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私ではない私  作者: 竹下舞
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7章 奈菜の過去

 奈菜が尾行を始めて二十四日が経ちました。毎日五時間の尾行をしたのなら、二十四日間で三十六万円になりますが、報酬は二十四万円ほどです。それには二つの理由があります。一つ目は、ターゲットは平日は大学の時間割表に従っているので、尾行は簡単にできますが、休日はそうはいかないからです。二つ目は、面倒で尾行をしない日があったからです。

 これまでの尾行でわかったことがいくつかあります。しかしそれにより、謎は深まったばかりです。

 まず、ターゲットはいたって普通の学生です。講義にはきちんと出席して、週に三日から四日アルバイトをして、たまに友達と映画館やカラオケ店に行き、アパートに一人暮らしをしている、そんな平凡な青年です。奈菜が見たかぎりでは、これといって変わったところはありません。

 次に、ターゲットには恋人がいます。奈菜がその女性について報告したことをまとめると次のようになります。黒髪のショートヘア。長身でスタイルは良い。顔立ちは整っている。よく笑い、愛嬌は良い。年齢はターゲットと同じくらい。ターゲットと同じようなシルバーの指輪をつけている。おそろいかどうかは不明。それ以外のアクセサリーはない。ブルージーンズをはいている。キャップ帽をかぶっている。化粧気はない。

 最後に、不可解なことですが、理紗子はターゲットともターゲットの恋人とも友達です。理紗子とは宗助の隣人であり、この仕事の仲介人です。この仕事の依頼主は――理紗子が言うには――理紗子の母なので、理紗子の母は娘の友達を尾行するように依頼したことになります。

 奈菜は尾行の理由について何度か考えましたが、結局、何も思いつきませんでした。それでも報酬がもらえるので、特に何も気にすることなく尾行を続けました。

 また、奈菜は三週間ターゲットについて大学構内を歩き回りましたが、英人に会うことはありませんでした。大学はとても広く、学生はとても多いのです。それに、英人は四年生なので、大学に行く機会が少ないのです。


 七月二十二日です。

 この日は日曜日なので、大学は休みです。そして日曜日にはターゲットはアルバイトに行くこともあり、行かないこともあり、厄介な日です。

 奈菜は朝の九時にターゲットのアパート前に行き、ベランダ側の窓を確認して、カーテンが閉まっていることを知りました。だから児童公園に行きました。そこはターゲットが住んでいるアパートのすぐ近くにあり、ターゲットの外出を待つには最適な場所です。

 公園には小さな子供が数人いました。みんな砂場で遊んでいます。奈菜はすべりだいの上で待つことにしました。それは公園に大人がいなかったためです。もし公園に大人がいたのなら、人目を気にして、すべりだいに上がることはできなかったでしょう。子供の目は気にならないものなのですね。

 九時二十分に、奈菜はターゲットの恋人を見かけました。残念ながらターゲットと一緒ではありませんでしたが、あとをつけることにしました。

 彼女はコンビニエンスストアに入り、奈菜は外で待ちました。しばらくすると、彼女は買い物袋をさげて出てきて、ターゲットのアパートに向けて歩いていきました。奈菜はあとをつけることなく、公園に戻りました。アパートまで行っても、中の様子をうかがうことはできないのです。

 奈菜は今度はすべりだいに上がることはありませんでした。日差しが直接あたって暑かったからです。奈菜は木陰に入り、鞄の中を見ました。奈菜の鞄にはいろいろな物が入っています。財布、手鏡、本、紙、ペン、写真、ハンカチ、ヘアゴム、ポケットティッシュ、ペットボトル、ガム、日焼け止めクリーム、などです。携帯電話や化粧ポーチは入っていません。

 十時をすぎても、ターゲットは姿を現すことはありませんでした。この日にターゲットが外出する保証はないので、奈菜は帰ろうかと思いましたが、あと十分だけ待とうと決めました。これも公園に大人がいなかったためです。大人は公園の木陰に長いあいだ立っている女を不審に思うものです。しかし子供たちは遊びに夢中で、そんな女を気にする様子はありません。

 十時五分に、ターゲットは恋人と外出しました。二人は手をつないでいます。奈菜は愉快になり、ひっそりと歩いていきました。

 ターゲットと恋人は駅に着きました。二人に続いて、奈菜も駅に着きました。日曜日ということもあり、駅には多くの若者がいます。奈菜はそういう光景を見ると、学生時代の同級生に会うのではないかと心配になります。もし同級生から〈いま何してるの?〉とたずねられても、困るのです。初対面の人になら無職であることを知られても恥ずかしくはありませんが、同級生に知られるのは恥ずかしいのです。そこに奈菜の劣等感の根源があります。


