その6
「瑠璃、お前……」
いくら偽者だとわかったからとて、やはり愛する妹の姿をしたものが、見たことも無いような醜悪な表情で笑うのはショックなのだろう。鬼龍院さんは愕然とした顔をしている。
だが、それこそが心に付け込む相手には危険なことだ。悪霊もそれに気付いたのだろう。可愛らしい女の子の表情へと戻ると、鬼龍院さんに語りかける。
「お兄ちゃん、心配しないで。瑠璃はこの中にちゃんと生きてるんだから。ただ、体が無くなっちゃっただけなの。だから、その妖怪を殺して。そうしたら私はここを出て、その体に入って生き返れるの」
「なっ……」
「大丈夫だよ。相手は人間じゃないんだもの。それに、私に体があれば、ここを出てまたお兄ちゃんと一緒に暮らせるんだよ」
「き、鬼龍院……さん?」
悪霊の言葉に、鬼龍院さんがゆっくりとこちらに振り向く。マズい……、今のこの人は、心を揺さぶられている。
そして私は覚悟する。乱暴なことはしたくないが、今はこの人を気絶させてでも動きを止めておかないと。
「うふふ……。そうよ、お兄ちゃん。その悪い妖怪を退治して、私を助けて」
ゆっくりと近付いてくる鬼龍院さんに向かい、私は身構える。しかし……。
「逃げるぞ!」
「え!?」
突然叫んだかと思うと、鬼龍院さんは私の手を掴んで走り出す。状況が飲み込めない私は一瞬倒れ込みそうになるが、それでも体は瞬時に理解して、一緒に走り出す。だが、頭で思っているとおりに足が動かない。
犬神である私の体の回復力は、普通の人間よりはるかに早い。だが、睡眠薬の影響は弱まっているとはいえ、まだ普通に走ることは無理なようだった。こうなった以上は止むを得まい。私は、この姿でいることを諦めようとした時だった。
「すまない!」
「はわっ!?」
言うが早いか、鬼龍院さんは私を抱えて走り出したのだ。それは私にとって、5年ぶりのお姫様抱っこというやつだった……。
「ちょ、ちょっと……」
「君が僕を良く思っていないのはわかってる。でも、今は我慢してくれ」
私を抱えて走る鬼龍院さんだったが、正直なところ速度は、私がよたよたと走ってもさほど変わりはないだろう。それもそのはずだ。
5年前ならまだしも、今の私は大人の姿なのだ。いくら私が小柄で太ってはいない……、はずだと思う……、とはいえ、人間一人を抱えて走るなど容易なことではない。
だが、不思議と不快感は無かった。それはきっと、抱えられた態勢から鬼龍院さんの顔が見えたからかもしれない。
そこにあったのは、黒狼探偵社に依頼に来た時とは違う、何かを守るために必死になっている顔だった。
真っ赤に紅潮し歯を食いしばり、額から滝のような汗を流し、荒い息遣い。見栄も外聞も無い態度だが、私にはスカしたあの態度よりも、随分と好感が持てた。
なんだろう、不思議と胸がドキドキする。違う、これはきっと、急に抱えられてびっくりしただけだ……。
「待ってください。どこへ逃げるんですか!?ここは鏡の中、相手の作り出した世界なんですよ」
私の言葉に、少しばかり冷静になったのだろう。ようやく鬼龍院さんは足を止める。振り返れば、悪霊が追って来ている気配はない。だが、その気になればすぐに追いつかれるはずだ。
「わ、わかってる。でも、君を巻き込んだのは僕の責任だ。なんとしても君だけは守ってみせる!」
その言葉に、私の心臓がドクンとひと際大きな音を立てる。な、なに?この感覚は……。で、でも、どんなに男らしいところを見せたって、二股をかけるような不潔な人なんだから!
