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帰還  作者: り(PN)
7/10

 いまでもときどき、喜田川加奈子はインタビューされることがある。

 もちろん川田智博に関してだ。そのほとんどは真面目なものだったが、数年前までは娯楽雑誌の格好の餌食となることもあった。失踪前の数年間を一緒に過ごしたという事実が一般大衆の興味を引いたのだろう。だが、それももう遠い昔のことだ。現在では、世間の大半の人間は、喜田川加奈子はもちろんとして、川田智博にもほとんど興味を示していない。

 思い返せば、確かに川田には謎の部分が多かった。大きなプロジェクトを運営しているにもかかわらず、研究室に泊り込みになることが少なかった。もちろん身体――特に足腰――が弱かったことも、その理由だろう。だが喜田川は、川田にもっと超然としたものを感じていたのだ。

 当時から何年も経つのに、喜田川はいまだに川田の夢を見ることがある。

 夢の中の川田とは、さしたる会話をするわけでもない。通いのヘルパーと雇い主以上の関係を示すような内容ではなかった。

 不思議なことに、喜田川は川田の私生活について、ほとんど何も知らなかった。もちろん週に二回川田宅に通っていたので、見たままの状況は厭でもわかった。家具の配置やピアノの位置、台所の包丁や鍋やフライパンの置き場所は把握していた。食器や香辛料用の棚に洗濯機、ベランダの配置、カーテンの色、そういったものも承知していた。

 川田の住まいは東京のS区にあった。大きくはないが二階建てで、二階の南側に書斎があった。喜田川は何度もその書斎に出入りしていた。窓のある面以外はすべて造りつけの本棚で占められた、落ち着いた感じの部屋だった。調度品はパソコンが載った大きな机と花瓶くらいしかない。大学の研究室に居ないとき、川田はほとんどの時間をそこで過ごした。研究室に出向くのは週に三日だった。

 たった一度だけ、喜田川は川田の私生活に触れる機会があった。何の話をしていたか忘れたが、会話が家族の話に流れたのだ。

「ぼくは面白みのない人間でね」

 と川田は喜田川にいった。

「自分自身は興味ある研究をしているので、それなりに楽しみを持っているといえますが、他人が何をどう楽しみにしているのかが、よくわからない。……ああ、ありがとう」

 喜田川が運んできたコーヒーを受け取り、一口それを啜ってから、。

「だから、妻なんかも面白くなかったと思いますよ」

 と川田は続けた。

「ぼくなんかと結婚してね。子供だってできなかった。こちらは専門の話しかできない。ま、最初はぼくの出世というか、研究上の業績が上がっていくことを楽しみにしていたみたいですが、それだって所詮自分のことではない。また特に趣味を持とうともしなかった。……ピアノだけは良く弾いていましたがね。シューベルトの未完成の発見された第三楽章のピアノ・ヴァージョンを…… ある意味、当てつけだったのかもしれませんね。彼女のぼくに対する。妻はぼくの仕事が、通常の意味で決して完成しないことを理解していた。ぼくや彼女が生きている間に、という意味ですが…… それが我慢ならなかったのじゃないかな? 『音楽だったらいいのに……』と、よく口にしていましたよ。『あなたは職業を間違えたのよ』とも。『それならば、わたしも参加して、あなたを弾くことができたかもしれないのに……』とね。でもぼくは、単に都市研究の好きな生物屋でしかなかった。音楽家じゃなかったんです」

 話を聞いた当時、喜田川には川田の意味するところがよくわからなかった。だが、それから歳をとり、結婚もし(喜田川の姓は別姓として残した)、子供も出来てみると、なんとなく川田の話したことが理解できるような気がしてきた。

 喜田川自身は――職場は変わったが――前と同じ仕事を選択していた。体力も使うし、見入りのよい職業ではなかったが、興味は尽きず、また面白くもあった。それをしていない自分というものを想像するのが難しかった。

 それとも、仮に無くしてしまえば、また別の新しい対象に自分は興味を抱くのだろうか?

 川田の元妻、美冴は、離婚後行方を晦ましている。おそらくこの世界のどこかにはいるのだろうが、マスコミの興味本位の探索に引っかかることはなかった。それでよかったのだろう、と喜田川は思う。共有できない思い出など、新しい人生には必要ない。

「さあて、仕事にいかなくちゃ!」

 大きく伸びをすると、喜田川加奈子は、今日も新たな気持ちで職場に向かうために、アパートの玄関を勢いよく飛び出していった。


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