 ここで奈菜の過去について話しましょう。

 奈菜は小学五年生の頃、いじめを受けていました。調和を乱すという理由から悪口を言われていました。しかし奈菜は調和を乱していたわけではなく、優柔不断だっただけです。悪口だけなら我慢できましたが、ある日に決定的な出来事が起こりました。

 奈菜は昼休みはいつも花壇の前ですごしていました。そこは、校舎と体育館をつなぐ通路のそばにある、人気のない場所です。その日もそこで時間をつぶしていました。そこへ同級生の女の子たちがやってきました。

「奈菜ちゃんはいつも何してるの?」とリーダー格の子は言いました。

「何って」と奈菜は言いましたが、そのあとの言葉は続きません。

「昼休みは教室にいないけど、こんなところにいたんだね」とリーダー格の子は言いました。奈菜は何も言わず、うなずきました。「いつも一人でいて寂しくないの? 寂しいでしょ? まあいいや。奈菜ちゃん、踏み絵って何か知ってる? 奈菜ちゃんは頭がいいし、わかるよね。説明してみて」

 奈菜は黙ったままでした。踏み絵が何であるかは知っていましたが、それを説明する気にはなれなかったのです。

「知らないの? なら教えてあげる」とリーダー格の子は立ち上がり、花壇の花を踏みつけました。そしてほかの子にもうながして、ほかの子も花を踏みました。「奈菜ちゃんも踏んでみて。ねえ、ほらっ、みんなしたじゃん? 奈菜ちゃんもやってみてよ」

 奈菜は踏まれた花をじっと見つめました。そのうち瞳から涙がこぼれてきました。それを見届けた彼女たちは〈踏み絵が何かわかって良かったね〉という言葉を残して、笑いながら立ち去りました。

 その日の放課後に、奈菜は担任の先生に呼ばれました。彼女たちが〈名取さんが花を踏んでました〉と告げ口したのです。奈菜は先生にありのままの出来事を――踏み絵と称して花を踏んだ彼女たちのことを――話しました。しかし、大人は陰気な子供の言葉より、陽気な子供の言葉を信じるものです。それに、奈菜には父子家庭という偏見もありました。だから奈菜がいくら弁解しても意味はありませんでした。

 結局、その出来事により、奈菜は先生を敵視するようになり、先生も奈菜を問題児とみなすようになりました。その結果、一度目の不登校になりました。いじめにより不登校になったというより、誰にも理解されないことにより不登校になったのでしょう。

 ついでなので中学生の頃のことも話しておきましょう。

 奈菜の中学進学を機に、父は引っ越しを決めました。そのため、奈菜は花を踏んだ子たちとは別の中学校に進学しました。しかし一年生の二学期途中からまた不登校になりました。その理由はいじめられたからではありませんし、先生から疎まれたからでもありません。その理由は窮屈だったからです。

 普通の人は普通にしていれば普通でいられます。女の子たちは休み時間におしゃべりをしますが、普通の女の子は普通にしていれば楽しくおしゃべりができます。楽しくできないにしても、無難にこなすことができます。しかし奈菜はそれができませんでした。教室にいることさえ窮屈に感じるほどでした。初めはそれを不登校だったことによるブランクのせいだと思い、慣れるまで我慢しようとしました。しかし二学期になっても慣れることはなく、それどころか状態はひどくなりました。夜に眠れなくなるほど不安になったのです。その先にあったのが二度目の不登校でした。

 不登校になったのは、奈菜の知識不足のためです。あるいは、学校側の対応に問題があったとも言えます。日本には保健室登校という制度があり、奈菜はそれをすることもできたはずです。教室では窮屈でも、保健室ならそうではなかったかもしれません。教室という大きな場所では感情を押し殺して暗い性格になっても、保健室という小さな場所では感情を解き放って明るい性格になれたかもしれません。しかし奈菜は保健室登校という選択肢を思いつくことも示されることもなく、不登校になりました。

 ただ、学校にも良心的な先生はいるようで、出席日数がまったく足りなかった奈菜が卒業できたのは、担任の先生の尽力のおかげです。奈菜の父は先生に感謝の手紙を出しました。しかし奈菜はそれらのことは知りません。普通に卒業できたと思っています。人は見えないところで支えられているのですね。


 さて、時刻を現在に戻します。

 七月二十二日日曜日の昼の十一時前です。ターゲットと恋人は電車を降りて、にぎやかな街を歩いています。手はしっかりとつながれています。人が多くいるので、奈菜は二人とさほど距離をあけずに尾行しています。

