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私ではない私  作者: 竹下舞
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9章 奈菜と依頼主

 七月二十四日火曜日です。

 その前にきのうのことをざっと話しておきましょう。

 きのう奈菜は大学に行き、ある教室の前でターゲットを待ちました。しかし時間が来てもターゲットは来ませんでした。それどころか、ほかの学生も来ませんでした。大学は補講期間に入っていて、通常の講義は先週までだったのです。奈菜はそのことを英人から教えてもらいました。構内でたまたま英人に会ったのです。

 それが月曜日のことです。そして火曜日です。

 朝の八時に、奈菜は部屋を雑巾がけしました。夏は掃除機より雑巾がけを好んでするのです。それが終わると、ベッドに寝ころびました。まだ寝間着のままです。補講期間なのでターゲットの予定はわかりません。だから奈菜はもう尾行をするつもりはありません。もう報酬は十分すぎるほどもらったのです。それでも二十分後には尾行をする気になるのですが。

 奈菜は十分ほど寝ころんでいると、ベッドの上に髪の毛の切れ端を見つけました。三センチメートルほどの短いものです。奈菜はそれを親指と人差し指でつまんでいじりながら、ミヨのことを考えました。ミヨはブログの中にいて、そして私の中にもいる。ミヨはきのう英人さんとお昼ごはんを食べて、楽しくおしゃべりをして……

 さきほど雑巾がけをしたせいか、奈菜はくしゃみをしました。仰向けになっていたので、唾液が顔に落ちてきたように感じ、不愉快になりました。寝ころんでくしゃみをするときには横を向いてしないといけないのですね。あるいは手で覆ってもいいのですが。

 奈菜は寝ころんだまま横を向きました。まだ髪の毛の切れ端はつまんでいます。壁を見つめていると、小さな穴を見つけました。それは画鋲を刺したときにできた穴です。奈菜はその穴をぼんやりと見つめながら、ミヨと自分の違いについて考えました。ミヨには姉がいるけど、私には姉はいない。ミヨには料理を教えてくれる母がいるけど、私の料理の先生は本の中にいる。ミヨは千絵から好かれているけど、私は……

 そこまで考えをめぐらせたとき、あることが閃きました。それは、壁の穴に髪の毛の切れ端を入れる、ということです。奈菜はさっそくそれを行い、壁から二センチメートルほど生えた髪の毛を見て、満足しました。そのためか、とりあえずターゲットのアパートまで行ってみることにしました。行動は気分に左右されるものなのですね。

 奈菜は服を手にとり、回ったり、手をひらひらさせたり、床の模様に沿ってステップを踏んだりしながら着替えました。それから化粧をしました。当たり前ですが、このときには回ることも手をひらひらさせることもありませんでした。

 出かける前に台所に寄りました。そこでやや黒ずんだバナナが目につき、千絵が言っていたことを思いだしました。それは〈バナナはフィリピンで産まれて、日本旅行の最中に人間に食べられて死んでしまう。バナナはめっちゃ壮絶な人生を送るんだよね〉というものです。靴をはいているときにも、千絵が言っていたことを思いだしました。それはオタマジャクシの進化論の話で、〈オタマジャクシは最初に後ろ足が生えて、次に前足が生えて、最後に尻尾がなくなってカエルになる。そう考えると、人間に尻尾がないのも納得できるよね。成長すると尻尾はなくなるべきだから。というわけで、ウサギは尻尾が短いし、人間に次いで発達した生き物なんだよね〉というものです。

 駅まで歩いているあいだ、奈菜はこう思い、感傷的になりました。今のまま千絵と会う私と、もう千絵とは会わない私とでは、半年もすれば歴然とした違いが出るはず。こうやって千絵のことを思いだすこともないわけだし。それなら人とのつながりを絶って、テレビやネットとのつながりも絶って、そうやって世界とのつながりを絶ったら、私はどんどん純粋になっていく。でもそれに意味はあるの?

