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私ではない私  作者: 竹下舞
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2章 ミヨと車、浮気のこと

「今、ガソリンがいくらか知ってますか?」

「そうだな。いくらだっけ?」と英人さんは言い、ハンドルをまわす。「ミヨちゃんはガソリン代とか気にするんだ?」

「いえ、別にそういうわけじゃ――」と私は言う。「やっぱり知らないんですね。うちの家族はそういうのをちゃんと知ってて。父も母も、それから姉も。だから〈また上がった〉とか〈少し下がった〉とか言ったりして、そういうのってバカみたいだなって」

「ケチってこと?」

「ケチというか、バカですね、もちろんいい意味で。わざわざ文句を言うためにガソリン代をチェックするってバカげてますよ」

「人間は退屈してるからね。そうそう、人の会話の多くは〈何々を損した〉と〈何々を得した〉というものらしいよ。あとはウワサ話と、若い人なら異性の話。それが会話の大部分で、古今東西そういう会話がなされてきた。誰だったかな、そんなことを言ってた。大学の教授だったかな」

「英人さんは損得の話は好きではないんですか?」

「愚痴も共感があればいいものだよ。ミヨちゃんはガソリン代なんてどうでもいいと思ってるかもしれないけど、ミヨちゃんのお父さんやお母さんはガソリン代に興味があるわけで、だから〈ガソリン代が上がった〉という不満に共感できる」

「そうですよね」

「ミヨちゃんはなにか損したことはある?」

「そうですね」と私は言う。損したこと? なんかあったっけ? 損したこと?「そうですね、ちょっとすぐには思いつきません。あまり損してないのかもしれません」

 英人さんは笑った。

 車の中は静かになる。カーナビの声がある。英人さんは私のことをどう思って 友達か それとも妹の友達か でもどっちにしても 英人さんはハンドルを切る。私は英人さんの指を見る。英人さんの手って神秘的な感じですね ひざの上の指を見る。こうしていると英人さんの恋人になったみたいだ でも英人さんには恋人がいて 私は妹の友達で

「僕もけっこうケチかも」と英人さんは言った。「水筒を持ち歩いてるし、弁当を作ってるし、それにじつはガソリン代も気にしてる」

「どんな弁当を作るんですか?」と私は言う。間違えた お弁当だった

「そうだな。普通のものだよ。夕食の残りとか、卵やハムやソーセージを使ったものとか、そういうの。そういえば、ミヨちゃんは弁当を左から食べるんだっけ?」

「あっ、ブログに書いてましたっけ? 高校に行ってたときはお弁当の野菜が入ってる方を左に置いて、左から順番に食べてました。二段あるお弁当ですね。上がおかずで、下がごはんのやつ。でも高校はやめたし、だから最近はお弁当は食べてません」

「苦手な食べ物はある? ブログにはスクランブルエッグが好きだと書いてたよね、たしか。苦手なものはある?」

「苦手なものは、えっと、シイタケですね。それからタコ」

「僕もタコはそんなに好きじゃないな。でもタコ飯は好き」

「あっ、私もタコ飯は好きです」

「いいよね、タコ飯」

「はい」と私は言う。私は愉快になっていた。

 ごはんは素晴らしくて 本当に素晴らしくて ごはんは趣味で そう 趣味 ごはんとお昼寝は立派な趣味 カーナビの声がある。給食の時間がなんだか嫌で あの子はどうかしてて でもあれは 私は不愉快になっていた。なんか冷凍ミカンを食べたくなってきちゃった 最後に食べたのは 赤信号がある。車はとまる。バイクが横をとおりすぎる。

「渋滞してるね」

「そうですね」

 英人さんは前を見ている。私は窓の外を見る。スーツ姿の男が歩いている。みずほ銀行に入る。だってどうかしてるし あれは絶対に 私は絶対に悪くなくて みずほちゃん でもあれは みずほちゃん 車は動きだす。老婦人が並んで歩いている。同じような髪型をしていて、同じような服を着ている。それにしてもやっぱりあれは

