13章 奈菜とミヨ
ここでミヨの話をしましょう。
ミヨが誕生したのは、千絵が中学二年生の頃です。
ミヨは誕生したときにはすでに中学二年生でした。初めの頃のミヨには壮絶な過去がありました。それは〈父親から性的虐待を受けたことにより男性恐怖症になり、父親は横領の罪で服役中で、母親は怪しげな宗教団体にどっぷりと浸かっていて、姉は家出している〉というものです。しかし千絵が中学三年生になった頃には、ミヨの過去はありふれたものになっていました。それは〈いたって普通の家庭に生まれ、両親は共働きだが、面倒見の良い姉がいる〉というものです。
ミヨの過去は何度か書き換えられましたが、初めの頃から変わらなかったことが二つあります。一つ目は女性アイドルが好きなことで、二つ目は千絵と親友であることです。ミヨは物心つく前から歌って踊ることが好きで、中学生になると将来アイドルになることを目標とするようになりました。また、中学校で千絵と出会い、二人は親友になりました。いくら過去が変わっても、その二つだけは変わることはありませんでした。その二つこそがミヨの原点なのです。
千絵は小さい頃から女性アイドルが好きでした。しかし中学二年生になると、そのことが劣っているように思えてきました。〈アイドルは子供向けのもので、大人が好きになるものではない〉と考えるようになりました。十四歳にしてそう考えるようになったのです。背伸びをしたい年頃なのですね。そこで、千絵は頭の中にミヨという架空の人物を作りました。そうすることにより、テレビでアイドルを見たりアイドルの曲を聴いたりするのは、ミヨのキャラ付けの一環だと言い訳ができるのです。その言い訳は誰かに向けたものではありません。自分自身のためのものです。
千絵が中学生の頃には、ミヨは千絵の日記帳の中にだけ存在していました。千絵が高校生になると、ミヨの居場所は日記帳からネット上に移りました。千絵はミヨというハンドルネームでブログを始めたのです。そうしてミヨは、千絵の中だけの存在から、信じている人の存在になりました。サンタクロースと同じですね。実際にはいませんが、信じている人の中にはいるのですね。
ブログの執筆者は初めは千絵一人でしたが、半年後には千絵と奈菜の二人になっていました。そのときには奈菜はミヨになっていました。
千絵と奈菜の出会いは、駅前でギターを弾きながら歌っている千絵を奈菜が見ていたことから始まりましたが、その日に千絵は奈菜が不登校だったことを知り、奈菜にミヨになってもらうことにしました。千絵が言ったところによると、〈友達がいない人なら嘘をついてもバレないし、だから奈菜さんはミヨになって。私は奈菜さんのことをミヨと呼ぶし、私の友達にも奈菜さんのことをミヨとして紹介するから〉ということでした。
そのようにして、ミヨは架空の存在から実際の存在になりました。
奈菜にとってミヨでいることは楽なことでした。初めのうちはそうでした。しかしそのうちミヨでいることに違和感を覚えだし、二つのことに気づきました。一つ目はこれまでの人生で〈奈菜〉と呼ばれた回数より〈ミヨ〉と呼ばれた回数の方が多いことです。二つ目はいつまでもミヨではいられないことです。ある時期が来たら――おそらく千絵が就職をしたら――ミヨという虚像は不要になります。夢はいつか覚めてしまうものなのですね。そういうことから、奈菜は〈3+4=7〉という数式を眺めては、感慨にふけっていたのです。〈3+4=7〉とは〈ミ+ヨ=ナナ〉です。
七月二十七日金曜日です。
奈菜は竹下舞から指定された喫茶店に着きました。中に入ると、ウエイトレスに案内されて、窓際の席に座りました。そして鞄から赤い林檎をとりだし、机の上に置きました。竹下舞の指定は〈机に赤い帽子を置いておいてください〉ということでしたが、奈菜の考えによれば、めだつものがあればいいのです。たしかに赤い林檎はめだちますね。
時刻は午後一時半です。指定時間は午後二時なので、あと三十分あります。
奈菜はオレンジジュースを注文したあと、何もしないで座っているのも窮屈だったので、竹下舞の短編小説を読み始めました。それはコインロッカーの大きな封筒に入っていたものです。
『私ではない私』
一
はじめて恋人ができました。女性の体はやわらかいものです。
小学生の頃は恋というものを知りませんでした。小学校を卒業する頃には、ふくらんだ胸に対する興味はありましたが、恋というものは考えるにも及ばないことでした。ですから恋をしたいと思うことさえありませんでした。
中学生になっても、やはり恋とは無縁でした。それどころか、体の成長が遅かったためか、学校の性教育が厳かだったためか、あるいは交友関係が狭かったためか、中学校を卒業するまで赤ちゃんができる過程を知りませんでした。もちろん女性のお腹の中で赤ちゃんが大きくなることは知っていましたが、その前の赤ちゃんが生じる原因については知らなかったのです。大多数の人には宇宙の誕生は考える価値もないことのように、中学生の頃には赤ちゃんの作り方は考える価値もないことだったのです。
