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ノスタルジー(少年時代の思い出)

少年時代の思い出-1-


 私は両親や兄弟と離れて、中学に入るまで祖母に育てられた。祖母の家(父の実家)は山を幾つか越えれば、もうそこは岐阜県という山深い場所に在った。

小高い山の中腹に、へばり付く様にして数件の藁葺き屋根の家が点在していた。高い石垣の上に建った祖母の家からは、蛇行する川沿いに拡がった僅かな平地に田んぼと、村のメインストリート沿いに建ち並ぶ家々や学校が見下ろせた。

それから、向かいの山にも家々が点在していて、お互いによく見えた。人が歩いている姿も、家に出入りする光景もよく見えた。


 大きな建物といえば、小中学校の校舎と体育館、農協くらいのものであった。今では過疎が進み、子供たちも殆ど居ないが、私が子供の頃は100名程度いたと思う。

運動会も赤白に分かれて、かなりの人数が居たと記憶している。

ハナタレ小僧だった私は、何時も青ハナを垂らし、鼻の下は真っ赤だった。その頃は近隣にお姉さんやお兄さんたちがいて、一番年下の私を可愛がってくれた。

お兄さんたちは釣りやキャッチボールを教えてくれたし、お姉さんは夏休みの宿題を手伝ってくれた。


 そのお兄さんやお姉さんたちが中学を卒業し、進学や就職で村を出て行くと、近所に子供は居なくなり私だけになった。そんな私を可哀想に思ったのか、祖母は自分が嫌いなくせに猫を貰ってきてくれた。白黒のブチ猫で、私たちはすぐに仲良くなった。

川へ釣りに出掛けようとすると、その猫は私の後をついてくる。危ないので一緒に連れて行けない、私は毎度猫を出し抜くのに苦労したものだ。


山間の僅かな平地を流れる川はとても澄んでいて、橋の上から見下ろすと川底まで見えた。その川底には、流れに逆らって泳ぐ清流に棲む泥鰌の仲間や、ウグイ、時にはニジマスや岩魚が素早く泳ぎ去って行くのが見えた。夕方になると、カジカ蛙が美しくも少し淋しい響きの歌声を川面に響かせた。

夏になると子供たちは少し深くなった川の淀みで泳いだ。腕白な男の子たちは、各々にヤスや網を持ち、水中眼鏡をして川の底へ潜る。目当ては岩や石の下に潜んでいる岩魚やニジマスだった。


 岩や石の下には、目当ての魚だけでなくハゼもいたし、紫色の鯰の仲間もいた。川に流れ込む幾つもの小さな沢にも、魚達が沢山棲んでいて、そんな沢は私にとって恰好の漁場だった。祖母の家から少し下った場所を流れる谷川には、何段もの古い砂防堰堤さぼうえんていがあり、堰堤の下は天然の滝つぼのようになっていた。雪深い山村の小学校の夏休みは短いが、それでも子供にとっては十分に長い。私は天気が良ければ、よく魚獲りに出かけた。

道端に生えている桑の木実を食べながら、魚獲り用の網と釣竿を持った少年の私は、せみ時雨の山道で立ち止まり、何となしに空を見上げた。

私の目に映ったのは、高い高い空を自在に飛び回るオニヤンマの大きな群れだった。そんな多くのオニヤンマを見たのは、山育ちの私にとっても初めてのことだった。


 その後にも、あれほどの大群は遂に見なかった。その光景を目撃したのは夏休みという記憶はあるが、何月何日だったのか。

オニヤンマの大群は少年時代の思い出の中で、最も強烈に思い出す出来事のひとつである。もしかしたら、あのオニヤンマの大群は幻だったのかも知れないと今では想う。


少年時代の思い出-2-

 学校は小中学校が同じ場所にあり、校舎は渡り廊下で繋がっていました。講堂(体育館)とグラウンドは共用でした。小学生の私たちは、よく中学生にからかわれて、先生に注意して貰ったものでした。

 虐められっ子だった私は、何時も数人の同級生を相手に闘っていました。泣き虫でしたが、よく虐めっ子を追い回したものでした。

ですから6年生になった頃には、自然と虐められている下の子供たちを助ける側に回っていました。虐められて泣いている子を慰め、虐めている連中を追い払ったものでした。

小学校では卒業生に下級生が何かを贈る慣わしでしたが、後に先生が話してくれるには、皆が私に贈りたいと言って困ったそうです。そういう私も、女子のスカートめくりなどをしていましたし、結構な腕白だったと思います。


