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幽霊?
(言葉で表せば、そういえるかもしれない)
と新庄充明は思った。
何度も体験したわけではないが、一回こっきりというわけでもない。
もっとも、それが一回きりの体験だったなら、新庄はそれを気の迷いと判断したことだろう。新庄とはそういうタイプの人間だった。あるいは、脳内の神経結節の悪戯と考えたかもしれない。だがいずれにしても、それは新庄にとって単なるノイズ以上のものにはなり得なかったはずだ。
けれども――
その体験は三回あった。多過ぎず、少な過ぎず、といったところか? それぞれの幽霊体験は――似てはいたが――異なっていた。登場人物だけが同じだった。
老人!
それが新庄の幽霊体験の主役だった。
幽霊――と、とりあえず新庄が判断を保留していたところの老人――は、痩せぎすで、品の良い雰囲気を全身から醸しだしていた。身に纏っていたのはグレーの背広。髪はほぼ白髪(禿げてはいない)。どちらかといえば面長で口は小さかった。眼光は――新庄が遭遇した体験からは柔和だったが――もしかすると、かなり鋭いのかもしれないと推察させた。
一言でいえば、威厳があったのである。
だが身体自体はあまり強そうではなく、木製の綺麗な杖をついていた。
その老人が、ある日突然、新庄に話しかけてきたのだ。昼日中、道の真中で…… 新庄がまだ十代のときの出来事だった。
実際に話しかけられたときにはしっかりした実体を感じたのだが、新庄は、老人が目の前の何もない空間からぼおっと浮かび出てくるのを、その前に目撃してしまっていた。
だから、ぎょっとした。
けれども、ぎょっとする暇もなかったというのも正直なところかもしれない。そのため比較的冷静に、新庄は老人と対話することができたのだろう。もちろんそれは、対話と呼ぶには短か過ぎる対話でしかなかったのだが……
「失礼、道を訊ねたいのだが、宜しいかな?」
「ええ、どうぞ」
「ここは××××なのかな? それとも、そこからは遠い場所なのだかを、ご存知ならば教えていただきたい」
老人が指定した場所の名称は聞き取れなかった。記憶細胞から抜け落ちてしまったようで、新庄には未だに思いだすことができない。
「申し訳ありませんが……」
新庄が名称を聞き返そうとした途端、現われたとき同様、唐突に老人は消え去った。
後に何の痕跡も残さなかった。
そのときはじめて、新庄は呆気にとられた。
腰を抜かすような不様な真似はしなかったが、びっくりして辺りを見まわしてしまった。
通行人は何人か見つかったが、それらしい老人の姿は見当たらなかった。
新庄は眩暈を感じた。
こんな体験は一回でもう沢山だと感じた。
しかし――
二度目の体験はその数年後にやってきた。
時が流れ、先の体験をすっかり失念していたので、老人が目の前に現れたとき、新庄はまたしても仰天してしまった。
「驚かしてしまって申し訳ない」
と、新庄のその反応を気遣って老人は応えた……ように新庄には思えた。
「△△△△に用があるのだが、行き方を知らないかね?」
今度も老人は新庄に道を訊ねてきた。
新庄は――一見まともに見えるが、実はボケて見当識を失っているのか?――と相手を訝しんだ。
だが――
「済まないね、君。……どうもわたしは、昔から道を憶える才能が欠落しているようなのですよ」
はっきりした口調で老人が答えた。ボケを感じさせる様子は微塵もなかった。
「それで、いつも誰かに迷惑をかけておるのです」
新庄に申し訳を述べて一瞬後、またしても老人は消失した。
新庄は呆気にとられた。だが今回は、自分のすぐ近くに通行人がいたので――相手に迷惑だとおもんぱかる余裕もなく――誰彼構わず声をかけた。
「すまない。いま、おれに声をかけてきた瘠せた老人を見なかったか?」
答えは否定句ばかりだった。さらに酷いことには、新庄が声をかけた相手が、逆に新庄自身を胡散臭げに見つめはじめたのだ。これには参った。新庄は叫び出したい気分になった。
新庄が曲がりなりにも理性を尊重する人間でなかったら、そのとき本当に叫び出していたかもしれない。
三回目の幽霊体験の前に、新庄は、たまたま設計関連のアルバイトで調べていた電子図書館のライブラリで老人の映像と遭遇した。
正確には老人ではなく、同じ人物の若い映像だったが、眼許の鋭い感じが同じだったので、新庄は一目でそれが同一人物であると判定できた。