赤ちゃんの作り方を知ったのは、高校一年生の秋です。この頃も性について公然と口にするような人とは交友を持つことはありませんでしたが、あることをきっかけに性について知りました。
それは休み時間のことでした。後ろの席では男子生徒が二人で何かを話していました。その二人とは友達ではありませんでしたが、自分の席に座っていると自然と会話が耳に入ってきたので、否応なく聞きました。二人の雰囲気からは一方がもう一方をからかっているようでしたが、その会話の要領を得ることはできませんでした。なぜならその会話の核心であるカタカナ四文字の言葉を知らなかったからです。
休み時間が終り、授業がはじまったので、さっそくさきほど覚えた言葉を辞書で調べました。そこで自慰というものの存在を知りました。しかしそれは理解できないことでした。海を知らない者に海を言葉で説明しても理解できないのです。実際に海を見なければ理解できないのです。ですからそれは未知なるものとして記憶の底に沈んでしまいました。
季節は冬に移りました。ある日の帰り道、道端に成人向け雑誌が落ちていたので、自転車のかごの中にすばやく入れました。人通りのない場所に来ると、それを鞄の中に隠しました。帰宅して家に誰もいなかったので、さっそくその雑誌を開きました。
その雑誌の内容は覚えていませんが、その雑誌に独特の匂いがあったことは覚えています。それは良い匂いではありませんでしたが、不快な臭いでもありませんでした。雨上がりのアスファルトの匂いのように、快も不快もない独特の匂いでした。
雑誌をとおして、ようやく赤ちゃんの作り方を知ったのですが、それはあまりにも衝撃的なことでした。その当時は女性の裸を見たいと思っていながら、女性の前で裸になるのは恥ずかしいとも思っていたのです。
性についての知識を得てからも、他人と共有したいという欲求はめばえませんでした。自分一人で満足していたのです。友達もいず、他人との接点もほぼなく、一人で生きていたので、恋に落ちることもありませんでした。
大学進学を機に、一人暮らしをはじめました。一人暮らしはすばらしいものでした。それまでの生活圏は自宅と学校だけでしたが、一人暮らしをしたことにより生活圏がぐんと広がりました。
まずしたことは歩くことです。街をただ歩き回ることです。たとえば〈ある駅から隣の駅まで歩き、そして電車で元の駅まで戻る〉という不毛な歩行をしました。それは趣味としての散歩ではありません。健康のためのウォーキングでもありません。純粋なる歩行です。そして歩行以外にしたことはありません。大学時代の思い出は、街を歩いたことだけです。そういう大学生活だったのです。高校生活での教訓を生かすことなく、友達も作らず、一人で生きていました。
大学生活は長くは続きませんでした。二年目の秋に中退したのです。それは相当の楽天家だったために、小説を書けばお金を稼げると思いこんだからです。
まずは両親に連絡をしました。〈大学の授業料はこの口座に振り込むように。また一ヵ月の仕送りをあと一万円増やしていただけるとありがたい〉と。幸いにも実家はまずまず裕福だったので、お金はまずまずありました。両親は毎月これまでより一万円多い仕送りを振り込んでくれ、春には授業料を振り込んでくれました。
通帳の中に大金があっても、倹約した生活を送りました。もし振り込まれた大金を道楽に使える性格だったのなら、もっと上手に生きてこられたでしょうが、そういう性格ではなかったのです。一万円多い仕送りから毎月三万円を浮かせました。それは年間でたった三十六万円にしかなりませんが、そんなことを考えることなく、ただ無闇に倹約した生活を送りました。
しかし大学を卒業する年になっても、小説家にはなれていませんでした。それは確率的に言えば、当然のことかもしれませんが、
二
僕はここまで書いて、おやっと思った。一行目の〈恋人ができたこと〉と〈女性の体がやわらかいこと〉がどこかに行っている。これではいけないと思った。いつまで経っても恋人の存在を匂わせるような文章が出てこない。僕の構想では、もう二倍ばかりあとにようやく恋人となる女性が出てくるのだから仕方がない。
まずは仕事をする気のない主人公がお金を得る方法をいろいろと考え、実践していく。しかし上手くはいかず、結局アルバイトをするようになる。ふとしたきっかけで風俗店の存在を知り、衝撃を受ける。プライドのために風俗店には行けないが、風俗店に行っている同僚に嫉妬する。それからいろいろとあり、主人公は無事に小説家になることができ、編集者の友人と良い関係になる。
結末は考えていなかった。書いているうちは自然に思いつくだろうと高をくくっていたし、これまで書いた小説もそうだった。
僕は回転椅子をまわし、パソコンに背中を向けた。
恋をすると小説は書けない。小説を書くには想像力が必要だが、僕の頭の中にはいつのまにか彼女が入りこんでくる。だから恋をすると、さきほど書いたような取り留めのないものしか書けない。そう結論付けたときには、頭の中には彼女がいた。
どうしてこうまで彼女のことばかり考えてしまうのかわからなかった。もちろんそれは恋のためだが、実際に恋をしてみると自分が自分ではない気がした。恋をする前の自分と今の自分とでは、何かが決定的に違う。何が違うのかはわからない。それでも彼女のことを考えるのが嫌なわけではないので、自然の流れに身を任せることにした。
