1章 奈菜と千絵
六月二十七日です。
奈菜はぬいぐるみを両手で持ち、にらめっこをしています。色あせたピンク色のブタのぬいぐるみです。スピーカーからは音楽が流れていますが、奈菜はそれを聴いてはいません。いつものことです。音楽はただ流れているだけです。
奈菜はぬいぐるみをベッドに置き、立ち上がりました。そしてステレオプレイヤーの電源を切り、またベッドに座り、また立ち、今度は椅子に座りましたが、少しするとまた立ち、窓辺に向かいました。暇なのですね。
窓の外はのどかな街並みが広がっています。平日の昼すぎなので、子供の騒ぐ声はありません。空は雲で閉ざされています。雨の気配はありません。
奈菜はベランダに出て、猫や鳥などの動物を探しました。しかし猫も鳥も見当たりませんでした。しばらくぼんやりしたあと、部屋に入り、またベッドに座りました。ただ、すぐに立ち上がり、冷蔵庫へと向かいました。それは空腹やのどの渇きを感じたからではありません。暇だからです。
奈菜の昼はいつも暇な時間であふれているのです。
ここで奈菜の紹介をしておきましょう。
奈菜はこれまでの人生の大部分を自宅ですごしてきました。一日十時間以上もテレビやパソコンに向かうこともありましたし、一日二十時間以上もベッドの上ですごすこともありました。奈菜の日常は、テレビやパソコンの中か、ベッドの上にあったのです。きっと奈菜は箱入り娘だったのでしょう。そう、たしかに箱入り(ひきこもり)の娘でした。
奈菜は小学五年生の二学期の途中から卒業するまで、家を出ることはまずありませんでした。父に連れられてカウンセラーのもとに行っただけで、あとはずっと家にいました。中学進学を機に、また学校に通いだしましたが、半年後にはまた不登校になりました。しかし、今度はある事情により一人で外出しなければなりませんでした。
奈菜は父子家庭で育ちました。父から聞かされたところによると、母は奈菜が三歳の頃に病死したそうです。だから奈菜にとって母は一枚の写真の中にしかいません。そこには声も匂いも性格もなく、表情も一つしかありません。笑顔です。奈菜はその笑顔に憂いを見ます。しんみりとした憂いを。
不登校になった頃に、何度も母のことを考えました。〈母がいれば、こんなことになることはなかったのではないか?〉と責任転嫁しようともしました。しかしいくら考えてみても事態が変わることはなく、いつのまにか母のことを考えるのをやめていました。
とにかく母がいなかったせいで、不登校になっても家の中だけで生活することはできませんでした。生理用品を買うために薬局に行かなければならなかったのです。もちろん父に買ってきてもらってもいいのですが、思春期の奈菜には恥ずかしかったのです。結局、奈菜が完全なひきこもりだったのは、小学五年生の二学期の途中から中学校に入学するまでの一年半だけです。
不登校の問題点は〈私〉というものが固定してしまう点にあります。他人に接することで、〈私〉は他人に沿ったものに変化します。世の中に接することで、〈私〉は世の中に沿ったものに変化します。学校生活を送ることにより、自分の価値観が世の中の価値観に近づくのです。しかし価値観が形成される成長期に、他人と接することがないと、〈私〉が他人に沿ったものに変化することなく、独善的になってしまいます。もちろんこれは一般論であり、一概には言えませんが、奈菜が高校をサボるようになったのは独善的な判断のためでしょう。
奈菜が中学校に通ったのは半年だけですが、高校には進学しました。
中学時代の多くを自室ですごした奈菜でしたが、たまに漫画喫茶に行くこともありました。そこでインターネットに出会いました。その頃の奈菜はインターネットこそが世界の広げる最良の手段だと考え、父にお願いをして、インターネットが使える環境を整えてもらえることを条件に、高校進学を決めたのです。
それまでの奈菜は教科書に目をとおすだけで、ノートやペンを使って勉強をすることはありませんでしたが、それを機に本格的に勉強を始めました。そしてわずか一年足らずの詰め込み学習で、みごと学力の高い高校に合格しました。要領はいいのですね。
その高校では校則によりアルバイトは禁止されていました。しかし奈菜はその校則を知る前に――すなわち入学してすぐに――薬局の店員として働き始めました。これは高校に入学する前から決めていたことです。奈菜は〈友達を作ろう〉や〈部活に入ろう〉と思うことはなく、〈アルバイトをしよう〉と思っていたのです。
