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万妖の王  作者: 雨翠
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化猫 其之肆

 その後夕刻まで山中を探したが、結局化猫の痕跡を見つけ出すことはできなかった。呪符も使い切り、夜を待つことにして一旦新田家へと戻る。炊煙の立ち込める厨で飯を器に盛っていたいとが笑顔で迎えてくれた。

「ちょうど夕餉ができたところです。どうぞ召し上がってください」

 新田はまだ帰っていないようだった。二階へ上がると、既に燭台に火が灯っている。開け放された窓の外には少し欠けた月が昇り、その淡い光の下で薄藍山はいっそう黒々と聳えていた。

「失礼します」

 いとが夕餉を運んできてくれる。勧められるまま座布団へ腰を下ろすと、目の前に膳が置かれた。雑穀米と山菜汁、筍の煮物に菜の花の和え物。旬の食材を惜しげもなく使った贅沢な料理には、労いの意が籠められているのだろう。

「有難うございます」

「とんでもないです。お世話になってるのはこちらですから」

 いとは朗らかに返し、小首を傾げて僧侶と邪羅久を交互に見る。

「式鬼様の分もご用意したのですが……式鬼というのはお食事はされるのですか?」

 無邪気な問いに、僧侶は邪羅久を振り向く。此方を見もしていなかった。窓枠に腰掛けて片胡坐をかき、もう片足を床へ垂らして、薄藍山の方角を眺めている。

「食べられないと言うことはないでしょう」

「要らん」

「そう言わずいただいてはどうです」

「不要だと言っている」

 突っ撥ねられてもいとは気を悪くしたそぶりも見せずに笑う。

「いつでもお持ちしますので、お声がけくださいね」

 丁寧に一礼し、部屋を出て襖を閉める。階を下りる足音が小さくなっていくのを見計らって僧侶は邪羅久に声をかける。

「お心遣いを有難く受け取ることも、徳を積むことに繋がると思いますが」

「知ったことではない」

 妖鬼は窓の外から頑なに目を逸らさない。乱暴な物言いにはそぐわぬ静けさを纏った横顔に、月光が濃い影を落としていた。人ならぬ存在であるとはっきりと判るほど恐ろしく美しいその姿を今更のように遥か遠くに感じ、それ以上語りかけることはせずに僧侶は膳に手を合わせた。


 僧侶が箸を置き、手を合わせる気配があった。もうじき出立か、と考え、化猫と対峙するのをどこか愉しみにしている己に気がつく。呪紋を刻まれてからというもの、満足に力を振るっていない所為だろう。

「お前は腹が空かないのですか」

 かけられた言葉に呆れて振り向けば、薄布越しに青い眼が此方を見上げていた。

「妖が何を喰らうか知っているのか?」

「……人や獣の精気を奪うと聞いています。殺さず奪えるものならば、私で良ければ喰らいなさい」

 突拍子もない台詞が飛んできた。思わず声を立てて笑う。

「正気か?」

「お前には酷な旅路になりますから。人を傷つける以外のことであれば、できる限り望みには応えたいと思っています」

「殊勝なことだ。……では」

 鬱憤を晴らすには良い機会かもしれない。邪羅久は口角を吊り上げた。

「口を吸わせろ」

 僧侶が目を瞬く。

「口、を」

「精気とは言わば生命力だ、急所から喰らうほど鮮らかで美味になる。喉やら腹に穴を空ければ早いが、殺すな傷つけるなと言うのであれば口より喰らう他あるまい」

 偽りは言っていない。だが王として生まれ、妖力が尽きることのない邪羅久にとって食事は娯楽に過ぎない。つまりは嬲るだけの心算だった。しかし。

「解りました」

 僧侶はあっさりと頷いた。

「お前のやりたいようにしなさい。私は何をすればよいのです」

 あまりの素直さに拍子抜けする。戯言だと明かすこともできたが、久方ぶりの食事も悪くはないかと思い直す。

「では先ずその邪魔な布と傘を退けろ」

 僧侶は僅かに躊躇したように見えたが、大人しく従う。現れた顔にはやはり爛れた痕など見当たらない。人前で布を取らないのは目の色を隠したいのか、それとも隠したいのは女の性か――考えて直ぐに興味を失う。何れにせよ邪羅久には関わりのないことだ。

「来い」

 僧侶は立ち上がり、素直に窓際へ寄ってくる。

「何か考えろ。心が大きく動く事を」

「どういう」

「喜怒哀楽、嫉妬、嫌悪、恐怖、何れでも良い、強く烈しい気ほど腹の膨れる糧となる。……そうだな、寂光のことでも思い返してはどうだ」

 僧侶の瞳が揺れた。

「奴の死に様はどうだった。最期の言葉は。末期の顔は」

「……」

「好い気色だ」

 戦慄いた唇を舌でこじ開ける。びくりと動いた頭を後ろから手で押さえつけ、深く口づけながら乱暴に精気を啜った。溢れてくるのは臓腑を灼くほどの感情で、貪れば貪るほどに、強張った身体から力が抜けていく。その諦めのような受容のような肉体の反応さえ存分に堪能し、やがてゆっくりと唇を離す。青い瞳と視線が合う。

