灯火
あったかい。君は私に多くのものを与えてくれたね。私の生き様を語らせてもらってもいいかい。
「サア、ウマレマスヨー」
よくわからない音が聞こえたと思ったら、私は既に明るい世界に身を晒していた。外の世界は少し寒かった。
身を晒してから数日、私はある家のペット二世ということで人間に迎えられた。
「コロ」その家の小さい人間が、私にそう名前を付けた。見た目の丸っこさと、目の丸っこさ、そして犬の名前の定番であることからそう名付けられた。
この家の人間は、少しの間は私のことを大層暖かく扱っていたが、ある事情のせいで、そう長くは続かなかった。
この家には、私は勿論私の両親もこの家に住んでいた。先にいた両親は、当然のように暖かい扱いを受けていた。一方、新参者の私のことは手に負えないらしく、日を追う毎にその扱いは冷たいものになっていった。
小さい人間は私のことも平等に扱ってくれていたが、この家の権力者である大きな人間は、私を捨てるか、殺すかを迷っているようだった。
遂にその日はやって来た。最後の晩餐だ、と言わんばかりに、その日は少しばかり上品な餌を私に寄こした。私はそれを噛み締めるように口にした。味は上品だったが、とても冷たかった。
時間が少し経ち、小さい人間が寝静まった頃、権力者が私のことをカビ臭い段ボールの中に入れ、車に乗せる。
車に揺られながら二十分程経つと、今迄行ったことのない公園にたどり着く。夜中だから当たり前かもしれないが、人の気配がしない寂しい公園だった。そして、やたらと暗かった。
死の世界。それが私の頭の中をよぎった。恐怖しかなかった。一年程しかなかった私の命。今迄抵抗として吠えることはしなかったが、去り行く人間の姿に向かって、力の限り吠えてみたくなった。
吠えたことに特に意味は無い。引き止める意味でもなければ、私を置いていったことに対する怒りの意味でもなかった。ただ、気を紛らわせたかっただけかもしれない。吠えないと、あの人間に吠えておかないと何故だか気が済まなかった。
沢山吠えた後、私は寒空の下、大人しく眠ることにした。
「今日は誕生日だけど、何食べたい?」
あれから2日後のことだ、何やら大きい人間が二人と、その間に小さい人間が一人、公園の脇を歩いて来た。
「ワン!」と吠えてみた。気付いてくれるかな。まあ、気付いてくれなくても良いのだが。なんせ、他の通行人は、意にも介していなかったのだから。別に気にはしない。
「あれ?ワンちゃんどうしたの?」
何だ、気付いたのか。気付かない方に賭けていたのに。
「小さい子だね、寒くない?ご飯は?」
私に気付いた小さい人間が、私を撫でる。その手の感触は、私の身体によく馴染んだ。「クゥーン」と思わず甘い声が出る。その子は、「可愛いね」と言い、更にその暖かい手で、私を撫でる。
「あら、可哀想に。捨てられてしまったのね」
「こんなに可愛い子を捨てるだなんて、酷い人もいるもんだな」
何やら大きい人間が話している。しかし、私を拾うかどうかの会話ではないことは分かった。
「ねえ、この子うちで飼っても良い?」
そんな時、小さい人間が大きい人間に、私の存在を受け入れるかどうかの相談を持ちかける。大きい人間が小さく笑って頷く。すると、私は段ボールもろとも小さな人間に持ち上げられた。
「今日からよろしくね。コロちゃん」
何だろう、凄く複雑だ。寒空から一転、暖かい家で暖かい人間に囲まれながら生活出来る。それについてはとても嬉しい。しかし、同じ名前をつけられて、あの家の寒さが同時に思い出され、凄く不安な気持ちにもなっている。また捨てられなければ良いが。まあ、今日みたいな、冬でも珍しく暖かい日に拾われたんだ。希望はあるかな。
「ユウト、お誕生日おめでとう」
そう大きな人間が言うと、ユウトと言うらしい小さな人間は周りを白いクリームで塗り固めた、スポンジ状の菓子の上の、ロウソクの火を吹き消した。