だからか、奈菜の高校時代はすぐに終わりました。中退したのです。奈菜はいちおう友達を作ろうとはしましたが、同級生と一緒にいても楽しくなく、逆に窮屈だったので、自然と一人でいるようになりました。そのうち学校に行くことが無意味に思えてきて、学校をサボるようになりました。その先にあったのが中退です。
結局、奈菜は勉強するために進学したというより、日常的にインターネットを使ってみたいという欲求のために進学したのでしょう。そして目標が達成されたので、学校に行く意味がなくなったのでしょう。
奈菜は高校を辞めたあとフリーターになりましたが、そのうちアルバイトも辞めてしまい、ニートになりました。奈菜がお金を使うのは、漫画喫茶とカラオケとDVDレンタルと洋服やお菓子を買うことくらいです。お金がなくなればアルバイトをして、お金が貯まればニートに戻る、そんな気ままな生活を送りました。
その頃の奈菜の楽しみは、漫画とテレビアニメでした。インターネットはそれらの情報を知るための道具になっていました。奈菜はインターネットで他人とつながりを持とうと考えることはなかったのです。
そんな生活は十九歳の夏まで続きました。十九歳の夏に――すなわち昨年の夏に――奈菜の生活に新たな要素が加わりました。それは千絵との交流です。
夏の夕暮れ時に、千絵は路上でギターを弾きながら歌をうたっていました。奈菜はそれを遠くから横目で見ていました。千絵が片づけを始めたので、周りにいた人たちは――と言っても三人ほどですが――去っていきました。千絵は片づけを終えると、奈菜に近づき、声をかけました。
「こうやって駅前でアコギを鳴らしながら歌う方がバイトするよりもお金になるんじゃないかって思ってたんだけど、なかなか難しいんだよね。たぶんお金を入れてもいいと思ってる人もいるはずなんだけど、雰囲気ってあるでしょ、雰囲気って。誰もお金を入れないから自分も入れづらいし、だからとまどっちゃうんだね。もし誰かがお金を入れたら、もう一人も入れて、それにつられて次々と、なんてうまくはいかないね。さっき見てたでしょ? まあ、見てなくても聴いてたよね? 聴いてなくても聞こえてたよね? はい、だからここにお金を入れてください。善は急げって言うし、はい、どうぞ。それともお金を持っていない人ですか? うん、私もお金を持っていない人なんだけど、うち、母子家庭なんだよね。しかも兄がいて、兄は大学に行ってんだけど、私は高校生ね、高校一年生、花のJKですよ、JK。お姉さんは大学生ですか? お金かかりますよね、大学って。あっ、違うの? そっか。何してる人ですか? というか、私は蒼井千絵と言います。アオイチエ、名前からはクールなイメージがあるように思えるけど、ぜんぜんそんなことはなくて、けっこうおしゃべりで、ほらっ、さっきからずっとしゃべってる。ダメだね、自分のことばっかしゃべってたら。で、あなたのお名前は?」
奈菜は自分の名前を答えました。名字は名取なので、名取奈菜です。
そのあと千絵に誘われて駅前の飲食店に行き、そこで少し話をして、二人は友達になりました。奈菜はどうして千絵と友達になれたのかわかりませんでした。これまでの人生でそういう経験がなかったのです。寂しい人生を送ってきたのですね。
それから奈菜は宗助とも友達になるわけですが――それだけでなく、恋人にもなるわけですが――これはあとで話しましょう。
先週、奈菜は二十歳になりました。奈菜は長いあいだ誕生日プレゼントとは無縁で生きてきましたが、二十歳の誕生日に、およそ十年ぶりの誕生日プレゼントをもらいました。千絵からある随筆集をもらったのです。
さて、時刻を現在に戻します。
六月二十七日水曜日の昼すぎです。奈菜は冷蔵庫に向かっています。部屋から台所までは二十歩ほどで、時間にすると十秒足らずです。奈菜は冷蔵庫の中身をだいたい把握しています。それどころか、缶詰やパスタやインスタント食品の量もだいたい把握しています。主婦としては有能なのですね。
奈菜は冷蔵庫からオレンジジュールをとりだし、コップにそそぎました。そして居間のソファーに座り、千絵からもらった随筆集を開きました。父は仕事に行っているので、家には誰もいません。
奈菜が開いたページには〈次に出会う花たちはどこで私を待つのでしょう〉という無機質な文字があり、そのそばには〈ミツバチは菜の花に集まる。私はミツバチなのか? 菜の花なのか?〉という騒がしい文字があります。千絵の文字です。その下には菜の花畑にいる一匹の動物の絵があります。千絵の絵です。奈菜はその動物が何なのか考えました。イノシシかタヌキかカピバラか、あるいは太ったイタチにも見えます。