はじめて彼女を抱きしめたとき、僕は風邪をひいていた。鼻水は静謐なムードを壊した。ただ今から考えると、逆にそれが緊張をほぐす結果になったのかもしれない。丁寧に鼻をかんだあと、彼女と微笑み合い、ソファーの上で彼女を抱きしめた。そのままじっとしていると、彼女は突然こう言った。
「ゴキブリの足は一センチもないのに、あれだけ速く走って、それってすごいよね。まさに怪物」
「何?」と僕は彼女の耳もとでささやいた。彼女はたまに変なことを言うことがあった。もしかしたら恥ずかしくなって、そんなことを言ったのだろうと思った。
「だから、ゴキブリの足はすごく短いのに、すごく速く走るし、まさに怪物だよね」
「恥ずかしいの?」
「なんで?」
「恥ずかしいから、そんなことを言ったのかなと思って」
「いや、だってそこにゴキブリがいるんだもん」と彼女は僕を抱きしめたまま体を横にひねり、それを見える位置に僕を導いた。「ほらっ、あれ」
僕は驚き、反射的に彼女の体をより強く抱きしめた。
それは壁に貼りついたまま、動く気配はなかった。僕らはそれをじっと見守りながら、ひっそりと抱きしめ合っていた。が、次の瞬間、突然それが勢いよく這いだした。僕の体はまさに怪物に遭遇したときのような反応をした。彼女とは対照的だった。彼女は雑誌をそっと拾い、それをすばやく叩いた。部屋には小さな音が響き、それは床に落ちた。
彼女は沖縄出身だった。彼女が言うには、沖縄のゴキブリは本土のゴキブリより二倍ほど大きいそうだが、調べてみるとその言葉には多少の誇張があるようだった。彼女はいいかげんなことをよく言うのだ。
彼女はたまに〈本土〉や〈内地〉という言葉を使った。本土で生まれ育った僕にとっては〈本土〉や〈内地〉という言葉は聞き馴染みのないものだった。だから自分より若い女の子が〈本土〉や〈内地〉という言葉を使うことが奇妙に思えた。ゴキブリを平気で叩き殺せることよりも、よっぽど奇妙に思えた。
窓の外ではセミが鳴いていた。九月で、季節は秋だった。
僕は回転椅子を窓の方へ向けた。空には極めて薄い雲があった。それは雲というより白いオーロラのようだった。僕はそれをメモした。それから〈彼女の体を指でなぞるとAみたいに柔らかく、舌でたどるとBみたいに柔らかい〉と書き、AとBに何を入れようかと考えた。
彼女の体は本当に柔らかかった。僕は彼女の体をさわるまで二十年以上も女性の体をさわることがなかった。つまり母の体をさわって以来、女性の体をさわることはなかった。いや、正確には中学校の体育祭でフォークダンスをしたときに、女の子と少しだけ手をつないだ記憶がある。しかしそのときは特に柔らかいとは思わなかった。緊張のために感触を覚える余裕がなかったのかもしれない。
彼女の手をはじめて握ったとき、妙に柔らかいと思った。それは彼女が特別に柔らかい手の持ち主なのか、誰もがあれほど柔らかいのかわからないが、彼女の手を握ったとき、これまでに感じたことのない感触を覚えた。それは驚きだった。
ふと思いついた。僕は〈彼女の体を指でなぞると張りを感じ、舌でたどると滑らかさを感じた〉と書き直し、満足して回転椅子を窓の方へ向けた。しかしすぐに恥ずかしくなり、消した。それでももったいないような気がして、同じことを書いた。あした読み返して判断しようと思った。
高い空を見ながら沖縄の季節について考えていると、電話が鳴った。僕はベルの音を七つ数えたあと、電話に出た。
「もしもし」と僕は言った。
「ねえ、〈交通ルールだけは守るアナーキスト現象〉くん、今からうちに来れない?」と彼女は言った。
バカげたことだが、彼女は僕のことを〈交通ルールだけは守るアナーキスト現象〉と呼ぶ。以前は〈二十五世紀から見た二十世紀の悲劇〉と呼んでいたが、僕が〈アナーキズムは交通ルールを無視することからはじまる〉という話をしたときに、〈交通ルールだけは守るアナーキスト現象〉と改名された。この名前の〈現象〉とはただ単に深みを持たせるために付けたのにすぎず、特に意味はないらしい。そういうところは全く彼女らしいと思う。僕は意味を重視するが、彼女は雰囲気を重視する。
変わった呼び名をつけるようになったのは、ある小説がきっかけだった。ある日の夜、僕はベッドの上で本を読んでいた。さきほどまで眠っていた彼女は、シーツにシワを作って絵を描いていた。そして何度か退屈だと言った。そのたびに僕は本を読むことをすすめた。絵を描くのに飽きたのか、彼女はできるだけ短いものを求めた。僕はアメリカ人が書いた短編集を貸した。それの一番はじめの小説の中で、男は女に〈一九四八年度のミス精神的ルンペン〉という呼び名をつけている。それに感化された彼女は、お互いに相手の呼び名を考えようと提案したのだ。
僕は面倒だったので、彼女の呼び名を一分足らずで決めた。それは〈透明なコップに入った晩夏のグレープジュース〉だった。彼女は透明なコップに入った初夏のオレンジジュースという雰囲気ではないし、白い陶器に入った冬のホットミルクという雰囲気でもない。ちょうど透明なコップに入った晩夏のグレープジュースという雰囲気がある。