「ミヨちゃんはウエイトレスのアルバイトをしてるんだっけ?」

「あっ、はい、そうですけど」

「どこで働いてるの?」

「うーん、そうですね」と私は言う。来ようとしてるの?「来るんですか?」

「気が向いたら行くかも。でも家の近くでしょ? それなら行く機会はなさそうだ」

 車の中は静かになる。バイトはやめたんです どうして? だって別に 車はとまる。前には車が続いている。カラスがいる。カラスはアスファルトの上に飛び降りる。さっきことんって音がした してないけど でもそんな気が ガラス越しから見る世界はいいものだ 私は愉快になっていた。カラスは空へと飛び立つ。

「カラスは頭がいいよね。道路にクルミを置いて、車に割らせたり」と英人さんはこちらを向いた。「昔に書いた脚本にこんなのがあって。雨が降っていて、電線にとまっているカラスがずぶ濡れになってるんだけど、それを見た女の子が〈カラスは頭のいいと言われてるけど、でも雨宿りをしようと思いつくことすらない。カラスはバカじゃん〉と言って、そういうのを書いた。まあ、この女の子は千絵なんだけどね」

「鳥は濡れても平気なんでしょうか?」

「どうなんだろうね。まあ、平気じゃなかったら雨宿りするはずだよ」

 空はくもっている。対向車線の車はヘッドライトをつけている。(千絵)人生は安定志向じゃつまらない 若いうちは 信号が青になる。前のワゴン車は進んでいき、そのあとを続いていく。カラスの鳴き声がある。若いうちはどんどん挑戦すべき? だから私はアイドルをめざさないと? 私は別に安定した人生でも でも高校を中退して (お父さん)将来はどうするつもりなんだ? だから私はアイドルになるべき? 人生はあっというまで でも結婚すればすべては解決して そう とっぴんぱらりのぷ

「あのう、どうしてプロの脚本家をめざそうとしないんですか?」

「どうしてだろう? そうだな」と英人さんは言った。「千絵に言わないと約束してくれるなら、教えてあげてもいいよ」

「じゃあ、約束します」

「まあ、やめとこうか。いや、言ってもいいんだけどね、まあ、やめとこう」

 道はまっすぐで、青信号が続いている。渋滞も続いている。赤いランプがたくさんついている。宗助と結婚できれば 窓の外を見る。ミスタードーナツがある。明るい店内には多くの人がいる。渋滞じゃなかったら沈黙も ああ でも というか男の人の助手席に乗ったのは初めてかも お父さん以外では 息を大きく吐き、息を大きく吸う。ひざの上のナップサックのひもをいじる。でも私は どうして送ってもらおうなんて

「ブログは千絵と一緒に書いてるんだよね?」

「えっ? なんでですか? 私が一人で書いてますよ」

「千絵が言っててね、ミヨのブログはじつは二人で書いてるんだって」

「ああ、そうですか。なら一緒に書いてます」

「そっか」と英人さんは笑った。「やっぱり二人で書いてたのか。いや、大丈夫だよ。誰にも言わないから。雨のやつはどっちが書いたの? 雨は地上から空まで隙間なく埋まってる、ってのは」

「ああ、あれは千絵ですね」

「そうか。ミヨちゃんが書いてたなら素敵な文章だと思えるのに、妹が書いたと知ると少し印象が変わる。千絵も政治に興味を持つのはやめて、雨がどうのこうのってことばかり考えてればいいのにね。千絵とは中三のときに同じクラスだったんだっけ?」

「いえ、二年生から同じクラスだったんですけど、でも仲良くなったのは三年生かな」と私はナップサックのひもをいじりながら言う。「キレイですね、この車」

「それはどうもありがとう。このハンドルもきっと一流のデザイナーが設計してるから、スタイリッシュでキレイなんだね」

「いえ、外見がキレイとかじゃなくて、車内が清潔感があると言ったんですけど」と私は言う。いや冗談か英人さんが言ったのは 私は後部座席を見る。「清潔感と潔癖症の違いってなんだかわかりますか?」

