にあったであろう、心電図やカテーテル、全て片付けられたベッド。窓から見える、雨に濡れた廃線と、もう使われてるかも分からない、煤けた病棟。鼓動することをやめた心臓のように、動かない観覧車。この部屋には、最初から何も無かったような、そんな虚無感に苛まれる。
――いや、本当は、何も無かったはずなのに。こんな心に、穴が空くことなんて、ないはずなのに。なのに……
「なのに……どうして、こんなに悲しいの…………」
ついこの間まで、孤独と、頼れる人がいない世界に嫌気がさして死にたいと思っていた私が今を生きているのに、ただ普通に生きていた〝彼〟は、死んでしまった。
解っている。人間はいつか死ぬものだって。
解らない。私の隣にいた〝彼〟のことが。
――解らない。何も解らない……。けど……。
「………もう、いいや」
もう、私の心は、限界をとっくに超えていた。これ以上傷つくことを、私の心は拒んでいた。
――私も、〝彼〟の所へ……。
〝彼〟が死んでしまい、生きる理由を見失った私は、もうこんな世界で生きる意味なんてない、と、そう思い始めていた。
今日もまた、〝彼〟がいたはずの病室を見た後、いつもは行かない屋上に来ていた。
このフェンスを越えて飛び降りれば、私も、〝彼〟のところに行ける。そう思った。
まるで命令を下されたロボットのように、無感情のままに私は動く
フェンスに手をかけ、身を乗り出し、越えて、手を離す――
「――未来さんっ、待って!!!」
――知らないはずなのに、聞き覚えのある声がした。
「……貴方は、誰?」
「はあ、はあ………。覚えて、ないの?」
驚愕に目を見開く少年。私は、少し首を傾げながら話す。
「解らない……。けど、なぜか知ってる、気がする……」
「………俺は――」
少年は、私の目をしっかりと見つめながら、その、よく知っている名を、口にする。
「――貴方の、一番大切な人――相星翔太の弟、飛彩だよ」
「……あい……ほし、くん…………?」
その瞬間、私の視界を、光が支配し。
――光が止んだ後、私の視界に映るのは、とあるバス停。手を繋いで、ベンチに座り、バスを待っている二人。彼らが見上げる空には、並んだ送電塔が一緒に見える。ふと、〝彼〟が、手を繋いでいる子の方を向く。首を傾げる女の子。それに〝彼〟は微笑み、ゆっくりと、その口を開く。
「――大好きだよ、未来」
「………あい……ほし…………く、ん………!」
――思い出した。私の、大切な人。私の、生きる理由になってくれた人。
私の眼から、もう出ることなどないと、そう思っていた涙が、再びとめどなく流れ出す。
「な………、なん……で………っ」
――何で、こんな大事なことを、こんなに大切な人を、忘れていたんだろう。
紡ごうとした言葉は、しかし嗚咽となって、私の口から漏れる。
「思い出したみたいで、良かった」
「…………っ!」
泣きじゃくる私の様子を見て、微笑む飛彩くん。その表情は、やっぱり相星くんと……いや、翔太くんと、似ていて。
「最近、にいちゃんがいた病室に女の子がよく来るって、聞いてたから。やっぱり、未来さんだったんだね」
言いながら、彼はポケットから、封筒を出すと、そのまま私に差し出す。
「これ、未来さんになかなか会えなくて渡せなかったんだ」
「………これ、って……」
飛彩くんの眼を見ると、言われなくても、これが何なのかを悟った。同時に、頷く飛彩くん。
「そう、にいちゃんから未来さんへの手紙」
私は再びフェンスを越えて戻ると、涙で滲む視界のまま、封筒から手紙を取り出して読む。
「拝啓
未来、君がこの手紙を読んでるってことは、僕はもう、この世にはいないんだろう。多分、君のことだから、僕が死んだことで何もかもが嫌になってるんじゃないかな。
実は、ね。僕、君と出会う前にも、この白血病になってた時期があったんだ。何とか闘病生活を乗り切って、一度治ったんだけど、あの時、君を見つけた頃くらいから再発してたみたいでさ。あの頃に戻りたくなくて、目を背け続けてきた。あの時は本当に辛くて、何もかもが嫌になって、もういっそ死んでしまおうか、なんてことも考えてたぐらいなんだ。
雨の中で君を見つけた時、ああ、境遇は違えど、この子も相当苦しい思いをしたんだなって、僕と同じだなって、思ったんだ。でも、君は違った。僕よりもずっと強かった。どんなに嫌なことをされても、楽な方向に逃げないで、我慢してた。そんな君を、僕はすごいと思った。そんな君が、今の僕の闘病生活で、とても励みになってるんだ。君が隣でニコニコしているだけで、僕はとても嬉しかった。君は、僕の生きる理由なんだ。こんな耐え難い日々の中で、ずっと、ずっと鼓動してる心臓なんだ。
未来さ、僕が初めて声をかけた時、『こんな世界なんて』って呟いてたよね。僕と一緒にいて、一緒に過ごして、どうだった?僕は楽しかったよ。凄く、凄く楽しかった。君も、僕が声をかける前と比べればとっても楽しそうだった。理不尽ばっかりな世界だけど、君が思ってるよりもずっと優しい世界だったでしょ?僕も、『こんな世界』って嘆いてた君の生きる理由になれてるならいいな」
「っ………。当たり前、だよ………っ」
嗚咽を漏らしながら、彼の――翔太くんの望みに、その想いに、私はしっかりと答える。
手紙には、まだ続きがあった。
「ごめんね、約束破っちゃって。できれば、君ともっといろんなとこに行って、いろんなことして楽しみたかったなあ。
未来。最後に、お願いがあるんだ。とっても、とっても冷酷なお願い。僕の分まで、しっかり生きて欲しい。もし、君みたいにこの世界を嘆いてる人がいたら、君が、この世界の素晴らしさを教えてあげて。
ごめんね、こんなお願いしちゃって。
君と過ごした日々、本当に楽しかった。ありがとう。そして、さようなら。ずっと、ずっと大好きだよ。
翔太」
しっかりと、彼の字で、彼の名前で締められた手紙を胸に抱きながら、私は青く澄み渡る空を見上げ、彼に届けと、心の中で念じながら言う。
「……うん、私、翔太くんの分も、しっかり生きるよ。君と過ごした日々の思い出は、私の中で、私の心臓になってずっと、ずっと生き続けるから」
――翔太くんの、願いを叶えよう。この世界の素晴らしさを、理不尽だけど、美しい愛がいっぱいあるこの世界の素晴らしさを、昔の私のようにこの世界に絶望している人たちに教えよう。
そう、思った。だから――
「――ありがとう、翔太くん」
今なら、生きたいと心から言える、そう思えた。
―――――――――――――――――――――――――――――
――相星くんの死から数年後。
今日は雨が降っている。今でも、雨が降るとあの頃の出来事を昨日のことのように思い出す。少し寂しくはなるけれど、彼とのたくさんの思い出は、昔のように、私を苦しめたりはしない。
ある日の夜、傘を差して外を歩いていると、雨の中、傘を差さずに公園で独り佇んでいる少女がいた。
そして、私の耳に微かに聞こえてきたのは、この世界を嘆く言葉。「こんな世界」と、確かに言っていた。
その子の元へ行き、あの日、彼がしてくれたように、話しかける。
「大丈夫?傘差さないと風邪引いちゃうよ?」
――そして、新たな出会いが、また訪れる。