だが、やはりそんな悠長なことを考えている暇は無いようだった。どれだけ逃げようが、やはりここは鏡の中の世界。気付けば目の前には、立ちはだかる少女の姿があった。
「お兄ちゃん、どうして逃げるの?瑠璃よりも、その妖怪のほうが大事なの?そんなお兄ちゃんは嫌い」
「もうやめてくれ!この人は関係ない。僕の体をお前にやるから。だから、この人には手を出すな!」
「き、鬼龍院さん?なにを……」
抱えていた私を降ろしたかと思うと、両手を広げて私と悪霊の前に立ちはだかる鬼龍院さん。なぜか私は、彼の腕から降ろされたことを少しばかり残念に思っていた。
「あーあ、お兄ちゃんみたいなか弱い人間なんか取り込んだって、対して力を得られないんだよなぁ。けど、霊力のある人間は私達を退治する力を持ってる可能性があるし……。術も使えず、ある程度の妖力のある妖怪が一番手ごろだったんだけどなぁ。ふふ……、けどしょうがないから、最初の予定どおり、お前も一緒にとり殺してやろう!」
可愛らしい少女の顔は、もはや通用しないと悟ったのだろう。その顔は、徐々に醜く歪んで行く。
だが、それでも鬼龍院さんは一歩も下がる気配はない。けれど、私は気付いてしまった。悪霊の前に立ちはだかる彼の足が、震えているのを。
それはそうだろう。普通の人間、ましてこんな状況は初めてであろう彼が、恐怖したって無理は無い。けれど、私はそんな彼を笑おうとも馬鹿にしようとも思わない。だって、勇気を持って私を守ろうとしてくれているのだ。
だが、その間にも闇は徐々に広がりを見せていく。薄暗い空間だったはずのそこは、気付けば大半が真の暗闇へと染まって行く。
「下がってください。鬼龍院さん!」
「え!?」
そして私も覚悟を決める。なぜかはわからないが、それまで変身することにためらいがあった。もしかしたら、その姿を見た彼が、私に嫌悪感を抱くことを恐れていたのかもしれない。
けれど、命がけで私を守ろうとしてくれる彼に、プロとして応えなければならない。
「……。舐めないでください」
「なに……!?」
私は鬼龍院さんを遮り、悪霊の前に立ちはだかる。
「舐めないでくださいと言ったんです」
「ふん、犬の妖怪ごときが、この鏡の世界で何ができるというんだ?長かったぞ。偶然とはいえ鏡の中に閉じ込められ、何も出来ずどれほど待ち焦がれたか……。こいつの妹を取り込んで、わずかばかりの力で凌いできたのも……。だが、それも終わる。10年ぶりの人間の生気と、新しい体が手に入るのだ!」
すでに人の姿には見えないとはいえ、闇が醜く笑うのが感じられる。
「たしかに、5年前の私は何も出来ませんでした。ただ、守られるだけの子供だった。でも、今は違います。私だって、黒狼探偵社の探偵なんです!」
私はポケットから、一枚の紙切れを取り出す。それは、緋色さんから貰ったとっておきの武器。陰陽師が作り上げた強力な退魔の符である。
だが、それだけが私の武器ではない。この5年。懸命に努力を重ねてきたもの。今こそそれを出す時だ。
「私の名は犬神狗巫女。怪、『犬神』です。今こそ私の力、見せてあげます!」
私は符を宙へと放り投げる。そして次の瞬間、私の姿は灰色の大きな犬へと変貌を遂げて行く。
「く、狗巫女さん……!?」
背後からは、驚く声が聞こえる。どうしてだろう、なんとなくだが、この人には見られたくなかった気がする。けど……、いいか。きっとこの人は、こんな姿の私の前に、二度と現れることは無いだろう。
私が完全に犬神の姿へと変身した時、放り投げた符が鼻先へと落ちてくる。
「ヴォン!!」
私はありったけの声で吼える。そしてそれは、緋色さんが教えてくれた、私が持つ唯一の武器だ。そう、犬神の吼え声には、古来より魔を退ける力が宿っているのだという。
5年前には知る由もなかったし、知っていたとしても、とても出来なかったことだ。
だが、今の私は違う。少しでも緋色さんに近付きたくて、少しでもリルさんの役に立ちたくて、少しでも皆の力になりたくて、必死で修行したのだ。きっと緋色さんも、私のこの力を信じて、私達にこの依頼を任せてくれたはずだ。
だったら……、私はその信頼に応えてみせる!
私の吼え声は、何も無いはずの空間を振動させながら、そして緋色さんがくれた退魔の符を取り込みながら、私の力を何倍にも増幅させながら悪霊へと真っ直ぐに進む。
次の瞬間。
「グギゲェェェェェェ!!」
耳を塞ぎたくなるような断末魔を上げながら、闇が散らばって行く。
「馬鹿な……、馬鹿な……!」
そして闇は徐々に小さくなっていくと、やがてその姿を消した。後には、最初に目を覚ました時のような、灰色の空間が広がるばかりだった……。