「そうだな。程度の問題かな? 毎日気にするようなら潔癖症」

「本に書いてあったんですけど、潔癖症は自分のためにキレイにしたいと思い、清潔感は相手のためにキレイにしたいと思う、ということだそうです。だから潔癖症は病気なんです、恋みたいに」

「それなら完璧主義も病気だね。完璧主義は自分のためだから。キューブリックって知ってる? 知らない? そっか。映画監督なんだけど、完璧主義者でね。ミヨちゃんは完璧主義者?」

「ああ、そうですね。違うと思います」

「僕は完璧主義者だよ。カバンにはちゃんとバンソウコウを入れてるし」と英人さんは言った。私は笑った。「それには入ってる、そのカバンには?」

「いえ、入ってないです。私は完璧主義じゃないようです」と私は言う。鼻の下がかゆかったので、手で軽くこする。

「もしかして、眠い?」

「いえ、別に」

「こんなに渋滞するなら電車で帰った方がよかったかもね」

「いえ。でも英人さんが完璧主義者だと知れたし、だから渋滞もそんな悪くないかな」

「ミヨちゃんはさっき〈損することはほとんどない〉と言ったけど、まさにそうかもね」と英人さんは言った。「せっかくだから長い話をしてあげる。退屈しのぎに聞いてて。夏目漱石の『夢十夜』という短編集があって、読んだのはずんぶん昔だから詳しくは覚えてないんだけど、その中にこんな話がある。あるところにブタが嫌いな男がいて、その男は寝てるときにこういう夢を見た。理由はわからないんだけど、男は数えきれないほど多くのブタに追いかけられている。本当にたくさんのブタだよ。数万匹くらいかな。いや、初めは数万匹で、それからどんどん増えていくんだけど。で、男はブタが嫌いだから走って逃げていって、そのあとを数万匹のブタがどかどかと追いかけていく。そのうち草原にたどりついて、男は草原をかけていく。草原の向こうは崖になっていて、男は行き場を失ってしまう。後ろを振り向けば、草原を埋めつくすほどのブタがこちらに向かっていて、崖の方は底が見えないほどの絶壁で、男は追いつめられた」

「どうして崖なんかに逃げたんですか?」

「たぶんブタがあまりにも多かったから、混乱していて考える暇がなかったんじゃないかな。それで、一匹のブタが男を目がけて突進してきた。男はとっさにステッキでブタを殴って、そうそう、男はステッキを持っててね。ブタは崖の下に落ちる。今度は別のブタが突進してきて、男はステッキで殴る。ブタは崖の下に落ちる。ブタは次から次へと突進してきて、男はブタを殴り、崖に落とす。そんなことをくりかえして、でも草原のブタはいっこうに減る気色を見せない。そのうち日は沈み、夜になる。月明かりのもと、男はブタを殴り、ブタは崖から落ちる。朝日が昇っても、また続けている。男はいっこうに疲れないし、お腹がすくことも眠くなることもない」

「どうしてですか?」

「夢の話だから。だからお腹もすかないし、眠たくもならない。ミヨちゃんは夢の中でお腹がすいたり眠くなったりしたことはある?」

「そうですね。たぶんないと思います。英人さんは?」

「僕はあるよ。砂漠でのどがカラカラになって死にそうになったことがある。目が覚めると、本当にのどがカラカラだった。それで男とブタの話だけど、男がいくらブタを崖に落としても、草原はまだブタの大群で埋めつくされている。次の日になっても、男はブタを殴って崖に落とし続ける。その次の日も、そのまた次の日もくりかえして、雨の日も風の日もね。そのうち男は〈このさき永遠にブタを殴り続けないといけないのか〉とうんざりして、〈ブタを殴るのをやめるとどうなるだろう? あんがい犬のようにじゃれるだけなのでは?〉と思う。でもなかなか決心はつかない。男は本当にブタが嫌いだからね。そして三ヵ月後、男はまだブタを殴り続けている」

