ラブストーリー
青々とした広大な丘陵の東の端、延々と続くなだらかな斜面を最後まで降ると、そこからは鬱蒼とした森が広がっていた。森の奥からは小川が流れ出しており、この小川は丘陵の谷間に沿ってはるか先で大河と合流し、海へと繋がっている。
そんな丘陵と森の境目、小川のほとりにひとつの家があった。
見た目はごく普通の農民の家だ。母屋の他に家畜小屋などが隣接しており、周囲をイバラの垣根で囲われている。建物はレンガではなく石を組み上げて築かれ、茅葺屋根からは小さな煙突が飛び出していた。木製のドアや窓枠は艶のある飴色に変色している。きちんと生活の気配が感じられる一方で、建物自体は恐ろしく古ぼけていて、風化した壁が崩れ落ちずにいるのが不思議なほどだ。
小屋には女が住んでいた。
外見は二十代半ばといったところ。女性としては長身で、男性と比べてもほとんど遜色ない。こんな場所に住んでいるというのに肌は新雪のように白く輝いており、まるで屋敷暮らしの貴族の娘のようだ。小振りながらすらりと伸びた鼻梁、ふっくらとした薔薇色のくちびる。形のよい眉の下にある、長いまつ毛に縁取られた彼女の瞳は、思わず引き込まれてしまいそうなほど鮮やかなすみれ色をしている。そして何より、彼女は素晴らしい黒髪の持ち主だった。腰に届くほど長い黒髪は濡れたように艶やかで、根元から毛先に至るまで少しもうねったりせず真っ直ぐに流れていた。
気品と威厳を感じさせる美しい女性だ。
これほどの女性がなぜこのような寂しい場所に家を建てて暮らしているのか。
それは、彼女が魔女だったからだ。
魔女は一人の少年と共に暮らしていた。
利発そうな目元をした、器量のいい少年だった。魔女とは対照的に光り輝くような金髪の持ち主で、小ざっぱりとした長さで切り揃えられた髪はわずかにうねっている。口元にはいつも楽しげな笑みが浮かんでおり、これもまた大抵いかめしい顔つきをしている魔女とは対照的だ。まだ柔らかさを留めるほおは薔薇色に染まり、尖った鼻の先はちょっとだけ上を向いていて彼の顔立ちに愛嬌を添えていた。瞳は目の覚めるような青色だ。
少年には魔女に拾われた時の記憶はない。まだ一歳になるかならぬかという赤子だったからだ。
家族については何も知らない。魔女が説明することには、彼女が馬で街道を通っている時、道端に生えた大木のうろの中に捨てられているのを見つけたのだという。困窮した夫婦が子を捨てるのは決して珍しいことではないが、大抵は孤児院の経営もしている教会や働き手を必要とする農場などに託すものだ。しかし、少年の両親にはそうするだけの余裕もなかったのだろうか。せめて街道を通りかかる善意ある誰かが我が子を拾ってくれたらという希望にかけたのかもしれない。
結果、まだ乳飲み子だった少年の泣き声に気付き、手を差し伸べたのは魔女だった。
そのことについて少年には一かけらも不満はない。捨て子であるという事実は悲しむべきものなのかもしれないが、拾われた後の幸せな境遇はそれを補って余りあった。
魔女と少年の暮らしは、基本的に農民のそれとほとんど大差なかった。
小屋の手前にある丘陵の頂上には木製の柵によって境界が引かれており、その内側で数頭の羊を放牧している。ヒツジからは羊毛の他、少量ながら採取した羊乳からチーズなども作っている。家畜小屋では他にも鶏が飼育されていて、日々の食事に卵を提供してくれていた。小川のほとりにはこじんまりした畑もあり、ここで育てられているのはもっぱら野菜類だ。他にも森からは狩猟肉や木の実や茸なども得られる。唯一小麦だけは近隣の村から取引で手に入れる必要がある が、それを除けば魔女と少年の二人が暮らしていくには充分な糧を得ることができていた。
魔女に拾われた少年は、ユリアンと名付けられた。
今よりずっと幼い頃、ユリアンは片時も目を離せない子どもだった。とにかくじってしていないのだ。
台所に立って料理をしている時、魔女は足元でうろちょろするユリアンを踏んづけたり、手を伸ばした彼がうっかり包丁や熱々のシチューが入った鍋を引っ繰り返したりしないよう気を配っていなければならなかった。
畑仕事をしている時もそうだ。育てている最中の野菜を引っこ抜いたり葉をむしったりしては駄目なのだとユリアンに納得させるまで、魔女はかなりの根気を必要とした。もちろん、柔らかく耕された畑はユリアンが泥んこ遊びをする場所ではないということを教えるのにも。
その点、羊の世話をする時はまだましだった。牧羊犬のカルロが魔女に代わってユリアンに目を光らせていてくれたし、羊たちに下手にちょっかいをかけると 小突かれたり蹴飛ばされたりして痛い目を見ると彼はかなり早い段階で学習したからだ。もっとも、最初の授業料としてユリアンが負った怪我が完治するまでの間、魔女によって彼の無謀な行動の愚かしさをそれはそれはしつこく説かれたのも効いたのだろうが。
魔女が暖炉の前で繕い物をしている時は、ユリアンはよく彼女の膝の上によじ登って来た。そうすると魔女は決まって、針を使っているから危ないと小言を漏らしながら、手に持っていた服なり鍋敷きなりを針とともに一旦脇によけて、ユリアンを優しく抱き締めるのだ。そして笑いながら短い腕を首に巻き付けてくる幼子に愛情のこもったキスをすると、彼を膝の上に乗せたまま軽く鼻歌を口ずさみながら、また繕い物を再開するのだった。
◇
もう少し成長すると、ユリアンは魔女の手伝いをするようになった。
大抵は退屈な雑用だったし、遊びよりお手伝いを優先させることに必ずしもユリアンが積極的だったわけではないが、何しろ彼はとても素直な子どもだったので、たとえ口では不平を漏らすことがあったとしても、最後にはきちんと魔女の言いつけに従った。魔女のほうでもそんなユリアンの心情はお見通しで、きちんと言いつけを守った後は遊びに飛び出していく彼の後ろ姿を微笑ましげに見送った。
ユリアンの遊び場は家の周囲の野原と森だった。とはいえ、どちらも途方もなく広いのでここから先は行ってはいけないという境界が魔女によって設けられていた。
野原の場合は羊たちと同じく柵で囲われた境界の内側。そして森の場合は、魔女の家の裏手から森に入ってすぐのところにある小さな泉までしかユリアンは進むことを許されていなかった。
魔女が定めた境界から一歩でも先へ足を踏み入れると、不思議なことにたちどころに彼女に知られてしまうのだ。そして、言いつけを破ったユリアンに聞こえるように、必ず魔女による警告が投げかけられる。『戻りなさい、ユリアン』、『それ以上行っては駄目よ』という風に。
もちろん最初から魔女がユリアンのそばで見守っていたわけではない。ただ声だけが彼のもとへ届けられるのだ。たとえ台所で料理をしている最中であろうと、庭先で洗濯物と格闘している最中であろうと、いつでも彼女はユリアンが境界を越えたか否かを察知することができ、その場を動くことなく彼の耳元に語り掛けることができるのだ。
魔女がユリアンの前で魔法を使うことは滅多になかったが、こんな時ユリアンは自分を養ってくれている女性が本当に魔女なのだと実感するのだった。
もっとも、ユリアンの友達はその話を聞かせてもあまり信じてはくれなかった。近隣の村に暮らす羊飼いの息子で、名はジーノといった。ユリアンより一つ年上で、ひょろりと背が高い。ユリアンにとってはほとんど唯一の友達だ。
羊飼いの父親が昔から魔女と顔見知りだったこともあり、その魔女に養われているユリアンに対してもジーノは臆したり偏見を持ったりすることもなく接してくれる。一方で魔法そのものについては胡散臭い眉唾物としか考えておらず、魔女についても単純に隠遁生活を送る女性への蔑称か、せいぜい占い師の親方程度に捉えているらしかった。その点ではジーノとユリアンの間には溝があったが、そこを除けば二人は上手く付き合っていた。
母親という概念をユリアンに教えたのは、実はジーノだ。
というのも、ジーノは最初ユリアンが魔女の実の息子だと思っていたからだ。が、自らの養い親に『魔女』と呼びかけるユリアンに面食らって、彼に問いただしたのだった。
そこで分かったのは、ユリアンが元は捨て子であり、彼自身物心ついた頃からそれを知っていること。そして魔女が養い子に自らの名前すら教えず、ただ『魔女』とだけ呼ばせていること。
実のところ、魔女の名前を知らないのはユリアンだけではない。ジーノも知らないし、ジーノの父親も他の村人も誰一人知る者はいないのだ。理由までは分からないが、魔女があえて名前を秘密にしていることは想像に難くない。
だが、ユリアンにまで秘密にするというのは異様という他なかった。ジーノの目から見ると、魔女とユリアンが実の母子のような深い愛情で結ばれていることは明白な事実だったからだ。
そこでジーノは純粋に厚意から、友達のために魔女を『お母さん』と呼ぶよう助言した。
拾われた身だからといって気兼ねすることなどない。ユリアンと魔女のような関係ではそう呼ぶのが当たり前のことなのだし、きっと心の奥底では向こうもそれを望んでいるに違いないから、と。
友達の助言をユリアンは素直に受け取り、いくらかの照れと期待を込めて実行することにした。
きっと魔女は驚いた表情を見せた後、喜んでぼくのことを抱き締めてくれるに違いない。
いつもどおりの二人きりの夕食の後、空になったユリアンの食器を受け取りながら、彼がもじもじしているのに気付いた魔女が優しく訊ねた。
「どうしたの、ユリアン?」
長い指に頬をくすぐられ、顔を上げたユリアンは意を決して口を開いた。
「あのね、今日もごはんおいしかったよ……、お、お母さん」
ユリアンの言葉の前半を耳にし、魔女の表情に柔らかい微笑が浮かびかけた。が、後半の呼びかけを耳にした途端、彼女の表情は凍り付き、次いで恐怖と苦痛に打ちのめされたものに変化した。
予想だにしなかった反応に、ユリアンはショックを受けると同時に戸惑いを覚えた。
魔女を『お母さん』と呼ぶのはそんなにもいけないことだったのだろうか。
「わたしはあなたのお母さんではないわ」
強張った表情のまま魔女が言い放った。
その声はユリアンがこれまで聞いたことがないほど冷たく、硬い声だった。
ユリアンの肩がびくりと揺れ、瞳に涙が盛り上がる。
「あ、あの、ぼくは……。変なこと言って、ごめんなさい」
うなだれて謝るユリアンの頬を涙の粒がぽろぽろこぼれ落ちた。
その様を見て魔女はハッと我に返り、しまったと後悔するように眉をひそめた。
「謝らなくてもいいのよ。別にあなたは悪くないわ。わたしのほうこそきつい言い方をしてごめんなさいね。許してちょうだい、ユリアン」
床に膝をついてユリアンと視線を合わせた魔女は、彼の頬に手を添えて顔を上げさせた。
「ぼ、ぼくのこと、怒ってない? 嫌いにならない?」
しゃくり上げながら問う子どもに魔女は優しく微笑みかけ、涙に濡れた柔らかい頬を手のひらでごしごしと拭いてやった。
「もちろんよ。あなたのことを嫌いになんてなるわけないでしょ」
「本当に?」
「本当よ。確かにわたしはあなたのお母さんになることはできないわ。でも、わたしとあなたの間の絆は絶対になくなったりはしない。絶対にね」
魔女は『絶対に』という言葉を繰り返し強調して言った。
最初は大きなショックを受けたユリアンだったが、魔女の言葉を聞くうちに落ち着きを取り戻していった。彼女の言葉に嘘は感じられない。自分はお母さんではないと言った言葉には、魔女自身の何かどうにもならない怒りや悲しみが込められているのをユリアンは感じ取っていたが、だからといって彼女がユリアンを突き放すというわけではないと知ってほっと安堵した。
「だけどユリアン、どうしてこんなことを思いついたの?」
これまで魔女はユリアンに母親という存在についてほとんど話してこなかった。彼自身の境遇についても単に木のうろに捨てられて泣いているところを拾ったとしか説明していなかったし、両親がいて子どもがいるという世間一般の家族単位というものを彼が理解しているかどうかすら怪しい。だから今回のことはユリアン一人の思いつきのはずがないと魔女は疑った。
「ジーノが言ったんだ、こう呼ぶと魔女が喜んでくれるって。……ジーノは嘘をついたの?」
ユリアンの言葉を聞き、魔女は苦笑ともため息ともつかないものを漏らした。ジーノのことはもちろん知っている。ユリアンより年長である分こまっしゃくれた部分はあるが、決して悪い子ではない。きっと彼は純粋にユリアンのためを思って助言したのだろう。