奈菜はページをめくりました。まっさきに千絵の絵が目につき、次に〈相手の立場で考えるという当たり前のことを忘れてしまう。ライ麦畑から落ちた者は〉という千絵の文字が目につき、最後に機械の文字が目につきました。整った列より乱れた列の方が目につきやすいのですね。
奈菜は文字を追うのに飽きると、コップを手にして、それを見つめました。それにも飽きると、自室に戻り、パソコンの電源をつけました。パソコンが起動するまでのあいだ、またコップを手にとって見つめました。その行為には特に意味はありません。退屈さがそうさせているのです。
パソコンが起動すると、奈菜はさっそくインターネットを開き、マウスを動かしたり、クリックをしたりしました。そのあいだ。視線は画面から離れることはありません。集中しているのですね。
画面にはミヨのブログが表示されています。そのブログのプロフィール欄によると、ミヨとは今年の三月に高校を中退して、今はウエイトレスのアルバイトをしている、アイドル志望の十七歳の女の子です。しかしその中には嘘が含まれています。インターネット上は本当の場所ではなく、仮の場所なのです。
奈菜は画面上の文字を読みました。
あめふり
ふと思ったんだけど、雨ってずっと降ってるよね。ずっとずうっと降ってるよね。そんなの当たり前だけど、でも、雨ってずっと降ってんな、なんて思ったり。
で、そのときふと思ったんだけど、雨は地上から空までところせましと埋めつくされてるんだよね。すごいよね、雨って。だって地上から空まで全部に雨が埋まってんだよ。とぎれることなく埋まり続けてんだよ。すごいよね。すごすぎだよね。
そんな感じのミヨでした。ばいちゃ
奈菜はそれを読んだあと、コメント欄を見ました。そして愉快になりました。たとえ知らない人であっても、人とつながることは嬉しいのですね。
コメントを読み終えると、手帳を開きました。奈菜はふだんから気になる言葉をメモしていて、パソコンを立ち上げたときに調べるのです。この日に検索したものは〈ピンキーリング〉〈化粧 アレルギー〉〈コック 帽子〉〈どちらにしようかな天の神様の言う通り〉です。どれも特に知りたいわけではありませんが、たまに興味深いページに行き当たることがあるので、手当たりしだいに検索するのです。
奈菜は〈どちらにしようかな〉という数え歌のページを見ています。地方によりさまざまなバージョンがあり、海外にも似たように数え歌があるようです。奈菜は少し興味を持ちましたが、すぐに飽きてしまいました。
それからしばらくは情報サイトを見ていましたが、ふと〈鳥はエサを食べるとき、何回ほど噛むのか?〉と疑問に思い、〈鳥 噛む〉で検索しました。すると、焼き鳥や手羽先の画像が出てきて、愉快になりました。気をとりなおして、〈鳥 噛む 回数〉で検索しました。しかし適したサイトはなさそうだったので、〈動物 噛む 回数〉で検索しました。そこでようやく鳥の噛む回数がわかりました。鳥はくちばしで千切って飲みこむか、丸飲みするようです。そもそも歯がないので、噛むという行為はできないのですね。
そのあと奈菜は〈猫はネズミを丸飲みするのか、それとも骨は食べないのか?〉と疑問に思い、検索しました。しかしよくわからなかったので、千絵に会ったときにたずねることにしました。千絵は動物に詳しいのです。
奈菜はインターネットで天気予報を調べてから、出かける準備をしました。天気予報によると雨は降ることはなさそうでしたが、鞄に折り畳み傘を入れました。
奈菜は外を歩くときには、両手を軽く握り合わせて歩きます。腕をふったり、腕を横に垂らしたりするより、そうした方が落ちつくのです。おそらく奈菜はそうなったときから、外を歩くことに不安を覚えだしたのでしょう。
徒歩、電車、徒歩で、千絵の家の近くまで来ました。時刻は昼の二時四十分で、約束の時間まであと三十分ほどあります。奈菜は児童公園に行き、ブランコに座りました。そこでぼんやりしていると、そのうち千絵について考えていました。
千絵は変人に見られたいので――あるいは感性の強い子に見られたいので――女子高生らしからぬ話をすることがあります。たとえば、一ヵ月前に奈菜は千絵から死刑制度に関する話を聞かされました。もちろん奈菜の興味がそそられる話ではありませんでした。
千絵はその話を終えたあと、こう言いました。
「人を殺そうと思ったことはある? って、あるわけないよね」
「まあ、そうだよね」と奈菜は何気なしに返しました。
