愛妻家
女に溺れる日々も悪くないと私は最近は感じてきた。この快楽に溺れられるのならどんな障害も乗り越えて見せようと、そう思わせるほど妻の存在は私にとって大きかったのだ。しかし彼女が原因不明の病を患ってしまった時、私はこう思ったのだ。ああ、私がもっと賢ければと。私には戦の多いこの世中でも五体満足の体があり、病も知らない健康な体を持っている。なんという僥倖か。これは今まで真摯に生きてきた私への神様からの褒美に違いない。しかしそれと同時に神様は非情でもあった。神様に感情があったのなら私にこんな残酷な試練は与えないだろう。私の愛してやまない彼女が不明の病に侵されてしまうなんて今でも信じ難い。私に相応の知識があれば、私に相応の頭脳があれば、この試練も難なく解決できていたのだろうか。それでも私は愚かにも彼女を失くしてしまう恐怖に打ちひしがれて家屋から飛び出してしまったのだ。未だに咳嗽に苛まれ苦痛で顔を歪めている彼女を家屋に置き去りにしてだ。それはもう失望されても仕方が無い事だった。それでも愚かな私は身に余る力を振り絞り里を駆け下りたのだ。なぜそうしたと言われれば私には答えられないのだがそれでも家屋を飛び出してしまった以上それ以外に方法はなかったのだ。薬師を尋ねる銭もなく絶望に打ちひしがれる私にはもう他に方法が思いつかなかったのだ。ああ、愚かな私よ。どうか許してくれないか。彼女は笑顔で許してくれるだろうが。私は自分自身が許せないのだ。どうかこの愚か者を甚振った後に沸騰湯が満杯の火釜に放り投げて絶命させてくれないか。私はそれを切に願っているだろうから...-----暫くの間私は走り続けていた。樹林を通り過ぎ小川を飛び越え私は体力の限界だった。履いていた草履は木目が曖昧になり泥塗れになってしまった。それでも私の今の状況を自覚すればそんなことは一つも気に障らなくなるだろう。突然目的の営造物が私の前に姿を現した。やはり天は私の事を見守ってくれていたのだ。私はその建造物の中に入り祭壇へと存在した。そして私は床に膝をついたのだ。私の愛してやまない彼女の病を治してくれないか。と、そう心の中で唱えた。いや違うな。私は唱えただけでは我慢できなかったのだ。お願いします神様、どうか私の妻の病を治してくれませんか。そして無礼にも祈願を重ねたのだ。どうか私達家族が生涯幸福に生きていけるように。と、私は罪を重ねるように祈願してしまったのだ。その願いに対する対価がどれだけ必要か。無知な私は考えることも恐ろしくなり思考停止してしまった。それでも神様は聞いていたのだ。私の愚かなる願いを。次の刹那、突然として体が熱ってきたのだ。左脚から赤黒いものが侵食していき太腿に、腰から臍に、そして遂には私の頭上まで赤黒いものが覆いつくされて私は生物かもわからない未知の物体に食べられてしまったのだ。視覚と聴覚と嗅覚と味覚がなくなっていっている。大五感の殆どを奪われた私は何も感じなくなってしまっているのだ。未知の物体に襲われて体を溶かされていた時、私は思ったのだ。もう私は人には戻れないのだと。-----ははは、私にはない口が綻んでいる。遂に私は家屋へ帰ってきたのだ!その日数、軽く見積もって三〇程度であろう。視覚のない私には昼夜の概念がないのだ。それでもこれから出会うであろう妻の姿を想像するだけで私は身震いしてしまうのだ。そして家屋の扉を開ける時ふと思う、彼女は元気だろうか。私が旅に出た理由は彼女の病が原因だったはずだ。私が神に祈祷したことで彼女は健康そのものになっている筈なんだ。いや、そうでなければ私は何のためにこんな姿になったというのだろうか。治っていないと話にもならない。そして私は家屋の扉を開いた。最初に感じたのは違和感だった。そこに居る筈の妻の姿が感じられないのだ。どこかに出かけているのだろうか。私は彼女を待ち続けた。それでも彼女は姿を現さなかったのだ。私は絶望に打ちひしがれた。こんな姿になってまで想った妻の行方は分からず、何をすれば彼女に会えるのかも分からない。たとえ自分の家屋だったとしてもここに居場所はないのではないか。私はそう思わざる終えなかった。しかし転機が訪れたのだ。私は人の気配を感じ取った。一体誰なのか、そう尋ねる口は私にはない。しかし私は信じていたのだ。その姿は愛する妻のものであると。次の刹那、視界が明るくなった。視界?そうだ。視界だ。私はよく分からない液のようなものを体にかけられている。そして私の体は祈願する前の同じように五体満足の体に元通りになった。これは奇跡なのか。そう誰かに問う間もなく元通りになった聴覚である声を聞き取った。一人で寂しかったんだから...その声の主は私が愛してやまない妻の声だった。私は妻の姿を見た。その姿は健康そのもので豊満な体は健在だった。私は安堵したのだ。私の行動は決して無駄ではなかったのだと。そして当然の疑問も湧いてきた。私の姿は赤黒い異形な姿だったのだ。とても人間とは思えないような不気味な姿だったと自分でも思う。なぜ私の姿を見た時、私だと認識してくれたのか彼女に問いてみた。すると軽々と返答が返ってきた。貴方を愛しているからよ。彼女はそう言って私に近づき、そして優しく抱擁をした。妻の体の温もりを感じて私は安心した。私達の気持ちは同じなのだと。しかし私は声を詰まらせた。愛している。その言葉が喉の奥でつっかえていた。言葉に出そうとしても中々出ない。それでも妻はそんな僕を見ても微笑んで隣に居てくれた。それがどんなに僕の心を助けたか分からないだろう。それでも僕は日に日に愛しているという気持ちがどのようなものなのか分からなくなってしまった。あれ、おかしいな。何にも楽しくない。妻の笑顔を見ても、何も感じなかった。妻よ、申し訳ない。私は貴方を見ても何も感じません。虚無しか感じられません。-----あれ、妻の姿が見えない。一体どこに行ってしまったと言うのか。是非、私の前に姿を現しておくれ。私はきっと歓迎するだろう。そして私は今更、愚かにも気づいてしまったのだ。妻は家屋から出て行ってしまったのだと。そしてもう彼女がこの家屋に帰ってくることは二度とないのだろうと。その事実に気づいてもなお、私の情緒は安定していた。私はもう何も感じなくなっていたんだ。楽しみも、悲しみも、苦しみも。幸せも。そこにあるのは虚無だけ。私はもうその事実は受け入れていた。それにしても神様は嘘つきなんだな。だって私は願ったじゃないか。私達家族に幸福をもたらしてくれと。しかし、この有様は何だというのだろうか。これは過度の幸福を欲してしまった私に対する罰なのか?ははは、それなら私は不幸でもいいだろう。