が、今回の件に限ってはジーノの助言は完全に的外れで、決して受け入れることのできないものだった。魔女にとっても、そしてユリアンにとっても。
「いいえ、ユリアン。ジーノは別に嘘を言ったわけじゃないわ。だから彼を責めては駄目よ」
「うん。分かった」
なぜジーノの助言を受け入れることができないのか、魔女は説明しようとはしなかった。
ただユリアンを優しく抱き締めた彼女は、心からの感情を込めてささやいた。
「ああ、わたしのユリアン。愛してるわ」
「ぼくもだよ、魔女」
魔女の首に腕を巻きつけたユリアンは、いつものように彼女に応えた。
そんなことがあった後も、魔女は自分のことを単に『魔女』と呼ばせていたし、本当の名前を教えることもしなかった。
だがそれでも、二人は実の母子以上に仲睦まじく暮らしていた。
ある日、ユリアンが魔女のために花を摘んできたことがあった。
野原や森に咲いている、何ということのない普通の花々だ。それでも少年の小さな手に握られた花束は、素朴ながら可憐に咲き誇っていた。
誇らしげに差し出された突然の贈り物を受け取った魔女は、喜びに声を震わせた。
「まあユリアン」
「気に入ってくれた?」
上目遣いに覗き込むユリアンの前で、魔女は花束に顔を寄せて香りを吸い込んだ。
「ええ、とても。素敵な花束をありがとう。綺麗だし、いい香りだわ」
花束を右手で持った魔女は、左手でユリアンを抱き寄せて彼にキスをした。
「喜んでもらえてうれしいな。頑張って集めたんだ。カルロも手伝ってくれたんだよ。ぼくが持ってる花を食べようと寄ってくる羊たちを追い払ってくれたんだ」
ユリアンの言葉に魔女は豊かな笑い声をあげた。
「それじゃカルロにもお礼をしないとね。キスがいいかしら?」
「キスよりもたぶん骨のついたお肉がいいんじゃないかな」
「あら、羊を追い払っただけのカルロへのお礼がそんなに豪華なら、あなたには何をお返しすればいいのかしら?」
悪戯っぽく問いかけながら鼻先を摺り寄せてくる魔女に対し、ユリアンはくすくす笑った。
「ぼくは何もいらないよ。魔女に喜んでもらいたかっただけなんだ」
「まあ、何て優しい子なの」
魔女は感極まったようにもう一度ユリアンの小さな体を抱きしめた。
ユリアンはくすぐったそうにそれを受け入れていたが、ふと何かに気づいたように小さな声を上げた。
「あっ、でも……」
「なぁに?」
優しく問いかける魔女。
一方のユリアンは難しい顔で魔女の手の中にある花束を見つめていた。
「すぐに枯れちゃうよね、これ。せっかく魔女が喜んでくれたのに」
いかにも残念そうなユリアンの柔らかい頬を軽くつまみ、魔女は安心させるように答えた。
「いいえ、この花束は決して枯れないわ」
「本当?」
びっくりして目を丸くするユリアン。
「でも、どうやって」
「忘れたの、ユリアン? わたしは魔女なのよ」
「魔法を使うの?」
「わたしの魔力を、というより命そのものを分け与えるの。そうすればいつまでも瑞々しさを保つことができるわ。見ていて」
魔女はユリアンに微笑みかけると、花束を胸に抱き、目を閉じて精神を集中させた。ユリアンが見ている前で魔女の体全体がぼんやりとした光に包まれる。彼女を包む光はやがて、両手を通してゆっくりと花束へと流れ込んでいった。
「わぁ……」
一緒に暮らすユリアンも魔女が魔法を使う姿はめったに見たことがない。神秘的な光景にユリアンがぽかんと見とれている様子を、魔女は片目を開けて観察すると、唇の端を悪戯っぽく吊り上げた。
「こんなところかしら」
魔女が力を抜くように息を吐くと、彼女を包んでいた光がゆっくりと消えていく。数拍遅れて花束のほうも光るのをやめた。
「これでいつまでもこの花束を手元に置いておけるわ」
「魔女ってすごいんだね」
ユリアンの無邪気な賞賛に魔女は苦笑を浮かべた。
「いつもいつもこんなことはできないわ。今回だけは特別。ユリアンからの初めての贈り物だもの」
魔女は幼いユリアンから過去に贈られた、何の変哲もない小石や木の枝、虫の抜け殻などの存在を綺麗に無視してのけた。が、ユリアンも今回の魔女の喜びように気をよくしていたので、特に異議は申し立てなかった。
「さて、それじゃ花瓶に活けてあげましょう。枯れることがないとはいえ、お水をあげたほうがお花も喜ぶわ」
ユリアンにとって世界の中心は丘陵と森の狭間にある古ぼけた小屋であり、その主である魔女であった。
孤独を感じたことはあまりない。いつだって魔女がそばにいるし、牧羊犬のカルロや二人がそれぞれ世話している二頭の馬も立派な家族だ。
近隣の村の人間と会うこともあった。広大な丘陵を放牧に利用しているのは魔女だけではない。魔女が設けた境界の端までしばしば彼らの飼う羊は草を食みにやって来たし、たまに羊飼いたちと世間話やちょっとした物々交換を行うこともある。友達のジーノやその父親ともそうやって知り合ったのだ。
村よりももっと遠い場所にある、市場が立つ町へ魔女に連れられて行ったこともあった。そこでは少年がこれまで見たこともないような大勢の人たちが行き交い、見たこともないような様々な物品がやり取りされていた。
ところが少年を驚嘆させたその光景でさえ、本物の都市と比べると片田舎のちょっとした賑わいに過ぎないのだと魔女は説明した。なるほど世界は途方もなく広く、そこには少年には想像もつかないほど様々な国があり、大勢の人が暮らしているのだ。
だが、好奇心をくすぐられる世界の真実の一端に触れた後も、馬の背に揺られて街道を抜け、途中から南に下って広々とした草地を通り、最後 に越えた丘のてっぺんからなだらかな斜面の終着点、黒々とした森が始まる手前にぽつんと建っている古ぼけた小屋が視界に入ってくると、少年はまだ見ぬ世界のことなど忘れ、すべてが満たされた気分になるのだった。
このように少年は魔女との生活に満足しており、一点の不満も不安も抱いてはいなかった。
今はまだ魔女に守られる子どもだが、いずれ大人に成長すれば逆に自分が魔女を守ることができるようになるに違いない。そして、いつまでも二人で穏やかな満ち足りた暮らしを続けるのだ。
いっそ無邪気なほどに、少年はそれを信じて疑わなかった。
◇
客人が現れたのは、ユリアンが十五歳の誕生日を迎える少し前のことだった。といっても彼は捨て子なので誕生日が本当に正確なものなのかを知らない。ただ魔女がそうだと言うのを信じているだけだ。
訪問をいち早く察知したのは魔女だった。朝食を食べている最中、いきなり遠くを見るような眼差しになると、かすかに眉をひそめてユリアンに言ったのだ。
「ユリアン、早く食べてしまいなさい。食べ終わったら家畜小屋の掃除をしてちょうだい。お皿を片付けていくのを忘れないでね」
「掃除ってぼく一人で?」
不服そうなユリアンに向かって、魔女はそっけなく答えた。
「そうよ。掃除するのは家畜たちを外の囲いに集めてからお願いね」
少年はまだ納得していなかったが、一度魔女がこうと決めたらそれを覆すのは不可能に近いと知っていたので、ぐっと不平を飲み込んだ。せめてもの抗議としてミルク粥をことさらゆっくり口に運んでいるユリアンの、年頃の少年らしい反抗的な態度を横目で見やり、魔女は小さくため息をついた。
「もうすぐ客人が来るのよ。だから早く食事を終わらせてほしいの」
「客人? そんな予定があったの?」
「予定はなかったわ。でも、すでに相手は丘陵の柵を越えてこちらに向かっている」
「何でそんなことが――」
分かるのか、と言いかけてユリアンはハッと口を噤んだ。魔法を使っていることに気づいたのだ。
「どんなお客?」
「さあ。でも相手は魔法使いのようね」
その言葉を聞いてユリアンが驚く。これまでに魔女以外の魔法使いには会ったことがないし、その存在を聞いたこともなかったからだ。
「どうせ目的はわたしでしょうし、魔法使い同士のやり取りをあなたが知る必要はないわ。だから席を外していてほしいの」
「でも危ない奴だったら」
危惧するユリアンの言葉に、魔女は意表を突かれたように目を丸くした後、こらえきれないといった風に肩を揺らして笑い出した。
魔女のためを思って言っているのに笑われたユリアンは気を悪くして唇を尖らせる。
「そんなにおかしなことを言った覚えはないけどね」
しょせんユリアンは魔法も使えないただの子どもに過ぎず、今はまだ頼りないかもしれないが、それでも魔女を守るのが自らの役目だと考えている彼にしてみれば、自分をのけ者にしようとする彼女の態度が気に入らない。
しかし、ようやく笑いをおさめた魔女は自分の意思を変えようとはしなかった。
「気持ちだけ受け取っておくわ、わたしのユリアン。さ、早くお食べなさい」
これで議論は終わりだと態度で示す魔女をユリアンは睨みつけたが、それ以上言い返そうとせず朝食を一気に口中に掻き込み、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
荒っぽく足音を立てて外へ出ていくユリアンの背中へ魔女は視線も向けなかったが、彼が間違いなく家畜小屋の方向へ向かったことを魔法で確認すると、また小さくため息を吐き出した。
魔女の指示通りに家畜たちを外の囲いへ誘導していたユリアンは、馬に乗って丘陵の斜面を降りてくる人影に気づいた。その人物は家の近くまで来ると馬を降り、作業の手を止めたユリアンに軽く会釈して呼びかけた。
「ごきげんよう、お若い方。そこの木にわしの馬を繋いでも構わんかね?」
客人は年老いた男性だった。雪のように真っ白な髪とあごひげ。顔はジーノが暮らす村の長老と同じくらいしわくちゃだが、背筋は若者のようにまっすぐだ。
よれよれの灰色のローブと痛んだ革のブーツ。手にはその辺りで適当に拾った枝のようにも見える木製の杖が握られている。
「ええ、こんにちは。馬はご自由にどうぞ。魔女に御用ですか」
「いかにも。御在宅かね?」
「中にいますよ。ドアをノックする前にブーツの泥を落としておくことをお勧めします。彼女はそういうことにすごくうるさいので」
ユリアンの言葉を聞いた客人は楽しげに笑って言った。
「女性とはそんなものだよ、お若い方。しかしご忠告には従うとしようか」
肩を竦めたユリアンは客人に軽く頭を下げると、家畜小屋の掃除に戻った。
客人は少しの間彼の姿を目で追うと、悲しげな顔でかぶりを振ると玄関に向かって歩き出した。
家に招き入れられた客人は、魔女に対して恭しく頭を下げた。
「お初にお目にかかります、レディ・フランチェスカ」
腕を組んで相手に非友好的な目を向けていた魔女は、彼が口にした名を聞いて片眉を吊り上げた。
「自己紹介したつもりはないのだけどね。どこでその名を聞いたのかしら」
「あなた様のことは我が師から聞いております。わたしはバレーヌの魔法使いオーギュスタン。我が師サロモンを憶えておいででしょうか」
オーギュスタンの言葉に魔女はやや驚いたようだった。
「バレーヌのサロモンがあなたの師ですって? もちろんよく憶えているわ。わたしは一時期バレーヌの近くに居を構えていたことがあるの」
「存じております」
小さくため息を吐いた魔女は、組んでいた腕をほどいてオーギュスタンに着席を促した。
「お茶で構わなくて?」
「ええ。恐れ入ります。レディ・フランチェスカ」
「わたしを呼ぶならただ『レディ』と」
「承知しました、レディ」
茶を淹れてオーギュスタンとともにテーブルに着いた魔女は、懐かしげな眼差しで彼に訊ねた。
「サロモンは息災かしら」
「何十年も前に亡くなりましたよ」
一瞬悲しげな表情を浮かべた魔女はオーギュスタンに詫びた。
「ごめんなさい。つい忘れてしまうのよ。普通の人間ならそれが当然ね」
「いかに魔法使いといえど、そこまで長生きできる者はおらんでしょうな。むろんあなたを除いては、ですが」
オーギュスタンの指摘を受けた魔女の眼差しが凍り付いたように硬くなる。
「……サロモンは可愛い男の子だったわ。口が達者で性格は軽い子だったけど、素晴らしい才能の持ち主でね。サロモンの師匠グウェナエルは弟子をとても誇りにしていた。……もう百年くらい前の話かしらね」
「不死の魔女フランチェスカ。あなたのお姿は師が憧憬と共に語られた当時と寸分違わぬものです。百年前から一日たりとも年老いておられない。こうしてお目にかかるまでは我が師の言葉はすべて本当だとは信じてはおりませんでした」
畏怖のこもった声でオーギュスタンが呟く。だが、それを聞き咎めた魔女はぎろりと相手を睨みつけ、硬い声で告げた。