彼女の方は僕の呼び名を思いつくのに、ずいぶん苦労した。僕が二十ページばかりページをめくったとき、ようやく気に入ったものに行き当たったようだった。それは〈二十二世紀から見た二十世紀の悲劇〉だった。彼女の考えでは、悲劇は歴史になると、娯楽にしかならない。〈第二次世界大戦もすでに娯楽になっている〉という彼女の考えを反映させた名前だった。ただ、その名前と僕の関係は何もないようだった。
そのようにして変わった名前で呼び合うことになった。はじめのうちは僕もおもしろく使っていたが、そのうち飽きてきたので、三の倍数の日のみ使うことになった。もちろんそれは二人きりでいるときに限る。世の中には節度があり、節度を超えた人は白い目を向けられるのだ。そういう事実を二人とも十分に承知している。
ほかの恋人たちも二人きりのときには、同じような何かがあるのかもしれない。恋人とは他人に知られれば恥ずかしい何かを共有する存在なのだから。僕は変わった名前で呼び合うことをあんがい気に入っている。見栄をはらずに言うなら、とても気に入っている。名前を呼ぶだけで明るくなれることは素敵なことではないだろうか。
玄関があいた。
まだ昼の三時だというのに、彼女はパジャマを着ていた。あるいは〈もう昼の三時だというのに〉といった方が適切かもしれない。彼女は多くのパジャマを持っていた。ファッションモデルとしているので、多くの服にふれる機会があるのだ。
「ひさしぶり」と彼女は言った。
しかし三日前に会ったばかりだった。その三日間を彼女のことばかり考えてすごした僕にとってはひさしぶりではなかったが、もしかしたら彼女にとってはひさしぶりなのかもしれない。
「最近、仕事が忙しかったの?」と僕は聞いた。
「どうして?」
「なんとなく」
玄関を閉めるなり、僕らは抱きしめ合った。彼女は痩せていたが、抱きしめると柔らかかった。首筋の匂いは当たり前なものとしてそこにあった。それはあまりにも自然な匂いで、〈二十代女性の首筋の匂いA〉という見本にすればいいと思わせるほどだった。
僕らはいつものようにソファーに座り、手をつないで話をした。彼女は仕事のことを話した。それは愚痴ではなく報告の類だった。彼女はモデルとしての向上心に乏しいので、仕事に関して嫉妬することは稀なのだ。
しかし彼女の話の中に一つだけ愚痴があった。彼女は他のモデル数人とファッション誌の写真撮影をしていたのだが、その中の一人がカメラマンにいろいろと注文をつけた。それが撮影の流れをさまたげ、彼女のお気に召さなかったようだ。
「その人は自分のことをバカだと言うくせに、口出しはして。おかしいと思わない? 自分のことをバカだと言ったんだから、いちいち口出しするのってどうなの?」
「そうだよね」と僕は同調した。「もし口出ししたいなら、自分のことを過小評価すべきではないし、自分のことを過小評価するなら、おとなしくすべきだと思う」
「そう。謙遜と言えば聞こえはいいけど、結局は過小評価だから。でも過小評価するのは別にいい。〈私はバカだから、間違ったことを口出ししても許されるよね〉という態度が気にくわないわけよ。それに、いちいち口出ししてたら撮影の流れが悪くなるし、もちろんその人はちょっと有名だから、誰も注意はしないけど。裏でみんなで悪口を言ってせいせいするくらいね」
彼女は一通り話し終えると、話題はなくなった。窓を全開にしているせいか、セミの声が耳についた。
セミは成虫の期間が一ヵ月ほどしかないそうだ。しかし幼虫の期間は数年ほどある。つまりセミは人生の大半を子供としてすごすことになる。それは羨ましいことだろうか? それとも気の毒なことだろうか? 僕はそんな不毛な疑問について考えた。
「静かだね」
「うん、だから小さな声でも聞こえる」
また僕の耳にはセミの声が入ってきた。セミは僕の前に姿を表すことなく、音だけで存在を知らせる。最後にセミの姿を見たのはいつだろう? 小学六年生までは夏には毎年のようにセミを捕まえた。でも中学生になって以降、一度もセミを見てない。いや、地面に落ちているセミの死骸を見たことがあるか。
僕の頭の中には、入院している友達にセミをプレゼントする小学生の物語が浮かんでいた。病室をセミだらけにして看護士に怒られる話だ。
その物語をふくらませていると、ふと気づいた。僕は彼女と一緒にいないときには彼女のことばかり考えるのに、彼女と一緒にいるときには彼女以外のことを考えている。僕は彼女のために小説を書けばいいのかもしれない。そしたら恋をしていても何か書けるかもしれない。それでも今は彼女の柔らかさを確かめていようと思った。
三
俺はそういう原稿を編集者に見せて、編集者ってのは若い女性だよ。彼女はわざわざこの家まで原稿を取りにきてくれたんだけどさ、そう、まだ完成とは程遠い原稿を。もう夜の八時すぎで、だけどこの家と彼女の家は歩いて十分足らずのところにあって、それに最寄り駅から彼女の家までのあいだにこの家があるんだから、別に何かがあるわけじゃないよな。それをわかってても、胸がざわつくのはどういうことなんだろう?