 二人は宝石店に入りました。客の数が少なかったので、奈菜は外で待つことにしました。

 街にはさまざまな人が歩いています。おとなしそうな小学生くらいの男の子たち、はしゃぎながら楽しくおしゃべりをしている中学生くらいの女の子たち、高校生くらいのカップル、小さな子供を連れている若い夫婦、アクセサリーをつけている青年と野暮ったい格好のおばさん、九十歳ほどの男性と六十歳ほどの女性、ほかにも数えきれないほどの人がいます。世の中にはさまざまな関係があるのですね。

 奈菜は何気なくそれらの人を見ました。そうしていると、ふと宗助の話を思いだしました。それは老人ホームで老人から聞いた戦争の話です。敵兵を二人殺したという老人の体験談です。奈菜は顔を左に向け、さきほどの老人を――九十歳ほどの男性を――探しました。しかし彼の姿はどこにも見当たりませんでした。それほど人がたくさんいるのです。

 奈菜は愉快になりました。〈あの九十歳くらいの老人は人を殺したことがあるかもしれない〉と思い、秘密を見破った気になったのです。しかし次の瞬間には、無性に悲しくなっていました。どうしようもない悲しみが胸の中にあふれてきました。そのとき、生まれて初めて戦争の残酷さを感じました。戦争映画を見ても、テレビで戦争体験者の話を聞いても、教科書で第二次世界大戦の記述を読んでも、頭の中でしか思うことがなかった残酷さを、初めて体感したのです。当たり前のことが当たり前ではない、という感覚にとらわれたのです。

 しかしターゲットが宝石店から出てきたときには、その悲しみは急激に薄れていきました。緊張は感情を押し殺すものなのですね。

 奈菜はまた二人のあとをつけて歩いていきました。二人が装飾品店に入ったので、奈菜も続いて入りました。二人はまずネックレスの棚の前で立ち止まり、次にイヤリングの棚の前に移りました。

 奈菜はブレスレットを眺めながら、二人を監視しました。そのとき、隣にいる女性たちの会話が耳に入ってきました。

「彼氏からプレゼントをもらったりする?」

「しない。まだ付き合い始めたばかりだから」

「ふーん。これとかいいんじゃない?」

「彼氏に?」

「いえ、あなたに」

「うーん、でも私はこっちの方が」

 奈菜はちらりと彼女たちの方を見ました。すると、とても驚きました。脈拍が急上昇するほど驚きました。一方の女性を知っていたのです。それは奈菜に花を踏むように指示した女の子です。小学五年生のときに奈菜をいじめていた女の子です。

 しかし、じつはこれは奈菜の勘違いです。彼女は奈菜の同級生ではなく、奈菜に会ったこともありません。長い歳月のためか、奈菜は見間違えたのです。ただ、奈菜はそのことに気づくことはなく、サングラスをかけていたことを幸運に思い、彼女に気づかれないようにその場をそっと立ち去りました。外に出ると、駅に向けて歩いていきました。尾行はやめることにしました。

 奈菜の目からは、彼女は健全で裕福な女の子に見えました。しかし実際の彼女は、不安定な女の子です。大学を中退したあとフリーターになり、二十歳ながらこれまでに六人の男性と付き合ったことがあり、缶ビールを毎日二本以上は飲む、そんな女の子です。奈菜がその事実を知ることは一生ないでしょう。奈菜にとって彼女は、誰もがうらやむような人生を送っている女の子なのです。自分勝手なものですね。


 奈菜はプラットホームに着きました。

 どこからともなくセミの声が聞こえています。空には夏の雲があります。奈菜はミヨのブログの文章を思いだしました。それは〈夏の大きな入道雲はなんと25万トンもあるんだって! 驚きだよね。人間の重さはキログラムだけど、雲の重さはトンだから、とんでもないよね〉というものです。それから、千絵が〈ミヨは中学のとき、みんなからシカトされてて〉と言っていたことを思いだし、無視と悪口ではどちらが悪いかと考えました。しかし答えは出ないまま、電車が来ました。

 奈菜は電車に乗りました。そしてまた驚きました。見覚えのある顔を見つけたのです。それは中学生の頃の同級生です。その同級生と言葉を交わしたことは数回ほどしかありませんが、髪型が当時と似かよっていたこともあり、すぐに気づきました。これは奈菜の見間違いではなく、正真正銘の同級生です。

