その5
「はわっ!?」
目を覚ました私の前にあるのは、薄暗くどこまでも広がっているかのような空間だった。その場で飛び起きようとした私は、立ちくらみを感じて倒れこみそうになる。だが、不意に誰かに支えられ、事なきを得た。
「大丈夫ですか?ただの睡眠薬ですけど、まだ無理に動かないほうが……」
「す、すみません、ありがとうございます」
振り向いた拍子に、私の視界に入ってきたのは……。
「は、はわわっ!あ、あなたいったい、どういうつもりで!リ、リルさんは……」
そう、私を支えていたのは、私達を騙した男、鬼龍院だった。
「お、落ち着いてください。あの人はソファに寝かせてあります。もちろん何もしていませんし、睡眠薬で眠っているだけです」
まだしっかりと動かない体で暴れる私を、鬼龍院は必死で支えている。最初は暴れていた私だったが、少しばかりすると冷静になってきた。たしかに最初の嫌悪感は残っているが、目の前の男の雰囲気は、明らかに初めとは違っている。いや、むしろこの態度こそが、この人の本当の性格なのではないか。
それに、この人は妹を助けたいと言っていたのだ。たぶんだけど、その言葉に嘘は感じられない。もっとも、簡単に人……、いや、悪霊に騙されるような私に、人を見抜く目があるのかは疑わしいが。
「説明……、してもらえますか」
「は、はい。その、妹に頼まれたんです……」
彼の語るところによれば、いたるところに何かが現れたのも、手を掴まれて鏡に引きずり込まれそうになったのも嘘ではないのだという。
ただ、その後の詳細を語っていなかっただけで……。
「お話したとおり、妹は10年前に忽然と消えてしまいました。僕は瑠璃を可愛がっていましたし、そりゃあショックでしたよ。でも、どう探しても見つからなかった。そんな時、ふと思ったんです。瑠璃はもしかして、鏡の中に迷い込んだんじゃないかって……」
そして、ある時彼は気付いたのだ、それまでの妹の言動に。さらには、屋敷内の大鏡の前に落ちていたお気に入りの人形が、その疑念をますます深めた。
だが、いくら訴えようと、大人達はそんな話に耳を傾けなかった。あまりに光一が煩く言うために、鏡の調査も行なわれたようだが、当時屋敷に呼ばれた霊媒師からは、これといった情報も得られなかった。
むろん、その霊媒師の実力がどの程度であったかは知る由もない。ただ、結論として、鏡は関係が無いとされたただけである。
「それからですよ。僕がいっそう、鏡という物にのめり込んで行ったのは」
それは、妹を助けたい一心だったのだろう。鏡という物についてだけではなく、その伝承や、逸話、様々な事象について調べだしたのだ。
「そして、ついに……、ついにですよ。妹は姿を現し、会話することが出来たんです」
「会話……、ですか……」
彼の念願叶ってか、先日姿を見せた妹は、こんな頼みごとをしていったのだという。
『鏡の中に、妖怪を連れてきて。そうしたらその妖力を少しだけ分けてもらって、私は外に出られるから』
「もちろん、その後に僕等が外に出られるのかとか、連れてきた妖怪に何か悪いことが起きることは無いのかってことは、何度も確認しました。でも、そんなことは絶対に無いって。あの優しかった妹が言うんだから、間違いはありませんよ」
「話はわかりました。でも、害は無いんならなぜ、初めからそのことを伝えてくれなかったんですか」
「そ、それは……。妹がどうしても言っては駄目だと。何も問題なかろうと、正直に言えば警戒されて、誰も助けに来てくれないからと……。騙すような形になってしまい、本当にすみません。けど、少しだけ力を貸してくれれば、妹も助かるはずです。それに、出入りには瑠璃の許可がないと無理なんです」
「…………」
たしかに、筋は通っているのかもしれない。得体のしれないモノ相手のうえに、相手の領域である鏡の世界に、のこのこ出向くのはリスクが大きすぎる。ましてやプロであれば、なおさら警戒するはずだ。リルさんならば、間違いなく外の世界からのコンタクトを選ぶだろう。
力を分けるというのが、どの程度のことかはわからない。しかし、話を聞いているかぎりでは、それほど問題は無さそうだが……。
もっとも、私のこの能天気さこそが、以前の悪霊退治でピンチを招いた原因でもあるのだが。
そう考えれば、やっぱり私は成長していない。けれど、困っている人を見過ごすのは嫌だ。だって、緋色さんならきっとこの人達を助けるはずだから……。
「わかりました。何をすればいいのかわからないけど、私の力で協力出来ることならお手伝いします」
「あ……、ありがとう」
自分でも甘いと思う。けれど、少なくともこの人に対する最初の嫌悪感は薄らいでいた。
「瑠璃!いるんだろ?約束どおり、お前の力になってくれる人を連れてきたぞ」
鬼龍院さんは暗闇に向かい呼びかける。やがて、暗闇の一部がモヤモヤと揺れ始めたかと思うと、なにやら形作って行く。
そしてそれは徐々に人の形をとって行ったかと思うと、後に現れたのは小さな女の子だった。
「瑠璃……。やっと、やっと帰れるんだね」
鬼龍院さんを見れば、涙ぐんでいる。おそらくは、妹が帰ってくるこの日を待ち焦がれていたのだろう。
「ふふふ……。ありがとうお兄ちゃん。これでやっとお家に帰って、お兄ちゃん達と一緒に暮らせるね。さあ、そこの妖怪さん。こっちへ来て力を貸して。大丈夫だよ、ほんの少し妖力を借りるだけだから。だから力を抜いて、私に体を預けて」
女の子は私の方を向くと、ニコリと笑いかける。だがその瞬間、私は強烈な違和感と悪寒を感じていた。
そうだ、この子は10年もここに閉じ込められていたはずだ。それなのになぜ、まるで成長しない子供の姿のままなのか。ここは、外の世界と時間の流れが違うとでもいうのか。生きているのなら、食事などはどうしてきたのか……。
それに、さっき鬼龍院さんは、出入りにはこの子の許可が要ると言った。閉じ込められたのなら、なぜこの子の意思で人間を出入りさせられるのだ?
