12章 ミヨとベッド、正直のこと
目が覚め、服を着ていることをとっさに手で確かめる。目でも確かめる。となりの英人さんの方を見る。英人さんは眠っている。私は天井を向く。きのうは何もなかった 私が寝たあとも? でも たぶんすべては ただ普通に それなのに (英人さん)性格が悪いとは 時計を見る。六時四十三分か ということは まあ あれか 英人さんの顔の前に手をかざす。英人さんは動かない。(千絵)効率的に時間を使うには 今はあの時計は もうすぐ終わり でも胸をもまれたとしても だって眠ってたわけだから でもどうしてホテルなんかに
私はベッドから起き上がり、洗面所に行く。英人さんのポロシャツとチノパンツとソックスとサイフがある。だって何もなかったんだから 私はお風呂には入ってきたんで 目を洗う。鼻を洗う。額を洗う。タオルで手をふく。髪の毛を整える。今日の私はかわいいのよ 化粧も香水も宝石もいらない だって今は朝だから トレハロースだけで十分 トレハロースで朝食を 食後にはキシリトール 私はイスに座る。ナップサックから腕時計をとりだし、手につける。英人さんの寝顔を見る。足を前にのばして、スリッパを見つめる。床に茶色の髪の毛がある。私は不愉快になっていた。誰の髪の毛だろう? ここに来た人の? それとも従業員のかも ラブホテルにも従業員がいて お給料はどれくらいなんだろう? 夜の仕事だから 英人さんの寝顔を見つめる。セミの声がある。でも どっち? いや そんなことは 英人さんの目が開く。私はとっさに視線をそらし、指先を見つめる。
「ねえ、朝は」と英人さんは言い、寝ころんだまま両手をあげて背中をのばす。「すごく寝起きがいい朝と、そうではない朝がない?」
「そうですね。なんとなくわかります。おはようございます」
「おはよう。今日はすごく寝起きがいい。体の芯まで眠った、そんな感じがする」と英人さんは言い、また背中をのばす。「なにか予定はある?」
「今日のですか? 特にないですね。英人さんは?」
「僕はデートがある。八時半に待ち合わせで」と英人さんは時計を見る。「まだ大丈夫。でも、まあ待ち合わせ時間までに電話をすれば遅れてもいいんだけど。マイペースな人だから」
「英人さんは大丈夫だと思ってても、相手はそうではないかもしれませんよ」
「そうかも。着替えてくる」
英人さんは立ち上がり、向こうに行く。バスローブから出た足は白い。知らないうちに なにかが 私は立ち上がり、窓辺に行く。すりガラスの窓をあける。目の前に建物の壁がある。セミが鳴いている。セミはいつから鳴くんだろう? 夜は鳴かないし どうして どうして きのう宗助の家に行ってればよかったんだ そしたらこんなことには でも何もなかったし 窓を閉め、イスに戻る。英人さんはベッドに座る。目が合う。
「ミヨちゃんは料理は得意?」
「まあまあですね」
「どういうのを作るの? 変わった料理とか作る?」
「パエリアとかカルパッチョなら作ったことがあります」
「そういうのって母親に教わるの?」
「教わるというか、一緒に作るというか。本を見ながらですね」と私は言う。「英人さんはどうですか? 料理は作るんですか?」
「作ると言えば作るけど、でも千絵の方が上手かな。千絵はすごく負けず嫌いでしょ? だから僕は料理を上手に作れるべきじゃない」
「英人さんはとてもいい人ですね」
「まえは性格が悪いと言ってなかった?」
「そうですけど」と私は言う。「脚本家にならない理由はそれですか? 千絵は脚本家の兄を誇りに思うタイプというより、嫉妬するタイプだし、妹からの嫉妬を避けるために脚本家にならないとか?」
「そんなわけじゃないよ。なろうと思えばなれるものでもないし。ミヨちゃんはいつからアイドルになりたいと思ってるの?」
「小さいころからです。歌って踊るのが好きで、そのまま今にいたる、という感じですかね。英人さんはいつから脚本を書いてるんですか?」
「中学のときから」
「そんなに早いんですか? 学芸会とか、ですか?」