「その呼び方はやめてちょうだい。それにさっきも言ったはずよ。フランチェスカという名も口にしないで」
「これは失礼」
「そろそろ本題に入りましょうか、オーギュスタン。わざわざバレーヌからこんな遠くまで何をしに来たの」
オーギュスタンが居住まいを正す。
「サマンサという名の占星術師から指示を受けたのです。レディを探し出し、伝言を伝えるようにと」
「知らない名ね。サロモンの弟子がたかが占星術師の指示に従ったというの?」
疑わしそうに魔女が顔をしかめる。
「わたし自身不可解ではあるのですが、なぜか逆らおうという気がまるで起きなかったのですよ。気が付いたらわたしはいそいそと旅支度を整え、老骨に鞭打ってまで故郷の土地を離れておりました」
「ふぅん。どうやらそのサマンサとやらの腕は確かなようね」
「ほう。占星術にはお詳しいので?」
「さほど詳しくはないし、そもそもわたしは占星術をあまり信用してないの。でも、サマンサとやらの言葉にはあなたに行動を強制するだけの力がある。そのことだけを取っても、その占星術師が優れた能力の持ち主があることが分かるわ」
「『言葉には力がある』……師サロモンがよく言っていましたな」
魔女が肩を竦めた。
「そういえばサロモンにも教えた覚えがあるわね。あの子の言葉は軽すぎるきらいがあったから、慎重に扱うようにと。それで、サマンサとやらの伝言を聞きましょうか」
「わたしが受け取った伝言はこうです。『有翼の蛇に気をつけよ。蛇の牙に身をさらすことを恐れてはならぬ。其はそなたからすべてを奪い、また与えるであろう』」
面白くなさそうに魔女は眉をひそめる。
「典型的な占星術師のたわ言ね。だけど気に入らないわ。有翼の蛇というのは竜のことでしょう。でも今時、知恵ある竜に巡り合うのは至難の業よ。何せほとんど死に絶えてしまったもの。亜竜ならばこの辺りにもまだ多少は生き残っているかもしれないけれど、連中にしたってめったなことでは人里に降りてはこないわ」
「しかし占星術師は気をつけよと告げました。ということは理屈はどうあれ現れるのでしょうな」
「……気に入らないわね。本当に竜が出てきたら手に負えないわ。話が通じる竜にはいまだかつてお目にかかったことがないのよ。その点ではまだしも亜竜のほうがましだけれど」
「亜竜といえども人間にとって恐るべき相手には違いありません。あるいはあなたは違うのかもしれませんが。……伝言はこれだけです。正直に申し上げて、信用のおける占いとは思えないのですが。ともあれわたしの役目はこれで果たしましたな」
「そのようね、オーギュスタン。占星術師の伝言はおくとしても、懐かしいサロモンの弟子に会えてよかったわ。大したもてなしもできないけれど」
「わたしもレディにお会いできて光栄です。師サロモンはあなたを崇拝しておりましたでな。古き魔女の最後の生き残りにしてベンダンディの森の魔女、フランチェスカ・バッランティーニ」
「おしゃべりサロモンはあらゆることをあなたに吹き込んだようね。困った子だこと」
呆れたような魔女の口ぶりに、オーギュスタンは微笑んでみせた。
「呪いのことも聞き及んでおります」
「でしょうね」
そっけなく返す魔女へオーギュスタンは鋭い視線を送った。
「やはり解けませぬか。表で作業をしていた少年。彼は何人目のユリアンなのです?」
「……」
魔女は答えない。オーギュスタンは構わず言葉を続けた。
「四百年前あなたとユリアン殿にかけられた大司教ニコラウスの呪い。師サロモンも色々調べていたようですが、結局大したことは分からなかったようです」
びくりと肩を揺らした魔女が、オーギュスタンを凍えるような視線で射抜いた。
「つくづく事情に詳しいようね、坊や。だけどあまりに調子に乗らないほうがいいわよ。教会の汚れた大司教に負けず劣らず、古き魔女も呪いには詳しいのだから」
「……これは申し訳ない。確かに不躾に過ぎましたな」
恐縮した様子でオーギュスタンは頭を下げた。
魔女が激情をこらえるように目を閉じる。そして大きく息を吐き出してかぶりを振ると、オーギュスタンに謝罪した。
「わたしも言葉が過ぎたわ。でもこの話はしたくないのよ。分かってちょうだい」
「……しかし、今のままではあまりにも」
オーギュスタンが痛ましげに顔を歪める。
だが、魔女は諦観の面持ちで客人に告げた。
「お引き取り願うわ、バレーヌの魔法使いオーギュスタン。これはわたしとユリアンだけの問題よ」
◇
今から四百年程前、北方の小王国に仕える一人の騎士がいた。
騎士の名はユリアン・エーベルハルト。傑出した騎士として知られていた彼は一人の若い魔女と出会った。
フランチェスカ・バッランティーニと名乗る、情熱的な南方民族の血を感じさせる豊かな黒髪と神秘的なすみれ色の瞳の持ち主に、たちまち騎士は虜になった。
そして、それは魔女のほうも同様であった。太陽の宝冠の如く輝く金の巻き毛に鍛え上げられた体躯。竜をも打ち倒す豪傑として知られる一方、三十路を迎えても人懐っこい笑顔は少年のようだった。
片や貴族階級の騎士、片や遍歴の魔女。身分どころか住む世界そのものが違う二人ではあったが、道ならぬ恋であるがゆえに、いっそう彼らの想いは激しく燃え上がった。
しかし、それを快く思わない者も決して少なくはなかった。二人の仲を引き裂こうと画策した者たちは、王都を含む教会管区の長である大司教に訴え出たのだった。
大司教ニコラウス・ギーレン。事情を問いただすためにユリアンとフランチェスカを召喚したニコラウスはしかし、本来の目的から外れ、神に仕える身に非ざる邪な感情を美しい魔女に対して抱いてしまった。
ニコラウスの歪んだ想いは日を追うごとに増長し、やがてどんなに手を尽くしてもユリアンとフランチェスカの仲を引き裂くことができず、ひいては自分の一方的な想いが受け入れられることもないと分かると、まさに光溢れる天上から闇に閉ざされた地の底へ転がり落ちるようにして、躊躇なく道を踏み外した。
自身の汚れた魂を悪魔に食わせるのと引き換えに、二人に永遠の苦しみを与えるべく呪いをかけたのだ。
フランチェスカには永劫途切れることのない寿命を。そして大司教と刺し違えて絶命したユリアンに対しては、果てしなく転生し続ける魂の束縛を。
呪いによって繋ぎ止められた二つの魂は永遠の時間の中で常に引き合い、必ず彼らに邂逅をもたらす。
ある時は戦災で両親を失った孤児として、またある時は捨てられた赤子として。どこにいようと、どんな境遇だろうと、ユリアンの魂を宿した子どもは必ずフランチェスカの前に姿を現した。その存在を前にしたフランチェスカが手を差し伸べずにはいられないと分かっているかのように。
過去の一切の記憶を失ったユリアンとの暮らしは、フランチェスカに深い悲しみと安らぎとを同時に与えた。たとえそばにいるのが炎のような恋に身を焦がした伴侶ではなく無垢な子どもだとしても、それでも彼女はユリアンに深い愛情を注ぎ込んだ。
しかし呪いは、邂逅し一時の安らぎに身をやつす二人に対して残酷な別れをも用意していた。転生したユリアンは十六歳の誕生日の直前に、必ずフランチェスカの目の前で命を落とすのだ。これまでに例外は一度もない。
悲しくも心安らかな生活を与えられた分、ユリアンの定められた死はいっそう深くフランチェスカの心を引き裂いた。
どうにか彼の死を回避しようとこれまでにフランチェスカはあらゆる方法を試してきたが、すべて無駄だった。古き魔女の知識を持ってしても呪いから逃れることはできなかった。
再び一人取り残され絶望の淵に落とされながら、それでも尽きることのない寿命を身に宿すフランチェスカは、やがて次のユリアンとどこかで出会うことになる。そしてフランチェスカは耐え難い絶望と苦痛の繰り返しが待ち受けていると承知したうえで、愛する彼に手を差し伸べる。
彼女にはそうするほかない。選択の余地などないのだ。
呪いはユリアンに無垢な子どもとしての時間しか許さない。彼は愛する女性を何も知らず母として慕い、彼女の腕の中で息を引き取る。彼が一切の記憶を失ってこの世に再び姿を現すのは数年、あるいは数十年後。自分を庇護する魔女が愛する女性であるとユリアンが思い出す日は永遠に訪れない。
呪いはフランチェスカを過去に縫い止め、未来を奪った。激しい恋に生きていた若い魔女だった頃のまま時間を止められたフランチェスカは、愛する伴侶にもう二度と自らの想いが届かないことを永遠の連鎖の中で幾度となく思い知らされる。
彼女が育て、失った何人もの子どもとしてのユリアン。彼らの幼い手を取り無垢な瞳を覗き込みながら、わたしはあなたの恋人なのだと何度告げようと考えたことだろう。
母ではない、魔女でもない、わたしはあなたの『フランチェスカ』なのだと。
だが、無駄なのだ。呪いに囚われたユリアンの魂に彼女の声は届かない。フランチェスカは深く絶望し、それでも果てしなく転生を繰り返す最愛の男性を見捨てることができず、永遠の命という牢獄に留まり続けている。
四世紀が過ぎても、呪いは途切れる気配もない。
西方より魔法使いの客人が訪れた日から数日後、十三人目のユリアンは十五歳の誕生日を迎えた。
◇
その日は春にしては冷たい風の吹く日だった。花冷えの曇天の下、二頭の馬と騎乗する二人の人物が丘陵の斜面を降ってまっすぐに魔女の家までやってきた。
次の作付けに備えるため朝から鍬を振るって畑を耕していたユリアンは、騎乗する人物のうち一人が見知った顔であることに気づき、手を振って大声で呼びかけた。
「ジーノ!」
「ユリアン!」
相手も負けず劣らずの声で叫び返すと、身軽に馬を飛び降りて友達の元まで一直線に駆け出し、飛びついてきた。
熱い抱擁の後しっかりと握手を交わした二人は嬉しそうに話し出した。
「久しぶりじゃないか、ユリアン。またずいぶん背が伸びたんじゃないか?」
「まあね。でも悔しいな。まだジーノのほうが少し高い」
「そりゃ年上だからな。しかしその調子ならお前もまだ伸びるさ」
「そう願ってるよ。ところでジーノ、今日はどうしたの。去年から王都で従士をやってるんだろ? 帰省って感じでもないけど……」
そう言ってユリアンはジーノの後方で今も馬に騎乗したままのもう一人の人物へ視線を送った。身なりからして明らかに騎士階級。つまりは貴族だ。
ジーノが従士をしているのは、そもそもは父親の伝手のおかげだ。ジーノの父親も若い頃王宮の騎士団に所属する騎士に仕える従士の一人だったのだが、とある戦争で膝に受けた矢傷が原因で従士を辞め、故郷に戻って羊飼いの仕事を継いだのだった。そして今ジーノが仕えている騎士の先代というのが、ジーノの父親が仕えていた主なのだ。
元々ジーノは体格もよかったし、要領も悪くない。慣れない王都暮らしもそこそこうまくやっているとユリアンは伝え聞いていた。
「ああ、それなんだが。魔女は家にいるか?」
ユリアンの問いかけに対し、ジーノはどこか言葉を濁すようにする。
それをいぶかしく思いつつ、ユリアンは素直に頷いた。
「会いたいなら案内するよ。といっても魔女はもうジーノたちに気づいてるはずだけど」
「おいおい、また魔法か?」
ジーノは相変わらず魔法を信じていない。だが、彼の口ぶりには昔のような勢いがなかった。
「信じないのはきみの勝手さ。それで、お連れも一緒に?」
「ああ。実を言うとおれはただの道案内なんでな。話はおれの主であるジャコモ様がする」
「分かった。ついておいでよ」
ユリアンがジーノたちを家の中へ連れて入った時、すでに魔女は腕組みに仁王立ちで彼らを待ち構えていた。しかもその表情は荒れ狂う嵐のように険しい。
不可解な魔女の態度に怯みつつ、ユリアンは彼女にジーノの主を紹介した。暗い栗色の髪に瞳。何より特徴的なのは飛び抜けたその鷲鼻で、そのせいで彼の印象には人というより猛禽のような猛々しさがあった。
魔女はジャコモという若い鷲鼻の騎士と相対しても険しい表情を崩そうとはしなかった。
「そなたがこの地に住む魔女か。聞いた話と違ってまだほんの娘ではないか」
さすがは貴族というべきか、ジャコモは内心の動揺を上手く覆い隠し、平静を装っていた。だが、そのいかにも貴族らしい尊大な口ぶりは魔女の癇に障ったらしく、ますます険しくなる彼女の表情を見たユリアンは、鷲鼻の騎士が今にもヒキガエルに変えられてしまうんじゃないかとハラハラしていた。
「礼儀を知らないようね、坊や」
明らかに自分より若い外見の魔女から坊や呼ばわりされ、ジャコモが不快げに眉をひそめた。
