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私ではない私  作者: 竹下舞
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6章 ミヨとアパート、夢のこと

 あれから二十日以上もたったし 図書館のお宝はもう 誰かがあの本を開いて 今日こそは行ってもいいんだけど 東京都立中央図書館 ハーバート・クエイン エイプリル・マーチ 東京メトロ日比谷線 広尾駅の1番出口 もう覚えてしまって 今日こそは って土曜も開いてるよね? まあ図書館だから セミの声がある。子供たちの騒ぎ声がある。もう夏休みか 入道雲が浮かんでいる。サングラス越しに太陽を見る。すぐに目をそらす。太陽と月は同じ大きさで その確率はどれくらいなんだろう? 駐車場にはバイクと自転車がある。

 インターフォンを押す。子供たちの声がある。小学生のころは夏休みでも早起きをしてたっけ? 日曜には『仮面ライダー』を見て『おジャ魔女どれみ』を見て それにラジオ体操なんてものもあって あのころは本当に早起きだったな 六時とか ドアが開く。いつもの匂いがする。宗助はパジャマを着ている。私はサングラスをはずす。

「ひさしぶり」と宗助は言った。

「起きたばかり?」

「これから寝る」

「大学生はラクでいいね」

「ラクと言えばラクに違いないけど、中等遊民に比べたら大変だよ」

 私は冷蔵庫をあける。でも高等遊民にはなれない 缶ジュースを手にとる。冷蔵庫を閉める。カゴメ 果汁百パーセント オレンジ 香料 カーテンがゆれている。宗助は回転イスに座り、ベッドの方へ向く。私は麦わら帽子とナップサックをベッドに置き、扇風機をつけ、ベッドに座る。

「バイトはどう? 順調?」

「うーん、大変じゃないけど、退屈かな。でも」と私は言う。首筋にジュースの缶をあてる。「でもお金になるし、悪くはないかな」

「なんか天国みたいだな」

「何?」

「大変ではないが退屈。でも悪くはない。天国みたいじゃない?」

「ああ。でも、もし天国が退屈なところなら、行く価値はないと思うけど」

「そうかもしれない」

 扇風機の首がゆったりと左右に動いている。宗助はイスをまわして、机の方へ向く。セミが鳴いている。また首筋にジュースの缶をあてる。わきの下にもあてたいけど でも恥ずかしくて どうして? 宗助はあっちを向いてるし 誰にも見られるわけじゃないし でも恥ずかしい 机の上には切子グラスがある。その中にはコハク色の液体が半分ほど入っている。宗助は右手をこまかく動かしている。机にひじをつくことはなく、姿勢はとてもいい。それにしても数千円のコップなんだから高等遊民だ コップなんて百円ショップにも売ってるのに いちいち値札を気にして ジュースの缶をあける。小さな音がする。半分ほど飲み、サイドテーブルに置く。私はお金持ちになっても値札を気にする? たぶんする どうして? でもお昼寝は得意だし ごはんとお昼寝は趣味に

「お昼寝は趣味になるんだって。睡眠は趣味にはならないけど、お昼寝は趣味になる。お昼寝はセレブリティの象徴なんだね。宗助はお昼寝はする?」

「しない。僕はセレブではないから。睡眠も趣味になると思うけど」

「でも、ただ寝るだけだし」

「ベッドに転んでから眠りにつくまでの気持ちよさとか、目が覚めてからうとうとする気持ちよさとか、そういうのもあるし、睡眠も趣味になると思う」

「ああ、そうかも」

 壁のカレンダーを見る。七月何日だっけ? 土曜 あのブタの男も最後は でも ゴールデンスランバー ゴールデンスランバー ビートルズ 視線を窓の方に向ける。そこにはレースのカーテンがある。扇風機の風があたるたびにゆれる。缶を両手で包むようにして持つ。ジュースを飲む。悪夢の中では 最後には目を覚ます ゴールデンスランバー ゴールデンスランバー 結末は? たしか整形して (宗助)小説も哲学も宗教も 缶を置く。ナップサックから竹下舞の本をとりだし、開いて文字を眺めていく。たいへんよくできました そうだ! ハンコを押すんだエレベーターの中で ということは そうそう 親指で押すんだ 私は愉快になっていた。

