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万妖の王  作者: 雨翠
7/7

化猫 其之陸

 桜の花弁が斑に散った土の上へ、錫杖が音を立てて転がる。崩れるように倒れた僧侶を見下ろし、新田は深く息を吐いた。脱げた笠を退けて重い躰を仰向けに転がす。震える手を袈裟の懐に差し入れ、あるだけの呪符を抜き取って破り捨てた。花弁に交じり風に攫われてゆく紙片を尻目に、己の懐から縄を取り出して、僧侶の両の手足をきつく縛める。

『猫の餌にでもする心算か?』

 虚空から聞こえた声に新田は悲鳴を上げ、跳び上がるように振り返る。何者の姿もない。顔面蒼白となり辺りを見回す男の眼前に、邪羅久は嗤いながら人の姿を現した。

「式鬼殿!」

 新田は腰を抜かして狼狽し、震えながら両手を突いた。

「お願いです。どうか、どうかお見逃しいただけませんか」

「其奴を捕えて何とする」

 頭上から問うと、新田は身じろぎもせず声を絞り出す。

「以前この町を訪れた術師より聞き及びました。近いうちに都より高名な術師が訪れる、その精気を食すことで……朔は元の姿に戻れると」

「何?」

 訊き返した邪羅久の声に、人ならぬものの唸りが重なった。新田は顔を上げ、邪羅久の背後へ視線を遣って眉尻を下げる。

「呼ぶまでは出てくるなと言ったろう。朔」

 邪羅久は振り返る。木立の中から、両の眼だけを爛爛と光らせた闇の塊が進み来る。闇は木陰を抜け、月明かりを浴びた箇所から徐々に巨大な獣の姿を現した。尖った耳、針ほども太い髭、音もなく歩を進める四肢。大きく開いた瞳孔に邪羅久を映して嬰児に似た声で鳴きながら、二股に分かれた長い尾を揺らす。月光は縞模様の毛を金色に輝かせ、その靱やかな巨躯の影をはっきりと地に落としていた。

 化猫だ。

「貴様の弟か」

 邪羅久が投げた問いに、新田は頷いた。手足を縛られたまま眠る僧侶に目を遣り、顔を伏せる。

「人道に悖ることとは存じております。ですが私はこの子のためなら外道にもなりましょう。貴方にとっても、主が居なくなり呪縛から解き放たれるのは、良いことではないのですか。どうか――」

「差し当たって貴様に言いたいことは三つある」

 嘆願を気にも留めず遮り、邪羅久は腕を組んで木に凭れかかった。新田は肩を強張らせ、続く言葉を待つ。

「先ず一つ、坊主を喰ったところで猫は人には戻らん」

 新田が目に見えて動揺した。

「莫迦な」

「誰に何を吹き込まれたか知らぬが、人の精気を喰らえば妖気を高めこそすれ、失う事など有り得ぬ。抑、()()は術師の中では下の下だ」

 僧侶を顎で指し、二つ、と続ける。

「坊主が死んだところで俺の呪縛は消えぬ。寧ろ其の命を糧として更に深まることになる。故に其れが死ぬとなれば、腹立たしいことだが見過す訳にはいかぬ」

 この呪紋の真髄に、僧侶自身は恐らく気づいていない。只の首枷ではない、和宝に並ぶ者なしと言われた呪術師が智恵と(わざ)とを尽くし、命を懸けて編み上げた盾なのだ。重い使命を背負わせる弟子を、自らの死後も守り続けるための。

「三つ」

 邪羅久は声を低めた。空気の変化を察したのか、化猫が耳を伏せて唸り出す。

「――其れを主と呼ぶな。不快だ」

 語尾に籠った怒気に呼応するように風が起こった。桜の花弁と呪符の紙片を舞い上げ、白い渦を巻く。化猫は愈々背中の毛を逆立て、唸り声を高くする。

「朔、待て」

 新田の制止も聞かず、猫は目を見開いて邪羅久へ飛びかかった。邪羅久は真っ向から猫を見据え避けようともしない。短刀ほどもある爪が妖鬼に届く寸前、両者の間に、疾風の如く影が滑り込んだ。