「そなたの態度も王の使者を出迎えるにふさわしいものではないようだが?」
「礼儀知らずはお互いさまというわけね。けっこう。ではこのままお引き取りいただこうかしら」
「そういうわけには行かない。わたしには王より託された使命がある」
どちらも一歩も引く様子がない。ユリアンとジーノは気まずそうに部屋の隅から様子を見守っていた。
「わたしには関係ないわ」
「いいや、あるのだ。王はそなたに契約の履行を求めている。すなわち王国の守護者として」
意味が分からないユリアンとジーノが困惑して魔女を見つめる。魔女は数拍置いて小さくため息を吐き出した。
「また古い話を持ち出してきたわね。だけどあいにく、その契約なら二百年も前に無効になっているわ。さっきも言った通り、わたしには関係ない」
二百年前という言葉にユリアンたちはますます混乱する。
が、ジャコモと魔女は構わずやり取りを続けた。
「王家の記録では契約は生きたままだ。遠い先祖が交わした契約だからといって、子孫のそなたが無視できるというものではない」
「先祖、ね」
ジャコモは魔女が何百年も生きてきた不老不死の存在であることを知らない。数百年前に王家と契約を交わした人物が、今目の前にいる魔女本人であるとは思いも寄らないだろう。
むろん魔女もジャコモの勘違いを正したりはしなかったが、先祖という言葉をどこか皮肉げに口にした。
「守護者の地位を引き継いだそなたには、王国の危機に際して役目を果たす義務がある。その義務と引き換えに、パルヴィス丘陵とタッツィオの森を含む広大な領地を与えられているのだから」
「領地のほとんどはとうの昔に手放しているわ。今わたしの手元にあるのはこの家と周辺のささやかな土地だけ。王が主張する義務の対価になどならないわ」
「いかに理屈をこねようと事実は変わらん。そなたは我々と共に王都に赴き、義務を果たすのだ」
堂々巡りのやり取りを繰り広げながら魔女とジャコモが睨み合う。
そこへ我慢できなくなったユリアンが割って入った。
「待ってください。あなたのおっしゃる義務というのはそこまでして果たさなければならないものなんですか? そもそも王国の危機っていうのは?」
「あなたは黙っていなさい、ユリアン」
魔女が鋭くユリアンを注意したが、ジャコモのほうは少年の横やりに乗る形ですかさず言った。
「うむ、よくぞ聞いてくれた、少年よ。実は現在王都は竜による襲撃を受けているのだ」
「まさか!」
ユリアンが喘ぐように驚きを露わにした。
一方、魔女は紙のように白くなった顔を強張らせている。
「そのまさかというわけだ。勇猛なる騎士団の奮戦でどうにか街への被害は抑えているが、それと引き換えに城には無視できない被害が出てしまっている」
「陛下はご無事なのですか?」
「幸い今はまだ。だが竜との戦いが長引けば最悪の事態も考えられる。現代の我々にとっては竜など伝説の中に住む生物だ。竜殺しの技はすでに失われて久しく、戦い方の分からぬ我々はいたずらに血を流している。そこで王は窮余の策として古い契約の守護者を頼ることにしたのだ。上代の知恵と魔法を今に伝えるこの地の魔女をな」
ジャコモが使者に選ばれたのは、従士であるジーノがこの近隣の村出身で魔女を直接見知っていたからだ。今この瞬間も竜と戦い傷ついている仲間たちと王家のためにも、ジャコモはどうあっても王都へ魔女を連れて行かねばならないという使命感に突き動かされている。
騎士の言葉を聞いたユリアンはジーノへ視線を向けた。幼い頃からの友達は今では騎士の従士の身。つまりこの場で魔女が説得に応じようが応じまいが、ジャコモが竜との戦いに参加するなら、ジーノもまたそれに従うということだ。
「魔女……」
懇願するようなユリアンの視線を努めて無視し、魔女は白い顔のまま言った。
「さっきも言った通りよ。王家が滅ぼうが何人騎士が竜に食い殺されようが、わたしには関係ないわ」
絶句するユリアンの様子を感じ取りながら、魔女は深い諦めと共に言葉を続けた。
「だけど、そこにいるジーノはユリアンの大切な友達なの。ぼんくらな主のせいで従士のジーノまで竜に殺されたりして、ユリアンを悲しませるわけには行かないわ」
「おお、では」
「王都へ行くわ。ただし、竜相手にどこまで役に立てるかは保証しないわよ」
魔女は警告したが、鷲鼻の騎士は彼女の承諾の言葉以外には関心を払おうとはしなかった。魔女を連れて行くというのはあくまでも王の命令であって、当人はさほど彼女を当てにしていないのかもしれない。
話がまとまり、魔女は支度を整える間ジャコモとジーノ主従を家から追い出した。
支度といっても、持っていくものなどほとんどない。王都までの馬で数日の旅路に必要なものを無言で用意する魔女の様子を眺めていたユリアンが、恐る恐る口を開いた。
「ごめんなさい」
「……なぜあなたが謝る必要があるの?」
静かな問いかけにユリアンは力なくうなだれた。
「だって、ぼくの友達のために魔女は騎士団ですら敵わないような化け物相手に危険を冒す羽目になったんじゃないか」
「そうね」
「だから、ごめん」
「気にしないで。わたしもジーノが死んだりしたら悲しいわ」
うなだれたユリアンの首筋に手を添え、魔女は彼の額にそっとキスをした。
「いいのよ、ユリアン。本当はこういうことが起きるのは前から分かっていたの」
驚いたユリアンが顔を上げた。
「魔法で?」
肩を竦めて魔女ははぐらかす。
「そんなところね。だからあなたもジーノも気に病むことはないのよ」
魔女の慰めを聞いてもユリアンの心は晴れない。ジャコモの話により図らずも魔女に多くの秘密があることを知ったユリアンは、急に彼女が遠い存在になってしまったかのような不安を覚えていた。考えてみれば、ユリアンは自らの養い親の過去についてほとんど何も知らないのだ。
「ねえ、ぼくも一緒に――」
「駄目よ」
不安を抑えきれず、ユリアンは魔女に同行を申し出ようとした。
が、彼女は断固とした口調で彼の申し出を退けた。
「どうして! ぼくはもう子どもじゃないよ。魔女がぼくを守ってくれるように、ぼくだって魔女を守りたいんだ」
魔女は喜びと悲しみの入り混じった表情で長々とユリアンを見つめると、彼の頬に手を添えた。
「愛しいユリアン。あなたはわたしが戻ってくるまでこの家で待つのよ。いいわね?」
「でも……」
「約束よ。絶対について来ては駄目」
「……分かったよ」
悔しそうな表情を浮かべたユリアンは魔女から目を逸らすと部屋から出て行った。
彼の後姿を見送った魔女は、窓際に置かれた花瓶へ視線を送った。そこにはまだユリアンが幼い頃に贈ってくれた花束が今も瑞々しく咲き誇っている。鮮やかな花びらに軽く手を触れ、魔女は顔を歪めて唇を噛んだ。
ユリアンはもうじき十六歳の誕生日を迎える。ということはつまり、彼の身に残酷な運命が迫っているということだ。
今回の一件がその時なのかどうかはまだ分からない。
しかしいずれにせよ、呪いは彼を決して逃さないだろう。これまでもそうだったように。
支度を整えた魔女は厩から自身の馬を連れ出し、首筋を撫でながら優しく語りかけた。
「よしよし、グレカーレ。いい子ね」
黒鹿毛の馬は低く嘶くと魔女の肩口に顔を寄せた。
「用意はいいか、魔女殿」
すでに騎乗したジャコモが馬上から声をかけてくる。
「ええ。行きましょう」
慣れた動作でグレカーレに乗った魔女は、見送りのために出てきたユリアンを振り返り、口を開きかけて躊躇い、代わりに淡く微笑みかけた。
「気を付けて……」
ユリアンがまだ不安そうに魔女を見上げた。
「大丈夫よ。一週間ほどで戻るわ」
やり取りを見守っていたジーノがユリアンに近づいて請け合った。
「魔女に危険が及ばないようおれが目を配っているよ。だからそんな顔するな、ユリアン」
「うん。頼むよ、ジーノ。きみも無理をしないで」
「ああ。任せとけ」
三人を乗せた馬が丘陵の斜面を登っていく様子を、ユリアンは一人いつまでも見守っていた。
◇
魔女たちは出発して三日目の朝に王都テスカーリの門を潜った。
竜の襲撃という事件のせいで街は不気味なほど静まり返っている。
「住民は避難させてあるのね?」
人気のない大通りを進みながら、魔女がジャコモへ質問した。
「うむ。城の兵士たちの護衛で近くのジェンティーレ砦にな」
「でも一見するところ、街への被害は見受けられないわね。それどころか物音ひとつしない」
馬上から周囲を見渡す魔女の目には、整然とした王都の街並みが広がっている。竜の破壊がどれほどすさまじいか身をもって知っている彼女にしてみれば、街の様子は奇異に感じられた。
「どうも竜は夜になるとどこかのねぐらで身を休めるみたいなんだ。で、昼頃になるとまたやってきて、なぜか城だけを攻撃してくるんだよ」
横合いからジーノが口を挟んだ。
魔女が訝しげに目を細める。
「すると竜はまだ動き出してないのかしら。でもなぜ城だけを?」
ジーノは分からないという風に肩を竦めた。
しかし、ジャコモにとっては竜の目的などどうでもいいようだった。問題は自らが仕える王家が危険にさらされているという一点なのだ。
「忌々しい竜めが。我が王家に仇なそうとは」
城がすぐ間近に迫って怒りと焦燥に突き動かされたのか、猛々しい鷲鼻にしわを寄せたジャコモは急に馬を駆けさせて続く二人に呼び掛けた。
「急ぐぞ。こうしている間にもまた竜めが襲ってくるかもしれん」
「お待ちください、ジャコモ様!」
驚いたジーノも自らの馬に拍車をかける。魔女はまだ考え込む表情を浮かべていたが、二人に取り残されまいと愛馬のグレカーレを走らせた。
城門がすぐ間近に迫ると、城全体に厳戒態勢が敷かれていることが見て取れた。
王城は壁面から突出した塔が等間隔に並ぶカーテンウォール式城郭を備えている。城壁の上部にクロスボウを手にした多数の兵士と騎士たちが配置されているのが、地上から近づいた魔女たちにも確認することができた。
ジャコモは迷うことなく城門の正面まで馬を進めると、そこを守る騎士の一人に馬上から挨拶した。
「ジェルマーニ卿」
「これはカッジャーノ卿。どうやら使命を果たされたようですな」
「うむ。後ろのご婦人が契約の守護者殿である。すぐにでも陛下にお目通りを願いたいのだが、陛下はまだ城内にいらっしゃるのであろうか」
「我々の忠告にもお耳をお貸しにならず、いまだ踏みとどまっておられるよ」
「陛下は勇敢であらせられる」
ジャコモが鷲鼻を振りかざして高らかに述べた。が、ジェルマーニ卿のほうはあいまいに肩を竦めただけだった。
「いずれにせよ、貴殿は陛下の命を最後まで果たされるがよい。今跳ね橋を下ろすからしばし待たれよ」
ジェルマーニ卿が仕掛けを動かすよう部下の兵たちに指示を飛ばす。彼に感謝を告げたジャコモ一行は下ろされた橋を渡って城内に入った。
ジーノの話通り、城内は街中とは異なって破壊の後がそこかしこに見受けられた。崩壊した塔や建物も多く、地面には焦げたような跡はそこかしこに残っている。そうした光景を眺めながら一行は城壁に囲まれた広々とした中庭を横切り、厩番へ馬を預けてから王の住まう天守塔へ入った。
天守塔で一行を出迎え案内役を申し出た侍従たちは、王との謁見前に一行の入浴と着替えを要求し、急ぐジャコモとひと悶着を起こした。が、結局は旅で汚れた身のままでは不敬に当たるとの警告を考慮したことと、魔女本人が身を清めることを望んだために侍従の方針に従うこととなった。
彼らはそれぞれ世話係をつけられて湯船の中で体の隅々まで綺麗にされ、髪も丹念に梳かされた。魔女の世話についた小間使いの娘たちはその素晴らしい黒髪に驚嘆し、彼女が上等な織物でできた純白のドレスを身に着けた時にはほとんど崇拝の表情を浮かべていた。
先に身なりを整えていたジャコモとジーノ主従と合流した魔女は、彼らの称賛を軽く受け流して、満足げな表情を浮かべた気取り屋の侍従の後について謁見の広間へ足を踏み入れた。
国王コジモ・ボッカチーニは小太りで栗色の口ひげを蓄えた、冴えない風体の中年男であった。薄くなり始めた頭頂に黄金の王冠を載せ、謁見の広間の最奥に置かれた玉座にいささか疲弊した様子で腰かけている。玉座があるのは広間の床より高くなった檀上だ。その足元まで近づいたジャコモたちは、その場で跪いて王に頭を下げた。
「陛下の騎士であるジャコモ・カッジャーノ、勅命を果たし帰還いたしました。これなる婦人が契約に記された王国の守護者、古き魔女の末裔にございます」
「大儀であった、カッジャーノ卿」