そして、とても年齢相応に見えない流暢な言葉遣い。周りに何も無い世界で、学校に通うレベルの知識を得たたとでもいうのか?
目の前で無邪気に涙ぐむ鬼龍院さんには悪いが、私だって黒狼探偵社の一番助手なのだ。さすがにこの状況を無条件に信じるわけには行かない。まして、悪霊は人の善意や弱みに付け込んでくる。それは、5年前に嫌と言うほど身を持って知ったのだ。
「お断りします!」
「は?」
私の言葉に、鬼龍院さんは意味がわからないようで唖然としている。
「ちょ、ちょっと狗巫女さん!?なぜですか。瑠璃を助けてくれるって……」
「ええ、この人があなたの妹さんなら、なんとしてでも助ける手段を考えます。でも、コレは瑠璃ちゃんなんかじゃありません。れっきとした悪霊です!」
「な、なにを……」
当然ながら、私が目の前の少女の正体を見抜いたわけではない。何というか、そう、ハッタリ、直感なのだ。もちろん、本当に瑠璃ちゃんだった場合は死ぬ気で謝り倒し、依頼料を無料にするくらいの覚悟はある。リルさんには、メチャクチャ怒られるだろうが……。
けれど、目の前の暗闇から感じる気配は、間違いなく私が5年前に遭遇したものにそっくりなのだ。
「お、お兄ちゃん、この人怖い……。瑠璃のこと嘘つきだって……」
「し、心配ないよ瑠璃。ちゃんとお兄ちゃんが説明して、わかってもらうから」
もちろん、鬼龍院さんが信じないのは想定済みだ。私は一つの賭けに出る。
「では瑠璃ちゃん。あなたが本物だっていうなら、お兄ちゃんとの一番楽しい思い出を教えてください」
「お兄ちゃんとの……?それはもちろん、いっつもお兄ちゃんに一緒に遊んでもらったり、綺麗な鏡を見せてもらったりしたことだよ」
「…………」
予想通りの答えだ。おそらくだが、悪霊が瑠璃ちゃんを取り込んでいたなら、彼女の記憶や思い出も一緒に取り込んでいるだろう。だが……。
私は必死で鬼龍院さんに目配せをする。もしも、彼がこれに気付いて乗ってくれなければ、二人とも悪霊に殺される可能性がある。
「ほら、やっぱり瑠璃じゃないですか!ちゃんと僕との思い出を……。え?」
一瞬だが、鬼龍院さんの表情が変わった。もしかして……。
「よ、良かったな瑠璃。そうだ、間違いなくお前が瑠璃だって証明するために、アレを見せてくれよ」
「アレ……?」
「おいおい、忘れたのか?お祭りで買ってやった、玩具の指輪があるだろう?お前はいつも持ち歩いてたじゃないか」
「あ……、ああ、アレね。ごめんなさいお兄ちゃん。実はここに迷い込んだ時、落っことしちゃったみたいなの。せっかくお兄ちゃんが買ってくれたのに……」
「そう……か……」
その瞬間、鬼龍院さんの瞳は光彩を失い、全身の力が抜けたようになった。そしてその意味を悟ってしまった私も、いたたまれない気持ちになる。
「お兄ちゃん、がっかりしないで。その人の力を借りれば一緒にお外に出られるんだから、また買ってちょうだい。お外に出たら、いっぱい遊びに行こうね」
そして、その意味に気付いていないのは、この場では瑠璃ちゃん……、いや、悪霊のみだった。
「無いよ……」
「え?なに、お兄ちゃん」
「そんなものは無いって言ったんだ。僕はお前に、指輪なんか買っていない。それに、いろいろ考えればおかしいことだらけだ。やっぱり、瑠璃はもう……」
鬼龍院さんにとって、辛い現実がわかったのだろう。瑠璃ちゃんはもう、戻ってくることは無いと……。
それと同時に、目の前の瑠璃ちゃんの形をしたモノも、それに気付いたようだった。
「ケッ、ケケケケ。俺を謀るとはな……。なかなかに面白い奴等だ。妖怪の体を乗っ取り、外に出るつもりだったのだがな……。だが、もう遅い。お前らは鏡の中に閉じ込められたのだ。この中では何も出来まい。労せずに体を乗っ取るか、荒事で乗っ取るかだけの違いに過ぎんからな」
その醜く歪んだ顔は、かつて私が見た闇にそっくりであった……。