 鋭い爪が袖を裂いて腕を掠める。僧侶は錫杖で化猫の攻撃を弾き返し、構えを崩さぬまま半身で邪羅久を振り向いた。

「怪我はありませんか」

 向いた先には驚きと呆れの混ざったような半笑いがある。

「貴様如きに案じられるほど落ちぶれてはおらん。二度と訊くな」

「無事ならば良かった」

 金色の獣は威嚇の声をあげて再び襲ってくる。牙を剥き出し、僧侶の構えた錫杖に喰らいつく。僧侶は動じず、化猫の体ごと錫杖を勢いよく回転させた。巨体が宙を舞ったが、難なく着地し、猫は体躯に見合わぬ素早さで飛び退る。呪術師らしからぬ力任せの戦い方を、新田は愕然と見つめている。

「何故……何故動けるのです! 三刻は目覚めぬ薬の筈……その上あれほど固く手足を縛って」

 振り返った先には無残に引き千切れた縄が蟠っていた。

「こう見えて力自慢なのです」

 力瘤を作ってみせると、見たままだ、と邪羅久が吐き捨てる。

「貴様、呪術師だろう。呪術はどうした」

 そこを突かれると決まりが悪く、僧侶は目を逸らした。

「実は、師から教わったのは探索の術と治癒の術のみで……妖を祓うための術は一つも会得していないのです」

 邪羅久はこれまでに見たこともない唖然とした顔で此方を見た。

「呆れたな」

「どうやら才がないようで。ですが問題はありません」

 両の手で錫杖を水平に持ち、杖頭近くを握った右手をゆっくりと右へ引く。遊環の揺れる澄んだ音と共に杖の中から姿を現したのは、呪言の刻まれた刃——呪戮刀である。

「それは」

 新田が化猫の前へ飛び出し、両の腕を広げて立ち塞がった。その姿を見れば刃を向けることなどできず、抜きかけた刀を再び杖へ収める。

「新田殿、ご事情を聞かせていただけませんか」

「其の猫が弟だと言う」

 口を挟んだ邪羅久の言葉に耳を疑い、僧侶は改めて化猫を見やった。新田の背後、嬰児に似た声を絶えず上げながら弓なりに背を丸めた獣は、人間の面影など微塵も湛えてはいない。