 立ち上がり、レコードプレイヤーまで歩いていく。

「ねえ、ゴールデンスランバーってどれ?」と私はたずね、机の上をちらりと見る。そこには宗助が描いている絵がある。

「アビィ・ロード。横断歩道をわたっているあれ」

「ああ、あれね」と私は言う。レコードを一枚ずつ見ていき、『アビィ・ロード』を手にとる。また絵を見る。「上手だね」

「これが?」と宗助はエンピツを動かしながら言った。私は不愉快になっていた。

「いや、その下手くそな絵じゃなくて、このジャケ写が上手だなって」

 私は愉快になっていた。『アビィ・ロード』のジャケット写真を見つめる。レコードをとりだし、セットする。レコード 数千円の江戸切子 物の価値がわかる人 高等遊民 でも私は ベッドに座り、本を開く。そこには〈家具の中でベッドほど重要なものはない。人生の三分の一はベッドの上ですごすのだから〉と書かれている。睡眠はやっぱり 私は宗助の後頭部かを見つめる。部屋には音楽が流れている。レコードの針はわずかに振動している。あの男は悪夢を見ていた 目が覚めたときには

「夢の中で食べたり寝たりしたことはある?」と私はたずねる。

「何?」

「寝てるときに夢を見るでしょ? そのときになにかを食べたり眠ったり、そんなことはある?」

「うん、あるよ。眠ったことはないけど、食べたことはある」

「そのときっておいしいと感じたりするの?」

「たぶん」と宗助は言い、手をとめる。切子グラスを手にとる。「夢の中での感覚は、現実の感覚としてあると思う。味覚は舌で感じるものではなく、脳で感じるものだし、ウイスキーが舌の先にあたると、またたくまに電気信号が脳に伝わって、脳で変換されてウイスキーの味を感じる。舌で感じるのではなく脳で感じる。だから実際にウイスキーを飲んでなくても、夢の中でウイスキーを飲めば、脳で変換されて味を感じる。脳科学には興味がないから違うかもしれないけど」

「ねえ、『攻殻機動隊』って知ってる?」

「知らない。アニメ?」

「そう、アニメ。『マトリックス』は知ってるよね?」

「映画の?」

「そう、映画の。ああいう感じのアニメ。バーチャルの世界があって、よくわからないんだけど。もしかしたら将来ああいう世界になって、タイヤキを好きなだけ食べれるようになるのかなって。いや、食べるんじゃなくて、脳でタイヤキの味をいつでも好きなときに感じれるようになるのかなって」

「そんなことをしなくてもタイヤキを食べればいいだろ?」と宗助は回転イスをまわし、こちらを向く。

「それだとたくさん食べれないもん」

「欲張りだな、ミヨは」

「そうそう、欲張りだよ、私は」と私は言う。「太陽と月はぜんぜん大きさが違うのに、地球から見たら同じ大きさになるよね? 皆既日食ではぴったり重なるし」

「うん、ブログに書いてたな」

「それってすごくない?」

「たしかに。というより、ミヨのそういう着眼点がすごいよ。本当にアイドルになって活躍できるかもしれない」

「ああ、そう、がんばります。太陽はすごく大きくて、月はちょこっとあるくらいなのに、地球から見たら同じ大きさになって、それってどれくらいの確率なのかな?」

「確率と言われても、難しいな。分母がないと確率は出ない。たしかに太陽と月が同じ大きさなのは不思議だね。ほかの星は砂粒くらい小さいのに、太陽と月だけがとりわけ大きい。月の三分の一くらいの星があってもいいはずなのに」

 宗助は回転イスをまわし、エンピツを手にとる。部屋には音楽が流れている。本棚には本が並んでいる。ずっと脳内で食事をする 脳内だけで生きて 欲求を満たすだけで プラグにつながれて一生を 缶には水滴がついている。私は扇風機に手をかざす。この暑さも脳が作りだしてるもので 本を開く。本を閉じる。欲求を満たすために浮気をした? どんな いや うん 別にどうでも いちおう参考までに いや

「ねえ、たいしたことじゃないんだけど、いちおう参考までに聞いておこうかなと思って、宗助は浮気をしたりする?」

「どうだろう? しないと思う。いや、でも将来のことはわからない」と宗助は言い、手をとめる。「僕はまだ二十一だし、将来を決定するには早すぎる。正直に言うと、浮気はいけないとは思わないし、機会があればするかもしれない」

 そうか! そうだったんだ! 今まで気づかなかった 宗助は二十一歳で 英人さんは二十二歳で 本を開き、すぐに閉じる。ということは英人さんが浮気をしたのは二十歳くらいで 天井を見つめる。首をゆっくり右に傾け、ゆっくり元に戻し、今度は左に傾ける。ということは

「男の人ってみんな浮気をするの?」

「みんなするわけじゃないけど、体の機能的には男の方がしやすいと思う。欲情は男と女では性質が違うわけだから。風俗店もアダルトビデオも男性用ばかりだし。だからと言って、男は必ず浮気をするわけじゃないし、女でも浮気をする人はいる」

