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万妖の王  作者: 雨翠
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化猫 其之壱

 春の嵐の過ぎた翌日だった。久方ぶりに澄んだ空の広がる朝、風に乱された庭を掃いていると、背後で錫杖の音が鳴った。振り向けば何時戻ってきたのか、出掛けていた筈の師が庵の柱にもたれかかっている。手招きをされて素直に近寄ると満面の笑みを浮かべた。これはよからぬことを言い出すと察した矢先、

 すまぬが今宵、死ぬことになった。

 ――予想以上の突飛な台詞に、頭を殴られた。

 ついてはそなたに頼みたいことがある。聞いてくれるな。

 絶句する弟子をよそに続く声は楽しげですらある。順を追って説明してくださいと努めて冷静にたずねると、師はおどけて目を細め、濡れ縁の高欄にひらりと腰掛ける。弥能国(みののくに)のみならず、和宝(わほう)——十一国を有するこの島の全土に名を轟かす術者でありながら、振舞いはあまりに無作法、まるで悪戯好きの幼子だ。諌めても無駄とよく知っているので口には出さないが。

 あまり時が無い。一度しか言わぬゆえよく聞け。

 風が吹き抜ける。竹の葉擦れが辺りを幽く包む。愛しい師、質素ながらも居心地のよい庵、二人で過ごす穏やかな時間。それら全てと永遠の別れを告げることになるとは到底思えない、麗らかな日のことであった。



 鶯が鳴いている。

 暁天の下、桜の綻び始めた街道を二つの人影が歩んでいた。一人は行脚僧である。背丈が高く、衣越しにも判るほど屈強な肉体をしている。右手には錫杖を携え、歩を進める度に涼やかな音が立つ。編笠から下がる薄布により顔ははっきりと見えない。

 もう一方は非常に目を引く風体の男であった。真紅の長髪に金の眼、僧侶に劣らぬ長身を呂色の着物に包み、裾から剥き出しの素足を覗かせている。獣の如く尖った耳や鋭い爪は紛れもなく人外のそれだった。同時に目を引くのは、首をぐるりと囲む奇妙な文様である。

 呪紋――呪力をこめて刻まれた印。鳥獣や妖鬼の急所に見られる場合は、それらが術者に使役される式鬼(しき)であることを意味した。ゆえに通りすがる者たちは男の姿に驚くことはあっても、必要以上に怯えたり敵意を向けたりすることはない。

「つまらんな」

 男がぼやいた。僧侶が歩みを緩め、傍らを見る。

「確かに、ただ黙って歩くだけでは味気ないですね。これから長い旅になりますから」

 歴戦の兵もかくやという体格とは裏腹に、柔らかな声で男に語りかける。

「邪羅久。何か話をしましょうか」

「そうではない」

 邪羅久と呼ばれた男は、行き違ったばかりの販女を目で追いながら低く唸った。

「戯れに殺すこともならんというのが退屈なのだ」

「当然でしょう」

 僧侶が呆れたように息をついて歩む速度を戻す。

「功徳を積むための旅なのです。何度も言いますが、決して無闇に人を傷つけてはなりませんよ」

 言い聞かせると同時に呪紋が鈍く輝いた。邪羅久は忌々しそうに己の喉元に爪を立てる。

「下らん真似を」

 苛立ちのこもった声にも僧侶は全く動じない。

「妖の性なのやもしれませんが、堪えてもらうしかありません。この和宝の為、何よりお前自身の為に」

 力説しつつ、徐に手をかざす。示した先には桜の枝がある。

「殺生などせずとも、他に楽しみを見つければよいではありませんか。ほら、花でも愛でてはどうです」

 枝にはまだ蕾も多いが、ところどころに綻び始めた花も見えた。しかし、

「毎年同じように咲くものを飽きもせず愛でるとは、人間というのは余程覚えが悪いらしいな」

 反応は全く芳しくない。

「では鶯の囀りにでも耳を傾け」

「畜生の声など聞いて何が面白い」

「……お前の無聊を慰めるものを見つける前に日が暮れますね」

 僧侶はため息をつき、前へ向き直った。道の先は徐々に上り坂となり、視界の果てには霞を纏う峰が聳えている。

「大分、近くまで来ましたね」

 薄藍山(はくらんざん)