僻地の学校には新採の若い先生が必ず回されて来ました。

ですから私たちの小学校は、校長と教頭と主任というベテランと、新米の若い先生から成っていて、中堅の先生が殆どいませんでした。

若い先生たちは教員用の寄宿舎に住んでいましたが、若い人にとっては辛い勤務だったことでしょう。

若い先生たちは授業時間にギターを弾いて歌ってくれたり、晴天の日には川遊びに出掛けて一緒に遊んでくれたりしました。


 冬には卓球に興じたり、雪合戦をしたり、今では考えられないほど先生たちに裁量権が与えられていたのだと思います。今の学校のようにスチームなどありませんから、暖房は石炭ストーブでした。朝一番に教頭先生が廃油の入った缶を下げて、各クラスのストーブを点火して回っていました。しかし、燃料補給と掃除は子供たちの役目でした。

ブリキのバケツを持って、学校の脇にある置き場へ、石炭を取りに行っていました。掃除の時には、まだストーブも熱いし、燃えカスも燻ぶっていましたが私の記憶では誰も火傷をする子供は居なかったと思います。


そうそう当時校長先生がピッカピカの新車に乗って来ました。メタリックブルーのその車は、ブルーバードでした。それが自慢気にグラウンドの隅に駐車してあり、私たちは憧れの眼差しで中を覗き込んでいました。すると校長が「触るな!!」と凄い剣幕で怒鳴りながら走ってきたことがありました。

校長にしたら、鼻をたらした汚いガキンチョに新しい車を汚されたくなかったのでしょう。

兎に角、昔の田舎の学校は平和でのどかでした。


少年時代の思い出-3-

 子供時代の思い出といえば、近所のお兄さんに連れられて、魚取りに行ったことも再々でした。ある日のこと、何時もの川へ行くのかと思ったら、反対に山の方へ連れて行かれました。何故だかお兄さんは声を潜め、身を低くして草むらを進んで行きます。

訳がわからずついて行くと、そこはため池の様な場所でした。

お兄さんは、そこで鯉の稚魚を数匹アミですくい上げると、何匹かを私にくれました。


金色や銀色、錦鯉などがいて、とても綺麗でした。私は喜んで家の池にそれを放したものです。しかし、数日後、上級生から「お前、○○さんの処の鯉を盗んだのか?」と聞かれ、訳がわからず否定しました。事はそれで済んだのですが、後になってお兄さんの様子が変だったのを思い出し、私は青くなったものです。

 

 祖母の家の横手と裏手には、自然の湧き水が作る小さな流れがありました。水道など在りませんでしたから、生活に使う一切の水はその湧水で賄っていました。

その流れを辿って行くと、大きな桂の古木の下から湧き出す清浄な泉がありました。周囲は木々に囲まれて少し薄暗く、しかし木漏れ日がキラキラと水面に光るそんな場所でした。

そこから流れ下った清水は祖母の家の横と裏で二つに別れ、横の流れは池へ、もう一方は更に下へと続いていました。


 池は日本庭園の池とは違い、そこで洗濯したり野菜を洗ったりする生活の為の池です。池には手造りの水門があり、そこから常に水が流れ出ています。流れの傍らには山葵やフキなどが沢山自生していました。

私は魚を釣って行くと、裏手の流れに放します。そこは水の流れを堰き止めて、祖母が造ってくれた小さなダムでした。尤も大雨が降れば、アッサリと堰は破れ、そこに放した魚も一緒に流されてしまう程度の貧弱なものでした。


 流れの中には色々な水生昆虫がおり、ヤゴや小さなエビの仲間?などが沢山生息していました。時にはご飯の中にボイルされて赤くなったエビみたいなものが入っている事もありました。

雨が降る度に流れてしまうその裏手の流れの池に、私が釣ってきた岩魚が数匹放流してありました。私の手から直にエサを食べるようになった岩魚たちは、ある秋の日に二匹でペアになり水底をヒレで掘り始めました。

二匹は尾ビレで砂を巻き上げる動作を繰り返しています。何度も何度も同じ場所を根気よく、掘り返す動作が数日続きました。私はそれを、裏の窓から飽きもせずに眺めていたものです。それが産卵だったとは、その時は知る由もなく、子供の私は何時も石の間に潜んでいて姿を見せない岩魚が泳いでいる様子を見られるだけで幸せでした。


 秋には裏山に生えている栗の木がたわわに実を付け、即席ダムには栗の実やイガが沢山落ちていました。祖母と夢中で拾ったものですが、年々に実が小さく成っていく事が子供には不思議でした。

山里の秋は短く、木の葉が色付くと冬はもうすぐそこに迫っていました。積雪が多い時には二階から出入りする事もありました。夏から秋に掛けて、私は冬の薪の準備に追われたものです。祖母が貰ったり拾ったりした木材を、鋸で適当な長さに切り、ナタや斧を使って割ります。それを家の縁側に積み上げて保管し、冬の燃料にするのです。


