11章 奈菜と父
七月二十五日水曜日です。
奈菜は朝から特に何もしませんでした。お風呂を掃除したあと、雑誌を開いたり、音楽を聴いたり、側転をしたり、冷蔵庫を開けたり閉めたりしてすごし、昼食を終えると、ひさしぶりに昼寝をしました。奈菜は尾行を始めてから一度も昼寝をすることはなかったので、およそ一ヵ月ぶりの昼寝になります。
奈菜が眠っているあいだに、きのうのことを少し話しておきましょう。きのうとは綾子から名刺をもらった日です。
奈菜はインターネットで綾子の事務所を検索しました。ホームページがあり、有名人も所属しているようなので、不審そうではありませんでした。奈菜はホームページの所属者の一覧を見ていると、ある人を見つけました。それはターゲットの恋人です。ターゲットの恋人は綾子の事務所に所属しているファッションモデルだったのです。
奈菜はパソコンの電源を切ると、宗助に電話をしました。テストに合格したことを伝えたあと、宗助がどの程度のことを知っていたのかたずねました。どうやら宗助が知っていたことは、理紗子の母が芸能事務所の社長であることだけで、ターゲットに関する新たな情報を得ることはできませんでした。
電話を切ると、奈菜は紙に数式を書きました。先月に書いたのと同じものです。それは簡単な数式ですが、奈菜にとっては深い意味があります。しかし、それを見るのにもすぐに飽き、ゴミ箱に捨てました。
その日の夜、スカウトされたことを父に話そうと思いました。奈菜は父のことを軽蔑していますが、誰かに自慢したかったのです。しかし実際に父を前にすると、話すのが億劫になり、延期することにしました。〈こういうことは慎重にすべきだし、冷静に考えるために明日まで時間を置こう〉と言い訳をつけたのです。しかし、延期したことがある運命を引き起こすことになります。
きのうはそんなことがありました。
時刻を現在に戻します。
七月二十五日の昼の二時すぎです。部屋にはエアコンの音があります。窓は閉まっていますが、セミの声が聞こえています。音楽は流れていません。奈菜は昼寝から目覚めたあともベッドに寝ころんでいて、ブタのぬいぐるみを両手で持ち、にらめっこをしています。
じつのところ、この日は夜までは何もありません。壁にはまだ髪の毛が刺さったままですが、奈菜はそのことをすっかり忘れていますし、そのほかにも特出した出来事はありません。雑誌を開いたり、音楽をかけて踊ったり、冷蔵庫を開けたり閉めたりしただけです。
六時になると、奈菜は夕食の準備にとりかかりました。夕食を作り終えたのは七時前です。二人分の夕食です。
さて、ここから事件が起こります。事件と言っても、警察沙汰になりはしませんが。
父はたいてい七時頃に帰ってきます。残業で遅くなるときにも、六時までには自宅に電話を入れます。同僚と居酒屋に行くときも同じです。それはここ十年近く続いている習慣で、これまでに一度もやぶられたことはありません。しかしこの日は七時半をすぎても、玄関が開くことも電話が鳴ることもありませんでした。
奈菜は七時から七時半までのあいだに、時計に百回近く目をやりました。七時半をすぎると、夕食を食べ始め、八時前に食べ終えました。そのあと洗い物をしてから、お風呂にお湯を入れました。お風呂がたまるのを待っているあいだ、父に電話をかけましたが、父の携帯電話は電源が切れているか電波が入らない場所にあるようでした。
奈菜は父の音信不通の原因を考えました。まずは無難に交通事故にあったことを考えました。しかしもしそうだとすると、携帯電話や運転免許証から身元が特定され、病院か警察から電話がかかってくるはずです。だから交通事故はないでしょう。そのほかに思いついた原因は、荒唐無稽なことばかりです。誘拐されて失踪したこと、銀行に強盗犯が立てこもり、父がその場に居合わせたことなどです。どちらもまず起こりえないことですし、奈菜も本気でそういうことを考えたわけではありません。
奈菜はお風呂から上がると、柔軟体操をしました。それが終わると、ふたたび父に電話をかけました。しかし返事は同じでした。電話に出たのは機械的なメッセージを口にする女性でした。彼女は毎日たくさんの人の耳もとで話しかけています。しかし誰も彼女の名前を知りません。おかしなものですね。
そうこうしているうちに、奈菜は父の交友関係をいっさい知らないことに気づきました。父の同僚についても父の女性関係についても何も知りません。父には恋人がいるかもしれませんし、恋人と会うために残業とだと嘘をついていたかもしれません。そう思い当たると、奈菜は不愉快になりました。すると、父がもうすぐ帰ってくるように思えてきて、出かけることにしました。父を困らせたい気分になったのです。
