序 妖鬼と僧侶
その者、名は邪羅久。万妖の王。現世に生まれ出でし遍く怪を統べる者。髪は暁、眼は黄昏、宵闇の肌にて人に紛れ、時に巨龍と成りて天地を脅かし、時に雲霧と成りて神仏をも欺く。心の遊びに人を屠りつつ、戯れに災禍より済うことありて、敵味方とも定まらぬこと焔の如し。
一位實光『万妖記』より
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闇に鎖された土牢に、経を唱える声が幾重にも響いている。冷えきった洞の中には湿った土の匂いに混じり、誤魔化しようもない濃い鉄の匂いが漂っていた。
微かに蝶番の軋む音がする。外へ繋がる階の上から一筋の淡い光が差す。扉が開いたのだ。読経の声が一際高くなる。錫杖の鳴る音、階を踏みしめる足音とともに、月明かりを遮る長身の影が牢の底に落ちる。
闇を切り裂く大音響が石壁を震わせた。獣の咆哮のようでありながら、男の嗤う声のようでもある。突風が吹き荒れ、どよめきが起こり、経が一瞬途絶えた。しかし現れた人影は動揺を見せることなく、静かに階を降り切って前に進み出る。遮られることのなくなった月光が再び土牢を照らす。
数え切れぬほどの僧たちが、剥き出しの土にずらりと座っていた。向かいには牢の格子戸があったが、夥しい数の護符が貼られており中は見えない。
「お待ちしておりました、寂光師」
一人の老僧が立ち上がり、長身の影に語りかけた。長らく経を唱え続けたせいか、声が枯れている。いいえ、と応えたのは屈強な体格に似合わぬ柔らかな若者の声である。
「寂光は参りません。代わりに私が調伏を任されております」
老僧は困惑し、人影を見上げた。目深に被った笠から垂れ衣が下がり、若者の顔ははっきりと見えない。
「貴方様は一体……」
若い僧侶は答えず、ゆっくりと辺りを見回す。僧たちの中には少なからず倒れ伏している者もいた。見開いたままの目や吐血の量を見るに、既に事切れている。
「見るに堪えぬ有様でございましょう」
老僧が沈痛な面持ちで目を伏せる。若者は深く息をついた。
「ここまで持ちこたえてくださり感謝申し上げます。どうか丁重に弔いを。あとは私にお任せください」
「しかし」
「巻き込んでしまってはなりませんので」
言うが早いか錫杖を一つ鳴らして牢に向き合い、数珠を絡めた左手で合掌の構えをとる。経を唱え始めた若者を尻目に、僧たちはためらいながらも仲間の亡骸を支え、列をなして階を上がっていく。
扉が閉まった。
僧侶が読経を止めた。片合掌を解いて手を伸ばし、格子に貼られた護符の一枚にそっと触れる。瞬間、凄まじい風音を立てて全ての札が吹き飛んだ。雪のように舞う紙片を気にかけることもなく、露わとなった格子の奥を見据えてそれの名を呼ぶ。
「邪羅久」
再び、低い音が空気を揺るがす。今度ははっきりと、嗤っているのだと判る。
『侮られたものだ』
異形のものと明らかな歪んだ声が闇の底から湧き、洞の中にこだまする。その残響に呼応するかの如く、舞い散った紙片が次々と燃え上がり、瞬く間に炎は床を舐め尽くして派手に火の粉を散らし始める。赤赤と照らし出された闇の奥に、囚人の姿が浮かび上がった。
一人の男だった。真紅の長髪を床に垂らして胡座をかき、擦り切れた衣の袖から伸びる両腕を何本もの鉄杭で壁に縫い留められている。足元の床にはびっしりと経文が書かれていた。連なる文字がまるで水面に浮かぶ油のように揺らめいて形を変え、男が言葉を発するたびに仄暗い光を帯びる。
『寂光がおらぬどころか、代わりに小娘ひとりとはな』
僧侶がわずかに息を呑み、身動ぎする。男は眼を細めて笑う。
『匂いで判るわ。顔を見せろ、女』
「……」
僧侶がゆっくりと膝をついた。錫杖を置き、顎紐を解いて笠を脱ぐ。垂れ衣の向こうから現れたのは骨太で飾り気のない女の顔である。
『寂光はどうした』
「死にました」
淡々と答えて俯き、数珠を握りしめる。男が哄笑とともに顎を逸らす。
『——そうか。一杯食わされたな』
硬い金属音がこだました。
顔を上げた僧侶は愕然と目を瞠る。男の腕を縛めていた鉄杭が、まるで草木が萎れるように頭を垂れ、次々と抜け落ちていく。最後の一本が床にぶつかると同時に、床に書かれた経文は霧散し、格子戸が音もなく塵と化した。
『奴が来ぬのならば此処に用はない』
絶句する僧侶を意にも介さず男は鷹揚に腰を上げる。
『酔狂が過ぎたな。茶番は終いだ』
悠々と歩き去ろうとし――僧侶の脇で俄に立ち止まる。獣のようにぎらつく金色の瞳が僧侶の手元を凝視する。
『それは、なんだ、女』
数珠が光を帯びている。漣のように広がった青い光明が洞を満たし、いつの間にか炎を鎮めていた。
「師は案じていました。この国のことも、お前のことも」
僧侶は顔を伏せ、祈るかのように瞼を閉じる。
「何より犠牲になった方々に報いるためにも……ここでお前を逃がすわけにはいきません」
言うが早いか、両手で素早く印を結び、奇妙な文言を唱えた。刹那、石壁から次々と光の筋が差し、男の身体を貫いて地に突き立つ。動きを封じられた男は周囲に目をやる。闇の中では目立たなかったが、壁には文字が刻まれていた。洞の側面をぐるりと走り、空間を囲むように陣を成している。格子戸の内ではなく、この土牢全体が男を囚えるための檻であった。
『……成程』
呟きに応えるように、僧侶が静かに瞼を開く。陣の発する光に照らし出された瞳ははっきりと青い。
「唵」
数珠が弾けた。
閃光が岩肌に乱反射する。宙に舞った珠が光の筋に沿い、吸い寄せられるように男の手首に、足首に、喉に巻き付く。光が激しく明滅する。珠は見る間に形を失くし、浅黒い肌に滲み込み、四肢や頬を走り抜け、刺青にも似た文様を黒黒と刻んでいく。自らの身体を侵していく呪術を黙って見下ろしていた男は、やがてゆっくりと口角を持ち上げる。
『寂光め』
唇の端から鋭い歯が覗く。憎らしそうな、しかしどこか愉快げな表情。
『これが秘策というわけか』
「お前は必ず油断する、と」
不敵に微笑んだ僧侶が立ち上がる。音高く錫杖を突くと同時に、男がその場に膝をついた。四肢に刻まれた文様はいつしか消えている。残るは喉に首枷の如き刻印が一つ。
「邪羅久」
光が消えていく。再び闇に沈もうとする土牢に、穏やかな声が凛と響く。
「私と共に来なさい」
完結までたどりつけるかは分かりません…
のんびりお付き合いください。