「貴様の精気を喰らえば人に戻るらしい」

「真ですか」

「虚言だ」

 嘆息しつつ、僧侶は立ちはだかる新田へと向き直り、静かに語りかけた。

「この者の言う通り、私の精気を食したとて、弟君が元に戻るとは思えません。妖となった人に呪術師ができることは、祓うことのみです」

「そんな筈は」

 新田は呆然と眼を瞠り、化猫を振り返る。

「ではこの子は、もう元には戻れぬと?」

「六人を喰らっておいて戻れるとでも思うのか」

「全て私の咎だ! この子に罪は――」

 邪羅久の掛けた鎌に見事に噛みついた新田ははっと言葉を呑んだが、聞き逃せる訳もない。僧侶は捩じ込むように訊ねる。

「行方知れずの方々について、何かご存じなのですね」

 項垂れた新田はやがて、観念したように頷いた。

「全てお話しします。ですがその前に、その刀を手放してはいただけませんか。式鬼殿にも、この子に手を出さないと約束させてください」

「解りました」

「うつけが」

 邪羅久が口を出す。「情けをかけるのは止めておけ。彼れは最早人ではない」

 僧侶は応えずゆっくりと屈み、錫杖を脇へ置きながら背後へ命じる。

「朔弥殿を、傷つけてはなりません」

 呪紋が鈍く輝いた。邪羅久の舌打ちを無視し、敵意のない証として徒手を見せながら新田へと歩み寄る。

「これで、話してくださいますか」

 新田は肩から力を抜いた。苦渋の滲む眼差しを僧侶へ向け、僅かに躊躇ったが、ゆっくりと口を開く。

「お坊様は、ご存じありませんか。人を妖の姿にしてしまう……薬について」

「薬?」

 人が妖となることは稀にある。しかしそれは深い怨憎を受けるか抱えるかした末のことであり、薬で変化(へんげ)したという話などは聞いたことがなかった。

「私には判りません。お前はどうです、邪羅久」

「知らんな」

 返答はにべもない。しかし数百年を生きる身でも聞いたことがないとなれば余程に珍しいものだ。

弥能国(みののくに)の薬ですか」

「いいえ。旅の薬売りから、貰ったのです。如何なる病も癒す薬だと聞いて」

「その薬の所為で、弟君が?」

 新田は嗚咽を漏らして頽れた。薬売りが騙ったのか、目的は何なのか、解らないことだらけであったが、新田の無念を思うと口惜しさと怒りで躰の内が灼けるようだった。

「薬売りの名は判りますか。今は何処に?」

「判りません。ただ……若い男で、右手首に奇妙な刺青がありました。()()(のくに)より都へ、薬を届けに行くのだと」

「禰魏……」

 和宝各地を揺るがす妖による災厄、その皮切りとなった大事の起きた地である。不穏な予感を抱きながらも、僧侶は新田の傍らへ跪き、続きを促す。

「行方知れずの方々は、どちらに?」

「……この子に精気を与えるため、私が殺めました」

 風が吹いた。僧侶は掛ける言葉も持たず、揺れる葉が影を落とす痩せた男の横顔を見つめていた。

「骸は、ここより少し登った先の滝近く、桜の下に埋めてあります。初めに街道で亡くなっていた娘だけは違います。山犬か何かに襲われたのでしょう、息絶えたばかりというところに偶然出くわしたのです。朔と共に」

 名を呼ばれたことを察したのか、化猫が新田へ擦り寄る。新田は弟へ目を遣り、力なく腕を伸ばしてその額を撫でた。

「野草も山鳥も何一つ口にせず飢えていた朔が、骸を見つけた途端に昂り、貪るように精気を喰らい出し……今のこの子を生かすためには、人の精気が必要なのだと悟りました。それからは……」

 言葉が途切れる。新田は顔を上げて身を乗り出し、縋るように僧侶の両肩を摑んだ。

「死罪は覚悟しております、ただ朔が元に戻れるまでは、私は死ぬ訳にいかない。それさえ見届けられたならば、如何様にも捌きを受ける心積もりでおります。ですからどうか、どうか――」

 ――瞬間、至近距離から繰り出された居合を、僧侶は間一髪で避けた。

 鋒が袈裟の胸元を一文字に斬り裂く。新田は髪を振り乱し、絶叫をあげながら飛びかかってきた。

「新田殿!」

 僧侶は刀を避けながら必死に呼びかける。

「刀を収めてください! 私を喰ったとて、弟君は」

「信じられる訳が無い!」

 息を荒らげ、男は咆哮する。さながら我が子を守ろうと敵に牙を剥く獣のように、形振り構わず刀を振り回す。

()()()は確かに言ったのだ。いずれ帝の命で訪れる術者を喰わせろと……強い呪力が手に入れば、朔は元の姿に戻れると!」

 最早その言葉に縋るしかないのだろう。真偽の程は判らなかったが、自分にそこまでの強い呪力がないことだけは判る。

「誰がそんなことを」

「貴方には言わぬ!」

 絶叫と共に振り下ろされた刃を体を捌いて躱すや、僧侶は新田の懐へ飛び込み、刀の峰を抑え込んだ。そのまま刀を奪おうとするも新田は猛然と抗い、背後へ叫ぶ。

「朔!」

 化猫がぴくりと耳を動かすのが視界の端に映る。

「今だ、早くこの人を――喰え!」

 嬰児の如き声が一段高くなる。背筋に悪寒が走る。刀から手を放し跳び退ると同時に、化猫が地を蹴った。避け切れない。片腕で頭部を庇い、衝撃を覚悟して頸を縮める。

 ――生温かい汁が降りかかった。濃い鉄の匂いが鼻を突くが、不思議と痛みはない。僧侶は掲げた腕をゆっくりと下ろす。


 化猫が、新田の脇腹に深々と喰いついていた。


「さ、く」

 新田は大きく目を瞠り、掠れ声で弟の名を呼んだ。猫が獲物を弄ぶように首を振る。肉が抉り取られ、横腹から(はらわた)を溢れさせながら、男の体はゆっくりと頽れ、転がり、目を見開いたまま痙攣する。湿った土の上へ見る間にどす黒い血溜まりが広がっていく。