「テレビのお笑い番組に感化されて、『エンタの神様』、知ってる? それを見てたらコントを作ってみたくなって、だから演劇部を作った。最初は芸人部を作ろうとしたんだけど、承認されなくて、演劇部になった。どうして芸人部はいけないのかな? 今から思うとおかしいな。まあ、演劇部でコントをしてたわけ」
「どんなコントをしてたんですか?」
「いろいろ書いたけど、そうだな、『ロミオとダイエット』は好評だったかな。それはもちろん『ロミオとジュリエット』のパロディなんだけど、ロミオはジュリエットに熱烈に恋をしてて、でもジュリエットの方はロミオが少しも好きじゃない。ロミオは太ってて魅力がないから。そこでロミオはダイエットに励む、というお話」
「おもしろそうですね」
「おもしろかったよ、けっこう。たしかこんな感じだった。公園でロミオは友人のMの指導のもとエクササイズをしてるんだけど、そこにジュリエットがとおりかかる。ロミオはジュリエットに向かって〈ああ、我が愛しのジュリエット。今日もなんて美しいんだ。君はまるでエンジェルだ〉と言う。Mがすかさず〈エンジェルって、羽が生えてる赤ちゃんのことだよな。お前、羽が生えてる赤ちゃんが好きなのか? ロリコンかよ!〉とツッコミを入れる。するとロミオは〈ロリコンとは失敬な。単なるストーカーだ!〉とボケる。そのあいだにジュリエットは去ってしまう。そうから、ロミオはエクササイズを再開する。そうしていると、ジュリエットが警察官を連れて戻ってきて、〈この人です。ストーカーとはこの人です。ちゃんと証人もいます。そうですよね、Mさん〉と言う。Mは〈そうです。こいつはさきほどストーカーだと高らかに宣言していました。僕はしっかりと聞きました。神に誓って嘘ではありません〉と言う。ロミオは〈無罪だ無罪だ。俺はストーカーなどではない。単なるロリコンだ!〉とボケる。でも警察官に〈あのう、続きは署の方で聞きますので〉と連れて行かれそうになったので、すました顔で〈ちょっと捜査協力してくるわ〉とボケる。そんな感じだった」
「おもしろいですね」
「評判はよかったよ。中学生なんて太ってる人がエクササイズをするだけで爆笑するからね」
「英人さんは中学のときもモテたんですか?」
「すごい質問だ」と英人さんは笑った。「僕は昔からモテたことはないし、もちろん今でもモテないよ」
「中学のときにも彼女はいたんですか?」
「うん、いたよ」
「高校のときは?」
「高校のときもいた」
「今は?」
「今もいる」
「ほらっ、モテてるじゃないですか?」
「モテるというのはデートに誘わることじゃないかな」と英人さんは言った。「僕は誘われることはまずないし、モテるとは言いがたいよ」
私はスリッパの先を見る。日本人女性は奥ゆかしいし だから でも今では肉食系女子なんて新たな生態系があって ひざの上の手を見る。セミが鳴いている。たしかセミは欧米にはいないそうですよ 欧米人が日本に来ると木が鳴いているように思うとかなんとか テレビを見る。それは黒い鏡になっている。テーブルの上のリモコンを見る。英人さんは中学のころから恋愛してたのに 私は小さいころからテレビばかり見て 私は不愉快になっていた。英人さんは仰向けになったままじっとしている。どうして私は どうして私の気分はこうも 英人さんの恋人は きのうは何もなかった そう 何もなかった
「どうして、どうしてこんなところに来たんですか?」と私は言う。英人さんは体を起こす。目が合う。
「わからない」
「どうしてわからないんですか?」
「どうしてだろう?」
スリッパの先を見る。だって私は どうして だって そう バカみたいだ バカみたいだ でもブスではないし ナップサックのひもをいじる。ナップサックから手鏡をとりだす。手鏡をとおして英人さんの方を見る。英人さんは仰向けに寝ている。でも私が夜中にとつぜん押しかけていったわけだし