 それには意味はありません。いくら純粋になれたとしても、意味はありません。意味は不純の中にあるのですね。そういう論理を用いれば、奈菜の尾行は極めて純粋に近い行為です。奈菜は尾行に意味を求めていないのです。


 奈菜は尾行をするときには数パターンの変装をします。この日の奈菜はメガネもサングラスもかけず、帽子もウイッグもかぶっていません。ふだんのままです。

 ターゲットのアパートに九時半に着き、まずは窓のカーテンを確認しました。それは開いていました。もしかしたらターゲットはすでに外出しているのかもしれません。奈菜は思いきってインターフォンを押しました。もちろんすぐにその場を立ち去りました。玄関が開き、ターゲットの姿が見えました。ジーンズをはいていたので、外出する予定があるのかもしれません。

 奈菜は例の児童公園に行きました。運が良いことに、五分ほどすると、ターゲットが出てきました。恋人はいません。一人です。奈菜は腕時計で時間を確認して、尾行を開始しました。

 ターゲットは駅に行き、改札口を通り、そして電車に乗りました。奈菜も続きました。奈菜はターゲットからできるかぎり遠い席に座りました。何度かターゲットを確認しましたが、ターゲットはただ座っているだけで、特に何かをする気配はありません。

 電車が橋にさしかかったとき、奈菜は隣の上品な格好のおばさんから〈ちょっといいかしら?〉と声をかけられました。奈菜は突然の出来事に驚き、いぶかしげな顔を彼女に向けました。彼女も奈菜の顔を見ました。まずは奈菜の瞳を見て、それから眉を見て、涙袋のふくらみを見て、鼻の穴のバランス、唇の厚さ、顎の形、頬の張りを順々に見ました。それは二秒足らずのあいだに行われました。一種の職業病なのでしょう。

「どうしてあの男のあとをつけているの?」と彼女はたずねました。

 奈菜はまた驚き、今度は混乱しました。だからうつむきました。そこには彼女の艶やかなハイヒールと奈菜の薄汚れたスニーカーがあり、途端に恥ずかしくなりました。彼女は〈どうしてあの男の方を見ているの?〉ではなく〈どうしてあの男のあとをつけているの?〉と言いましたが、奈菜は混乱していたせいで、そのことに気づくことはありませんでした。

 沈黙は長く続きました。

 電車のレールの音が規則正しく鳴っていて、居心地の悪さからか、奈菜はその音を数えました。十七まで数えたとき、彼女は口を開きました。

「誰かから頼まれたからでしょう?」

「えっ?」

「誰に頼まれたの?」

「えっと」と奈菜は言いました。「友達の友達の母親です」

 彼女は口に手をそえて笑いました。奈菜は不愉快になりました。相手が男性なら大丈夫だったのですが、同性からいじめられた経験からか、女性を前にするとどうしても卑屈になってしまうのです。

「いえ、冗談ではなく本当です」と奈菜はむきになって言いました。「本当に友達の友達の母親に頼まれて」

「それ、私よ」

「えっ?」と奈菜は彼女の顔を見ました。

「あなたの友達の友達の母親は私」

「はあ」

「つまり私の娘の友達の友達があなた」と彼女は言い、また手を口にそえて笑いました。

 そのあと二人とも何も言いませんでした。奈菜はまたレールの音を一から数え始めました。九まで数えたところで、彼女は口を開きました。

「あなたはこの尾行の目的はなんだと思う? なんのためにこんな尾行を頼まれたんだと思う?」

「えっと、あなたは依頼主なんですよね?」

「ええ、そうよ。私は霜月綾子。娘の理紗子を介してあなたに尾行を依頼した」と綾子は言いました。「この尾行の目的はなんだと思う? 意味もなく尾行させて二十五万円も払うわけはないでしょう? 私はそんなことしないわ。とある目的があって、あなたに尾行をお願いしたのよ。その目的はなんだと思う?」

 奈菜はそれについて何度か考えたことはありましたが、それらしい答えに辿り着いたことはありません。だからあらためて尾行の目的をたずねられても、すぐに答えが浮かんでくることはありません。それに、奈菜は綾子に対して敵対心を持っているので、黙っておくことにしました。

