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私ではない私  作者: 竹下舞
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プロローグ

まえがき


 この作品を書いたのは二〇一三年か二〇一四年だったと思います。当時の私は芸術というものに関心がありました。おおいに関心がありました。そして次のような考えを持っていました。

 創作と芸術は違います。あるいは創作物と芸術作品は違います。創作物は受けとり手の感覚を刺激するものであり、つまり「気持ちいい」や「心地いい」などの作用をうながすための媒体です。そこにはテーマは必要なく、ただ気持ちよければいいのです。それに対して、芸術にはテーマが必要です。

 ただ、テーマがあれば芸術になるのかというと、そうではありません。内容によりテーマを表現するなら、それは芸術というより思想でしょう。(あるテーマを伝えるという目的のために作品を作れば、作品よりテーマの方が優位になってしまうので、芸術というより思想といった方が適切でしょう)

 芸術とは形式によりテーマを表現することです。

 ここで「内容と形式」という対比を使いますが、イメージとしては「物体と現象」という対比を考えてもらえばわかりやすいと思います。水は物体で、川は現象です。空気は物体で、風は現象です。形式とは、内容の寄せ集めではなく、全体として一つのものです。(川の内容は水ですが、水を集めても川になるわけではありません。川は水が織りなす関係により生じているのです)

 さて、形式によりテーマを表現するとはどういうことでしょう? たとえばジョン・ケージの『4分33秒』やマルセル・デュシャンの『泉』がそうです。あるいは宗教的な建造物もそうだと言えなくはないでしょう。(それらの作品がどれだけ意図的に表現されたのかはわかりませんが)

『4分33秒』について説明しましょう。

 これはジョン・ケージが一九五二年に作曲した曲です。三つの楽章からなり、どの楽章もTACET(休止)と書かれているだけです。いわゆる「無音の音楽」です。この曲を演奏するときには、演奏家は4分33秒のあいだ演奏することなく、じっとしていればいいのです。一般的な解釈としては、この曲はその場の雑音(衣擦れ音、呼吸音、空調機の音など)を聴くものとされているそうです。コンサートで演奏されることもあるようですが、聴衆は音楽的な快感をえることはないでしょう。それもそのはずです。内容はつまらない音楽なのですから。興奮や感動をもたらすために作られた音楽ではないのですから。

『4分33秒』のテーマは「どんな場所にも音がある」ということでしょう。この作品はそのテーマが形式により表現されています。ゆえに芸術作品なのです。(ここで注意していただきたいのは、『4分33秒』は聴衆も作品の一部として取りこまれている点です)

 芸術には意味はありません。創作や思想には意味がありますが、芸術には意味はありません。芸術作品は、感覚を刺激するための媒体ではなく、伝達のための媒体でもなく、作品それ自身が目的なのです。ゆえに純粋なのです。(正確には、どんな作品でも創作や思想という面もあるので、まったく純粋な作品などないでしょう)

 ところで、ジョン・ケージの『4分33秒』やマルセル・デュシャンの『泉』について「新しい価値観を提示したから優れている」という意見もありますが、新しい価値観の提示は思想です。なので、もし新しい価値観を提示したから優れているのなら、それは思想家として優れているのです。

 ざっと説明すると、こんなところでしょうか。

 当時の私は芸術というものをそういうレベルで考えていました。形式こそが芸術の表現領域であると考えてしました。そしてこの作品を書きました。この作品のテーマは、題名と同じく、「私ではない私」です。

 もう昔のことです。馬鹿みたいですが、当時は本気で小説家になれると思っていました(なりたい、ではなく、なれる、と)。もう昔のことです。若さとは恐ろしいものです。しかし、若くないことよりははるかにマシな気もしますが。

プロローグ


 奈菜は紙に数式を書きました。それは小学一年生でもわかる簡単なもので、自然の摂理に反していない、正しい数式です。しかし奈菜はその数式に疑問を持っています。奈菜にとってその数式は、単なる算数ではないのです。深い意味がこめられているのです。

 奈菜は紙を何気なく回転させました。すると、その中にエルとイプシロンを見つけました。ただ、それらには関心がなかったので、紙をまるめてゴミ箱に投げました。それはゴミ箱に入らず、床に落ちました。

 奈菜の頭の中にはさきほどの数式が残っています。奈菜はその数式をどうでもいいと思っていますが、頭の中に残っている以上、無関心ではないのでしょう。〈無関心〉と〈どうでもいい〉は違います。無関心の中には何もありませんが、どうでもいいの中には、少なからず感情が――虚しさか寂しさか憂いか怒りかわかりませんが、ほんのわずかな感情が――あります。

 部屋には音楽が流れています。床にはまるめられた紙が転がっています。ベッドにはぬいぐるみが転がっています。壁にはカレンダーがあります。二〇一二年の六月です。奈菜は二十歳です。

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