奈菜は服を着替え、食卓に〈出かけます。遅くなるかもしれません。奈菜〉と書き置きを残して、家を出ました。そして駅へと歩いていきました。
奈菜の後ろには、ある男がつけています。奈菜の父です。父はさきほどからずっとマンションのそばにいたのですが、マンションから奈菜が出てきたので、あわててあとをつけることにしたのです。父は誘拐されたわけでも立てこもり現場に遭遇したわけでもなかったのです。自発的に帰らなかっただけなのです。その理由はあとで話すとして――簡単に言えば、好奇心や出来心ですが――まずは奈菜の行動について話しましょう。
奈菜は家を出たときには宗助のアパートに行くつもりでしたが、駅に向かって歩いていると、英人のアルバイト先に行く選択肢を思いつきました。プラットホームに着いたときには、まだどちらにするか決めかねていました。しかしどちらも電車の方面は同じなので、とりあえず電車に乗りました。
電車内には空席がいくつかあり、奈菜は空いている席に座りました。正面には目をつむっている女性がいます。化粧の濃い女性です。奈菜は〈電車で化粧をすることより、寝ることの方がみっともない〉と思いました。それでも周りを見まわすと、目をつむっている人はほかにも何人かいました。
電車は宗助のアパートの最寄り駅にとまりました。奈菜は座ったままです。もう少し電車に乗っていたい気分だったのです。それでも電車の扉が閉まると、電車を降りなかったことを後悔し始めました。
奈菜は英人がこの日にアルバイトをしているかどうか知りません。それどころか、今でもそのアルバイトを続けているかどうかも知りません。英人のアルバイトの話は、三ヵ月前に千絵から聞いたことで、もうそのアルバイトを辞めている可能性もあります。それでも奈菜は英人のアルバイト先に向かっています。もし英人がいなければ、自宅に帰る予定です。そして、奈菜は英人がいないことを望んでいます。英人と会っても何を話せばいいのかわからないからです。
駅に着くと、奈菜はタクシーに乗りました。タクシーに乗ったのは人生初です。おそらく尾行の報酬が入って金遣いが荒くなっているのでしょう。
英人のアルバイト先に着いたのは十時二十分です。そこは飲食店です。奈菜は英人の自動車を見つけ、安心しました。しかし十一時になっても英人が出てこなかったので、終電を気にして、不安になりました。英人は十一時すぎに出てきました。そのとき不安は後悔に変わり、英人が近づいてくると、後悔は緊張に変わりました。
「性格が悪いとはどういうことかわかる?」と英人は言いました。
「えっ?」と奈菜は突然の質問にとまどいました。〈どうしたの?〉や〈どうしてここにいるの?〉とたずねられることを予想していたのです。
「性格が悪いとは嫌いな人が多いこと。嫌いな人が多い人は愚痴ばかり言ってる」と英人は言い、助手席側のドアを開けました。「とりあえず車に乗る? それともこのまま外で話す?」
奈菜は助手席に乗り、ドアを閉めました。それを見届けた英人は、運転手席側に行き、自動車に乗りこみました。
車内にはわずかながら芳香剤の匂いがあります。それは一分もすれば忘れてしまうほどのものです。奈菜はひざの上の鞄を見ています。英人は前方にある広告の看板を見ています。遠くからは自動車の走行音が聞こえています。
奈菜を安心させるためか、話のきっかけを作るためか、英人は自動車の鍵に関する機能の説明をしました。すなわち、運転手側の鍵を閉めれば同時にすべてのドアがロックすることを口で説明したあと、実際に鍵を閉めて、また開けました。しかし奈菜は別のことを考えていました。それは〈電車で化粧をする女は性格が悪い。たとえ嫌いな人がいなくても性格が悪い〉ということです。ただ、それを口にすることはありません。
「どこか行きたいところはある?」と英人はたずねました。
「そうですね」と奈菜は考えました。しかし何も思いつかなかったので、黙っておくことにしました。
「じゃあ、僕の行きたいところに行ってもいいかな?」
奈菜はうなずきましたが、英人は前を見ていたので気がつきませんでした。だから奈菜はシートベルトで了承を伝えました。声で伝えるという積極的な同意はしたくなかったのです。あくまでも消極的な同意にとどめておきたかったのです。