短く、しかし威厳ある声で王は答えた。
コジモ王は外見の印象を裏切る鋭い眼光で魔女を観察してから、低い声で彼女に語り掛けた。
「すでにカッジャーノからあらましは聞き及んでいよう。現在王国は竜の攻撃に晒されておる。これを退けるためにそなたの力を借り受けたい。見事竜を退けた暁には何なりと報奨を取らせよう」
顔を上げた魔女は王の眼差しを真正面から受け止めると、躊躇いなく立ち上がった。たしなめる声が周囲から向けられるがそれも無視し、彼女は堂々とした態度で王の言葉に答えた。
「報奨は必要ないわ。その代わり、今度の一件が片付いたらカビの生えた契約は破棄してもらう」
仮にも一国の王に対して対等な口を利く魔女に対し、謁見の間に集う取り巻きの貴族や騎士たちが色めき立つ。が、王は彼らを手ぶりで黙らせると、興味を引かれたように身を乗り出して言った。
「そもそも、そなたはこの契約がどういうものであるかを知っておるのか?」
何しろ契約が結ばれたのは三百年以上前。ボッカチーニ王家初代の時代にまで遡る。コジモ王にしても、城の学者が書庫の奥から古い石板とそれにまつわる伝承を記した羊皮紙の巻物を見つけ出してこなければ、王国を守護する魔女の存在など知ることはなかっただろう。
しかし、魔女はそっけなく肩を竦めて王の疑問に答えた。
「もちろんよく知っているわ。何しろわたし自身が初代ボッカチーニと結んだものですもの」
「何だと?」
魔女の言葉の意味を図りかねた王がぽかんとした表情を浮かべた。周囲に居並ぶ諸侯も同様だ。
そんな周囲の反応をうんざりしたように眺めてから、魔女は言葉を続けた。
「正確には初代国王になったエンツォに泣きつかれたのよ。彼が王になるのを手助けしてあげたのは成り行きだったのだけど、向こうは大層恩義を感じたらしくて、広大な領地と侯爵の地位まで寄こしてきたわ。その代わり、自分や子孫に何かあったらまた助けてほしい、と。領地にも爵位にも興味はなかったのだけど、当時わたしはある理由から教会から身を隠す場所と身分を必要としていた。その意味ではエンツォの申し出は好都合だったわ」
「ちょっと待ってくれ。その話が本当だとすると、そなたは三百年以上生きておることになるではないか」
「だからそう言っているのよ。さっきから何を聞いているの?」
ぴしゃりと叱りつけた魔女は、唖然とした表情を浮かべる王に向かって、これ見よがしなため息を吐き出してみせた。
「ともかくそういう経緯があって契約を結んだのは確かよ。ただし、二百年ほど前に第六代国王ベルトルドが、契約を盾に無理難題を吹っかけてきてね。そのせいでわたしはかけがえのないものを失う羽目になった。そこで領地も爵位も返上して契約を破棄したうえで金輪際王家にはかかわらないと申し渡したのだけど、ずるがしこいベルトルドには約束を守る気がさらさらなかったようね」
想像だにしない過去の話にコジモだけでなく謁見の間にいる全員が絶句していた。しかし魔女にとっては彼らのそんな反応も煩わしいだけだ。彼女はもう誰にも自分たちに係わってほしくないのだ。
呪いから逃れることができないなら、せめてユリアンが手元にいる間だけでも二人だけの世界でかりそめの平穏に浸っていたい。本来誇り高い魔女がこのようなことを考えること自体、四百年に及ぶ呪いが彼女の心を徹底的に打ちのめしている証拠といえるだろう。自分自身でもそれを承知したうえで、魔女は呪いが結びつけたユリアンとの絆にしがみつこうとしていた。
「こうしてここへ来た以上、竜の討伐には力を貸すわ。ただし、今度こそ過去の契約を破棄するのが条件よ。契約を記した石板とそれを伝える羊皮紙をこの場へ持ってきて。石板を破壊し、羊皮紙を焼き払ってもらうわ」
「……致し方あるまいな」
「陛下!」
コジモの言葉に臣下が異議の声を上げた。しかし、コジモは彼らをたしなめ問題の品を持ってくるよう命令を下した。
「石板が届くまでの間に城を襲う竜について聞かせてちょうだい」
「うむ。件の竜は一対の翼と脚を備え、体の大きさは馬の五倍に達する。先端が槍のように尖った尾は一振りで城壁を打ち砕き、無数の牙が生えた口からはすさまじい炎を吐くのだ。空を自在に飛び回りながら暴れ狂う様はまさに伝説に恐れられた竜そのものと言えよう」
畏怖と怒りに震えながらコジモが竜の外見を説明する。それを聞いた魔女は、納得したように頷いてみせた。
「あなたが言う通りの姿をしているなら、それはワイバーンね。亜竜の一種よ。そんなところではないかと思っていたわ」
「亜竜とは、他の竜とは違うのかね」
「どちらも竜属の一種ではあるけど、いわゆる竜は高い知性と強大な力を備えた生物よ。彼らとは心話によって意思疎通を図ることもできるけれど、価値観が違いすぎるせいで大抵はまともな交流ができず、係わった人間に災厄をもたらすわ。一方の亜竜は姿こそ竜に近いけれど、実態はただの動物に過ぎないの。さしたる知性もなく、ただ本能の赴くままに行動するだけの愚かな獣よ」
「なるほど。では我が城を襲っているのはその亜竜の一種であると」
「ワイバーンは愚かではあるけど、よほどのことがない限り決まった獲物を執拗に攻撃するようなことはしないわ。大方心当たりがあるんじゃないのかしら?」
魔女の言葉を聞いた貴族の一人が激高した声を上げる。
「貴様! 此度の一件が我らに非があるとでも言うつもりか!」
「何かワイバーンの気に障るようなことをしたんでしょう。そうね、もしかしてワイバーンの巣を荒らしたりしたのではないの? 連中は光り物に目がなくて、方々から集めた財宝を寝床に溜め込む習性があるの。ワイバーンが溜め込んだ財宝には、持ち主の臭いが染みついている。たとえどんなに離れていようと、ワイバーンはそれを嗅ぎつけることができるのよ。だから、賢明な人間ならワイバーンの財宝に手を出そうとなんてしないのだけど、欲深い一部の人間が巣から財宝を掠め取って、追ってきたワイバーンに復讐されることは昔から少なからず起きてきたことよ」
魔女の話を聞いたコジモ王は、思い当たる節があったようで疲れ切ったように玉座にもたれかかった。
「一月ほど前だったかな。北東の森に暮らす猟師から竜らしき生物の目撃情報が寄せられてな。わしはただちに数人の騎士を森へ向かわせた。彼らが竜を見つけることはできなかったのだが、代わりに巨大な動物の寝床らしき洞穴を見つけ、そこに溜め込まれていた財宝を城へ持ち帰ったのだ」
「予想した通りだわ。呆れたものね、コジモ。王ともあろう者が哀れな獣から宝物を横取りするなんて」
「しかし、その竜の宝とてどこかから奪われたものであろう」
ばつが悪そうにコジモが反論する。だが、魔女は取り合わなかった。
「問題は、財宝に対する竜の執着心の強さよ。これはワイバーンもほかの竜も同じこと。連中は奪われた宝を決して諦めないし、盗人を許すこともしない」
「では、城を守るにはワイバーンを殺すしかないというわけだな」
「そういうことね」
「何はともあれ任せたぞ。王国の未来は今やそなたの肩にかかっておるのだからな」
すっかり安堵したように語り掛けてくる王の態度に、魔女は片眉を吊り上げた。
「他人事のように言っているけど、もしかしてわたしが腕を一振りしたらワイバーンを消してしまえるとでも考えているんじゃないでしょうね」
「違うのか? そなたは魔女なのであろう?」
「当たり前でしょう。魔法は万能じゃないし、ワイバーンといえども一人で戦えるような存在じゃないわ」
「ということはつまり……」
「騎士団にも働いてもらわなくてはならないわ」
彼女の言葉を聞き、それまで跪いたまま控えていたジャコモが頭を下げたまま発言した。
「陛下! 我ら騎士団、陛下のためいつでも命を賭して戦う覚悟はできております」
「よかろう。では魔女殿には石板と羊皮紙を破壊し次第、竜を迎え撃ってもらいたい。騎士団は先に準備に取り掛かるのだ」
「はっ!」
鷲鼻の騎士が命令を受けてすぐさま謁見の間を出ていく。従士であるジーノも主の後を追ったが、その前に一瞬だけ魔女のほうへ複雑な視線を向けた。
◇
城壁に囲まれた広大な中庭には、大勢の騎士たちとありったけの武器と兵器が集められていた。剣や槍はもちろん、クロスボウからバリスタ、カタパルトに至るまで揃えられている。石などを投擲する攻城兵器であるカタパルトを眺めた魔女はさすがに呆れて近くにいた騎士に声をかけた。
「空を飛び回るワイバーンをカタパルトで狙い撃ちするのは無理だから、人員を配置する必要はないわ」
「承知した。バリスタはどうだろうか?」
バリスタとは台座がある据え置き型の大型弩砲のことだ。弓矢やクロスボウに比べて射出される威力が高く、また使用される矢そのものもずっと太く、ほとんど槍に等しい。
「バリスタは有効よ。牽制にも使えるし、当たり所が良ければ致命傷も与えられる。同じくクロスボウもできるだけ腕のいい射手に持たせるようにして」
ほかにも様々な指示を騎士たちに出し終えると、魔女は侍従に持ってこさせたものを中庭中央の地面にばらまいた。ワイバーンの巣から持ち去られた財宝の一部だ。
待つことしばし、太陽が中天へさしかかろうとする頃、北東の空から禍々しい咆哮が聞こえてきた。
「来たわね」
騎士たちが浮足立つ一方で、魔女は落ち着いた様子で空を見上げていた。
やがて皆の目にも空を羽ばたくワイバーンの姿が直接目視できるほどに近づいてくる。改めて見ると、その巨大さと禍々しさがよく分かった。魔女はただの動物と評したが、騎士たちの目には、まさに神話の怪物としか映らない。
「作戦通りに動けば大丈夫よ。まずはわたしがワイバーンの注意を引き付けて、動きを封じるわ。そうしたらあなたがたが一斉に攻撃、とどめを刺す。いいわね?」
騎士たちに語り掛ける魔女の視界の端で、革鎧に身を包み剣を携えたジーノが小走りに中庭を横切っていくのが見えた。彼が向かっているのは城門の方向。魔女は彼の行動に引っ掛かりを覚えたが、すぐに気にするのをやめた。主から何か命令を受けたのかもしれないし、どのみちジーノにはこの場を離れてもらったほうが魔女にとっては都合がいい。何より、敵はもう目前まで迫ってきており、ジーノの行動を詮索している暇もなかった。
ワイバーンが財宝の臭いに引き付けられて中庭上空までやってきた。針のように細長い瞳孔を持つワイバーンの視界には、地面に散らばる無数の宝石とその中央に立つ純白のドレスを着た一人の女性の姿が映し出されている。
ずらりと牙が並んだ口を大きく広げたワイバーンが怒りに満ちた咆哮を上げた。
「来るぞぉ!」
騎士の一人が警告の叫びを上げると同時に、頭部を低く落としたワイバーンが急降下して突っ込んできた。長い喉が膨らみ、その内側から高温の何かがせり上がってくるのが頑丈なうろこ越しにも確認できる。
広場に集まっていた騎士たちが一斉に散らばって逃げ出した。しかし、魔女は動かない。周囲に散らばった宝石に引き寄せられまっすぐに突っ込んでくるワイバーンをただ睨みつけている。
ワイバーンの喉の奥から、紅蓮の炎の塊が吐き出された。それは長い尾を引く炎の帯となり、魔女もろとも広場の中央部を包み込んだ。
一瞬の出来事に騎士たちや城壁塔の小窓から様子を見守る貴族たちが色を失う。
しかし炎が晴れると、そこには騎士たちが予期したような焼死体はどこにもなかった。魔女は火傷を負っていないどころか、着ているドレスにも焦げ跡一つ見られない。いつのまにか彼女の全身は淡い光に包まれており、それが彼女をワイバーンの炎から守ったのだ。
炎を吐き終えたワイバーンは身を翻して再び上空へ舞い上がっていた。
ワイバーンを目で追う魔女は、相手に向けてまっすぐに腕を伸ばして狙いをつける。何をするつもりなのか、と騎士たちが見守っていると、魔女の掌に激しく放電する光球が生じた。
「あれも魔法かっ?」
城壁近くまで後退していたジャコモが驚嘆の声を上げた。従士のジーノ同様に魔法など本心では信じていなかったジャコモだが、ワイバーンの炎をまともに食らって火傷一つ負わないところを見せつけられると、いやでも信じざるを得ない。
すさまじい閃光と共に魔女の手から放たれた電撃が、ワイバーンの横っ面にまともに命中した。空中でバランスを崩しつつ何とか持ち直した亜竜は、煙を上げる顔を苛立たしげに振って魔女を睨みつけた。
「さあ、来なさい」