「俺が憎いか」

 僧侶の頬を、一筋の涙が伝っていた。

「……全て師自らが決めたことです。お前を恨むのは筋違いでしょう」

 静かに答え、手の甲で頬を拭う。声は僅かに揺らぎながらも、表情は落ち着きを取り戻している。

「見苦しいところを見せましたね」

「見苦しいほど味は好い」

 僧侶は息をつき、弱々しく微笑む。精気を吸われ疲れ果てているに違いなかったが、姿勢を崩そうとはしない。

「師とは親しかったのですか」

 邪羅久は鼻で笑う。

「腐れ縁だ。殺し合うたこともあれば酒の相手になることもあった」

「奇妙なものですね」

「妙なのは貴様だ、何故あのような生臭の弟子になどなる。あれは弟子をとる器ではないだろう」

「そうですね。気紛れで奔放で……困った人で」

 言葉を詰まらせ、僧侶は深く呼吸をする。

「古くからの知人を喪っても、お前は、何も感じないのですか」

「生けるものは何れ死ぬ」

 邪羅久にとってはただそれだけの話だった。何か言い返すかと思いきや、僧侶はしばらく黙って窓の外を見ていた。

「師は言っていました。私とお前は屹度良き友になれると」

「友?」

「今直ぐには到底叶いませんが……いつかお前を、理解したいと思っています」

 強い風が吹いた。燭台の灯が躍り、畳に落ちる二つの影を揺らす。邪羅久は冷笑して顔を背けた。

「妖と人間は決して解り合うことはない」

「そうでしょうか」

 僧侶は月光を正面に受けたまま、真っ直ぐに彼方を見据える。その深い青を、前にも一度見たことがあるような気がした。だが何処であったか、全く思い出せない。

「女——」

「失礼します」

 半ば無意識に訊ねようとした刹那、襖の外から声がかかった。いとが襖を開けて入ってくる。

「食後のお茶をお持ちしました」

 膳の傍に朱塗りの盆が置かれる。湯気の立つ鶸色の液体をなみなみと湛えた湯呑が二つ載っていた。僧侶が何か言いたげに此方を見たが、無視すると直ぐに諦めたようで、邪羅久の傍を離れて座布団へ腰を下ろした。

「有難うございます。とてもいい香りの茶ですね」

「弥能は温暖で水がきれいなので、良い茶葉が採れるんですよ」

「そうなのですね。有難くいただきます」

 僧侶は清涼な香りを放つ湯呑みに口をつけた。ゆっくりと飲み下して一息をつき、微笑む。

「美味しいです」

「でしょう? 弥能のお茶は和宝一ですから」

 いとは誇らしげに笑う。

「このお茶は兄が淹れました。不器用な兄ですが、茶の淹れ方だけは私より上手いんです」

「そうでしたか」

 随分遅かったが、新田は無事に帰って来たらしい。

「昼間もお世話になりましたので、是非御礼をお伝えしたいのですが。兄君は今はどちらに?」

 僧侶が訊ねると、実は、といとが身を縮める

「お茶だけご用意した後、またすぐに出ていったんです。なんでも宿直(とのい)の務めがあるとかで……ご挨拶くらいしてほしいと言ったのですが」

「宿直の務め……」

 僧侶の肩が強張る。同行させてほしいと必死に主張してきた昼間の姿を思い返せば、務めというのが方便であることは容易に推し量れる。本当は今、何処に居るのかも。

「邪羅久」

 僧侶が険しい顔で此方を見上げた瞬間、薄藍山の方角から呪力の波が空気を震わせた。震えは鈴に似た音色となって山を駆け下り、部屋まで届く。

「かかったな」

 邪羅久の呟きと同時に僧侶が動いた。目にもとまらぬ速さで笠を手にし、錫杖を掴むや、畳を一蹴りして部屋を出る。続いた邪羅久の眼前で、階を踏み外したかのように見えた身体は空中で鮮やかに一転し、土間に着地した。大柄な体躯には不釣り合いなほどの軽やかな身のこなしに少なからず吃驚する。僧侶は振り向かず、素早く草鞋を履いて戸口を飛び出しながら叫ぶ。

「来なさい!」

 呪紋が赤い光を帯びた。邪羅久は我知らず笑みを浮かべ、鷲へと変化するや僧侶に続いた。

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