自動車が動きだしてからは、二人は何も話しませんでした。
奈菜はどこに行くのか考えましたが、何も思いつきませんでした。そのうち眠気を覚え、考えるのをやめました。緊張がとけたあとには眠気が来るものなのですね。しかし目的地に着くと、眠気は一瞬にして吹き飛びました。そこは宿泊施設だったのです。いわゆるラブホテルだったのです。
「もしかしてこういう場所は嫌かな? もしそうなら別の場所に行くけど」
「いえ、別に」と奈菜はそっけなく答えました。ただ、英人がシートベルトを外すまで、じっとしていました。
ここで時間を少し戻して、奈菜の父が帰宅しなかった理由を話しましょう。と、その前に、父について話しておきましょう。
父は毎朝かかさず新聞を読み、選挙には毎回行き、オリンピックで日本人選手がメダルをとると感動し、妻の命日には有給休暇をとって墓参りに行き、一年に一度は実家に帰り、たいして親しくない人たちにも義理で御中元や年賀状を送り、マンション内で人を見かければ挨拶をする、そんな社会的に正しい人です。また、お酒を飲みながら強者の悪口を言う自信家でもあります。ときには弱者の悪口も言いますが、それも社会的に正しい範囲内でのことです。
そんな父にも社会的に正しくない部分が一つだけあります。それは無職である娘の存在です。父は正しい人なので、正しくない娘の存在がストレスの原因になっています。すなわち〈子供の自立は親の責務である〉という使命感を持っている父は、それが果たされていない状況によりストレスがたまっているのです。
じつのところ、父は奈菜のことが好きではありません。昔は好きでしたが、今はわずらわしく思っています。これは都合の問題です。昔は奈菜から慕われていましたが、そのうち奈菜から疎まれるようになりました。だから父の方も奈菜をわずらわしく思うようになったのです。
父は幼い奈菜と一緒に食事をとり、一緒にテレビを見て、たまに映画館に行きました。それから、初詣、ひな祭り、花見、動物園、水族館、博物館、プール、花火大会など、人並みの行事を与えてやりました。自転車の練習も手伝いましたし、参観日や運動会にもきちんと参加しました。しかしある時期にさしかかると、奈菜から距離を置かれるようになりました。
父はその理由を思春期という言葉で片づけました。奈菜が不登校になると、学校の先生や同級生のせいにするようになりました。奈菜が高校を中退すると、父子家庭という境遇のせいにするようになりました。そして、その頃にはペットを飼っていればよかったと思うようになっていました。そうしていれば、娘の人格がまともに形成されただろうと思えたのです。
それらの理由は、父が自分自身をなぐさめるためのものです。思春期でも父を無視しない娘はいますし、不登校でも親とは良好な子供もいます。片親だからと言って子供から慕われないわけではありませんし、ペットを飼っていても残虐な子供もいます。父は安心したいためにそれらの理由をつけたのです。
では、何が問題だったのでしょうか?
父にだけ問題があるわけではありませんが、問題は子供ではなく親にあります。一般的な人間関係はお互いに1から始めるものですが、親子関係は親は1から始め、子供は0から始めるものです。だから親が子供から慕われないのは、多くの場合、親に問題があります。その問題とは、簡単に言えば、コミュニケーション不足です。
父にはコミュニケーション不足だったという自覚はありません。それは父はいつでも正しい人だからです。正しい人は〈当たり前のことを当たり前にしていれば当たり前の幸せが得られる〉と考えるものです。〈当たり前のコミュニケーションをとっていれば当たり前の関係が築ける〉と考えるものです。当たり前のコミュニケーションをとってきた父は、コミュニケーションが不足していたと思うことはないのです。しかし、当たり前のコミュニケーションとは、建前の関係をさします。建前の関係とは、お互いに傷つかない距離をとることです。それは社会における関係であり、家庭における関係ではありません。父にはそれがわかっていないのです。
今では、父は奈菜に対する好意が乏しいために、奈菜が悪いと思っています。しかし一緒に暮らしていれば、情がわくものです。それに父には〈子供の自立は親の責務である〉という使命感もあります。だから奈菜が悪いと思っている一方で、自分にも責任があると感じています。正確には、個人的には奈菜が悪いと思っていますが、社会的には自分に責任があると考えています。それがストレスになっているのです。