「三ヵ月もぶったんですか」と私は笑った。

「そうだね。一睡もしないで、食事もとらないで。そのあいだ男は〈火があれば、ブタを焼けるのにな〉と思うこともあったんだけど、でもブタは次から次へと襲いかかってくるし、だから殴って回避するしかなかったんだよ。それで、三ヵ月後についに終わりが見えてくる。男は草原の彼方にブタの最後尾を見つけた。希望の光だよ。男は〈あとあれだけを落とせば、俺は自由になれる〉と思う。次の日には、ブタの最後尾はほんの数十メートルまで来て、〈もう少しだ。あと少しでようやくこの地獄から解放される〉と思う。でもここで悲劇が起きる。男は突進してきたブタをステッキで殴って、崖の方へ飛ばした。でもブタは崖の底へは落ちなかった。数百万匹のブタを崖に落としたから、崖は大量のブタで埋まっていて、そこはブタの大地になってたんだよ」

「すごい光景ですね。夏目漱石って意外とタフですね。タフというか――」

「クレイジー」と英人さんは言った。「で、男に殴られたブタは、ブタの大地に着地したあと、すぐに起き上がり、男に襲いかかった。それと同時に、草原のブタも男に襲いかかって、男は二匹のブタを殴り飛ばす。でもブタの大地ができたおかげで、全方位をブタに囲まれる形になった。だから四方八方から襲いかかってくるブタを、必死になって殴り続ける。これは絶体絶命のピンチだと思いながらも、必死になってブタを殴り飛ばす。そのうち男は〈このままブタを殴り続けて一生を終えるのは嫌だ。ブタに襲われて死んだという話は聞かないし、どうにかなるかもしれない〉と思い始める。でも決心はつかない。男は本当にブタが嫌いだからね。それでも翌朝ようやく決心して、ステッキを彼方に放った。ステッキがブタの群れの中に落ちたとき、男は夢から覚めた。庭ではニワトリが鳴いていた。男はその声を愛おしく思った。まあ、こんなお話だよ」

「おもしろいお話ですね」

「それはよかった。でも、じつは夏目漱石はこんな話は書いてない」

「えっ、どういうことですか?」

「夏目漱石の『夢十夜』の中にブタの話はあるけど、こんな話ではない。この話は僕の創作。演出というのはそういうことでね、さっき僕は〈夏目漱石がこんな話を書いてるんだけど〉と前置きしてから話したけど、そうすることで話に威厳が加わって、つまらない話でも魅力的に思えてくる。まあ、演出とはそうやって先入観を操作して、話の印象をよくすることだね。脚本を書く上で大切なことは、ストーリーではなく演出だよ。当たり前だけど。映画でもテレビドラマでもたいてい原作があるでしょ? 同じストーリーでも演出によって違った見え方になる。さっきの話も主人公に性格をつけると、喜劇にも悲劇にもなる。そうだな、ミヨちゃんはアニメが好きなんだよね。それなら好きなアニメのキャラクターにこの男をあてはめてみれば、話の印象がまったく違ったものになるはずだよ」

 窓の外を見る。街路樹がある。多くの人が歩いている。空はくもっている。銀さんとか いや それより神楽ちゃんの方が それより博士とナノと黒猫とか ナノが豚をぶって 博士がブタをぶつ道具を作って 黒猫は茶々を入れる あの二人でもいいかも わたし気になります! どうしてブタが大領発生したのか気になります! 救急車の音がある。カーナビの声がある。手をつないで歩いている男女がいる。二人とも半袖を着ている。母親と手をつないでいる女の子がいる。彼女はキャップ帽をかぶり、大きなメガネをかけている。アラレちゃんがいいかも んちゃ んちゃ とステッキで殴って その周りをガッちゃんが楽しそうに飛びまわって アラレちゃんがブタに向かって走ると ブタたちは竜巻みたいに飛んで 私は愉快になっていた。救急車の音がある。