 祖母の家には囲炉裏があり、その囲炉裏にブリキの薪ストーブが据えてありました。秋になると町から帰って来た父が、家の周囲の雪囲いをします。冬篭りの準備です。

厳しい冬が来ても、子供の私には少しも苦でありませんでした。一夜にして腰の辺りまで積もる事もしばしばでしたが、そんな時は祖母がスコップで道を作りながら下の道まで先導してくれたものです。下の道に出れば、そこは除雪車が走っていて、道は除雪されていました。


冬の最大の楽しみは、二日間つづけて晴れた時にやって来ます。前日に溶けた雪の表面が凍って、子供の体重なら楽に支えられるくらいに硬くなります。そんな時は道を無視して、山の急斜面や田畑の緩い斜面を力いっぱいに走ります。

朝日にキラキラと輝くのは、砂糖の粗目みたいに凍ってザラザラになった雪です。私は急な坂を駆け下り、小さな起伏を飛び越え、小川を飛び越え、田畑の上を走りました。

その爽快で楽しいことと言ったらもう最高です。

その凍った雪も、お日様が高く昇ると、また溶けて柔らかくなり子供でも歩けなくなります。晴天の朝のささやかで、でもこの上なく楽しいあの経験は、大人に成った今ではもう二度と出来ない、子供だけの特権だったのです。


少年時代の思い出-4-

 子供の頃の楽しみといえば、お祭でした。祭には日頃は売っていない玩具を売る香具師が店を出すからです。小遣いを貰い、香具師の店へと山道を駆け下りて行く。

 巻紙の火薬を仕込んでパンパンと音がするブリキの拳銃や、地面に叩きつけると破裂する癇癪玉、お面や飛行機、パチンコ、紐を引くと高く舞い上がるヘビニール製の竹トンボなど子供には欲しい玩具が並んでいた。


 そんな玩具を売っている店を営む親戚があり、時々だったが祖母に連れられて其処へ行くのが楽しみでした。川沿いの谷に沿ってくねくねとカーブの多い未舗装の道路を、ボンネットバスはゆっくりと町へと走ります。

途中ですれ違いの為に何度も停止し、時にはバックして道を譲ったりしながら、16、7キロの道のりを高山線の駅まで運行していました。

子供時代の私は乗り物に弱く、バスに乗ると乗り物酔いに苦しみました。当時の大人の中には、バスに打ってあるリベットが乗り物酔いの原因だなどと、大真面目に語る人もいて子供の私は、そんなヨタ話を信じていました。


 バスが山を抜けて町に入ると、そこは別天地で山奥の村とは比べ物に成らないほど民家も店も人も多くて、今では山間の小さな町と感じる町並みが子供の目には本当に大きく見えたものでした。 

バスに揺られて駅に着くと、今度は列車に乗ります。当時も今も富山と高山を結ぶJR高山線は、電化されていません。私が祖母に連れられて乗った列車は、蒸気機関車が客車を牽引していました。客車はススの汚れなのか、それとも最初からそういう色なのかは知りませんが、チョコレート色をしていました。艶があったので、塗装されていたのだろうと思いますが、子供には判断がつきませんでした。


 蒸気機関車はボーッと汽笛を鳴らし、シュッシュッと白い蒸気を足元から立ち昇らせ、大きな鉄の車輪がゆっくりと回り動き始めます。

煙突からは足元の蒸気とは対照的に、真っ黒い煙を勢いよく吐き出しながら、列車は次第に加速をし、心地良いリズミカルな音を響かせていました。

親戚は岐阜県に神岡町に住んでいましたから、祖母の家からは高山線に乗り猪谷いのたに駅で神岡線に乗り換える必要がありました。


 高山線は山間を走っている関係で、トンネルが多く特に県境付近ではトンネルが連続しています。トンネルが近づくと、乗客たちは皆さん素早く窓を閉めます。

機関車の吐き出す黒煙がトンネル内に充満し、窓を開けたままだと乗客たちはススまみれに成ってしまうからです。

そして県境の駅で下車し、神岡鉄道に乗り換え、船津駅で下車したと思います。

そこから少し歩いて、親戚の家に行きました。親戚は祖母の妹が嫁いでいて、雑貨屋を営んでいました。


 川沿いに建てられたその家は、下から何本ものコンクリートの柱で支えられて折、川沿いの崖に張り出していました。小さな雑貨屋には、子供には夢のような玩具が沢山ありました。祖母の妹は「好きなのを、どれでもあげるよ」と言って、お菓子や玩具をくれました。それは嬉しかったのですが、その家にはもっと他に興味深いことがありました。