奈菜の方も父の存在がストレスになっています。それなら一緒に暮らさなければいいのですが、惰性として関係が続いているのです。
二人の関係はかなり悪化していますが、そこには憎しみはありません。奈菜は父のことを軽蔑していますが、憎んでいるわけではありません。父は奈菜のことをわずらわしく思っていますが、憎んでいるわけではありません。しかし憎しみがないゆえに、二人は一緒に暮らしているのです。二人のうちのどちらかが相手のことを憎んでいれば――父が奈菜に〈出ていけ〉と言うか、奈菜が自発的に出ていくかして――同居は終わるはずです。しかし二人とも憎しみがないので、ストレスをためながらも一緒に暮らしているのです。
ここで二人の関係を示すために、ある日の出来事を話しましょう。
奈菜の二十歳の誕生日のことで、夕食後のやりとりです。二人はふだんは食事中も食後もほとんど言葉を交わすことはありませんが、この日は言葉を交わしました。それは父の次の言葉から始まりました。
「将来はどうするつもりなんだ?」
こういう場合には、漠然と〈将来はどうするつもりなのか?〉と質問するのではなく、いくつかの選択肢を提示なのすべきですが、父はそのことを知りません。
奈菜の頭には二つの選択肢が思い浮かびました。一つ目は宗助と結婚をすることで、二つ目は夜の世界で働くことです。しかし前者は未定であり、後者は父を満足させる答えではないので、奈菜はうつむいたまま黙っておくことにしました。
「もう子供ではないのだから、将来のことをちゃんと考えているのか?」と父は付け加えました。
父は奈菜のことを子供だと思っているので、そのようなことを言うのです。もし奈菜のことを大人だと思っているのなら、放っておけばいいのです。あるいは〈もう大人なのだから、働かないなら出ていきなさい〉と言えばいいのです。
奈菜は何も言いません。ただテーブルの下で手のひらを固く握っているだけです。
「黙っていても事態は解決に向かうことはないぞ」と父は言いました。ゆったりとした口調です。怒りをぶつけるために話しているのではないのです。あくまでも奈菜のために話しているのです。
奈菜はまだ黙ったままです。頭の中には〈何もしなくても事態が良くなることもある〉という言葉があります。ただ、そんな言葉では父を納得させることはできません。奈菜はそれを知っているので、黙っているのです。
「子供なら黙っていてもいいかもしれないが、もう大人なのだからちゃんと自分の考えを言ったらどうだ」
ふだんは父は奈菜に対して同情心を持っています。小学生のうちから不登校になり、中学校や高校もうまくいかなかった奈菜に同情しています。しかし黙っている奈菜を目の前にすると、同情心は薄れてしまいます。父は腹がたってきたので、こう付け加えました。ただ、口調はおだやかなままです。
「そうやって黙っているのは卑怯だと思わないか? 自分のことばかり考えるのは卑怯だろう?」
その言葉により奈菜も腹がたってきました。たしかに奈菜は自分のことばかり考えていますが、奈菜からすれば、父も自分のことばかり考えているのです。奈菜のことを考えて娘の将来を心配しているのではなく、自分のことを考えて娘の将来を心配しているのです。奈菜にはそう思えるのです。しかし、それを口にすることはありません。奈菜は卑怯なのです。そして厄介なことに、卑怯でもかまわないと思っているのです。
部屋には沈黙が流れます。
父は何も言うべきではなかったと後悔しました。始めから何も言わなければ良かったと後悔しました。しかし一度始めたものはすぐに切り上げるわけにはいきません。それは威厳を損なうからです。父にとっては正直でいることより威厳を保つことの方が大切なのです。
二人の関係は正直になることのないものです。自分の体裁だけを勘定しているものです。二人とも心を開くことはないのです。自分の都合だけを考えているのです。すなわち二人とも卑怯なのです。自分が卑怯であることに、奈菜は気づいていますが、父は気づいていません。そうなると、奈菜の方がより卑怯なのでしょう。
父は少し様子を見て、〈とにかく自分の将来のことなのだから、じっくりと自分で考えなさい〉と切り上げるつもりでいました。しかし、その前に奈菜が口を開きました。
「大学生の中には自分で生活費を出していない人もいるよね。それに就職したあとも実家で暮らして、家賃も食費も光熱費も水道代も払うことなく、給料を自分のためだけに使ってる人もいるよね」
