韻文と散文――自由詩は韻文か
本日、ちょっと韻文関係についてのコメントを2件いたしまして。その一方の方は、作品自体を削除されてしまったようで、申し訳なく。ですので、ちょっとちゃんと自分の中で韻文という概念についてまとめておきたいと思い、記す事にしました。
率直なところ、韻文とか散文なんていう言葉は、詩を読み書きする人以外には関係ないと考えています。普通の人は散文しか扱わないので、そもそもそれを「散文」という言葉で特別扱いする必要が無いのです。それを使うのは、韻文と区別する場合だけ。そして韻文は「詩を書くための文」なのですから。
本来なら、こういった事を語るのは専門家、詩学者であるか詩人と呼ばれる人々であるべきなのでしょうが、私はそちら方面の知識は決して深くはないので誤りなどがあるかもしれません。そのあたりは生暖かい目で見て、優しくご指摘いただければと思います。
さて、最初に日本の詩の歴史をざっと眺める必要があると思います。日本には、長らく短歌・俳句と漢詩といった詩しかなかった、という事です。形式的には、今様やら都都逸のような定型詩もあったと言えますが、ともかくも。
翻って西洋ではずっと色々な様式の詩が作成され、それを理論づけ体系化するための詩学というものが構築されて行きました。その歴史は短歌の歴史をはるかにしのぐでしょう。
そして、明治時代になって西洋の詩のような様式を参考に新しい詩を作ろうという事で、75調を基調に新体詩、という定型詩が模索されました。一番有名なのはやはり島崎藤村の初恋でしょう。75の4行4連で構成される詩です。そして、この時期に新体詩の体系づけのために、西洋詩の各概念が輸入されて色々な訳語が割り当てられていったと考えられます。
しかし、新体詩という定型詩がきちんと体系づけられる前に、それは大正時代に萩原朔太郎らによる自由詩によって「叩き潰されてしまった」と言えるでしょう。以後、新体詩のような定型詩は非常にマイナーになり、今に至っても普通に「詩」というと自由詩になると思います。
ちなみに西洋でも自由詩の運動があり、やはり今では自由詩の方が主体だと思うのですが、それは日本が新体詩を模索する前の段階で既に発生していました。また、散文詩という通常の文書と同じ書式の「詩」もそれよりはるか以前から書かれていました。
「訳語」として導入された西洋の詩の概念を表す言葉。例えば「連」という言葉はスタンザの訳語であるそうです。スタンザは定型詩を構成するユニットで、行をまとめたもの、ということです。例えばソネットという14行詩では、(例えば)abab/cdcd/efef/ggという形で脚韻を踏みます。このababといった韻の組み合わせの構成要素を、一つのスタンザと解し、ソネットは3つの4行スタンザと一つの2行スタンザからなる、と解釈します。一般にスタンザは空行やインデントで区切られる場合が多いですが、必須ではないようです(韻を見れば、スタンザは理解できる)。そして、スタンザという言葉は自由詩には適用されません。たとえ、空行で区切られた行のブロックが有ったとしても。定型詩ではないのですから。
連はスタンザの訳語ですから、新体詩の4行一組を連と解釈するのは、理にかなっていると言えます。でも、日本ではこの連という訳語をそのまま自由詩に適用してしまっています。新しい革袋を作らなかったのです。結果として、日本の詩における連の持つ意味は「空白行で区切られた、いくつかの行の塊」程度の意味しか持たないことになってしまっています。これは、スタンザの訳語と考えるととても不適切です。
詩に関する国語の例題、で「この詩は何連からなるか(ヒント:空行を数える)」ってなると、もうなんか寒気がしてきてしまいます。
そして、韻文・散文というのもverse/proseの訳語ですね。それこそ、定型詩を書くための文・通常の文章を書くための文、という事だと思います。ただ、定型詩を書くための文は、そのための厳格な規定があるわけで、西洋詩では韻文は韻律と押韻(主に脚韻)で構成されます。ですので西洋詩では韻文=詩を書く文体=「韻律と押韻」がみな等価であるわけです。自由詩の様式は、free verseと呼ばれ、これは韻文であることを否定しているも同然ですから、自由詩は韻文ではない、と言えると思います。
日本では。新体詩は韻律はありますが、押韻は通常ありません。でもまあ、新体詩を韻文と呼ぶのはさほど問題は無いでしょう。では自由詩はどうでしょうか。西洋詩の定義を念頭に置けば、韻文と呼ぶべきではありません。そもそも韻律もないのですから。検索すると自由詩を「自由韻文」なんて呼ぶ例が見つかりましたが、freeは解放されているという意味ですから、「自由な韻文」なのではなく「韻文から自由」なんですね。
それでも、連と同様に「韻文」という言葉だけが自由詩に適用されているように思われます。つまり、韻文=詩を書く文体という部分だけを抜け出してしまったわけですね。新体詩で導入された
・短い行で改行し
・空行で意味的塊を作成する
・句点を使用しない
という表現様式をもって「韻文」と規定してしまったと推察されます。教育課程ではそのように教えているのかもしれませんが、そうすると原語に立ち返ってのverseの定義(あるいは要件)と大きな矛盾が出て来てしまいます。
このあたりの言葉の使い方、本来定型詩のために翻訳導入された言葉が無理に流用されて自由詩に使われている、というのは特に定型詩を好む人にはものすごく気持ちが悪い用法になってしまうと思います。
自由詩が韻文かどうかですが、自由詩のリーダーであった萩原朔太郎氏は「詩の原理」において明確に「散文である」と主張されています。もともとが韻律による縛りからの解放を目指して作成されたものですから。してみると、自由詩を韻文とするのは、その先駆者に対する侮辱ではないかとすら思えます。
やはり韻文という言葉は定型詩にのみ使用し、自由詩は萩原氏が提唱された「詩的散文」、散文詩は本当に散文、と考えるのが良いのではないかと思います。
なお、韻律とは別に、西洋詩ではリズムの概念があるようで、それは自由詩にも存在していると考えられているようです。