「新田殿!」

 僧侶の絶叫を意にも介さず、化猫は再び兄へと牙を剝く。その顎に咄嗟に左腕を捩じ込んだ。己の鮮血を浴びつつどうにか巨体を押し留め、必死に語りかける。

「朔弥殿! この方は貴方の……貴方の兄上なのですよ!」

 化猫は興奮し、鳴き声を轟かせる。牙が深々と腕に食い込む。僧侶は猫の鼻面を抑えた右手で印を結び、新田へ向けて治癒の術をかけようとするが、力に押されて解かざるを得ない。

「言わぬことではないな」

 木に凭れ見物を決め込んでいた邪羅久が、修羅場に似合わぬ落ち着き払った声で嗤った。

「そろそろ助けを乞うてはどうだ」

 左腕の感覚は最早ない。止め処なく溢れる血に身を濡らしながら、化猫を抑えて足を踏み張り、僧侶は荒い息の下から応える。

「新田殿を、助けてください」

「無駄だ。直に死ぬ」

 邪羅久は新田を一瞥もしない。呪紋が反応しないこともまた、それが叶わぬ願いなのだということを暗に示していた。

「乞えと言うのは貴様の命だ、女」

「……言った筈です。己が身を守るために、お前の力を借りることはありません」

「下らぬ我を張るものだ。寂光は犬死にだな」 

 師の名に気を取られて力が緩んだ瞬間、化猫が激しく首を振る。僧侶は跳ね飛ばされて地を転がり、何かにぶつかって止まった。邪羅久の足だった。


 そなたと邪羅久は屹度良き友になる。私が請け合おう。

 

 ――笑う師の顔が、遥か昔のことのように瞼の裏に過った。あの庵が、師の姿が、声が、ひどく恋しかった。

 今は独りだ。

 血塗れの腕を突き、倒れ伏しそうな躰を死に物狂いで支える。化猫が歩を進め、血溜まりの中に横たわる新田に鼻を近づけていくのが見える。止めなければと思うのに、躰が動かない。失血は派手だが量は然程でもない、噛まれた傷から妖気が直に体内へ入った所為だろう。放っておけば命に関わると分かったが、己が身を顧みる余裕などはない。目路が狭まっていく。鼓動の音をやけに大きく聴きながら、声を振り絞る。

「朔弥殿」

 化猫は顔を上げて此方を見た。

「貴方が喰らうべきはその方ではない。私です!」

 叫んだ途端背に衝撃があり、僧侶は低く呻いた。何事かと思ったが、邪羅久が背を踏み越えたらしい。

「な……」

「動くな」

 僧侶の前方へ歩み出た邪羅久は傷ついた左腕を容赦なく踏み躙った。同時に踏まれた箇所から青い焔が上がり、傷を灼く。痛みに息が詰まったが、焔は直ぐに収まった。

「……何を」

 先ほどまでの苦痛が嘘のように、躰が軽くなっている。

「妖気を奪った」

 邪羅久は淡々と答えた。何故助けてくれたのか、全く意図が判らず困惑する僧侶を気にもかけず、妖鬼は化猫へ向き直る。

「精々邪魔にならぬよう這い蹲っていろ。猫は殺す。呪縛を解け」

「待ってください」

 稲妻のように脳裏に活路が閃き、僧侶は勢いよく身を起こした。

「今の業を、朔弥殿自身に使う訳にはいきませんか」

 邪羅久が横目で此方を睨む。

「彼れは既に妖だ。妖気を奪えば死ぬぞ」

「いいえ」

 僧侶は此方を見据える化猫と、真っ向から目を合わせる。先ほどまでは兄に従い、甘えていた。空腹に我を忘れても、名を呼べば今ほども応えた。

「人の心が、残っている筈です。――どうか力を貸してください!」

 呪紋が眩い紅蓮に染まり、これまでにない強い光を放った。

 邪羅久は舌打ちと共に化猫へと目を遣る。気配を察知したのか猫は全身の毛を逆立て、威嚇の声をあげた。邪羅久が足を進める度に声を揺らがせ、じりじりと背を低くする。僧侶はその隙に新田へと這い寄った。己の血が触れぬよう右手のみを差し伸べ、力を振り絞って治癒の術をかけるが、失血の速度には到底追いつかない。