「俺は生活費のことを言っているわけじゃないんだ。奈菜は家事をしているし、専業主婦と大差ない。だけどな、俺もいずれは年をとるし、そうなると……」
父の言葉はここでとぎれました。〈将来的には生活費が出せなくなる〉と言おうとしたのですが、実際には娘一人分くらいならどうにかなるのです。その事実に気づいた父は、別の方面から諭すことにしました。
「もしも俺が病気になって入院したら、生活に困るだろう?」
奈菜は〈万一そうなったらアルバイトをすればいいし、それで足りないなら生活保護をもらえばいい〉と思いました。しかしそれを口にすることはありません。父が生活保護受給者を軽蔑していることを知っているからです。
「でも来月の生活費もままならない人だっているんだし、そんなに将来のことを心配されても」と奈菜はうつむいたまま言いました。「私はお父さんに迷惑をかけてるわけじゃないと思う。これからさきお金をねだることはないし、ここで約束してもいいよ」
「お金のことではないんだ。〈将来はどうするつもりなのか?〉と聞いているんだ。このまま何もしないでいてもしかたないだろう?」
奈菜はお金の話をしています。父は肩書きの話をしています。論点がずれているのです。だから会話は前には進みません。また沈黙になりました。
奈菜は手のひらを固く握っています。こうして父と対面することは怖いのです。父は奈菜と対面することを怖いとは思っていませんが、窮屈さを感じています。この時間は二人にとってまったく無利益なものなのですね。
「とにかく自分の将来なのだから、じっくりと考えなさい」と父は言い、立ち上がり、浴室に行きました。
奈菜は食器を流し台に持っていき、洗いました。そのとき手のひらに爪跡を発見して、愉快になりました。自分しか知らない爪跡に嬉しくなったのです。
少し長くなりましたが、二人の関係はこういうものです。奈菜は父を軽蔑していて、父は奈菜をわずらわしく思っています。また、二人の価値観は大きくずれています。奈菜は自分を中心に生きていて、父は世間を中心に生きています。だから話し合いをしても堂々巡りです。それはどちらかが悪いわけではありません。相性が悪いのです。あるいは、お互いに表現力と理解力が足りないのです。
このやりとりの一ヵ月ほどあとに、父は自宅に連絡することなく九時を回っても自宅に帰ることはなかったのですが、それはこういうことです。
その日は残業がありましが、連絡する時間がなかったほど忙しかったわけではありません。しかしあえて連絡をしませんでした。それは好奇心のためです。あるいはちょっとした出来心のためです。もし自分が帰らなかったら奈菜がどのような行動をとるか試したいと思ったのです。
夜の八時前に仕事を終えると、父は自動車で帰りました。そしてマンション近くのコインパーキングに駐車して、マンション前まで歩いて行きました。居間の明かりはついていましたが、奈菜の部屋は真っ暗でした。時刻は八時半で、奈菜は入浴中です。父は夏の夜風にさらされながら、時間の経過をひたすら待ちました。そのあいだ奈菜が警察に連絡することを想像して不安になりましたが、それも一興だと考え直しました。
九時すぎに奈菜がマンションから出てきました。父は奈菜のあとをつけて、駅まで行きました。父は奈菜が駅前の交番に行っているのだと思いこんでいましたが、そうではありませんでした。奈菜は改札口を通りました。ふだん駅を利用することのない父は、切符を買うのにとまどい、奈菜を見失ってしまいました。
父は奈菜の交友関係をほとんど知りません。たまに家に千絵から電話がかかってくることがありますが、千絵がどこの誰かなのかは知りません。だから奈菜がどこに行ったのか見当もつきません。
父はしかたなく自宅に帰りました。そして机の上に〈出かけます。遅くなるかもしれません。奈菜〉という書き置きを見つけました。このときには自分のしたことを後悔していました。
父は食事をして、入浴をして、そしてベッドに寝ころびました。それから長いあいだ、玄関の開く音を待ちました。しかしそれは訪れることなく、二時二十分の時計を見たのを最後に、いつのまにか眠りに落ちていました。
目が覚めると、朝の五時半になっていました。ふだんより遅く寝たにもかかわらず、ふだんより早く目が覚めたのです。眠っているあいだも奈菜のことが心配だったのですね。父は玄関に行き、奈菜の靴を確かめました。しかしそれはありませんでした。奈菜の部屋にも行きましたが、ベッドは空でした。奈菜はまだ帰っていなかったのです。