その男の名は川田智博といった。理論生物学者と記されていた。その分野では相当有名な学者だったようだが、もうずいぶん昔に失踪している。
なぜ生物学者が設計分野のネット検索で引っかかってきたかというと、川田の失踪前の最後の仕事が有機都市の建設だったからだ。
資料によると、川田智博は生物学――特に分子生物学――の理論分野で図抜けた業績を上げ、若くしてノーベル賞候補にも挙がったとされていた。その川田が最後に取り組んだ研究が生物機能を持った都市の建設だったのだ。もっとも実際には、段階的な結果さえ見ずして、川田は失踪してしまったわけだが……
もともと川田は、一九九〇年代後半から飛躍的に高速化が進んだコンピュータ・ハードを十全に活用した計算機シミュレーションによる生物機能の解明から、アカデミックな分野に進出した。簡単にいえば、生物学の知識を持った――もちろん図抜けてはいたが――コンピュータ・ソフト(およびそれらを快適な環境で走らせるハードウェアの)開発者だったのである。
生物の遺伝子や脳、その他機能の純粋解析には膨大な時間がかかる。なぜかといえば、そのメカニズムが複雑過ぎるからだ。ごく単純な神経インパルスの動向を調べるだけでも膨大な計算機時間とそれに付随する莫大な金が必要となる。だから大抵の場合、数学的に簡略化した機能限定モデルを用いて解析作業を行い、そこで得られた結果をまた別の計算機処理で組上げて、生物本来の当該機能をシミュレートしながらシミュレーションを行うというまどろっこしい方法を採らねばならない。それは川田が生きた過去でも、現在でも変わりはなかった。
人間一人を――とくにその脳細胞の活動をシミュレートするのは――事実上不可能なことだったのだ。
ましてやそれが、実際に人間の生きる速度、この宇宙の物理・化学法則と相互作用できる速度を望むものであれば、なおさらだった。
機能限定という制約は付くが、現在最速の脳シミュレーション・ソフトでも、実時間との差は百倍以上ある。現実の人間の一秒当たりの思考を完遂するのに百秒以上かかるというわけだ。
もっとも時間を気にせずに――砕いていえば、研究者が己の仕掛けた実験の結果を己が生きている時間内に確認する必要がない――ということでがあれば、話は別だったが……
もちろん数数の制約付きでも、それらシミュレーション研究の成果は実りあるものだった。実際の生物体を用いた実験などに反映されてもいた。要は、何を重要と捉えるかという、研究者自身の選択の問題といえた。
川田の活躍した時代、計算機ハードの能力は年に数~十数倍という速さで上昇した。だからそれまで――潜在的価値は認められていたものの――遅くて使いものにならなかったソフトにも利用価値が出てきたし、またそういった高速環境ではじめて機能を発揮できるソフトの開発も可能になった。既存技術を用いる限り、メモリやハードの最小単位は原子一個の大きさ程度だと推測されたが、そこに行きつくまでにもまだ間があった。
川田のソフト開発の才能が開花したのは、そんな時代だったのである。
それらライブラリの記述と出遭ったとき、新庄は、上手く言葉ではいい表せないが、妙に腹にストンと落ちるものを感じた。どこか、納得がいったのだ。
(川田は都市が好きなのに違いない……)
そのときの新庄の気持ちを正直に表せば、そうなる。
川田は失踪前最後の研究テーマ用シミュレーションの対象として日本の町を選んでいた。たとえば東京という大都市では、いくら川田の才能を持ってしても大き過ぎ、また機能的にも複雑過ぎたというのがその理由だった。
彼は東京・世田谷の一郭を選別した。小田急線・K駅を中心に周囲一キロの範囲をシミュレーション対象とし、それを計算機上に組上げた。初期条件を設定し、境界線(界面)より向こうの世界については、別の計算機ソフトでシミュレートした。もちろん住民や――車や自転車や電車など――その付随物、および――猫や鳩などの――動物も、その中に含まれていた。外部環境は既知の歴史に沿って情報入力され、町の時間発展の制御機構とされた。
もっとも、ただそれだけならば――複雑さは異なるとはいえ――数十年の歴史を持つ同様のゲーム・ソフトも存在した。
けれども町のシミュレーションは、川田の実験のまったく最初期の段階だったのである。
川田の最終的な狙いは、まったく別のところにあった。