 ふだんの奈菜なら昔の同級生に近づくことはありませんが、このときは気分が良かったためか、同級生が端正な顔立ちだったためか、サングラスを外して彼の隣に座りました。彼は奈菜の方をちらりと確認しましたが、すぐに視線を手もとの本に戻しました。彼は奈菜には気づいていないようです。男の子は化粧をしないので昔の面影が残っていますが、女の子は化粧をするので昔の面影は薄れてしまうのかもしれませんね。

 電車は発車しました。

 彼は本を読んでいます。奈菜は話しかけてみようと思いましたが、多少の迷いもありました。ふだんなら迷いがあるときには進むことはしません。しかし彼に恋人がいるかどうか思い浮かんだときに、迷いは好奇心に変わりました。中学一年生の頃には誰もが経験していないものですが、二十歳になればある程度の人は経験しているものです。奈菜は彼がどちら側なのか知りたいと思ったのです。しかしそれを直接たずねるわけにはいきませんので、まずは軽い話題から入ることにしました。

「あのう、何を読んでるんですか?」

「これですか?」と彼は本の表紙を見せました。「本をよく読むんですか、あなたは?」

「あっ、私は、そうですね、それなりに。竹下舞って知ってますか?」

「いや、知りません」

「えっと、これです」と奈菜は鞄から本をとりだし、同級生に示しました。「ぜんぜん有名ではないんですけど、けっこうおもしろくて」

「へー、そうですか」

 会話はとぎれました。彼は本を開き、ページに目を向けました。奈菜はつくづく千絵や宗助の社交性に感心しました。ただ、千絵にしても宗助にしても電車で見知らぬ人に話しかけることはないのですが、奈菜はそのことには気づきません。

 次の駅に着くと、彼は電車を降りました。そのとき奈菜に〈では〉とひとこと言いました。奈菜は〈あっ、はい〉と返事をしました。

 奈菜は立て続けに同級生を見かけたことを不思議に思いましたが――実際に見かけたのは一人だけで、もう一人の方は勘違いですが――このあと、もう一人知っている人を見かけることになります。それは千絵の恋人です。同級生が降りたのと入れ替わる形で、千絵の恋人が乗ってきました。隣には派手な女性がいます。二人は奈菜の向かいの席に座りました。奈菜は千絵の恋人に会ったことはなく、携帯電話の画像で見ただけなので、彼は奈菜に気づくことはありません。

 千絵は熱烈な恋をしています。たとえば、ゼリーを食べているときには、恋人はゼリーをどこから食べるのだろうと考えます。すなわち〈表面をなぞるようにスプーンですくっていって、容器の底が見えないように攻めていくのか、それともスプーンを下へ突き立てて、容器の底がすぐに見えるようにするのか?〉と疑問に思います。しかしその疑問を恋人にたずねることはしません。実際に恋人がゼリーを食べる機会が来るまでとっておくのです。そのときまで妄想で楽しむのです。恋とは頭の中にあるファンタジーなのですね。

 奈菜は千絵からその話を聞かされたときには素敵だと思いましたが、今では複雑な気持ちになっています。もちろん彼と派手な女性の関係は単なる友達かもしれませんし、あるいは姉かもしれません。しかしある可能性が頭に浮かんだので、複雑な気持ちになったのです。

 奈菜は二人を尾行する気はありませんでしたが、駅に着いて立ち上がったとき、二人も立ち上がったので、尾行することにしました。しかし尾行は長くは続きませんでした。駅を出ると、二人はタクシーに乗ったのです。

 奈菜はスーパーマーケットに行って食材を買い、歩いて帰りました。

 玄関を開けると、電話が鳴っていました。父は会社の同僚とゴルフに行っているので、家にはいません。奈菜は特に急ぐことなく、靴を脱ぎ、鞄とスーパーマーケットの袋を食卓に置き、そして受話器をとりました。

「はい、もしもし」

「もしもし、私」と千絵は言いました。「いま何してる?」

「別に何もしてないけど。千絵は何してるの?」

「さっき空に飛行機を見つけて、そのとき空はめっちゃ広いなと思って。だって飛行機はめっちゃ大きいじゃん? それが空の上では点になるんだから、もう空は桁外れに大きいわけよ。入道雲が数十万トンあるのもうなずける。入道雲は小さな町くらい巨大で、小さな町が空に浮かんでんだから、もう異次元なわけ。で、今は飛行機って空を何分で横切るのかな、なんて考えてて。ブログに書こうと思ってね。チャンスがあったら計ってみて。飛行機を見つけたら時計を見て、飛行機が見えなくなるまで何分かかるのか計るのね。あっ、夜の方がいいよ。昼だったら飛行機を見つけるの大変だもんね」