「まえに〈ミヨちゃんには安心感がある〉と言ったじゃない?」と英人さんは言い、ベッドに座る。「それって裏を返せば、いじわるしたくなる、ということになるかもね。もしかして怒ってる? 怒ってたらごめん。そんなつもりはなかったんだけど、なにか誤解を与えるようなことになったかも」
「じゃあ、浮気をしたのはウソなんですか?」
「いや、それは本当だよ。証明はできないけど、たぶん近いうちにわかるよ」
「どういうことですか?」
「朝からそういう話は」と英人さんは言った。「ミヨちゃんは苦手なものはある?」
「出ていってくれませんか? 一人になりたいので」と私はうつむき、爪を見る。
「苦手なものはある? 高いところが苦手とか、暗いところが苦手とか」
英人さんはこちらを見ている。私はスリッパの先を見る。こういうときは私が出ていくべきか だから ごめんさない 別に怒ってるわけじゃ いや 私だって英人さんが浮気したと思ってるし 別にウソだなんて思ってないし 英人さんはこちらを見ている。
「タコ」と私は言う。
「僕もタコはそんなに好きじゃないな。回転寿司に行ってもタコは食べないし。でもタコ飯は好きかな」
「英人さんはこのことを恋人に話すんですか? 私とここに来たことを」
「話さないよ、もちろん」
「竹下舞という小説家がいて、その人が書いてるんです、〈気持ちは変わっていくけど、ずっと正直でいようね〉って。愛の誓いってそういうものだと思って。だから、ちゃんと話すべきですよ」
「プロポーズに使いたいね、そのセリフ。正直に自分のことを言うとね、僕は今の恋人と結婚するつもりはない。だから相手を傷つけるようなことはしないし、相手のために隠し事をする。愛なんてものはないのかもしれない。でも思いやりはある。まあ、帰るよ。ごめんね。じゃあ」
英人さんはドアの方に歩いていく。バカだ どうしてこうなるの? これでよかったのかな ドアの閉まる音をする。セミが鳴いている。私はベッドに仰向けになり、天井を見つめる。そこには小さなシミがある。どうして 私も中学のころに演劇部があったら おもしろい脚本を書ける人がいて 演劇部に入ってたら何かが 女はみんな女優だから そう 女はみんな女優
起き上がる。スリッパを手にとり、壁に投げる。スリッパは壁にあたり、音が鳴り、床に落ちる。タコが嫌い シイタケも嫌い マイタケも嫌い でもエノキとエリンギは それにトマトも食べれるし でもミヨは 立ち上がり、窓辺に行く。窓をあける。空には小さな雲がある。パンダが産まれた でも一週間で死んだ 名前はついてたんだっけ? それとも募集の最中に ナップサックを背負う。周りを見まわす。ベッドの下をのぞく。スリッパを拾い、ドアの方に投げる。洗面所をのぞく。タオルもバスローブもたたまれている。こういうところが そう こういうところが タオルを手にとり、何度か振り、置く。バスローブを手にとり、何度か振り、置く。これでよし どうせ洗濯するんだから
ドアの前に紙が落ちている。私はそれを拾い、目をとおす。
僕は世界中の誰もが幸せになってほしいと思うほどお人好しではありませんが、僕に関わる人はみんな幸せになってほしいと思っています。気にくわない人でも、僕と関わっているうちは、いい気分でいてほしいと思っています。しかし例外はあります。ミヨちゃんは例外です。たぶん僕はミヨちゃんのことを心の底から信頼しているのでしょう。恋人や家族よりも信頼しているのでしょう。これは愛の告白ではありません。恋愛とは別のものです。
ロミオ役は僕でした。あのころは太っていました。中学のときには彼女はいませんでした。あれはウソです。
ドアをあける。ゆったりと歩いていく。走ったら追いつける? 無理か でも追いついても何を話すの? 恋愛とは別のもの じゃあ何? 歩きながら紙を読み返す。鼻歌をうたう。あのころは太ってた あのころは太ってた じゃあ でも私は そう でも 紙をにぎりつぶす。
ホテルの外に出る。そっと左右を確認する。人の姿はない。猫もカラスもいない。セミが鳴いている。ここはどこ? ここはどこ? 私は誰?