激高し闇雲に突っ込んでくるワイバーンに向かって、魔女は続けざまに電撃を放った。分厚い皮膚とうろこに遮られてほとんどダメージは与えられていないが、魔女の目的はワイバーンを怒らせること。知恵ある竜には通用しない手だが、強大といえどただの獣に過ぎないワイバーンには充分に効果的だ。
怒り狂うワイバーンは炎を吐き出すことも忘れ、牙を剥き出して魔女に食らいつこうと突貫してきた。
一本一本が巨大なナイフのように鋭い牙がまさに魔女の体を引き裂こうとした寸前、彼女の体がその場からいきなり掻き消えた。
亜竜は地面になかば体を打ち付けながら通り過ぎ、再び上空へ舞い上がろうとした。
その背後に、消えた時と同じ唐突さで魔女が姿を現した。空間を飛び越えて離れた地点に移動する転移魔法だ。転移先の状態が完全に把握できないと命を落としかねない危険な魔法だが、魔女は驚くべき大胆さで戦闘での使用に踏み切った。
亜竜は背後の気配に気づかない。大きな翼と長い尾が災いして、後方が死角となっているのだ。そのうえ周囲にはワイバーンの臭いが染みついた宝石が散らばり、彼の嗅覚を誤魔化す役目を果たしている。
ワイバーンの背後に転移した魔女の手のひらから細かな粒が無数にばら撒かれる。彼女が荷物の中に忍ばせて持ってきたイバラの種子だ。自らの魔力が込められたそれらに魔女は意思の力を注ぎ込んだ。
その瞬間、爆発的に生長したイバラの蔓がワイバーンの体に巻き付き、地面に引き倒した。鋭い棘が無数に生えた巨大蔓はさしものワイバーンも振り払うのが容易ではないようだった。鋼鉄を束ねたように頑丈なうえ、蔓の一本一本が意思を持つかのように自らうごめいて亜竜の体を絡め取るからだ。
亜竜の拘束に全力を注ぐ魔女を見て、ついに騎士たちが鬨の声を上げた。
「王のために! 皆かかれぇ!」
鋼鉄の鎧より頑丈なワイバーンのうろこといえども、バリスタやクロスボウの矢を完全に防ぐことはできない。加えて剣や槍を振り回す騎士たちが絶えず纏わりつき、ワイバーンの気を逸らして拘束を振りほどこうとする動きを封じる。それでも亜竜の牙や鉤爪に引っ掛けられ、あるいはたくましい尾で叩きつけられ、騎士たちは一人また一人と傷ついていった。
ワイバーンの動きを封じる魔女の額にも今や脂汗が浮かんでいた。想像以上に相手の力が強大だったのだ。過去に彼女が遭遇し戦ったワイバーンと比べてみてもその力は遜色ない。通常年を経るほどに竜は力を増すものだが、このワイバーンも魔女に負けず劣らず長い時を生きてきたようだった。
どちらも古い時代の生き残り同士、魔女のくちびるに苦々しい笑みが浮かぶ。
「まったく、お互い厄介ごとに巻き込まれたものね」
その呟きに応えたわけではないだろうが、力を振り絞ったワイバーンが首をもたげると、心胆を寒からしめる咆哮と共にイバラの蔓を引き千切った。
蹴散らされた騎士たちが悲鳴を上げる。魔女も魔法を破られた衝撃で弾かれたようにその場に倒れ込んだ。
「魔女殿!」
倒れた魔女に向かって呼びかけたのはジャコモだった。彼もまたワイバーンが拘束を振りほどいた余波を食らって弾き飛ばされ、甲冑の下に傷を負ったようだったが、痛みをおして立ち上がろうとしていた。
土に汚れた顔を持ち上げ、魔女が体を起こそうとする。呼びかけが聞こえたような気もするが、魔法を破られた衝撃で脳震盪に近い症状を起こしており、朦朧と視線をさまよわせた。
自由を取り戻したワイバーンは再び空に舞い上がって、いまだ地面に倒れた宿敵をねめつけた。怒りに曇った乏しい知性を持ってしてさえ、今が敵を倒す絶好の機会であることは判断することができた。
天を仰いだワイバーンは鋭く咆哮すると、頭を下げ翼を折りたたんで矢のような急降下を始めた。
絶体絶命の危機を察知したジャコモをはじめとする騎士たちが魔女を守ろうと動き出す。しかし、間に合わない。ダメージから立ち直り切っていない魔女は、かすんだ思考の中で自らの死を受け入れようとしていた。
「魔女ーっ!」
口を真下にほとんど直立する格好で突貫してきたワイバーンの牙が今度こそ魔女に食らいつこうとした寸前、戦場に切迫した一つの叫び声が響いた。
それを聞いた瞬間、魔女の意識を覆っていたもやが一気に取り払われた。目を限界まで見開いた魔女は、すみれ色の瞳を城門のほうへ向けた。
彼女の目に映ったのは、ここにいるはずのない人物。彼女が誰よりも愛し、守ろうとしているユリアンだった。
なぜ彼がここにいるのか。
思考する暇もなく、彼女の体が再びその場から掻き消え、次の瞬間にはユリアンの目の前に倒れ込むようにして出現した。
慌てて魔女の体を抱きとめたユリアンに、彼女はほとんど目に涙を浮かべて訴えた。
「なぜ! どうして追ってきたの!?」
「ごめん、魔女。でもやっぱりぼくは魔女のそばにいたいんだ。どんなに危険でも、ううん、危険だからこそ」
ユリアンの傍らにはジーノが立っていた。どうやら城内にユリアンを招き入れたのは彼のようだ。戦闘が開始する前、城門へ向かって走っていったのがそうだったのだろう。
「おれからも謝る、魔女。でもユリアンの気持ちもどうか分かってやってほしい。こいつにはあんたがすべてなんだよ」
「知った風な口を利かないで! あんたに何が――」
ジーノに悪気があるわけではないと承知しつつ、今は彼の厚意が腹立たしい。魔女は怒りのこもった目でジーノを睨みつけて怒鳴りつけようとしたが、すぐに背後から迫る危険を察知して二人を突き飛ばしながら素早く振り返った。
なかば羽ばたき、なかば地面を蹴りながらワイバーンが闇雲に突っ込んでくる。先ほどの転移で攻撃が不発に終わった際、頭から地面にまともに衝突したらしく、ますます怒り心頭に発しているようだった。目を血走らせ泡立った唾液をまき散らすワイバーンの脳裏には、もはや魔女を食い殺すことしかないらしい。
「逃げて!」
ユリアンとジーノを背に庇った魔女が激しく両手を打ち合わせた。
高い音が打ち鳴らされると同時にすぐそばに植わっていた木立が身を震わせ、枝や幹をしならせて魔女の前方を守るように塞いだ。
勢いを弱めることなく木立の壁に激突したワイバーンは忌々しげに吠え、喉を膨らませて炎を吐き出して障害物を焼き払おうとした。本来ならばただの木など一瞬で炭と化すところだろうが、魔女に操られている今は段違いの耐久力を誇るらしく、炎に巻かれてじりじりと燻りはするものの、すぐさま焼き払われることはない。
その隙に魔女はユリアンとジーノを改めて振り返った。二人はあまりの光景に腰を抜かしたように尻もちをついている。彼らに駆け寄った魔女は両手をかざして二人に炎を防ぐ加護を与え、素早く立ち上がらせた。
「これで分かったでしょう。あなたたちがいても邪魔になるだけよ。早く城の外へ逃げなさい!」
炎では木立の壁を突破することができないと悟ったワイバーンは、枝や幹に盛んに牙や鉤爪を立ててこじ開けようとし始めた。
だが、魔女が時間を稼ぐ間に態勢を立て直した騎士たちが亜竜の背後から畳み掛けるように攻撃を加えた。
「魔女殿を援護しろ!」
号令と共に無数の矢が撃ち込まれ、さらに突撃した騎士たちの剣や斧がワイバーンの尾や脚の肉を削り取っていく。
さしものワイバーンも苦痛の悲鳴を上げ、こじ開けようとしていた木立の壁から離れて目標を騎士たちに切り替えた。怒り任せの炎に薙ぎ払われ、魔女の加護を受けた騎士たちも死なないまでも後退を余儀なくされる。
「くそ、何てしぶとい生き物なんだ!」
忌々しげに吐き捨てたジャコモの目に映ったのは、怒り狂って地面に爪を立てるワイバーンの背後、木立の壁をすり抜けて進み出た魔女の姿だった。
全身から立ち昇る魔力によって、美しい黒髪が激しく揺らめいていた。純白の光に包み込まれた魔女は、祈りを捧げるように胸元で手を合わせ、静かに呼びかけた。
「お願い、イバラよ。もう一度わたしのために力を貸して」
呼びかけた相手は、先ほどワイバーンに引き千切られた巨大なイバラの蔓。地面に散らばっていた蔓たちは、魔女の呼びかけに応えて蛇のようにうごめくと、千切れたところから新たな体を伸ばしながら再び亜竜に絡みつき、鋭い棘をうろこの隙間に潜り込ませた。
ワイバーンが苦しげにもがき、地面に転がってのたうち回った。
魔女の後を追って木立の壁を潜り抜けてきたユリアンとジーノは、目の前で繰り広げられる壮絶な光景を目にして絶句していた。
「逃げなさいと何度言ったら分かるの、あなたたちは」
振り向くこともなく魔女は二人を叱りつける。しかし、前に進み出てきたジーノが調子よく言い返した。
「でも、大丈夫そうじゃないか。今度こそ相手を拘束したし、後はジャコモ様たちが嫌ってほど矢をぶち込んでやれば――」
「いいえ、駄目だわ」
苦しげに顔を歪めた魔女が答える。すると、彼女の言葉通りイバラの蔓が見る見るうちに色あせて萎れていく。一人でにほどけた拘束をワイバーンは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに身を震わせて体に巻き付いたままの枯れた蔓を振り払った。
「これは……」
「……まずいよね」
ジーノとユリアンが顔を見合わせてから後退し始める。
ワイバーンはこれ見よがしに首を突き出してひと吠えすると、翼を広げて一気に上空へ舞い上がった。
「ユリアン、逃げるぞ」
友達の腕を引っ張りながらジーノが鋭く告げた。
一方のユリアンは足を踏み出すことを躊躇い、魔女へ視線を送る。
「でも、魔女を置いていくわけには行かないよ」
「馬鹿! 魔女の言う通り、これ以上おれたちがここにいたら邪魔になるだけだ。来い、ユリアン!」
ジーノが強引にユリアンを引っ張って離れていく。
それを見送った魔女は、蒼白な顔に安堵の表情を浮かべて淡く微笑んだ。
「いい子ね、二人とも。ちゃんと逃げ延びるのよ」
ワイバーンが上空へ飛んだ隙にジャコモが他の騎士たちを引き連れて魔女の元へ駆けつける。彼らはいずれも傷ついてはいたが、まだまだ瞳から闘志は失われていない。
「魔女殿」
「分かってるわ。もう一度だけ、どうにかしてわたしがワイバーンの動きを止めるわ。その隙にあなたたちがとどめを刺して。まだ使えるバリスタは?」
「先ほどまでの戦いでバリスタはすべて損傷している。だが、修理すれば四、五台は動くはずだ」
「けっこう。ではすぐに修理に取り掛かって。その間わたしが注意を引き付ける」
「了解だ。しかし大丈夫なのか。顔色が真っ青だぞ」
心配するジャコモに対して魔女は答えず、ただくちびるの端を吊り上げた。彼女の覚悟の程を見て取った鷲鼻の騎士もまた、無言で頷いてから騎士たちと手分けしてバリスタの修理に向かった。
好機を窺って上空を旋回していたワイバーンは、魔女と騎士たちが離れるのを待っていたかのようにまた急降下を始めた。だが、これまでの戦いで見せていたような闇雲な突撃ではない。知性に乏しいといわれるワイバーンであっても、戦いでさんざん傷つけられて慎重になっているようだ。
ワイバーンを迎え撃つべく手のひらに電撃を纏わせた魔女は、間合いを見計らって身構えた。だが魔女が電撃を放とうとする寸前、ワイバーンは力強い羽ばたきと尾の舵取りで急激な方向転換をした。
「!?」
不意を突かれて硬直した魔女の頭上を通り過ぎ、ワイバーンは中庭から外へ出ようとしていたユリアンとジーノ目掛けて突進していった。
鋭く息を吸い込んだ魔女はユリアンたちの背中に向かって絶叫した。
「ユリアン逃げてぇ!」
彼女の言葉によって背後に迫るワイバーンに気づいたユリアンたちは、思わぬ不意打ちに仰天して走る速度を上げた。だが、しょせん人間が走る速さなどたかが知れている。ワイバーンは余裕すら見せつけるように二人の背後まで追いつき、ずらりと牙の並んだ口を開けた。
全力疾走する二人を確実に捉えるため、ワイバーンが羽ばたきを一つ加えて体をぐんと前に押し出した。まき散らされる亜竜の臭い唾液が二人の頭上から降り注ぐ。
あんぐりと口を大きく広げたワイバーンの瞳が心なしか愉悦に染まる。彼をさんざん苦しめた人間の雌が身を挺して守ろうとしてた人間の子。魔女の子どもか、あるいはつがいの雄か。亜竜にとってはどちらでもよかった。こいつらを食い殺した後はあの白い雌の番だ。
鋭い牙がずらりと並んだ口が容赦なく閉じられた。鮮血が飛び散り、ワイバーンの口の中に芳醇な味と匂いが広がる。彼は満足げに獲物を咥えたまま首を振るったが、ふと目の前の地面に転がった二人の人間を視界に映して戸惑ったように動きを止めた。
ワイバーンが噛み砕いたと思い込んでいた二人の人間が、傷一つなく地面に転がっていたのだ。では、自分は一体何を咥えているのだろう?