「浮気しない人はただチャンスがないだけじゃないの?」

「まるでミヨは浮気願望があるみたいだな」

「そんなことないけど」と私は宗助の背中に向けて言う。私は別に浮気願望なんて ただ英人さんのことで

「まあいいよ、浮気願望があっても」と宗助は言った。「人間はサルじゃないから、チャンスがあっても浮気しない人もいるよ。女性と部屋で二人きりになって、突然キスされたら、勃起する。男の体の機能はそうなってる。ゲイではないならね。でもそこから先に進むとは限らない。女性を押しのける男もいるし、なされるままにする男もいる」

「恋してたら押しのける」

「いや、違う。恋人に夢中でも、浮気する人は浮気する。恋と浮気は関係ないよ。問題は責任感だと思う。責任感が強ければ、どんなときでも浮気はしないし、責任感が弱いほど浮気しやすい。まあ、ウソをつくのが平気な人は、チャンスがあれば浮気する、ということか。僕はウソを平気でつける」

 宗助は手を動かしだす。私は扇風機に手をかざす。英人さんは責任感が ジュースを一口飲む。缶を見つめる。そこには〈あき缶は大切な資源です。投げ捨てないようにご協力ください〉と書かれている。英人さんは平気でウソを 私だって 宗助の背中を見る。セミが鳴いている。扇風機が動いている。でもよく考えてみると いや うん でも たしかに私には浮気願望が でも誰にだってあるんじゃないの? ってそんなことはないか 普通の人は浮気をしたいとは思わない いや 逆か 普通の人はできることなら一回くらいは いや ジュースを飲みほす。缶をサイドテーブルに置く。缶をとり、床に置く。

「浮気と言えば、こんなこともあるよ」と宗助は言った。「男と女がいて、二人は付き合ってて、男の方は初めての恋人で、女の方は二人目の恋人。男の方が僕の友達で、その人から聞いた話だよ。男は女が処女ではないことを不満に思ってる。女が元カレの話をするわけじゃないみたいだけど、でも意識してしまうみたい。嫉妬したり、嫉妬する自分を嫌悪したり。そこまでは普通なんだけど、その人は少し変わってて、〈彼女がもっと多くの男と関係を持ってればよかった〉とか言いだして。わかる、そういう心理?」

「いや、わからない、ぜんぜん」

「そうだよね。僕にもわからない。その人が言うには、彼女の過去にもっと多くの男がいた方が、彼女の初体験の相手を許せる気がするんだって。つまり彼女が自分以外に一人の男しか知らないと、初体験の相手の存在は大きくなるけど、もし十人の男を知ってれば、初体験の相手の存在は小さくなる。男の数が多ければ多いほど、初体験の相手の存在は小さくなる」

「そんなものなのかな?」

「その人はそう思ってんだよ。そのうちその人は〈浮気をすれば、嫉妬心はなくなるのではないか?〉と思うようになって、僕にそのことを相談した。いろいろ話したんだけど、結局、風俗をすすめてあげて、その人は風俗に行った」

「それで嫉妬心はなくなったの?」

「なくならなかった。それどころか罪悪感がめばえた」と宗助は笑った。「バカだよな。あまりにも感傷的すぎるんだよ」

「バージンがいいとか言う男って、現実世界にいたんだ? そういうのってネット上でのネタなのかと思ってた」

「ミヨはおおらかだね。処女信仰は昔からあるものだし、たぶんこれからも続くものだよ。僕もバージンがいいという価値観はわからないでもない。独占欲がそういう価値観を作るんじゃないかな」

「ふーん。そういえば、宗助は完璧主義者?」

「完璧主義者? どうだろう? とりわけ完璧を求めることはないな」

 つまらない男だ 私は本の表紙を見つめる。でも私と英人さんの関係は あれから一度も会ってなくて だって私は妹の友達だから 本をナップサックに入れる。扇風機の電源を消す。麦わら帽子を手にとる。もう一生会えないことだって でも千絵に頼めばすぐにでも会えて でも でも 会いたくて会いたくて震える なんて

「宗助は完璧主義者じゃないの?」

「うん」

「女心がわからないのね」

「いちおう男だから。でもミヨだって女心がわからないんじゃないの? だから高校をやめたんじゃないの?」

 私は不愉快になっていた。ユーモアのセンスがない人ってどうしてこうなのか でも高等遊民になる資格は持っていて 麦わら帽子を頭に乗せる。床のあき缶を手にとる。中身があったらぶちまけてやるんだけどな でも中身があったらそんなことはしなくて でもどうせぶちまけても宗助は怒ることはなくて 高等遊民だから そう 高等遊民だから 音楽が流れている。あき缶を床に置く。