「私はあるんだ。人を殺そうと思ったことはないけど、人を殺す機会がめぐってきたらいいな、なんて思ったり。罪悪感をかかえてる人はどんなときでも謙虚だよね。花瓶に手があたって、落ちて割れたら、そのあとは少しのあいだ他人に優しくなれる、そういうことね。罪悪感があれば謙虚になれる。で、私は謙虚さを手に入れるために人を殺す機会があればいいなって、そう思うんだ。もちろん刑務所には入りたくないし、絶対にね。だから普通に人は殺さないけど、刑務所に入らなくてもいいような人殺しの機会がめぐってきたら、なんて。川で溺れてる人がいて、川辺には私以外は誰もいなくて、私はそのまま見守るの。その人が溺れ死ぬと、私は永遠に続く罪悪感を得て、いつも心の底から謙虚でいられる」
このとき奈菜は千絵のことを気楽な人だと思いました。そして〈私以外にもそんな野蛮なことを口にするのかな? そんなことをしたら仲間外れにされるのでは?〉と疑問に思い、千絵に問いかけました。千絵の答えはノーでした。千絵は少なからず分別のある人なのですね。しかし千絵の次の言葉は分別を超えたものでした。
「私は本当にそんな機会がめぐってきたらいいなって思ってんだよ。冗談じゃなく本気でね。でもこんな話は普通の人にはできないよね。親友と呼べるような人にしかできない。でも私の中にはそういう感覚が確かにあるし、人を殺して罪悪感をかかえて生きていけたら素敵だなって、本当にそう思う」
奈菜は千絵の真面目な顔を見て、居心地が悪くなりました。たとえば、目の前で花壇の花が踏みつぶされると居心地が悪くなります。それと同様に、目の前の人が人を殺す機会がめぐってくれば素敵だと言えば、居心地が悪くなるのです。奈菜はそういう価値観を持っているのです。
その日の夜、ベッドの上で、奈菜は不登校になったきっかけを思いだし、千絵とはもう会うべきではないかもしれないと真剣に考えました。このまま千絵と一緒にいると何かが狂ってしまうのではないかと思えてきたのです。しかし、その〈何か〉とは具体的に何のことか見当もつかなかったので、実感がわくことはありませんでした。ぼんやりとそう思えただけです。それでも、千絵が以前に言っていた冗談を思いだすと、少し不安になりました。
千絵が言っていた冗談とはこういうものです。
「家族みんなが交通事故で死んだら、葬式はまとめてするんだろうけど、でも考えてみて。その葬式での香典はすごいことになるよね。家族五人が死んだら、五人分の香典が必要で、葬式に行く人は大変だ」
奈菜はそのときも居心地が悪くなりました。
奈菜はベッドの上でいろいろと考えましたが、そのうちどうでもよくなってきました。だから〈なるようになる〉という結論を出し、眠りにつきました。それは不登校になったときにも、高校を中退したときにも、出した結論です。奈菜の考えはいつも〈なるようになる〉という結論でしめくくられるのです。ただ、楽観的な性格かというと、そうではありません。決断力がないゆえに、〈なるようになる〉と放擲するのです。
さて、約束の時間が近づいてきたので、奈菜はブランコから立ち上がり、歩いていきました。
やがて千絵の家に着きました。そこはマンションの五階です。家には千絵しかいませんでした。奈菜は千絵の部屋に通されました。そしていつものように、壁の時計に目をやりました。それは短い針が7付近をさし、長い針が1付近をさしていました。奈菜は何時なのかわかるまで十秒ほどかかりました。もちろんついさきほど自分の腕時計で確認したばかりなので、時間はわかっているのですが、この部屋に来ると、いつも壁の時計を暗算して時間を割りだすのです。
その時計は千絵が中学卒業のときに数学の先生からもらったもので、数字が8までしかない一風変わったものです。すなわちその時計は、本来12のあるところに8があり、3のあるところには2があるのです。12時間の時計は一日を二つに分けるものですが、8時間の時計は一日を三つに分けるものです。数学の先生の考えによれば、一日を三つに分ける方が理に適っているようです。三つに分ければ、第一期(0時から8時)を睡眠時間、第二期(8時から16時)を学校時間、第三期(16時から0時)を自由時間とできるわけです。
とにかく今は昼の三時すぎです。ふだんは千絵は高校にいる時刻ですが、高校は創立記念日で休みなので、家にいるのです。
千絵はさっそく創立記念日の意義のなさについて話し、意義のないことの素晴らしさについて話し、ミヨのブログについて話し、昼食のメニューについて話しました。千絵の言葉はとぎれることはありません。次から次へと出てきて、いつのまにか別の話題になっています。