得体の知れない状況に対し、ワイバーンは口の中の餌を吐き出すことで対応した。
地面に落ちた人間を見て、ワイバーンはそれが何者か理解した。自らが与えた傷で血塗れになっているのは、さんざん彼を苦しめてきた人間の雌だったのだ。
ワイバーンは満足げに天を仰ぎ、低い嘶きを響かせた。
◇
その時何が起きたのか、ユリアンにはすぐに理解できなかった。
ワイバーンの口が閉じられて噛みつかれると思った瞬間、だしぬけに突き飛ばされ難を逃れたのだ。訳も分からず地面を転がったユリアンが態勢を立て直そうと顔を上げると、動きを止めたワイバーンの閉じた口に、一人の女性が挟み込まれていた。何本もの鋭い牙に体を貫かれ、傷口から流れ出した血がワイバーンの顎を伝って地面に血だまりを作っている。
女性が誰なのか、ユリアンが見間違うはずなかった。彼女はユリアンにとって世界のすべてに等しい存在だったからだ。
瞬間、ユリアンの中で何かが壊れた。心の奥底にあった頑なで触れることのできない何かが、ほとんど暴発するようにして彼の心ごと弾け散った。
溢れ出る感情の赴くまま、ユリアンは一つの名前を叫んでいた。
「フランチェスカ!」
転移魔法によって間一髪のところで少年の命を救った魔女の血まみれの体に駆け寄り、両腕で抱きかかえる。
魔女のまぶたが震え、閉じられていた目が開かれる。彼女のすみれ色の瞳から透明な涙が湧き出し、血に汚れた頬を伝った。
「ユリアン……?」
「フランチェスカ、ああ何てことだ! 大丈夫、すぐに助けてやる」
ユリアンの目からもとめどなく涙が溢れている。
魔女はユリアンが自分の名を呼ぶ声を聞き、血の気を失った頬にかすかな微笑みを浮かべた。
「ああ、ユリアン。嬉しいわ。ようやく会えた。ようやく……」
魔女はこれまで一度もユリアンに自分の名を明かしてこなかった。今のユリアンだけでなく、呪いを受けてから出会ってきたすべてのユリアンに対してだ。
おまじないとも言えない、ささやかな仕掛け。
彼女の愛する男性は過去のすべての記憶を失っている。その呪いは魔女が長い時をかけても解く方法を見つけられなかったほど強固なものだ。
だが、もしもいつか奇跡が起こるとしたら。
奇跡が起きてユリアンが記憶を取り戻したとしたら、その時こそ彼は魔女の名前を呼んでくれるはず。
あの頃と同じように、愛する女性の名前を。
「長かったわ、ユリアン。とても、長かった。この時をどんなに待ち焦がれたことか……」
「もういい。しゃべるな、フランチェスカ」
純白のドレスを鮮血で真っ赤に染める魔女を見下ろし、ユリアン自身が彼女の痛みを引き受けたかのように表情を歪めた。
「ユリアン……もっとわたしを抱きしめて。わたしを離さないで」
「ああ、分かってる。フランチェスカ。ごめんよ。これまでずっときみは傷ついてきたんだな」
血と涙に濡れた魔女の頬をユリアンが何度も撫でた。心地よさそうに目を閉じた魔女は、何度かユリアンに呼び掛けられてからもう一度まぶたを持ち上げた。だが、たったそれだけの動作ですら今の彼女には大変な労力を要するようだった。
「ユリアン?」
「ここにいるよ、フランチェスカ」
「愛してるわ」
ため息のように吐き出された魔女の声は、ほとんど聞き取れないほどかすかだった。
「ああ、ぼくもだよ。フランチェスカ。ぼくも愛してる」
魔女の耳元でユリアンも応える。彼女の口元が幸せそうに微笑み、震える指先がユリアンの目元に一瞬だけ触れた。
「わたしのユリアン……」
すみれ色の瞳から光が失われていき、弛緩したように瞳孔が広がっていく。
力を振り絞って伸ばした手がだらりと下がり、最後に長く弱々しい息をくちびるの隙間から吐き出すと、そのまま魔女は事切れた。
限界まで目を見開いて魔女の死に顔を見つめ、ユリアンは引き裂かれるような慟哭を漏らした。自らの体が血で汚れるのも構わず、恋人の体をきつく抱きしめる。
かける言葉もなくジーノがその様子を見守っていた。彼もユリアンと同じく魔女に突き飛ばされて命を救われたのだ。
ワイバーンは憎い宿敵を倒した満足感からか、目の前のやり取りを大人しく観察していた。トカゲじみた瞳にはどこか悲嘆にくれるユリアンの姿を楽しんでいるような色彩がある。
やがて魔女の体を丁寧に地面に横たえたユリアンは、幼馴染の友達に向かって底冷えのするような声で呼びかけた。
「ジーノ。フランチェスカの体を安全な場所に運んでくれるか」
「あ、ああ」
自分がよく知るユリアンとは異なる口調にびくりと肩を揺らしつつ、すぐに駆け寄ったジーノは魔女の亡骸を抱きかかえた。
「お前、大丈夫なのか?」
ジーノの問いかけには答えず、ユリアンはまっすぐに立ち上がった。
「剣を貸してくれ」
両手の塞がったジーノの腰に手を伸ばし、ユリアンは鞘から剣を抜き取った。
「お前……」
「早く行け。ぼくなら大丈夫だ」
そう言ったきりジーノに背を向けたユリアンは、ワイバーンと一定の距離を保ったまま側面に回り込むように歩き出した。
ワイバーンも新たな敵を警戒して頭を低くし、喉の奥で低いうなり声を響かせる。
動きながらユリアンは魔女を抱きかかえたジーノが充分に離れるのを確認していた。そして、彼が外へと通じる城壁塔の一つに入ったのを見届けると、いきなり攻撃を開始した。
猛然と走り出したユリアンは途中で騎士が落としていたラウンドシールドを拾い上げて体の前面に構えた。そこへすかさずワイバーンの炎が襲い掛かる。熱気にあぶられつつも、魔女がかけた炎を防御する魔法と分厚いラウンドシールドのおかげでユリアンの脚は止まらない。火炎放射が途切れるのを待って半分溶けた盾を捨てたユリアンは、フェイントをかけて相手の体の脇を通り抜けると共に鉤爪の生えた脚に痛烈な斬撃を見舞った。
脚の肉をごっそりとえぐられてワイバーンが苦痛の悲鳴を上げた。急いで方向転換しようとするワイバーンだったが、大きな翼や長い尾が災いして地上では機敏な動きが取れない。その隙を突く形で背後に回り込んだユリアンは、一息で亜竜の背中に駆け上がるとうろこの隙間を突き通すようにして剣を突き立てた。
えぐり込むように剣を押さえるユリアンを振り落とそうとワイバーンがでたらめに暴れた。そのあまりの激しさにさしものユリアンも空中に放り出される。しかし、彼は上手く受け身を取って地面を転がると、すかさず立ち上がってその場を離れつつ落ちている剣と槍を回収した。
後ろから迫ってくるワイバーンの鼻面目掛けて槍を投擲して牽制しつつ、修理したバリスタを囲む騎士たちに大声で呼ばわる。
「槍に鎖を結び付けろ!」
「何者だ、貴様!」
事情を知らない騎士から誰何の声が上がるが、ユリアンはそれを無視してジーノの主にもう一度命令した。
「騎士ジャコモ! 鎖でもロープでもいいから繋いだ矢を隙を見て放つんだ! 当てる必要はない!」
魔女と一緒に暮らしていたユリアンという農夫の少年がなぜここにいて、なぜ騎士である自分に命令するのか。ジャコモには一切理解できなかったが、ユリアンの命令が意図するところだけは理解できた。ようするに魔女がやろうとしていたことと同じなのだ。ならば拒否する理由はない。
戦場を休むことなく駆け回りながら、ユリアンは次々と槍や剣をワイバーンに突き立てていった。一撃一撃は決して大きなダメージではないが、それらが積み重なってさしものワイバーンも動きが鈍くなってくる。獣は苛立ったように翼を広げ、一気に飛び上がった。
上空で身を翻し、翼を折りたたんだワイバーンは無数に突き立てられた槍の意趣返しをするかのように、一直線にユリアン目掛けて急降下した。
だが、ユリアンはワイバーンが上空へ飛びあがるや否や、城壁のほうへ全速力で駆け寄ると壁面の凹凸を足掛かりにして垂直に駆け上がり、城壁上部の歩廊から垂れ下がる戦旗に掴みかかった。唖然とする騎士たちが見守る中、戦旗にしがみついて腕の力だけで城壁を上までよじ登ったユリアンは、槍のように体を細く伸ばして突っ込んでくるワイバーンを迎え撃つべく、剣を片手に歩廊から躊躇なく飛び降りた。
一瞬の浮遊感の後、槍のように突貫してきたワイバーンの体とユリアンが空中で交錯した。横っ面にしがみついてきた敵を振り落とそうとワイバーンが翼を広げて闇雲に体を回転させる。
錐もみ状態で失速したワイバーンとユリアンは真っ逆さまに中庭に落下した。亜竜もろとも地面に激突する寸前で相手の片目に剣をねじ込んだユリアンは、とっさに飛びのいて墜落の巻き添えになることを逃れ、地面を転がった。
おびただしい土埃を巻き上げてワイバーンの巨体が地面に激突した絶好機をジャコモたち騎士は逃さなかった。後ろに頑丈な鎖やロープを結び付けた矢を次々と射かけていく。矢はほとんどワイバーンに命中することなく、その巨体を飛び越えて地面に突き刺さった。だが、それこそがユリアンたちの狙いなのだ。いまや無数の鎖やロープがワイバーンの体に被さり、絡みついていた。もちろん、鎖やロープのもう一方の端は頑丈な城壁の構造物にしっかりと結び付けられている。
「ユリアン!」
剣を振り上げて鷲鼻の騎士が叫んだ。
それに応えてユリアンもまた剣を振り上げる。
「ジャコモ!」
バリスタを守る最低限の人員を残し、雄たけびを上げる騎士たちが武器を手に突撃した。
ユリアンもまた突撃に加わり、拘束されてもがく亜竜がこちらに狙いを定めて口を大きく広げたところに投げ槍をお見舞いした。不意に口内に槍を突き刺されたせいで喉元までせり上がっていた炎がワイバーンの口の中で暴発した。たくさんの牙が吹き飛び、口から煙と血を吐き出す獣の体に騎士たちが殺到する。
片目となったワイバーンがさらに容赦ない攻撃を受けてこれまでとは打って変わった哀れな鳴き声を上げた。だが、攻撃の手を休める者はいない。ある者はワイバーンの翼を引き裂き、ある者は腹に何度も槍を突き立て、またある者は蛇のような尻尾を斧で断ち切ることに熱中していた。
片目を潰され、他にも無数の傷を負ったワイバーンも死に物狂いで抵抗した。瞬く間に不運な騎士たちが鎧ごと体を叩きつけられ、潰され、噛み砕かれていく。
血とうめき声と咆哮が入り混じる戦場で、人も獣も浮かされたように死闘を演じた。
そしてついに敵の隙をついたユリアンの剣が、相手の喉を深く貫き通した。血と燃料液が傷口から漏れ出し、ユリアンに浴びせかけられた。肌が焼けただれ煙を上げるのも構わず、さらに力を込めて剣をねじ込むと、ごぼごぼというくぐもった音と共に大量の血を吐き出した獣が力を失って地面に倒れ込んだ。
唐突な戦いの終わりに騎士たちは皆静まり返っていた。大怪我を負った者でさえ、痛みにうめくのも忘れて倒れ伏したワイバーンの巨体を見つめている。
やがて浅い呼吸を繰り返していたワイバーンが静かになり、自らの炎で焼けただれた口の隙間からしぶいていた赤黒い血の勢いも弱まった。
「倒した……のか?」
騎士の一人が恐る恐るという風に呟く。
脚を折られて地面に転がっていたジャコモが応えた。
「おそらく……ユリアンはどうなった?」
「カッジャーノ卿が言っているのはあの謎の少年のことか? どうやら竜の下敷きになったようだが」
「すぐに助け出せ! とどめを刺したのは彼なんだぞ」
実際問題、ユリアンがいなければこの場にいる全員生き残ることはできなかっただろう。この目で見てさえいまだに信じがたいが、少年の戦いはまさに伝説に語られる竜殺しの英雄のようだった。
騎士たちが苦労してワイバーンの体を持ち上げようとしていると、わずかに空いた隙間からユリアンが自力で這い出してきた。腕にひどいやけどを負ってはいるが、それ以外には目立った怪我はない。
畏怖に衝かれたような表情でユリアンを取り囲んだ騎士たちは、少年が視線を向けると自然と敬意を表して頭を垂れた。ユリアンもまた控えめな態度で彼らに応じ、怪我を負って動けない者たちにも一人一人視線を送って頷いてみせたが、それが終わると後はもう騎士たちにも自ら倒したワイバーンにも見向きもせず、一直線に外へ繋がる城壁塔へと歩みを進めた。
塔の中で待っていたのはジーノと魔女の亡骸だった。床に敷かれた白い敷物の上に横たわる魔女の傍らで膝をついたユリアンは、そのまま血まみれの彼女の体に縋り付き、友達に見守られながら肩を震わせてすすり泣き始めた。
◇
数日後、ユリアンとフランチェスカは懐かしい我が家に帰ってきた。二人の愛馬シロッコとグレカーレに魔女の亡骸を乗せた小さな荷台を引かせてきたユリアンは、丘陵の緩やかな斜面を下り終えると、布に包まれた恋人の冷たい体を抱き上げて家の中へ運んだ。
「帰ってきたよ、フランチェスカ……」
家の中は王都へ出かけて行った時と少しも変りなかった。いつだって安らぎとぬくもりと、懐かしさに満たされている。
少年のユリアンにとってはこの場所がすべてだった。記憶を完全に取り戻した今になっても、ここははるか昔にユリアンたちが夢見ていた家庭というものに最も近い場所なのだ。