 弥能国の最南部に位置する深山である。山中に続く街道、阿尾道(あおのみち)は大国である津支穂国(つしほのくに)に通じており、人の往来が盛んで、麓や峠には宿場町が栄えていた。

「先を急ぎましょう。日のあるうちに痕跡を見つけなければ」

「化猫か」

 邪羅久の冷笑が僧侶の声に重なった。

「姿を見た者がいるのか?」

「阿尾道にて屍が出たそうです。まだ若い旅客がはらわたを喰われ、辺りには金色の獣の毛が落ちていた。同日に山を通った人々に心当たりを訊ねれば口を揃えて、尋常でない様子の猫の鳴き声を聞いた、と」

「ほう」

「その後、山へ入った物売や猟師、果ては警吏までもが、ここ一月(ひとつき)ほどで七人も行方を晦ましているとか」

 僧侶は薄布を持ち上げ、険しい表情で山を見据える。萌え始めた若葉の緑に染まり春めく山容は美しく、とても魔性の領分であるようには見えない。

「お前は妖の王なのでしょう。何か噂など聞いていませんか」

「さあな」

 邪羅久は淡々と答え、興味もなさげに顔を背ける。

「人の王と同じにするな。下々が何をしでかそうが、俺の与り知るところではない」

「……そうでしたね」

 僧侶が頷いた。

「師より言われておりました。妖の王とは、統治者ではなく力の塊——陰陽の均衡を保つ要のことを指すのだと」


 人にも妖にも、それぞれの領分がある。絶対的な力の存在が、意図せずしてその境界を保つのだという。それでもなお互いの領分を侵した者は妖に喰われ、あるいは人に退治され、そうして人と妖は千年以上も共存してきた。

 理が崩れ始めたのは昨年のことである。

 柳帝暦四十年九月十日、禰魏国(ねぎのくに)佐鳥(さとり)村で、五十八人の村民全てが葛の怪異に絞殺される大事が起きた。葛は禰魏国主が遣わした呪術師たちが討伐したが、以来、妖が尋常でない規模や頻度で人を襲う事態が、和宝の各地で相次いだ。各国の呪術師たちが原因解明に奔走しているが、未だ何一つ明らかにならないという。

 更に、つい五日前のこと。占卜師が帝に告げたという予言が瞬く間に市井まで広まり、人々を震撼させた。

 ——柳帝暦四十七年、万妖の王、禍神と成りて和宝灰燼に帰す。

 今やこの国で理は通用しない。人の世は妖の脅威に侵されつつあった。


「化猫については、宿場町で詳しい話を伺ってみましょう」

 布を下ろした僧侶が再び足を踏み出したそのとき、街道の彼方から微かに、言い争うかのような人声が聞こえた。二人は同時に足を止める。

「何かあったのでしょうか」

「化猫でないことだけは確かだな」

「先へ行って、お困りの方があれば助けて差し上げなさい。私も直ぐに参ります」

 邪羅久は目を細め唸った。獣の如く鋭い牙が露わになる。

「貴様の旅とやらが恙無く終わるか、俺が此の呪縛を解くか、果たして何方が早いだろうな。分を弁えるが身の為だぞ」

「私はただ師に託された役目を全うするだけです」

 腹の底まで震えるような恫喝に、僧侶は怯えるどころか豪気な笑みを浮かべる。

「邪羅久。頼みます」

 呪紋が赤く燃え上がった。邪羅久は舌打ちするなり紅蓮の鷲へと姿を変え、声の聞こえた方角へと疾風の如く飛び立った。

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