化猫 其之壱
春の嵐の過ぎた翌日だった。久方ぶりに澄んだ空の広がる朝、風に乱された庭を掃いていると、背後で錫杖の音が鳴った。振り向けば何時戻ってきたのか、出掛けていた筈の師が庵の柱にもたれかかっている。手招きをされて素直に近寄ると満面の笑みを浮かべた。これはよからぬことを言い出すと察した矢先、
すまぬが今宵、死ぬことになった。
――予想以上の突飛な台詞に、頭を殴られた。
ついてはそなたに頼みたいことがある。聞いてくれるな。
絶句する弟子をよそに続く声は楽しげですらある。順を追って説明してくださいと努めて冷静にたずねると、師はおどけて目を細め、濡れ縁の高欄にひらりと腰掛ける。弥能国のみならず、和宝——十一国を有するこの島の全土に名を轟かす術者でありながら、振舞いはあまりに無作法、まるで悪戯好きの幼子だ。諌めても無駄とよく知っているので口には出さないが。
あまり時が無い。一度しか言わぬゆえよく聞け。
風が吹き抜ける。竹の葉擦れが辺りを幽く包む。愛しい師、質素ながらも居心地のよい庵、二人で過ごす穏やかな時間。それら全てと永遠の別れを告げることになるとは到底思えない、麗らかな日のことであった。
◆
鶯が鳴いている。
暁天の下、桜の綻び始めた街道を二つの人影が歩んでいた。一人は行脚僧である。背丈が高く、衣越しにも判るほど屈強な肉体をしている。右手には錫杖を携え、歩を進める度に涼やかな音が立つ。編笠から下がる薄布により顔ははっきりと見えない。
もう一方は非常に目を引く風体の男であった。真紅の長髪に金の眼、僧侶に劣らぬ長身を呂色の着物に包み、裾から剥き出しの素足を覗かせている。獣の如く尖った耳や鋭い爪は紛れもなく人外のそれだった。同時に目を引くのは、首をぐるりと囲む奇妙な文様である。
呪紋――呪力をこめて刻まれた印。鳥獣や妖鬼の急所に見られる場合は、それらが術者に使役される式鬼であることを意味した。ゆえに通りすがる者たちは男の姿に驚くことはあっても、必要以上に怯えたり敵意を向けたりすることはない。
「つまらんな」
男がぼやいた。僧侶が歩みを緩め、傍らを見る。
「確かに、ただ黙って歩くだけでは味気ないですね。これから長い旅になりますから」
歴戦の兵もかくやという体格とは裏腹に、柔らかな声で男に語りかける。
「邪羅久。何か話をしましょうか」
「そうではない」
邪羅久と呼ばれた男は、行き違ったばかりの販女を目で追いながら低く唸った。
「戯れに殺すこともならんというのが退屈なのだ」
「当然でしょう」
僧侶が呆れたように息をついて歩む速度を戻す。
「功徳を積むための旅なのです。何度も言いますが、決して無闇に人を傷つけてはなりませんよ」
言い聞かせると同時に呪紋が鈍く輝いた。邪羅久は忌々しそうに己の喉元に爪を立てる。
「下らん真似を」
苛立ちのこもった声にも僧侶は全く動じない。
「妖の性なのやもしれませんが、堪えてもらうしかありません。この和宝の為、何よりお前自身の為に」
力説しつつ、徐に手をかざす。示した先には桜の枝がある。
「殺生などせずとも、他に楽しみを見つければよいではありませんか。ほら、花でも愛でてはどうです」
枝にはまだ蕾も多いが、ところどころに綻び始めた花も見えた。しかし、
「毎年同じように咲くものを飽きもせず愛でるとは、人間というのは余程覚えが悪いらしいな」
反応は全く芳しくない。
「では鶯の囀りにでも耳を傾け」
「畜生の声など聞いて何が面白い」
「……お前の無聊を慰めるものを見つける前に日が暮れますね」
僧侶はため息をつき、前へ向き直った。道の先は徐々に上り坂となり、視界の果てには霞を纏う峰が聳えている。
「大分、近くまで来ましたね」
薄藍山。
弥能国の最南部に位置する深山である。山中に続く街道、阿尾道は大国である津支穂国に通じており、人の往来が盛んで、麓や峠には宿場町が栄えていた。
「先を急ぎましょう。日のあるうちに痕跡を見つけなければ」
「化猫か」
邪羅久の冷笑が僧侶の声に重なった。
「姿を見た者がいるのか?」
「阿尾道にて屍が出たそうです。まだ若い旅客がはらわたを喰われ、辺りには金色の獣の毛が落ちていた。同日に山を通った人々に心当たりを訊ねれば口を揃えて、尋常でない様子の猫の鳴き声を聞いた、と」
「ほう」
「その後、山へ入った物売や猟師、果ては警吏までもが、ここ一月ほどで七人も行方を晦ましているとか」
僧侶は薄布を持ち上げ、険しい表情で山を見据える。萌え始めた若葉の緑に染まり春めく山容は美しく、とても魔性の領分であるようには見えない。
「お前は妖の王なのでしょう。何か噂など聞いていませんか」
「さあな」
邪羅久は淡々と答え、興味もなさげに顔を背ける。
「人の王と同じにするな。下々が何をしでかそうが、俺の与り知るところではない」
「……そうでしたね」
僧侶が頷いた。
「師より言われておりました。妖の王とは、統治者ではなく力の塊——陰陽の均衡を保つ要のことを指すのだと」
人にも妖にも、それぞれの領分がある。絶対的な力の存在が、意図せずしてその境界を保つのだという。それでもなお互いの領分を侵した者は妖に喰われ、あるいは人に退治され、そうして人と妖は千年以上も共存してきた。
理が崩れ始めたのは昨年のことである。
柳帝暦四十年九月十日、禰魏国佐鳥村で、五十八人の村民全てが葛の怪異に絞殺される大事が起きた。葛は禰魏国主が遣わした呪術師たちが討伐したが、以来、妖が尋常でない規模や頻度で人を襲う事態が、和宝の各地で相次いだ。各国の呪術師たちが原因解明に奔走しているが、未だ何一つ明らかにならないという。
更に、つい五日前のこと。占卜師が帝に告げたという予言が瞬く間に市井まで広まり、人々を震撼させた。
——柳帝暦四十七年、万妖の王、禍神と成りて和宝灰燼に帰す。
今やこの国で理は通用しない。人の世は妖の脅威に侵されつつあった。
「化猫については、宿場町で詳しい話を伺ってみましょう」
布を下ろした僧侶が再び足を踏み出したそのとき、街道の彼方から微かに、言い争うかのような人声が聞こえた。二人は同時に足を止める。
「何かあったのでしょうか」
「化猫でないことだけは確かだな」
「先へ行って、お困りの方があれば助けて差し上げなさい。私も直ぐに参ります」
邪羅久は目を細め唸った。獣の如く鋭い牙が露わになる。
「貴様の旅とやらが恙無く終わるか、俺が此の呪縛を解くか、果たして何方が早いだろうな。分を弁えるが身の為だぞ」
「私はただ師に託された役目を全うするだけです」
腹の底まで震えるような恫喝に、僧侶は怯えるどころか豪気な笑みを浮かべる。
「邪羅久。頼みます」
呪紋が赤く燃え上がった。邪羅久は舌打ちするなり紅蓮の鷲へと姿を変え、声の聞こえた方角へと疾風の如く飛び立った。