「どちらにしようかな」と私は左右を交互に指さしながらつぶやく。「てんのかみさまのいうとおり、さくらじま、ドッカーン」
右だな いや 神様なんて信じないから左 歩いていく。空き缶が落ちている。タバコの吸殻が落ちている。もう一つ落ちている。空き缶をける。音が鳴り響く。恋愛とは別のもの (千絵)タバコなんて地球上から消えた方が パンダは死んだ産まれてすぐ それは 横をブラウン色の車がとおりすぎる。車体に太陽光が反射している。セミの声がある。どちらにしようかな てんのかみさまのいうとおり さくらじま ドッカーン やっぱりあれは でも まあ 中年男性がこちらをじろじろと見ている。私は無視して歩いていく。夜が明けてもおかしな人はいて あのころは太ってた? 子供が自転車で走っている。ヘルメットをかぶっている。自転車は左車線の真ん中を進んでいく。
ファミリーマートの駐車場には車がとまっている。自転車もとまっている。学生は夏休み 私はトレハロース 食後のキシリトール だけどポリフェノールが足りなくて イソフラボンで朝食を 入口のゴミ箱に紙を捨てる。自動ドアが開く。音が鳴る。漫画を読んでいる人がいる。時計を見る。家にはもう誰もいないか それともお父さんは会社を いや ちゃんと書き置きを残したし
マンションのエントランスから女性が出てくる。女性とあちらに歩いていく。私は階段の手すりをにぎる。右手に嫌な感触がある。えっ何? うわあ ガムだ 私は不愉快になっていた。右手の中指を鼻に近づける。においはない。どうしてわざわざ手すりに 地面に吐き捨てればいいのに バカじゃない? バカだよ エレベーターのボタンを押す。きっとバカな子供のしわざで 大人のしわざなら許せないけど 子供のしわざなら エレベーターのドアが開く。私は乗りこむ。いや 許せるわけないし 子供だからって でもあれは そうそう ドアが開く。私は歩いていき、手すり越しに駐車場を見る。父の車はない。ナップサックをおろし、鍵をとりだす。
私は玄関をあける。洗面所に行く。右手の中指を鼻に近づける。においはない。右手の小指で腕時計をはずす。中指と薬指にハンドソープをつけ、何度かこする。水で流す。中指と薬指にハンドソープをつけ、両手を丁寧にすりあわせていく。水で流す。中指を鼻に近づける。ハンドソープの匂いがある。ああ そうか 右手を洗ったら自然に左手も洗われる 手は手でなければ洗えない 得ようと思ったらまずは与えよ なぜなら右手を洗えば同時に左手も洗われるから そうだ! そういうことだ 私は愉快になっていた。いや でも意味わかんないし
ダイニングテーブルに紙があり、そこには〈昨夜は10時に帰りました。仕事の都合で電話できませんでした。父〉とある。はいはいそうですか 私だって一身上の都合でいろいろあって ホテルに行った? でもそれは 冷蔵庫をあける。オレンジジュースをとりだし、コップにそそぐ。それを持って自室に行く。
カーテンをあける。洗濯か そう 洗濯を ナップサックからハンカチをとりだす。ナップサックの中に紙がある。それは四つ折りにされていて、全部で三枚ある。何? 英人さんからの手紙? 何? 一枚目には〈突然こんな状況に置かれたからか、目が覚めてしまいました。今は3時です〉と書かれている。三枚目を見る。〈僕は死にます〉という文字に目がとまる。えっ何? いや 君は生きてください 僕は死にます 初めから目をとおしていく。
突然こんな状況に置かれたからか、目が覚めてしまいました。今は3時です。ここはバスルームです。ミヨちゃんは向こうで眠っています。ミヨちゃんの寝顔をじっくりと見ることはなかったので、ご安心を。向こうは暗いし、明かりをつけると起こしてしまうかもしれないから。それから、いびきはかいていませんでした。すやすやと眠っているようです。
ふと思ったことを書きます。ある人のことです。
最近の僕は次のような状態です。寝る前はもちろんのこと、街を歩いているときも、友達と話をしているときも、テレビを見ているときも、英単語を覚えているときも、歯をみがいているときも、ふとした瞬間に君のことが思い浮かんできて、「次に君に会ったら、こういうことを話そう」と考えます。僕はそれくらい君に夢中なのです。
惚れているということは幸せなことです。それは世界を全肯定できることであり、世界から全肯定されることでもあります。店員の態度が悪くても、僕は店員に腹をたてることはないし、歩いていてガムをふんでも、僕はガムを捨てた人に腹をたてることはありません。僕は誰よりも幸せなので、理不尽な人たちにも寛容でいられるのです。それは全くもって君のおかげです。それほど君の存在が大きいのです。
しかし、もし君と僕のどちらか一方が死ななければならないとしたら、君に死んでもらいたいと思っています。君も死ぬのが嫌なら、どちらが死ぬかはじゃんけんで決めましょう。じゃんけんをする前に、僕は「パーをだす」と言います。すると君はきっとパーをだすでしょう。そうですよね? だから僕もパーをだして、あいこになります。今度は君が「チョキをだす」と言います。じゃんけんをして、またあいこです。それを死ぬまで続けていられたら素敵だとは思いませんか?