「私、そろそろ帰るから」と私は立ち上がり、ナップサックを背負う。「あき缶はここに置いとくよ」

「うん。僕もそろそろ寝る」

「本当に寝てないの? 冗談かと思ってた」と私は言い、床のあき缶を拾い、サイドテーブルに置く。カレンダーを見る。「おやみす。今日は土曜だよね、七月二十一日の」

「うん、小学生はもう夏休み」

「今日から?」

「たぶん。きのうが終業式で、今日から夏休みか、もしくは来週の月曜日が終業式で、火曜日から夏休みかもしれない」

「そっか」

「ねえ、ミヨはアイドルになるべきだよ、本当に」

「何いきなり?」

「いや、ただそう思っただけ。じゃあね」

「うん、じゃあ。おやすみなさい」


 電車は小さくゆれている。すみの席に体格のいい知的障害者がいる。彼は座ったまま体を前後にゆさぶっている。それに合わせて頭がかすかに上下する。私の三倍は食べそうで でも知的障害者は神様で すべてが許されて 赤ちゃんもそうで ベビーカーにはピカチュウのストラップがついている。その前には女性が座っている。彼女はスマートフォンの画面を見ている。赤ちゃんの小さな声がしている。自然界の頂点には人間がいて 人間は神様で 私は人間で だから私は神様 やったー なんてね 気楽でいいよ千絵は 赤ちゃんが泣きだす。母親は赤ちゃんにスマートフォンを見せる。もし私が子供を産んだら その子が知的障害者だったら でもどうせ私は いや 子供を産んで 子供のために生きて ベビーカーの女性は立ち上がる。知的障害者は体をゆさぶっている。窓は黒い鏡になっている。となりの男性はスマートフォンを見つめている。子供が生きる意味になって 私もいつかは子供を それが幸せ? ハッピーエンド あの子も結婚して専業主婦になって とっぴんぱらりのぷ 将来の夢はお嫁さん そのあとは

 電車がとまり、ドアが開く。ベビーカーの女性が最初に出る。ほかの人も出る。多くの人が入ってくる。知的障害者のとなりには誰も座らない。彼はおとなしく座っている。電車が動きだすと、規則正しく体をゆさぶりだす。私は愉快になっていた。ちゃんとわかってんだ やっぱり でもちゃんと レールの音がある。知的障害者はシャツの首もとをひっぱり、胸をかいている。でもお昼寝は趣味だから 宗助はお昼寝を ミヨはアイドルになるべき 宗助までそんなこと言って でも私は いや でも私は いじめられてた過去も武器になって 自殺を考えたことがあるんです でも私は

 私はリュックサックのひもをいじる。レールの音がある。レールの音は規則正しく続いてて とぎれることなく規則正しく まるで心臓の音みたい そんな着眼点があれば ミヨの着眼点は ミヨはアイドルに そう言われても 私だって ゾウって鼻クソがたまらないんだけど なんでか知ってる? それは鼻で水を飲むから そんな着眼点 でもアイドルに 知的障害者はおとなしく座っている。女性の話し声がある。運命があれば 出会いがあれば あの子だって 芥川なんだっけ? ハルエ キヌエ サナエ エ エ いや 石原さとみだ サトミ アクタガワサトミ お金持ちと結婚できれば もうホクロは 私はナップサックから本をとりだし、開く。


「気持ちは変わっていくと思うけど、ずっと正直でいようね」

 愛の誓いなんてその程度でいい。きのうのことは忘れた。でもあのことは忘れられない。不快に思うとは、数時間後には忘れていること。傷つくとは、翌日にも覚えていること。もしそうなら私は? そんなことはどうでもいい。とにかくあのことだけは忘れられない。

 たまに正直になられても困る。正直な打ち明け話なんて、しかもそれは三年も前のことで、私はどう反応すればよかったのだろう? 口がうまい男は信用ならない。口がうまい女はもっと信用ならない。私はどう返せばよかったのだろう? 彼女を泣かすことだってできたはず。でもそれは彼女を救済することではないか。

 もう嫌になった。

 いつものようにキャベツ畑を想像する。

 茶色の地面、その上に緑色のキャベツが並んでいる。すべては整っている。等感覚。それが向こうまで延々と続いている。空はもちろん青で、白い雲がちらほらと浮かんでいる。美しい光景だと思う。実際に見ると、それほど美しくはない。ただ、想像では非常に美しい。