「うん、チャンスがあったら計ってみる」と奈菜は言いながら〈ヒコーキ、空よこぎる、何分?〉とメモをしました。それから、うちわを手にとりました。

「このまえ映画みたいなことがあったんだけど、街を歩いてたら、男の人が道端に座りこんでて、五十歳くらいのね。で、意識が朦朧としてたんだよね。だから私はすぐに近寄って介抱してあげて、〈大丈夫ですか、声聞こえますか?〉みたいな。で、すぐに救急車を呼んで、まあ、それだけなんだけど。でもなんか不思議だなって。あの人はもう死んでるかもしれないし、まあ、生きてるかもしれないけど、どちらにせよ、私はもうあの人に会うことはない。会いたいと思っても会えないし、もう私とは関係のない人なんだよね。そう思うと、感慨深い」

「ハゲてた、その人?」

「うん、ハゲてたよ、ばっちり」と千絵は笑いました。「ハゲ最高って具合にハゲてた。ミヨに見せたいくらいだったな」

「そっか」

「で、なんだっけ? そうそう、もしあの人と街でばったり出会ったとするでしょ? でもあの人は私に気づくことはないんだよね。だって意識が朦朧としてたし、だからあの人からしたら私は顔もわからない〈誰か〉でしかなくて、でも私からしたらあの人は〈誰か〉ではなく〈彼〉として存在してて、そう思うとなんか感慨深い。これってアイドルとファンの関係に似てて、ファンにとってアイドルは〈彼/彼女〉だけど、アイドルにとってファンは〈誰か〉でしかないし……」

 奈菜はさきほど見かけた二人の同級生のことを思いだしていました。しかし千絵の恋人が女性といたことはすっかり忘れていました。千絵の恋人のことより同級生のことの方が実感が強かったのですね。奈菜はあの同級生は〈彼〉なのか〈誰か〉なのかと考えました。しかしどちらでも同じような気がしました。奈菜はまたうちわを手にとり、顔をあおぎました。

 千絵の話がとぎれると、奈菜は話題を変えることにしました。

「もう夏休みだっけ?」

「うん、きのうから夏休み」

「そっか。大学生はいつから夏休みなのかな?」

「たしか八月初めからだったような。でも大学の夏休みって九月下旬くらいまであるし、大学時代ほど気楽な時間はないよ」

「英人さんは就職活動中?」

「うん、内定を四つもらってもまだほかをあたるという不誠実なことをしてる。公務員試験も受けるとか言ってるし。英人みたいな人は営業をするべきなんだよ。人当たりがいいし、冗談がうまいし、営業に向いてない人が営業をさせられるなんてこともあるわけだし、理不尽にもね。だからそういう人のためにも率先して営業をすべきなんだよね」

「千絵も営業向きかもね」

「そう? 自分ではスナックのママが向いてると思うけど。それか自殺相談センターのおばさんとか。自殺相談センターに電話したことある? あそこはダメだよ。ぜんぜんダメ。話を聞いてもらいたいだけならいいけど、アドバイスを求めたら失望する。〈みんな悩みがあるんだから〉とか言われて、でも自殺者の悩みはそんな安易じゃないし……」

 このあと千絵は自殺相談センターのおばさんの悪口をさんざん言い、〈救急車を呼んだ話は嘘だから。わかってると思うけど。そんなことがあったら素敵だなって。でも人生そんな甘くないね。じゃあまた今度。バイバーイ〉と電話を切りました。

 奈菜は受話器を置きました。そのとき、千絵の恋人を見かけたことを思いだしました。しかし、もし電話中に思いだしていたとしても、そのことを口にすることはなかったでしょう。それは説明するのが面倒で、しかも誤解をまねく怖れがあるからです。

 奈菜は手を洗ったあと、霧吹きに水を入れました。そしてベランダに出て、霧吹きで遊びました。前に広がった霧は、風に流されることなく下へと落ちていき、すぐに見えなくなります。奈菜はそれをくりかえしました。

 カラスが飛んでいて、奈菜はなんとなくそれを見つめました。突然、カラスは糞をしました。そのとき、カラスの糞が白色であることに気づき、愉快になりました。黒いカラスが白い糞をするのはおかしなことなのですね。カラスの糞からの連想か、奈菜は動物園のゾウの糞の話を思いだしました。千絵がしていた話です。

 奈菜はまた千絵の恋人のことを思いだし――女性とタクシーに乗った千絵の恋人のことを思いだし――二人の関係について考えました。それはいくら考えてもわからないことですが、それでも考えたのです。

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