しかし現実を考えると、それは無理でしょう。気持ちはいずれ冷めてしまうものです。冷めてしまえば、じゃんけんをしつづけることが嫌になります。だからどちらか一方が死ぬべきです。それは僕です。僕は死にます。あまりに感傷的すぎますか? おおげさだと思いますか? それでも僕は君との関係を考えると、そんなことも考えてしまうのです。君は生きてください。僕は死にます。
えっと どういうこと? いや 意味がわからない 息を大きく吐き、ゆっくりと吸う。三枚の手紙を四つ折りに戻す。オレンジジュースを一気に飲みほす。でもどうせこの手紙も でも本当に私のことが好きだとしたら? 手紙を開き、読み返していく。でもあの紙には恋愛とは別のものだと それに私の方だって英人さんのことを やっぱりあれは 手紙を机に置く。キッチンに行く。冷蔵庫からオレンジジュースをとりだし、コップにそそぐ。やっぱり まあ もう嫌だ でもあの手紙は物的証拠だし そう 洗濯
洗濯かごの中身を洗濯機に入れる。ハンカチを入れる。洗剤を入れる。洗濯機をスタートさせる。たいていは たいていのことは でもパンダは死んだ それはニュースになるくらい重要なことで 私が死んでもニュースにはならないけど パンダが死んだらニュースになって 机の上の手紙を見る。それにしても 英人さんの恋人は ベッドに座り、ブタのぬいぐるみを手にとる。目を見つめる。
リビングに行く。受話器をとり、ボタンを押す。
「もしもし」
「あっ、宗助、あのね」
「誰?」と宗助は言った。
「私」と私は言う。受話器の向こうはなにやら騒がしい。
「ああ、ミヨか」
「ミヨじゃないよ」
「はあ? ミヨだろ?」
「うん。ミヨだけど」
「それでなんか用?」
「用がないと電話しちゃいけないの?」
「僕は遊民ではないから、暇なときばかりではない。じゃあ切るよ」
「わかった。ごめんあそばせ」
受話器を強く置く。音がする。というか私さっきラブホテルにいたんだけど でも何もなかったよ 本当だよ 何もなかった 冷蔵庫をあける。冷気が出てくる。冷蔵庫を閉める。そんなことより結婚しない? そしたら私の人生はハッピーエンドになるわけだし ベッドに座る。ブタのぬいぐるみを手にとる。両目を見つめる。ねえ 結婚しましょうよ そしたらみんな幸せになって 『ロミオとジュリエット』では結婚できなかったせいでみんな不幸になって だから バカみたいだ バカみたいだ でもバカであることは問題ではなくて 問題はブスであること でも私はかわいいし ブタを壁に投げつける。ブタは横向きに寝ころぶ。カピバラはこてんと転んで寝るんだってね こてんと転んで 壁に刺した髪の毛が目につく。起き上り、何度か回る。ステップをふむ。また回る。すっかり忘れてた いつまで刺さってるのかな 手鏡に自分の顔を映し、上唇に空気を入れてふくらませる。カピバラみたいか これってカピバラみたいか カピ顔なんて ああもう
イスに座る。手紙を手にとる。どうして英人さんはガムをふむことを それはただの偶然? 本当に偶然なの? まあ偶然か 手紙を投げる。手紙は床に落ち、裏返る。そこには文字がある。って裏もあるじゃん バカだ 本当にバカだ 私は手紙を拾う。
高校生のときに付き合っていた女の子にそんな手紙をわたしました。そんな恥ずかしい手紙を。ミヨちゃんは彼女に似てます。前にも言いましたが、安心感があります。そういう相手はなかなかいません。
浮気をしたというあの話は本当です。僕はあの話を誰にも言うつもりはなかったのですが、なぜかミヨちゃんには言いたくなりました。それは安心感があるからだと思います。ただそれは恋愛とは別のものです。