そのうちお酒のテレビコマーシャルの話になりました。
「夕方からお酒のCMがばんばん流れてんじゃん? テレビでね。あれってなんかおかしいよね。百年前にアメリカでは禁酒法は失敗に終わったし、だからお酒は必要なものかもしれないけど、でも推奨されるものじゃないし、だって飲酒運転をする人はあとを絶えないわけだし、アル中の人もいっぱいいるし、急性アルコール中毒で死んでしまう人までいるんだから、テレビでお酒を推奨することはどう考えてもおかしいよ」
「でも煙草を吸う人は少なくなったよね」
「そうそう、煙草は有害だからという理由で、テレビドラマでも煙草を吸うシーンは見かけなくなった。でもそれはいいことだと思うんだよね。健康に悪いってのもそうだけど、服に臭いがつくし、歯にヤニがつくし、自分では気づかないうちに悪臭をばらまいてるわけだから、煙草なんて地球上から消滅した方が人類のためだよ」
「私も煙草は嫌いかな。歩き煙草をしてる人を見ると嫌になるし」
「そうだよね。煙草を味わってんじゃなくて、ただ習慣になって吸ってるだけなんだよね。煙草を吸う人はカッコいいって感覚ってない? 漫画の影響なのかな? 反逆の証というか、悪く言えば大人の真似ごとなんだけど、でも煙草を吸うポーズは絵になるというか。まあ、それは見た目だけだから、遠くから見るぶんにはいいけど、近寄ればやっぱ臭いが出るし……」
このように会話は千絵が引っぱっていきます。
お酒と煙草の話題が終わると、千絵は母のおせっかいについて話しました。そのとき、玄関の方から音がしました。英人が帰ってきたのです。英人とは千絵の兄です。
英人は千絵の部屋の扉をノックして、扉を開け、〈ただいま〉と言いました。それからすぐに奈菜を見て、〈どうもごめんね、こんな汚い部屋で〉と言いました。それに対して千絵は〈汚いんなら入ってこないでください。すみやかに出ていきなさい〉と言いました。英人は笑い、扉を閉めて向こうに行きました。
奈菜は英人のことを尊敬しています。それは英人が有名大学に通っているためと、大学の映画サークルで脚本を書いているためです。先月に奈菜は千絵に連れられて、英人が脚本をつとめた映画を見ました。それがおもしろかったので、英人のことをすごい人だと思うようになったのです。それゆえに千絵に少し嫉妬しています。奈菜は父子家庭で育ち、千絵は母子家庭で育ち、二人の違いは兄の有無に思えるからです。
千絵は兄のやる気のなさについて話し、そのあと猫について話し始めました。奈菜はふと猫のネズミの食べ方のことを思いだし、そのことを切りだそうとしました。しかしなかなかタイミングがつかめず、そのうちどうでもよくなってきました。
「猫は気分屋だと言えばそうなんだけど、それは正直でいるからなんだよね。猫は犬みたいにコビを売ったりしないし、いつでも正直でいて、猫って爽快だよね。ああやって生きていけたら、どんなにいいか」
「そうだよね」と奈菜は同調しました。「愛の誓いは〈気持ちは変わっていくと思うけど、ずっと正直でいようね〉というものだし、正直でいるのっていいよね」
「それいいね。愛の誓いは、気持ちは変わっていくけどずっと正直でいようね。永遠の愛だね。ずっと好きでいるのって難しいけど、というか、同じようにずっと好きでいるなんて不可能だけど、でも正直でいることなら、いや、じつはそれが難しくて、よく見られたいと思ってついつい見栄をはったり」
それから千絵は恋人について五分ほど話しました。その五分ほどのあいだに奈菜が言ったことは〈そうだよね〉という同調と〈うん、そういうのわかる〉という共感と〈へー、そうなんだ〉という興味だけです。千絵がほとんど一人でしゃべっていたのですね。
千絵にとって奈菜はそういう存在です。千絵は学校の友達とは限度をわきまえて話をしますが、奈菜とは勝手気ままに話をするのです。だから一人でとめどなくしゃべってしまうのです。
千絵の話が一段落ついたので、奈菜は猫のネズミの食べ方について質問しました。千絵が言ったところによると、〈骨も食べるよ。頭は残すこともあるけど、骨とか毛とかは食べる。ライオンだとシマウマの内臓を食べるんだけど、猫の場合は体ごと食べるみたい〉ということでした。そして千絵はネズミの汚さについて話し、それを洗うことなく食べる猫の無能さを指摘して、最終的には〈野生で生きていくのは大変だし、動物園やペットショップにいる動物はめっちゃ運がいい。宝くじで一等が当たるくらいだな〉という結論に行き着きました。