彼女は回転椅子に座って、俺はベッドに座ってんだけど、だってこの部屋には椅子が一つしかないから。だけどこの距離感が逆に良かったりする。これは俺の悪い癖なのかもしれないけど、この距離感なら彼女の横顔をじっと見つめたりできるし。だけど俺にはもっと悪い癖がある。それは原稿に目をとおしてる彼女に話しかけること。迷惑だとはわかってんだけど、たぶん何か期待してんだな。
「静かですね」
「そうですね」
「どうですか? 僕としてはまずまずのものを書けたつもりではいるんですがね。まずまずでしょう?」
「ええ」
こんな質問をしても彼女は怒ることはない。〈ちょっと原稿を読んでるんで、静かにしてもらってもいいですか?〉とか言えばいいのにさ。いや、〈ねえ、少しは黙ってらんないの? こっちはこれ読んでんだから〉とか、そう言えばいいんだよ。
「あなたは何座でしたっけ?」
「天秤座です」
女性誌の星座占いのコーナーを確かめてみると、ああ、この女性誌は小説を書くために買ったものだよ。登場人物の気持ちを知るためにはその人物と同じような生活環境に身を置くことが一番だそうだ。だからこの部屋にはいろんな雑誌がある。もちろんアダルトのは隠してるよ、ベッドの下に。定番だよね、ベッドの下は。
それで、占いのコーナーだけどさ、天秤座の欄には〈今月は動くと運気が逃げてしまうので、あまり動かない方がいいでしょう。突然の出会いがある場合も。毎朝、窓をあけて深呼吸をすると運気が上がります。今月の相性の良い正座は乙女座です〉とか書いてあって、窓辺での深呼吸をうながすくだりは最高だよ。じゃあ、来月は窓辺で深呼吸はしなくてもいいの?
俺はいちおう小説家なんで、その内容に脚色をつけて、彼女に教えてあげた。もちろん彼女からすれば迷惑だとはわかってるんだけど。その証拠に彼女は曖昧な返事しかしなかったし、まあ、無関心な返事をしただけで、無愛想な返事をされるならまだしも、無関心な返事というのは一番こたえるね。だから俺も少しは黙っていようかなという気になるよ。そう、少しはね。だけど時間がたてば、そんなことはどうでもよくなってくる。時間の経過は偉大だね。すべてを浄化するんだよ、時間は。
「星座占いは信じますか?」
「いえ」
「占いはほどほどに信じてる人のためにあるんです。本気で信じてる人は、怖くて占いの結果を見られません。本気で信じてる人にとっては、占いなんて恐怖の対象でしかないんです。たとえば、恋愛運の欄に〈三歳以上離れていない方がいいでしょう〉とあったとします。するとどうです? 四歳年上の人を好きになった場合には、どうすればいいのでしょう? まあ、星座占いの効果は来月には切れますから、少し待てば三歳以内の呪縛からは解放されるんですけど」
彼女は笑うことはなかったよ。それは俺の冗談の質のせいか、俺の話し方のせいかわからないけど、まさか聞いていないってことはないよな。少し黙っておこうか。夜だし、静かだな。ホント静かだよ。まあ、どうせ沈黙に耐えられなくて、結局はこうなる。きっとそういう関係なんだな。
「占いのいいところは、外れる可能性があることです。もし百バーセント的中する占い師がいたら、怖くて誰も占ってもらいたくないでしょうね」
「でも、未来がわかったら、真剣に生きられるものではないでしょうか? 自分がいつ死ぬかがわかれば、人生設計ができて、時間を有効に使えるようになります」
「しかし、それではつまらない人生になるとは思いませんか? 将来、自分が誰と結婚するかがわかったら、つまらないでしょう?」
「そういうものでしょうか?」
「結婚相手は自分で決めたいものです。占い師に教えてもらいたくはありません。死ぬ時期もそうです。死ぬ時期は自分では決められませんが、占い師に教えてもらいたくありません。たとえ余命半年であっても」
「先生は占いを信じる方ですか?」
そうそう、彼女は俺のことを先生と呼ぶんだけど、異常だよね。作家の俺より編集者の彼女の方が少しばかり稼いでて、しかも将来性も彼女の方があるんだから。
「僕は信じてはいません。だから占いの欄を見ても、喜んだり落ちこんだりしません。しかし、占い師からの直接の言葉なら、少しは信じるでしょうね。雑誌の占いは信じられませんが、目の前の占い師の言葉なら、信じたくなくても、頭の中に残ります」
「占い師に占ってもらったことはありますか?」
「あなたはどうです?」
「私ですか?」
また沈黙だ。しかも彼女は俺の目を見つめたまま黙るんだから、いけないよね。ああ、これも俺の悪い癖だな。なにか期待して、だから目をそらすことはなくて、だけどそんな期待をよそに、彼女は原稿に目を落として、そうだよな、しかもそれでほっとしる自分を見つけてしまうんだから、なんなんだろうな、これは? もし人生で一度だけ愛という言葉を使うことができるとしたら、俺はここで、いや、ここでは使わないな。俺は食事のときも好きなものは最後までとっておくタチなんで。