それは居住スペースの下に設けられていた倉庫で、長く狭いコンクリートの階段を降りて行くと、少しヒンヤリとしてコンクリート独特の臭いがします。

壁も床も天井も、コンクリートで囲まれたその場所は、家の基礎部分を倉庫として利用している所でした。子供の私は、その異質の空間に、冒険心をくすぐられていました。


 今は優しかった祖母も祖母の妹も、その旦那様も亡くなってしまいました。川沿いに建つ家は、今も何方かが住んでいらっしゃることでしょう。

そちら方面へドライブに出かけた時など、少しルートを外れてその家の前を通ってみますが、もうどの家なのか分かりません。今、少し調べてみましたが、地図には親戚の家がそのままの名前で掲載されていました。

今日は懐かしい思い出の中で、少しだけちいさな旅をしました。


少年時代の思い出-5-

 小学生の頃に、稀でしたが校長先生の授業を受ける機会がありました。恐らくは担任の先生に都合が出来て、校長がリリーフ登板したのでしょう。

校長は白髪頭の立派な体格の人で、その顔つきは厳格を絵に描いたように厳しかったのを覚えています。


 ある日、校長が授業をすると聞かされ、子供たちは何の授業なのだろうと少しドキドキして待っていました。校長は若い時の怪我が元で、足が不自由な方でした。

コツコツと杖の音と靴音を響かせて一段高くなっている教壇に立った校長が始めたのは、自身の戦争体験の話しでした。


校長は陸軍将校として部隊を率い、中国大陸で戦ったそうです。その体験は、とても壮絶でした。敵弾が自分から遠いのか、近いのか、その飛んで来る音で判断がついたという話しを皮切りに、自らの体験を淡々と話されました。


ある時、墓地で戦闘になったそうです。中国は日本とは違い土葬ですから、墓地には棺桶に収められた遺体が埋められています。

日本刀をかざして、敵陣へと突入しようとした時、校長は突然に地面に開いた穴に落ちてしまったそうです。穴の正体は埋められた棺の蓋が腐って、土と校長の重さに耐え切れずに陥没したものでした。中には腐敗した遺体があり、白骨化したものもあったそうです。


次は放棄された建物に入り野営した時の話しでした。隊長であった先生は、兵士たちとは違い個室で眠ることに成りました。ベッドの上に横になると、何だか異臭がする。

見るとベッドの下には棺桶があり、遺体が収められていたそうです。

非常に恐ろしかったが、隊長が泣き言を言う訳にもいかず、何とか一夜をその部屋で過ごしたそうです。


 校長は空襲も経験されました。戦闘機が機関銃を撃ちながら、上空から狙ってきます。周囲には着弾の土煙が舞いあがり、生きた心地がしなかったそうです。

ただやはり隊長だった校長は冷静でした。「敵のパイロットもなかなか勇敢だった。垂直に近い角度で急降下して銃撃してきたのだから、敵も命がけだった」と、話しておられたのが印象に残っています。


そして、後の戦闘で校長は足に敵弾を受けます。その時の衝撃は、痛いというより何か丸太で強く足を殴られた様な感覚だったそうです。それから焼けた火箸に触れた様に熱いのだそうです。暫くは痺れたようになりましたが、それが過ぎて初めて痛みを感じたそうです。野戦病院に運ばれ、やがて校長は本土へと送還されて、終戦を迎えたのだそうです。

その時の校長がどういう経歴の持ち主であるのか、子供の私たちには分かりませんでしたが、戦争という悲劇に巻き込まれた青年の一人であったのに変わりない事だけは理解できました。


あれから随分と時間がながれ、校長先生は当時の年齢から推測して、もうこの世の人ではないでしょう。校長は部下や仲間の死を何度も目前にされたそうですが、ただ自分の武勇伝を聞かせたかったのではなく、「お前達、戦争とはこんなものだった」と、子供たちに伝えたかったに違いありません。


あれから40年以上を経て、私がこのような事柄を記すのも、そういう先人達の意志を若い人々に伝えたいと願うからです。

古き時代の子供たちの生活は、玩具も何も無かったけれど、真っ暗に成るまで外で遊び、自然と戯れた豊かなものだったと伝えたいのです。

学校でも先生たちは個性豊かで、最低のルールを逸脱しない範囲で、一生懸命に子供たちの面倒をみて下さっていた時代でした。周囲の大人たちも、自分の子にも他人の子にも同じ様に接してくれた時代でした。

そういう思いやりのある時代に育った私は、ある意味で幸せ者であったと思います。


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