「女」

 声がかかった。新田から目を離せずに、振り向かず応える。

「なんです」

「其の若造の死に様、篤と見ていろ」

 僅かの斟酌もない言葉が胸を貫いた。

「躰の温みを、死に顔を、最期の言葉を忘れるな。貴様の判断が其奴を殺めたのだと忘れるな。事が片付いたら其の男を肴に貴様の精気を喰ろうてやる」

 声には一片の哀れみもなく、寧ろ愉快げな色さえ滲んでいた。睨み上げたが邪羅久は意にも介さず、冷笑と共に化猫へと手を差し伸べる。

「来い、猫。遊んでやろう」

 唸り声が途切れる。刹那、矢のように飛びかかってきた化猫の爪を、邪羅久は避けない。迫った爪は見えない楯でも在るかのように弾かれ、飴細工の如く軽い音を立てて折れた。目に見えて怯んだ猫の鼻面を邪羅久は旋風となって掠め、蛇と化して背を這い、鳥の姿で四肢の間を擦り抜けながら高らかに嗤う。猫は昂り、混乱し、間もなく疲労が見え始めた。

 一頻り弄んだ後、邪羅久は人の姿で猫へと向き直る。深く息を吐くと、忽ち妖気が焔となって立ち上る。熱気を孕んだ風に長い髪が逆立つ。両の手を翳せば焔は幾匹もの蛇の姿を成し、邪羅久の袖から伸びて一斉に猫の五体に絡み付いた。猫は驚き暴れたが、もがけばもがくほど雁字搦めに締め上げられていく。邪羅久は戯らすように両手を操りながら、地に転がり弱々しく呻く獣へ悠々と歩み寄り、その背に腰掛けた。

「小僧、妖と成って日の浅い貴様が知らぬのも無理はないが」

 長い爪で金毛を梳く。隆々と盛り上がった背がか弱い鼠のように震える。

「この俺が貴様の王だ。覚えておけ」

 焔の蛇が炎上した。断末魔の如き苦悶の叫びが地を揺るがす。やがて猫は眼を見開いたまま首を伏せ、ぴくりとも動かなくなった。呆然と様子を見つめていた僧侶に、邪羅久は猫の背から告げる。

「一先ずは貴様の目論見通りだが、妖気は夜毎蓄えられる。持って数日だ」

「……有難う」

 息を吐いた僧侶の視界の端で、新田の唇が微かに動いた。手を握ると、虚ろな眼が弟を探すように僅かに揺れる。

「さく、は」

「傷ついてはいません。何も心配は要りませんよ」

「もうしわけ……ありません」

 濁った目の縁から涙が溢れて痩せた頬を濡らした。

「いと、は、なにも……しりません」

「はい」

「さく……たすけ……おねが……します」

「はい。必ず」

 空はいつしか白み始め、木々の間から暁光が零れ出す。邪羅久が背から降りると、光を浴びて化猫の輪郭が徐々に崩れ出した。金の毛が、小山のようだった体躯が、灰のようにさらさらと形を失って風に攫われていく。灰の中から現れたのは、襤褸を纏い、背を丸めて穏やかに寝息を立てる童だった。やがて小さな瞼が震え、乾いた唇から掠れ声が漏れる。

「……にいちゃん」

 童は少し鬱陶しげに、それでもどこか嬉しそうに口許を緩めて寝言を発する。

「おれ、もう……ひとりで、歩けるってば」

「新田殿」

 僧侶は涙を流しながら、震える声で囁いた。

「弟君は……朔弥殿は、無事ですよ」

 強張った新田の顔が、僅かに和らいだように見えた。

 しかしその眼が弟の姿を映すことは二度となかった。

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