「好きなものは何か?」と問われると、たとえば「うーん、結婚式かな。ああいう空気感が好き。もちろん新婦じゃないときの結婚式ね」と答える。でも頭にはキャベツ畑が広がっている。結婚式がなんだ。キャベツ畑の方がだんぜん尊い。


 車内アナウンスは広尾駅を告げている。本を閉じ、ナップサックに入れる。でもそれは負け犬の遠吠えで 電車がとまる。私は立ち上がり、ナップサックを背負い、歩いていく。前にはハゲた頭の男性が歩いている。ああ 今日はなんと運がいいのでしょう 私は愉快になっていた。キャベツ畑がなんだ ハゲ頭の方がだんぜん尊い ハゲた頭を見ながら歩いていく。広尾駅1番出口 でもハゲ頭はね やっぱりハゲ頭で それは当然ハゲてて ああバカみたいだ 若い男女が手をつないで歩いている。

 私は階段を上がっていく。せみの声がある。でもサトミは 千絵が言うにはサトミは虚言癖があるみたいで じゃあホクロは いや でも 私は麦わら帽子をさわる。白人が歩いている。セミの声がある。車が横を通りすぎる。あれはいけない それもいけない そんな世の中で あれがほしい これもほしい もっとほしい もっともっとほしい ジャンジャンジャジャン ジャンジャンジャジャン 私は愉快になっていた。ホクロはとったのかな? 

 私は坂道を上っていく。壁には〈ドイツ大使館絵画コンテスト〉と書かれている。小中学生の絵が並んでいる。横には大きな公園がある。たしか公園の中で それにしても あれはやっぱり テニスコートがある。テニスをしている人たちがいる。

 図書館の横には大きな木が並んでいる。私は歩いていく。自動ドアが開く。カウンターの女性を目が合う。私はサングラスをはずし、カウンターに行く。

「こちらが入館証になります」と女性は言う。「A4サイズより大きなものは持ちこめません。あちらにコインロッカーがありますので、そちらに入れてください」

「はい」

 私はロッカー室に行き、ナップサックから紙をとりだす。麦わら帽子はどうしよう? まあいっか ナップサックをロッカーに入れる。百円玉をとりだし、入れる。鍵を抜きとる。三階 ハーバート・クエイン エイプリル・マーチ エレベーターがある。私は階段を上がっていく。

 三階に着く。多くの人がいる。みんな椅子に座り、机に向かっている。文学はあっちで あってほしいと思ってるのか それともなくてゲームオーバーの方がいいのか でもここには人はいないしハーバート・クエインの本を手にとる人なんて 棚には本がびっしりと詰まっている。棚の側面の文字を見ていく。日本文学 日本文学 あっちかな あっここだな 英米文学 ほらっ英米文学 背表紙を見ながらゆったりと歩いていく。ああこれか あった 本をとり、表紙を見る。エイプリル・マーチ ハーバート・クエイン これだな 本を開く。紙と写真と千円札がある。二つ折りの紙を開く。そこには〈お札はインセンティブです。写真は東京大学の三四郎池のものです。赤丸のところに次の紙があります。竹下舞より〉と書かれている。インセンティブ? じゃあこの赤マルのところに インセンティブ インセンティブ となりに男が立っている。私はとっさに本を棚に戻す。男はその本をとる。私は反射的に男の顔を見る。

「ハーバート・クエインの『エイプリル・マーチ』ですよね。読みますか?」

「えっ、いえ。大丈夫です」と私は言う。

「大学生ですか?」

「えっ?」

「あなたは大学生ですか? それともアメリカ文学に興味があるのか?」

「いや、大学生ではなくて。有名はなんですか、その人?」と私は本を指さす。

「あまり有名ではないですね。コアなファンはいるかもしれませんが、フォークナーやヘミングウェイやフィッツジェラルドに比べたら、知名度はかなり劣るでしょう。ただ、研究するなら、たいへん興味深い作家です。こったものを書いているので、さまざまな解釈ができるのです」

「ああ、そうですか。じゃあ、失礼します」

 私は歩いていく。フォークナー フォークナー フォークナー 名前なのか名字なのか? 階段をおりていく。紙を見る。写真を見る。東京大学の三四郎池 なら英人さんと会って でもそんな偶然は でも今日は土曜で じゃあ月曜に行こうか でもどうせ でも会えたら 夢でもし会えたら素敵なことね あなたに会えるまで眠り続けたい 中年男性が歩いてくる。すれ違う。私は振り返って後頭部を見る。ああもうこれは病気だ でもうれしくなれるわけだし それはそれで でもハゲてないと落ちこむ

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