「たとえば、私とあの人の名字は違うけれど」と綾子は言いました。「それは離婚をしたからであって、じつはあの人は私の息子で、あなたに息子の調査をしてもらっていたのかもしれないでしょう?」

「そうなんですか?」

「どうでしょう? それとも私には娘が二人いて、一人は理紗子で、もう一人はあの人の恋人で、あなたに娘の恋人の調査をしてもらっていたとか」

「えっと、どういうことですか?」

「たとえばの話をしたのよ。あなたもたとえばの話をできないかしら?」

「できそうにありません」と奈菜は静かに突き放しました。

「そうね。それなら、こんなのはどうかしら?」と綾子は言いました。「じつは彼の素性を知るために尾行を依頼したのではなく、彼に誰かからストーカーされているかもしれないと思わせるために尾行を依頼した、というのはどう? 彼は私の愛人で、彼から別れを告げられたから、嫌がらせのために尾行を依頼した、というわけね」

「それを娘に頼んで依頼しますかね?」

「娘と仲が良かったら、ありうるでしょう?」

 奈菜には綾子の言っていることが荒唐無稽に思えました。嫌がらせをしたいならもっと適切な方法があるはずです。

「どうして尾行の時間を五時間以下にしたんですか?」と奈菜はたずねました。「そもそもそれがおかしいんです。やるなら徹底的にすべきです」

「そうなのよ。やるなら徹底的にすべきね。でも私はそうはしなかった。そこに何か意味があるとは思わない?」

 奈菜はもしかしたら自分が尾行されていたのではないかと閃き、愉快になりました。答えがわかった気になったのです。しかしよく考えてみると、どうして自分が尾行さなければならないのかわかりません。そして自分が尾行されていたかと思うと、ひどく不愉快になりました。

「霜月さんは私を尾行してたんですよね?」

「どうして?」

「してなかったんですか?」

「今日こうして会ったのは、あの人に電車に乗ってもらうことにして、私はプラットホームで待ってたの。そしたらあの人が来て、あなたも来た。だから声をかけてみた」

「じゃあ、あの人と知り合いなんですか?」

「知り合いではないわ。娘の友達ではあるけれど、私は面識はない」

 奈菜はますますわからなくなりました。そして、ますます不愉快になりました。

 駅に着き、ターゲットは電車を降りました。奈菜と綾子は座ったまま、ターゲットを見送りました。扉が閉まり、電車は動きだしました。

「そろそろ種明かしをしようかしら。私はとある会社の社長をしていて、その会社にふさわしい人材を探しているの。その人材に必要なのは、忍耐力があること、誠実であること、独自性があること、自律性があること。自律性というのは、わかりやすく言えば、とある男の尾行を頼まれて相当の報酬がもらえるときに、〈どうして自分はあの男を尾行しているのか?〉という問いに答えを出すことね。他律的な人間はそんなことはしない。与えられた仕事をこなすだけで、報酬がもらえれば、それだけで満足してしまう」

 奈菜は恥ずかしくなりました。そして綾子に対してますます敵対心をつのらせました。しかし綾子の方は奈菜を好意的に見ています。もし奈菜に見込みがなければ、尾行は一週間ほど打ち切っていたでしょう。そして、こうして話をすることもなかったでしょう。

「何かおもしろい話はできないかしら?」と綾子は言いました。「なんでもいいのよ。ありふれた話でなければ」

「おもしろい話とは?」

「なんでもいいの。好きな話でもいいし、退屈しのぎになる話でもいいし、突拍子もない話でもいい。なんでもいい」

 奈菜は綾子に敵対心をいだいていたので、とびっきり狂った話をすることにしました。それは死刑制度についての話で、次のようなものです。

 日本では一人殺しただけでは死刑にならないことが多くありますが、二人以上殺すと死刑になります。そういう現状は、被害者や被害者遺族を基準にした場合にはおかしなことです。被害者や被害者遺族にとっては、加害者が殺したのが一人でも百人でも関係ないからです。