四
私は雑誌の星座占いのページを見ながらそういう妄想をした。そばには原稿に目をとおしている編集者がいる。彼女は若く、そして美しい。若いことはそれほど重要ではないが、美しいことはたいへん重要である。それは芸術作品に似ている。芸術作品は古いほどいいと思っている者もあるが、それはインチキである。古典を至上とする者は、自分の尺度で作品を判断できず、時の洗礼という保証により安心したいのであろう。
誤解のないように断っておくが、私は古典至上主義者を非難したわけではない。私が述べた意見は事実ではなく印象ある。非難は印象ではなく事実により成されるべきなので、私は非難したわけではない。
ところで、世の中には印象により非難する者が多くある。事実による非難は物事の進行方向を修正するが、印象による非難は物事の進行を妨げる。具体例は挙げないが、政治の問題でも家庭の問題でもいいのだが、世の中にある非難を検討すれば、その不毛さに気づくであろう。
話を戻すが、とにかく彼女は美しいのである。ついでに若いが、私にとっては彼女の若さは重要ではない。異性の若さが重要となるときには、結婚に対する意識が必要不可欠である。私には彼女と結婚したいという気は毛頭ない。なぜなら私は彼女の性格を知っており、彼女は私の性格を知らないからである。それで結婚するのは不公平である。不公平さは、恋愛においては全く重要でないが、結婚においては非常に重要ある。公平さに欠けた結婚はお互いのためにならない。それどころか、お互いの両親のためにも知人たちのためにもならない。不公平は余裕を奪い、災いをもたらすのである。喧嘩とはたいていの場合、不幸の埋め合わせであり、公平さに欠けた結婚は喧嘩を生むのである。
とにかく私は彼女の若さは重要にはしていない。美しさのみを重要にしているのである。美しさは気分に影響をもたらす。作家の容姿は重要ではないと言う者があるが、それは間違いである。たとえば、目の前に料理があるとする。盛り付けが美しければ、気分が良い。部屋が美しければ、なおのこと気分が良い。そばに美しい女がいれは、この上ない。最上である。そうなると自然と料理の味も良くなる。それと同様に、作家の容姿が美しければ、自然と内容も良く見えるのである。それゆえに私は顔写真を公開しないのである。私の容姿は三流以下である。
そばには一心不乱に原稿を読んでいる美しい女性がいる。目の前には雑誌と万年筆がある。その万年筆は憂いを帯びている。思い出という名の憂いを帯びている。
壁時計を見ると、三時二十四分であった。この壁時計は短い針は信用できるが、長い針を信用したらトラブルの原因になることがあるという代物である。おそらく三時から四時のあいだであろう。
暇をもてあましている私は、万年筆を手にとり、一通り検分したのち元の位置に戻した。それから万年筆の持ち主のことを思い浮かべた。二年前のことである。私は恋をしていた。小学生は朗らかな恋をする。それは好奇心に由来する。中学生は清らかな恋をする。それは興味に由来する。高校生は艶やかな恋をする。それは情欲に由来する。私の恋は常に高校生の恋であった。そのときも例に漏れずそうであった。疑う心を持った者は小学生や中学生の恋はできないのである。
二年前、私はある女性に恋をしていた。その女性はあまりにも純粋な人であった。一緒にいると現実性が希薄になってしまうほど純粋な人であった。純粋とは理解や共感を求めないことである。ゆえに、その女性はアイスクリームを食べても、感想を言うことはなかった。おいしいねと言うことはなかった。それが私を疑う心から解放した。いつしか中学生の恋になっていた。
その女性は理由のない世界で生きていた。おそらく人は理解や共感を求めるとき、理由を求めるのであろう。理解や共感を求めることのないその女性は、理由を求めることはなかった。なぜアイスクリームを食べるのか? アイスクリームを食べたいからアイスクリームを食べる。その女性はそういう世界で生きていた。それゆえにその女性は理由もなく私の前から姿を消した。ある日、電話をかけると、引っ越しをしていたのである。
そして気がつくと、私とその女性をつなぐものはこの万年筆だけになっていた。だからであろうか、私はこの万年筆を見ると、いつも現実性を感じる。これがある限り、その女性がこの世に存在しているであろうことを思いだす。その女性がどこかでアイスクリームを食べている姿を思い浮かべてしまう。それが憂いである。
彼女はようやく原稿を読み終えた。壁時計を見ると、針は六十度ほど回っていた。
彼女は私の小説の感想を述べた。まとめるとこういうものである。全体としてはまずまず書けていますが、前半と後半をつなぐ要素があってもいいのではないでしょうか。私の小説は前半と後半に別れており、その二つのつながりの希薄さが彼女には気になったようである。