「あのう、どうしてプロの脚本家をめざそうとしないんですか?」

「そうだな。じゃあ、答えようか。僕は中学生くらいからずっと女優が好きだったんだけど、そのときどきで好きな女優は変わってて、でもずっと好きだったし、今も好きな女優がいる。そしてこれから先もずっといると思うな。で、もし脚本家になれたとして、有名な映画の脚本を書けるようになったら、僕は絶対に女優と付き合いたいと思う。でもそれは嫌だし、だから脚本家になろうとは思わない」

「どうして嫌なんですか?」

「そこには純粋さがないから。目の前の人を好きになるのではなく、女優という肩書きを持った人を好きになるのって、不純じゃないかな。ミヨちゃんはアイドルになろうとしてるんだよね?」

「まあ、いちおう」と私は言う。間違えた はい そうです

「アイドルの熱心なファンでも、熱愛報道が出たら覚めてしまう人がいるでしょ? それはアイドルのことが好きというより、アイドルの立場も含めて好きなんだよね。恋人がいないという前提があるからこそ好きになる。それと同じで、僕は女優というブランドを好きになる。それっておかしいよね」

「私は別にいいと思いますけど。脚本家をめざすモチベーションとして、女優さんと付き合いたいという気持ちがあっても」

「人それぞれ信じてるものはあるよ。このことは千絵には秘密だからね」

「はい」

「まあ言ってもいいんだけど。自分で言うのもなんだけど、僕は心がとても広いし、だからミヨちゃんが千絵に告げ口したとしても大丈夫」

「でも言いません。私は口が堅いんです」と私は言う。英人さんは笑った。「本当に口は堅いんですよ」

「それならミヨちゃんを信じて、もう一つ秘密を言おうか。これは本当に誰にも言っちゃいけないよ。僕のプライドにかかわることだし、誰かに言ったら僕のプライドをおとしめることになるから。誰にも言わないと約束してくれる?」

「はい、約束します」

「それなら言おうか。もう二年くらい前のことだけど、僕は浮気をしたことがある」

「えっと、どういうことですか?」

「前の恋人と付き合ってたときのことなんだけど、ある日その人とケンカをした。相手のわがままを受け入れるのが面倒になって反発したら、口論になった。次の日にアルバイトに行ったとき、たまたま新人の子がいて、その子と話してたら、たまたま〈体から始まった関係はうまくいくと思うか?〉という話題になって、いつのまにか暗黙の了解が成立していて、ホテルに行った。一回限りで終わればよかったんだけど、そうはいかなくて、それで恋人が二人になって、そういう状態が半年くらいは続いたかな。まあ浮気というより二股だね」

「それでどうなったんですか?」

「別れたよ、どちらとも。できるかぎり相手を傷つけることなく、まあ、少しずつ愛想を悪くしていって、それで〈別れよう〉と言って、わだかまりなく別れた」

 私は不愉快になっていた。私の知らない女のことなのに 私とは関係のないことなのに バスがとまっている。いくつものヘッドライトが流れていく。空はまだ暗くない。信号が黄色に変わる。でも英人さんは私の口の堅さを試すために じゃあウソ?