 奈菜はそこまで話し、〈あれっ? 千絵はこのあと何を言ってたっけ?〉と考えました。しかし思いだせませんでした。千絵の見解は次のようなものです。

 日本の死刑に関する現状は、被害者遺族が死刑を望んでも叶わない場合が多くあり、また死刑判決が出てから長いあいだ刑が執行されない場合も多くあります。被害者遺族の精神的負担を基準にした場合には、それはひどいものです。もし死刑を存続させるのであれば、凶悪な殺人の場合には被害者が一人の場合でも死刑判決を出し、すみやかに刑の執行をすべきです。それができないのであれば、死刑は廃止すべきです。そうすることにより、裁判の行方に一喜一憂する必要はなくなり、刑の執行が長いあいだ行われないことに苦心する心配もなくなるのです。

 これが千絵の考えです。この考えの欠陥を指摘するなら、死刑制度は社会のためにあるという前提が考慮されていない、ということでしょう。法律は、人のためにあるのではなく、人々のためにあるのです。

 奈菜は思いだせそうになかったので、千絵が言っていた結論で話をしめくくることにしました。それはこういう冗談です。

「とにかく、人の命の重さは無限大で、一人の命の重さも百人の命の重さも決して比べることはできません。だから私が死ぬことは人類滅亡と等しいんです」

 綾子は笑うことはありませんでしたが、奈菜の話をとても気に入りました。それはもちろん奈菜の持っている雰囲気も含めてです。

 綾子は奈菜に契約を持ちかけました。

「契約とは?」と奈菜は返しました。

「うちは芸能事務所をしているのよ。小さな事務所だけれど、ちゃんとしたところよ」と綾子は言い、奈菜に名刺をわたしました。「ネットで検索してみて。そしたらホームページがあるから。そこに私の写真もあるから。芸能界はコネの社会だから、はっきり言って、うちの事務所ではたいした力にはならないかもしれない。それでも今の時代、チャンスはいくらでもあるわ。忍耐力、誠実さ、独自性、自律性、それらのものがあれば、チャンスをつかむことだって難しくない」

 奈菜にとってそれはたいへん驚きで、綾子への敵対心が消えてしまうほどでした。世界は一瞬にして変わることがあるのですね。それでも奈菜は〈少し考えさせてもらってもいいですか?〉と頼みました。

 奈菜は綾子の名刺をちらりと裏返しました。そこには〈現実は過去を現在につなぎ、今すべきことを教えてくれる。理想は未来を現在につなぎ、これからすべきことを教えてくれる。私の仕事は理想に形を与えること〉という手書きの文章がありました。奈菜はそれを読んで、いぶかしい顔をしました。

「世の中には曖昧なビジョンしか持っていない人が多くいる。ただ流されるだけで一生をすごす、そんな人ばかりいる」と綾子は言いました。「彼らの未来は現在とつながってないのよ。現在とつながってない未来は、理想ではなく空想よ。空想家は待つだけだけれど、理想主義者は行動する。もしあなたが理想主義者になる気があるなら、私はその手助けをできる」

「流されるだけで一生を送ることは悪いことですか?」

「ええ、悪いことだわ、まったくもって」

「どうしてですか?」

「善し悪しに理由は必要かしら?」

 そう言われても、奈菜は不愉快になることはありませんでした。見ず知らずの人から同じことを言われたのなら不愉快になったでしょうが、この場合には不愉快になりはしなかったのです。奈菜は綾子のことを受け入れたのですね。

「尾行は私を知るためのテストだったんですよね」と奈菜は言いました。「なら〈深夜の一時から朝の六時までターゲットは在宅〉という報告を毎日することもできたと思うんですけど、そういう場合にはどうなってたんですか?」