彼女は主人公が恋人の家に行く途中に道端で成人向け雑誌を見つけてはどうかと提案した。私は同意して、早速それを書いた。今度は彼女が休憩する番である。
僕は自転車をこいでいった。空気は澄んでいて、風は心地よく、すでに夏はすぎさったように思えた。
秋の空気は四季の中で最も安定している。夏はゆるみすぎていて、冬は張りつめすぎている。春は花粉が飛んでいる。しかし秋はほどよい。そんなことを考えていると、道端に雑誌を見つけた。
人気のないことを確かめ、自転車をとめた。それは成人向け雑誌だった。成人向け雑誌を見たのは、これが三回目だった。一回目は小学生の頃、通学路に落ちていた。そのときは同じ学校の生徒と一緒に下校していたので、内気な僕は中身をちらっと見ただけだった。二回目は高校一年生の冬、通学路に落ちていた。そのときは自分一人だったので、家に持ち帰った。そしてあれから約十年たった今では、靴でページをめくるだけで、手でつかもうとは思わない。
僕は自転車をこぎながら、あの雑誌に写っている裸の女性のことを考えた。そのときちょうど彼岸花が目についたせいか、裸の女性は彼岸花のようだと思った。あるいは、あの雑誌は彼岸花のようだ。遠くから見れば妖艶だが、手で摘みとるときつい匂いが残る。
それから、裸の女性と彼女との違いを考えた。彼女も何かきっかけがあれば、カメラの前で裸になるだろうか? 答えはどう考えてもイエスだった。しかし幸いにも、そのきっかけは特殊なものしか思いつかなかった。
空にはあいかわらずオーロラを思わせる雲があった。それはカーテンのようでもある。空という大きな窓にかかる、薄いカーテンのようでもある。彼女に会ったら、真っ先にオーロラとカーテンのことを教えてあげようと思った。僕は彼岸花が嫌いだし、成人向け雑誌とは無縁の世界で生活しているのだから。
しかし彼女の家に行ったときにはそんなことは忘れていた。
彼女はまだ納得いかないようであった。今度は結末についての不備を指摘さて、私はそれを直した。そのあいだ彼女は雑誌に目をやっていた。私は星座占いについてのことを言おうかと思ったが、すぐに不毛だと思い、よした。
壁時計が四時を回った頃、彼女は帰ると言った。私は彼女に今の時刻を訊ねた。彼女は腕時計を見せてくれた。それは三時十二分をさしていた。一時間近くずれていたことに我ながら驚いた。しかし二人ともそのことに言及することはなかった。
彼女が帰ったあと、私はどうして彼女はこれまで壁時計のずれを指摘してくれなかったのだろうかと考えた。彼女はこの部屋に何度か来ていた。この部屋は殺風景のために、壁時計は目につきやすかった。それでも彼女は指摘しなかった。そういう不可思議さのせいで、私は彼女を万年筆の持ち主と重ねてしまうのである。おそらくそれが私が彼女との結婚を全く考えられない最大の理由であろう。経験とは抑制なのである。
五
人はいま見ている世界を現実だと受けとめます。たとえば小説の中で戦争が起こっていれば、読者はそれを〈そこでは戦争が起こっている〉とします。次のページに〈僕は目を覚まし、さきほど見ていた夢を思い返した〉という文章があれば、読者は〈じつは戦争は主人公の夢の中の出来事で、現実の出来事ではない〉と改訂します。このように人はたったいま見ている世界を現実だと受けとめてしまうのです。
こんな考え方があります。
この世は長い夢だ。
長い夢とはいったい何のことでしょう? いま見ている光景も、いま聞いている音も、いま考えている思案も、すべては夢にすぎないということでしょうか? そんなことはどうでもいいですね。たとえいま見ている世界が夢だとしても、人はそれを現実だと思ってしまうのですから。
こんな暗喩があります。
僕は目が覚めた。――恋人にプレゼントしたバッグを質屋で見かけて、目が覚めた。恋人は俺のことではなく俺のカネを愛している。俺が買ってやったバッグを質屋に売りやがって。別れてやる。――アメリカの大学に進学して、そこの人々と交流して、目が覚めた。日本の教育はおかしい。小論文や討論はなく、詰め込み教育しかしない日本の教育はおかしい。――原子力発電所の事故が起こって、目が覚めた。原発は危険だ。一度事故が起これば取り返しのつかないことになる。リスクが高すぎる。
この世は長い夢とは、そういうことでしょう。人生は長い夢であり、人はきっかけがあるたびに目を覚まします。ですが、目を覚ましたそこも、やはり長い夢の途中です。恋人がお金を愛していることも、日本の教育がおかしいことも、原発が危険なことも、ある意味ではイエスですが、ある意味ではノーです。どちらも夢なのです。
では、すべてのことはイエスにもノーにもなりうる可能性があるのでしょうか?