フランチェスカをベッドに横たえさせたユリアンは、彼女の髪や着衣を優しい手つきで整え、しばらくの間彼女を見つめていた。
頬を零れ落ちた涙を手の甲で拭うと、ユリアンは淡い微笑みを浮かべて眠る恋人に声をかけた。
「少し待っていてくれ、フランチェスカ。きみを……埋葬する準備をしてくるよ」
冷たい頬をそっと指でなぞり、堪りかねたユリアンは目を逸らした。彼が視線を向けた先には花瓶が置かれており、そこには瑞々しい花々が挿してあった。
ユリアンの口元に寂しい笑みが浮かぶ。もう十年近くも前、ユリアンがフランチェスカに贈った花束だ。本来なら数日で萎れてしまったはずの花々は、彼女の魔法によって今もあの日の姿を留めている。
ユリアンは衝動的な思い付きで花瓶から花束を抜き取り、軽く水を切ってからフランチェスカの胸元に乗せた。彼女はいつもこの花束を眺めては愛おしげに目を細めて微笑んでいた。どこにでも咲いている他愛ない花を集めたものに過ぎないのに、まるで至上の宝物のように彼女は大切にしてくれていた。
「きみは昔からきらびやかな宝石などより素朴な花々のほうが好きだったな」
恋人のくちびるにキスを落としたユリアンは、涙に潤んだ瞳で彼女の顔を見つめてから、踵を返そうとした。
ところが、不意に視界の端に白い光が映ったような気がして、部屋を出て行こうとしていたユリアンはハッと立ち止まった。
振り返ったユリアンが見たものは、白く淡い光に包まれた花束だった。
覚束ない足取りでベッドに近寄ったユリアンは、フランチェスカの体の上で光を放つ花束をまじまじと見つめた。
「これは……」
不意に十年近く前の記憶が蘇る。
ユリアンから受け取った花束に自らの光を注ぎ込んでいたフランチェスカ。
あの時、彼女は何と言ったか。
「魔力を、いや命を分け与えた……」
ユリアンが見守る前で、花束を包んでいた白い光がゆっくりとフランチェスカの亡骸に流れ込み始める。過去のあの日を逆転させたかのような光景に、ユリアンは麻痺したように立ち尽くしていた。
少しずつフランチェスカの体が白い光を帯び始め、反対に花束を包み込んでいた光が弱まっていく。やがて完全に花束から光が失せると、それまで瑞々しさを保っていた花びらや茎が見る見るうちに萎れて茶色く枯れてしまった。
「フランチェスカ……?」
フランチェスカを包む光は淡く明滅を繰り返しながら、徐々に彼女の体内に集束し、しばらくすると見えなくなった。
それまで土気色をしていた彼女の肌がかすかに生気を取り戻したように見え、ユリアンは小刻みに震える指先でその頬に触れた。すると、指先にはかすかではあるものの確かに死人にはないぬくもりが感じられた。
「まさか!」
息を呑んだユリアンが恋人の胸元に耳を押し付けると、つい先ほどまで確かに止まっていた心臓が鼓動する音が聞こえてきた。
「……ユ、リアン?」
弱々しいしゃがれ声が頭上から聞こえ、ユリアンは弾かれたように顔を上げた。
固く閉じられたフランチェスカのまぶたがけいれんを伴って持ち上げられ、確かな生気の宿るすみれ色の瞳がすぐ間近にあるユリアンの顔を見つけて、柔らかく微笑んだ。
「泣い、てるの?」
「笑ってるんだよ」
震えるくちびるで笑みを象るユリアンの頬を、止め処なく涙の粒がこぼれ落ちる。
フランチェスカが小さく息を吐くように笑い、片手を持ち上げて彼の頬に触れようとした。だが、力が入らないのかベッドからほとんど持ち上がらない。それを見て取ったユリアンは恋人の手を取り、自分の頬にいざなった。
「泣き虫さん、ね」
「そうだね」
「あなたの頬っぺた、温かいわ……」
ユリアンの体温を確かめるよう手のひらを動かし、フランチェスカが幸せそうな息を漏らす。ユリアンは彼女の手のひらにくちびるを押し当ててから、両手でしっかりと包み込んだ。
「わたし、生き返ったの? でも、どうして……?」
「奇跡が起きたんだよ」
ユリアンが目線でフランチェスカの胸元を示す。体の上に乗った枯れた花束を見つけたフランチェスカは、目を大きく見開いて驚きを露わにした。
「これ、あなたの贈ってくれた……」
「そうだよ。そして、きみから注ぎ込まれた命によって、今日まで枯れずにいた」
幼いユリアンとの思い出に胸を衝かれたように息を吸い込み、フランチェスカはゆっくりとまぶたを閉じた。すると、押し出された涙がこめかみを伝って流れていく。
「わたし、生きているのね」
感極まり声を震わせてフランチェスカが呟く。
「ああ」
「あなたとも再会できた」
「そうだよ。ぼくはすべてを思い出した。きみの元へ帰ってきたんだ」
再びまぶたを持ち上げたフランチェスカは、涙の膜に覆われきらきらと輝くすみれ色の瞳で熱っぽく恋人を見つめた。
「ああ、ユリアン。わたしたちにかけられた呪いが解ける日をどんなに夢見たことかしら」
「ぼくもだよ、フランチェスカ。ぼくもだ。たとえすべてを忘れてしまっていたとしても、魂の奥底ではきみのことを忘れたことなんてなかった」
「もう二度とわたしを離さないで」
恋人の言葉に応え、ユリアンは彼女の体を情熱的に抱きしめた。
「もちろんだ。絶対に離さない。誰にも引き裂かせはしない」
フランチェスカも力の入らない腕を必死になって動かし、ユリアンの体に回した。遠い記憶にある恋人と比べると、今のユリアンの体はまだ華奢といっていい。だがそれでも、フランチェスカにとって彼のぬくもりがこの上なく頼もしく、愛おしかった。
二人は時間を忘れたかのように抱きしめ合っていたが、やがてどちらともなく体を離し、見つめ合ったまま微笑みを浮かべた。
こうして互いの瞳を飽きることなく覗き込み続けて夜が明けるまで過ごすこともできそうだったが、その前にユリアンは彼女の伝えるべき言葉があったことを思い出し、彼女の手を取ったままベッド脇に跪いた。
不思議そうな顔をしたフランチェスカが体を起こす。ユリアンは生真面目な眼差しで恋人を見上げ、うやうやしい口調で告げた。
「わたしを夫としてくださいますか、フランチェスカ」
目を丸くして息を呑んだフランチェスカは、しかしすぐにくすくすと笑い始めた。
およそ四世紀越しとなる一世一代の求婚を笑われ、ユリアンは顔を赤くして口をへの字にした。そうするといかにも年相応の少年っぽく見え、フランチェスカの笑いの発作はますますひどくなった。
しばらくしてようやく笑いをおさめたフランチェスカは、すっかりむくれてしまった恋人の手を優しくさすりながら謝罪した。
「笑うつもりではなかったのよ、ユリアン。でも不意を突かれてしまったものだから。ごめんなさいね」
「確かに今のぼくの見てくれが多少頼りないのは認める」
今のユリアンはまだ十六歳の誕生日も迎えていない少年だ。体つきは貧弱ではないにせよ、かつて騎士としてフランチェスカと出会った頃とは比べるべくもない。
「まあ、そんな風に言わないで。今のあなたも素敵よ」
「指輪がないのもぼくの落ち度だ。一度用意したものは四百年前になくしてしまったし、今回は用意する時間がなかったんだ」
「わたしがそういうことにこだわる女じゃないことは知っているでしょう?」
恨めしげに恋人を見やったユリアンは、途方に暮れた口調で彼女に訴えた。
「どうして『はい』と言ってくれないんだ?」
愛おしげに目を細めたフランチェスカは、小首を傾げて彼に訊ね返した。
「分かり切っている答えをどうしても聞きたいというの、ユリアン?」
「どうしても聞きたい」
まるで駄々っ子のようなユリアンの口ぶりに、フランチェスカは心から楽しげに笑うと彼をからかった。
「だけどユリアン、若々しいあなたとは違って、今のわたしは四百歳のおばあちゃんなのよ。それでもいいの?」
「四百歳だろうと四千歳だろうと、きみがきみであるなら構わない」
「まあ、勇敢だこと」
「騎士だからな」
やけくそ気味に胸を張ったユリアンを見て、フランチェスカは芝居がかったしかめ面を作ってみせた。
「それに実際、きみは二十四歳にしか見えない」
「あなたは十五歳ね」
「もうじき十六歳だよ」
それがひどく重要なことであるかのようにユリアンは訂正した。
ひとしきりやり取りを楽しんだフランチェスカは、目を潤ませて彼に要求した。
「ではもう一度仕切り直してくださるかしら」
「いいとも」
咳払いをしたユリアンは生真面目な顔を作り直し、切々と彼女に哀願した。
「どうかわたしを夫としてください、フランチェスカ」
「はい、ユリアン。喜んで」
今度こそ求婚を受け入れてもらい、ユリアンは満面の笑みを浮かべて恋人から妻となった女性を抱きしめた。ただ勢い余りすぎたせいで、フランチェスカが彼の体重を支え切れず、二人は笑い声のような悲鳴を上げて、一緒に仲良くベッドに倒れ込んだ。
happy end.
登場人物紹介
【フランチェスカ・バッランティーニ】
呪いによって不老不死となった魔女。四百歳以上。
かつて大陸を旅している最中にユリアンと出会い、恋に落ちた。
ベンダンディの森の生まれ。古代の魔女の系譜を継ぐ最後の一人。
呪いが解かれ、普通に年齢を重ねることができるようになった。
【ユリアン・エーベルハルト】
呪いによって子どもの姿で転生し続ける騎士。呪いが解けるまでは十六歳になる前に必ず命を落としていた。
最後のユリアンは転生体としては十三人目に当たる。
北方の小国に仕えていた竜殺しの英雄。騎士としてフランチェスカと出会った当時は三十歳だった。
強大な知恵ある竜を二頭、ワイバーンをはじめとする亜竜なら数えきれないほど倒した経験がある。
【ジーノ】
ユリアンの友達。羊飼いの息子で、父親の伝手で騎士ジャコモ・カッジャーノの従士となる。
後にカッジャーノ家に仕える可愛くてお尻の大きい女中と結婚し、たくさんの子宝に恵まれる。
羊飼いの仕事はジーノの弟の一人が継いだ。
【ジーノの父親】
羊飼い。若い頃はジャコモ・カッジャーノの父親の従士を務めていたが、とある戦場で膝に矢を受けてしまい、引退。実家に帰って羊飼いの仕事を継いだ。
カッジャーノ家から実家に帰ってすぐの頃、何かと世話を焼いてくれていた年下の幼なじみファビオラと納屋で隠れてこそこそした結果、ジーノが生まれた。
【オーギュスタン】
バレーヌの魔法使いサロモンの弟子。
手に持っているみすぼらしい杖は打撃武器にもなる。
【サロモン】
バレーヌの先代魔法使い。グウェナエルの弟子にしてオーギュスタンの師。
昔フランチェスカがバレーヌ近くに居を構えていた頃、師グウェナエルともども交流があり、彼女を崇拝していた。
【サマンサ】
遍歴の占星術師。
【ニコラウス・ギーレン】
大司教。フランチェスカに横恋慕し、道を踏み外す。
悪魔に魂を売り渡すことで常軌を逸して強力な呪いをフランチェスカとユリアンにかけた。
呪いを解く条件は、フランチェスカが死ぬこと。
本人は呪いをかけられ瀕死のユリアンと刺し違えて死亡。ニコラウスの魂は地獄で永遠に悪魔に喰らわれ続けている。
【ジャコモ・カッジャーノ】
人目を引く鷲鼻を持つ騎士。世界鷲鼻選手権が開催されれば上位入賞は固い。
若手騎士の中ではそこそこ家柄もよく腕も立つ。
ワイバーンとの戦いでは足を骨折してしまい、実家で療養中に見舞いと称して押しかけてきた未婚の貴族令嬢たちの攻勢に遭い、若干女性不振気味になった。
【ジェルマーニ卿】
跳ね橋の管理という仕事に誇りを持っている。
【コジモ・ボッカチーニ】
ボッカチーニ家第十六代国王。
お人よしだが、冴えない見た目に反して切れるところもある。
【エンツォ・ボッカチーニ】
ボッカチーニ家初代国王。
人がよく正義感があるだけが取り柄の頼りない男だが、周囲の人間に王に祀り上げられ、フランチェスカもそれに協力した。
王にしてもらえた見返りとしてフランチェスカと守護者の契約を結び、領地と爵位を与えた。
【ベルトルト・ボッカチーニ】
ボッカチーニ家第六代国王。
ボッカチーニ家の王にしてはずるがしこく残忍。フランチェスカを利用し、契約破棄の約束も反故にした。
【カルロ】
フランチェスカが飼っている牧羊犬。
優秀だが、本人は最近衰えを感じ始めている。
【グレカーレ】
フランチェスカの愛馬。『北東の風』という意味。
フランチェスカの肩を甘噛みするのが好き。
【シロッコ】
ユリアンの愛馬。『南東の風』という意味。
ユリアンのお腹に鼻面をこすりつけるのが好き。
【ワイバーン】
亜竜の一種。鉤爪の生えた二本脚、こうもりのような翼と長い尻尾を持ち、口から炎を吐く。知能は高くない。巣穴でいい匂いがする財宝に囲まれてうとうとするのが好き。
ニコラウスの呪いのとばっちりを受け、あらゆる偶然と必然から運命を操作されてユリアンに死をもたらす役目を与えられた。
が、フランチェスカがユリアンを庇って死んだことで、呪いが解けたユリアンに逆に殺される。
ある意味この物語で一番気の毒な存在。