「すぐに不合格よ」

「どうしてですか?」

「私はずるい人は嫌いだから。そうね、整形すると一日で綺麗になれるけれど、それってずるいじゃない? 卑怯じゃない? だから整形美人も嫌いなの」

「ホクロをとることも卑怯ですか?」

「ホクロ?」

「知り合いにそういう人がいるんです。その人は鼻にホクロがあって、そのホクロが顔の印象を残念なものにしてたんです。だからホクロをとって」

「それはその人に会ってみないとわからない」と綾子は言いました。「美しさは一日で手に入るものではないわ。毎日の積み重ねが大切なのよ。だから綺麗になる努力を毎日かかさずしなさい。座るときはちゃんと背筋をのばしなさい。そう。それから少しあごを引くといい。そう。それをいつもかかさず意識しなさい。そうすると自信になるから。努力した分だけプレッシャーに打ち勝つことができるから」

 そのあと綾子は芸能界の実態について話しました。それは主に大手事務所とマスメディアに対する非難でしたが、奈菜は綾子のことを頼もしく思いました。相手からどう思われているかで、相手の見え方は変わるものなのですね。

 駅に着くと、綾子は下車しました。電車はかなり先まで進んでいましたが、環状線なので、奈菜はそのまま乗っておくことにしました。胸の中に驚きが残っていて、もう少し座っていたい気分だったのです。

 奈菜は〈ターゲットはグルだったのか、それともまったくの部外者だったのか?〉と考えました。また〈どうしてあの人がターゲットに選ばれたのか?〉と考えました。しかしそれは考えて答えが出るものではありません。

 それから将来のことを考えました。そこには多くの疑問がありました。

 千絵はどう思うのかな? それより父にどう説明しよう? もし契約したら寮とかに入れるのかな? もし私がテレビに出るようになったら、花を踏んだあの子たちはどう思うのかな? 私は不登校だったことを売りにするのかな? 未来のために過去の不幸を同情に変える? アイドルになって春を売る? 週刊誌に追われるようになる? それともこれは詐欺? あの名刺も偽物?

 いろいろ考えをめぐらせていると、ふと壁に刺した髪の毛のことを思いだし、愉快になりました。今でもあの髪の毛が人知れず壁に刺さっていて、これからもずっと刺さっていると思うと、愉快になったのです。しかしミヨのことが思い浮かぶと、愉快な気分は消え、切ない気持ちになりました。アイドル志望のミヨには選択権がなく、とりわけアイドルになりたいとは思っていない奈菜には選択権があります。そのことに気づくと、切なくなったのです。奈菜はその選択権を放棄する可能性も考えていたのです。

 奈菜の中では契約することと断ることは五分五分です。コインを投げて決めてもいいと思っているほどです。奈菜は有名人になれるのなら、日常生活が不便になってもかまわないと思っていますが、その一方で、どうでもいいとも思っています。これは〈なるようになる〉という消極主義のせいですね。

 駅に着くたびに、乗客の顔ぶれは変わっていきます。電車はどんどん進んでいきますが、まだ目的駅にはつきません。

 電車にゆられていると、そばの人の会話が聞こえてきました。声はひそやかなものでしたが、奈菜にはちゃんと聞こえました。

「だからそいつはリンチされたわけよ。もうボコボコよ。すごかったからな」

「見たの?」

「死体? 見てねえよ。当たり前だろ? なんで見なきゃいけねえんだ。ただあいつらは異常だからな。限度を知らねえんだよ。監視カメラがなけりゃ警察に捕まる心配はない、なんて思ってやがる。ったく、異常だ」

 この会話は舞台のセリフ合わせなのですが――わざわざ電車の中で練習しなくてもいいのですが――台本を手にしているわけではないので、奈菜はそのことに気づくことはありません。

 セリフ合わせは続いていき、奈菜はそれをじっと聞きました。そうしていると、ふと綾子が尾行を依頼した目的を思いつきました。それは〈私にターゲットを尾行させておいて、殺し屋がターゲットを殺して、私に殺人の罪をかぶせるのではないか? 人を殺すと警察に追われるので、その役を私に押しつけたのではないか?〉というものです。もちろんそれを本気で考えたわけではありません。ただなんとなく思っただけです。だから家に警察官が来ることを想像して愉快になりました。

 駅に着いたので、奈菜は電車を降り、歩いていきました。

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