答えはノーです。絶対的なイエスも絶対的なノーもあります。それは〈私〉というものがない次元のことです。たとえば数学です。〈2+2=4〉は事実であり、絶対的なイエスです。ですが、〈私〉がある場合には〈2+2=5〉となることもあります。算数のテストで〈2+2〉という問題に〈5〉と答える人がいます。その人はバカなのですね。ガラスのコップにコインが2枚入っていて、男がそこにコインを2枚入れます。するとコップの中のコインは5枚になっています。これは手品ですね。このように〈私〉がある場合には〈2+2=5〉となることもあるのです。
さて、ここでようやく私が出てきました。私とはこの文章を書いている人のことです。つまり、私ですね。
たとえばこの文章を読んでいる人がいます。そう、あなたはきっとこの文章を読んでいるでしょう。あなたはこの文章から私のことを知ることができます。ですが、あなたは私のことをこの文章の内容以上には何も知ることができません。そうなると、あなたにとっての私はこの文章がすべてになりますね。
あなたは私のことを好きでいるか? それとも嫌いでいるか?
あなたは私にどのような印象を持っているか?
それは強い印象か? それとも弱い印象か?
あなたはどの世界の私を〈私〉だと思いこんでいるか?
ここまで書いて、座ったまま考えた。窓からは日差しがさしこんでいる。朝はいつも憂鬱になる。目が覚めると、心と体がずれている気がする。幽体離脱という確かなものではない。気分として心が体からはみだしている、そういう感じだ。朝は憂鬱になる。憂鬱にも程度がある。今日の憂鬱は低度のものだ。つまり〈なんとなく〉で片づけることができるほどのものだ。
とにかく椅子に座って考えた。
自分というものはない。〈私〉は存在しない。〈私〉は〈私ではない私〉としてなら存在できるが、〈私〉としては存在できない。
他人がいないと、自分の存在はないのと同じだ。〈自分〉というものは〈他人〉というものの差違として生まれたのだから、他人がいないと、〈私は存在する〉と思うことはないだろう。たしかに自分は一人でも存在する。ただ、自分一人だとそれを認識することはない。そうなれば、自分が存在しないのと同じだろう。
私は他人がいて存在できる。私を認めてくれる人がいて、初めて確かな存在になれる。あなたから認められることで、私は存在できる。でもあなたは絶対的に私を認めることはできない。相対的にしか認めることができない。結局のところ、私はあなたの中で〈私ではない私〉として存在できるだけだろう。あなたの中には〈私ではない私A〉ができて、別のあなたの中には〈私ではない私B〉ができて、また別のあなたの中には〈私ではない私C〉ができて、でもそれらは〈本当の私〉ではない。
私はこれをあなたに向けて書いている。もしこれがあなたに読まれないのなら、これは意味のないものになるし、これを書いた私も意味のないものになる。この文章は存在しないことになってしまう。
ここまで考えをめぐらせたとき、本当の自分の居場所を見つけた気がした。でも朝の憂鬱さのためか、そのことに確信を持つことはできなかった。
六
それは読者から送られてきた小説だった。もしくは小説ではなく、私宛ての手紙かもしれない。
ある日、私は出版社気付で封筒を受けとった。封筒には差出人の名前や住所などは書かれていなかった。中にはコピー用紙の束が入っていたのだけれど、それには〈小説を書いたので読んでください〉という要求はなかったし、〈僕はこういう者です。あなたの小説に感化されたので、この文章を書いてきました〉という説明文もなかった。たださきほどの五章から成る小説のような文章があっただけだった。
私はコピー用紙の束を流し読みした。そして気になった部分を読み返した。それでもすぐに飽きてしまった。
それから一週間は忙しく、それは棚の上に放置されたままだったのだけれど、仕事が一段落ついたのを機に、また手にとってみた。そしてまた流し読みをして、気になった部分を丁寧に読んでいった。それで、ようやくこの手紙の意図を了解した。
おそらくこの手紙は私だけのために書かれたものだ。読者が作家に手紙を書くときには、自分と作家のために書くものだけれど、これらの文章は自分のためには書かれておらず、手紙の受けとり手のためだけに書かれている。要するに〈あなた〉のためだけに書かれている。
そのことに気づいた私は、引き出しから新品の封筒をとりだし、表に出版社の住所と小説家の名前を書いた。そのとき匿名的な筆跡になるように心がけた。その封筒に例のコピー用紙の束を入れて、郵便局に持って行くことにした。もちろん封筒の裏には何も書かずに。
短編小説を読み終えた奈菜は、壁の時計を見ました。二時まであと五分です。
店内には奈菜の知らない音楽が流れています。客は奈菜以外に四人います。大学生のカップルと二人組のOLです。店員は女性なので、この空間には五人の女性と一人の男性がいることになります。
二時ちょうどに入口の扉が開きました。奈菜はそちらを向き、はっとしました。知っている人だったのです。奈菜はその男に気づかれないようにするために、反対の方を向きました。しかしその男は奈菜に近づくことになります。なぜならその男こそが竹下舞だからです。