「男の人ってみんな浮気をするんですか?」

「する人はするし、しない人はしない。人それぞれだよ」

「でも、誘われたらみんな――」

「たしかに機会がないからしない人もいるね。でも機会があっても断る人もいる。たぶん恋をしてたら、いくら魅力的な女性から誘われても断るはずだよ。恋をするってそういうことだよね」

「じゃあ、英人さんは恋はしてなかった?」

「たぶん。相手のことを大切には思ってたよ。でも夢中になってたかどうかはわからない。たぶんなってなかったと思う」

 外には若い男女が歩いている。左の女性と目が合う。英人さんの恋人に見られたかも それはそれで でもあの人たちは浮気とは無縁で ホントに? スーツを着た男性がいる。右手にカバンを持っている。ファミリーマートがある。雑誌を立ち読みしている人がいる。自転車が走っている。どうして私に? いや でも英人さんは私以外にそんなことを

「あっ、そこを左です」

「ここ? ここを左ね。カーナビなんてその程度のものだよ」

「はい」

「ミヨちゃんは聞き上手だよね? 人からそう言われない? なにか安心感があって、ついつい余計なことまでしゃべってしまって」

「あのマンションです」と私は指さす。「私って安心感ありますか? そんなこと初めて言われました」

「そう? ミヨちゃんといると安心感があるよ。母性を感じる」

「えー、母性ですか?」と私は笑った。「私はまだ十七歳ですけど」

 私は愉快になっていた。でも浮気したって? あれはウソですよね? でももう ドアをあける。じゃあ宗助は そう 私とは関係のないことで 私は宗助と

「今日は本当にありがとうございました」

「うん。じゃあね」と英人さんは言い、右手を軽くあげる。

「さようなら」と私は言い、ドアを閉める。

 英人さんは私の方を向き、また手をあげる。私も同じようにする。車は走っていく。赤いランプがつく。角を曲がる。

 私はマンションに入る。郵便受けを確認する。封筒が入っている。封筒の表には私の名前があり、裏には〈竹下舞〉という名前がある。わーい わーい うれしい 私は横にくるりと回る。監視カメラが目につく。ってバカみたいだ 私は愉快になっていた。幸せはとぎれながらも続くのです でもやっぱりデビューしたての小説家だし返事が来るのは当たり前か でもうれしいな

 指でピストルを作り、エレベーターのボタンを押す。うつむいてスニーカーを見る。もう一度読んでみようかなあの小説 竹下舞さんはどんな人なのかな? やっぱりキレイな女性か でもあんがいブスかも 美人なら顔を公開してるはずだし エレベーターのドアが開く。中に入る。私ももう一度書いてみようかな でもどうせダメだろうな 適当に書いて小説家になれるほど簡単ではないし 音が鳴り、エレベーターのドアが開く。私はゆったりと歩いていく。

 玄関をあけ、スニーカーをぬぐ。それにしても返事が来るなんて あれは初めてのファンレター? ナップサックをベッドに置く。腕時計をはずす。押し入れから雑誌をとりだし、ページをめくっていく。竹下舞のデビュー作が載っているページに行きつく。そこには〈「気持ちは変わっていくと思うけど、ずっと正直でいようね」愛の誓いなんてその程度でいい〉と書かれている。やっぱりブスかな ひきこもりだったみたいだし いや ひきこもりでも それにしても素敵な文章 封筒を手にとり、ハサミで切る。中身をとりだし、手紙を読む。どういうこと? たしかに退屈しているとか書いたような気もするけど 封筒の中を確認する。手紙を見る。宝探し? どういうこと? 水色の封筒の中には何が カレンダーを見る。今日は六月二十七日で だから明日まで 手紙を見る。


あなたからもらったお手紙は、私が小説家になって初めてもらった手紙です。そして今のところ、あなた以外の読者からは手紙は来ていません。だから感激してお手紙を読ませていただきました。

いきなりですが、もし退屈しているのなら、宝探しをしてみませんか?

新宿駅のお忘れ物承り所に問い合わせてみてください。

そこに新宿駅の5・6番線の女子トイレに落とされていた水色の封筒が届いているはずです。封筒の裏には「竹下舞」と書かれています。もちろん封筒を落としたのは私です。そして封筒を届けるのも私です。予定では6月26日の正午に届けます。忘れ物は2日間は落とした駅にあるようですが、それ以降は東京駅に移されるようです。

                        竹下舞より

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