ユウトは、満面の笑みを浮かべると、母親が準備した料理を、美味しそうに頬張る。
ユウトの笑顔を見ていると、自然に私の尻尾が振れる。暖かい笑顔に包まれた楽園の中にいると、とても嬉しくなる。
菓子の上のロウソクの火は消えているが、私の心の中にあるロウソクには、確かに火が灯された。そんな気がした。
私がこの家に来てから早三年。ユウトは中学生になった。
真新しい制服に身を包み、毎日学校に通う姿は、少し大人らしく見えた。彼の成長を感じる。
中学生になった。ということは、必然的に、彼と一緒にいられる時間が、以前より短くなった、ということだ。冷たくなるのかな。そんな不安が襲ってくる。
しかし、彼が私に触れない日など無かった。彼は毎日、その日学校であったことを話してくれるのだ。
嬉しい報告も、楽しい報告も、悲しい報告も、苦しい報告も、家から帰って来るなり、真っ先に私に言ってくれた。私の事を抱き締めながら、全て話してくれるのだ。
彼が吉報を伝える時は、笑顔で私に駆け寄って来て、私の体毛をもちゃくちゃにしながら話す。
私は、その時は彼の周りを尻尾を振りながら走り回って、彼と一緒に喜ぶ。
悲報を伝える時は、無言で私に抱きつき、私の耳元で、涙や鼻水を垂らしながら囁くように話す。
私は、その時は彼に抱かれたまま、じっと側にいる。こういう時はそっとしておくのが一番だ。
私は、彼の話を聞くことが好きだ。喜怒哀楽に溢れた彼の話は、飽きのこない美味な餌のようだった。
吉報であろうが、悲報であろうが、彼は思いの丈を全てぶちまけた。そのひと時は、私が彼を独占出来る時間だった。彼の近くで、彼の思いの全てを聞ける。このことが、とても嬉しいことなのだと毎回思わせてくれる。私はこのひと時が大好きだ。
また、彼が話し終えた後は、必ず風呂に入れてくれる時間があった。吉報の時であろうが、悲報の時であろうが、彼は優しく私の身体を洗ってくれた。
彼が心優しい人間なのだと、身に染みて感じる時間だ。私はこのひと時も大好きだ。
彼は、忘れることなく、毎日欠かさず報告してくれた。その日刊新聞は、彼が高校を卒業するまで続いた。
幸せな日々にも終わりは来る。そんなことは分かっていた。
ユウトは、大学に行くが為に、この家を去っていくらしい。
私はその話を聞いた時は、食欲が失せる程悲しくなったのだが、「節目には必ず帰ってくる」という言葉を聞くと、とても安心した。私達家族のことも大事にしてくれる。それが分かったことに対し、私は大きく尻尾を振った。
ただ一つ、気掛かりなことがある。私がかなり歳を食った為に、彼が知らないうちにこの世を去るのではないか、ということだ。どうせなら、死ぬ時は彼に抱かれながら死にたい。そんなことを密かに思っていた。
彼が帰省してきた時も、今迄と同じように、私を抱いて何やら色々と話してくれた。駆け寄ってきたり、私に嬉々として話をする姿は、体格や顔つきは幼い頃からは大分変わっていたが、雰囲気や口調、温もりは、幼い頃から何も変わらないものだった。それが、今まで通りのユウトであることの証明だった。そしてそれが、私の心の安らぎであった。
彼は正月や夏の盆休みやらに帰ってきた。顔を見れることは嬉しかったが、一回会う度に、だんだん時間が減ってゆくことが認識でき、それのせいでたまらなく悲しくなった。
ああ、行かないでくれ。私が旅立つその日まで、ここに居てくれ。そんな無理なお願いもしたかった。
しかし、そんな欲は、彼を邪魔してはいけない、という理性が抑えつけた。
もう長くない。というか、あと一週間も保たないな。そう思ったのは、ある秋のことだった。
秋。それすなわち、彼が帰ってくること無いであろう季節だ。
母親が弱っている私を見かねて、動物病院へと連れて行ってくれた。移動中の車の中で、私は大量の紅葉が、風に吹かれて落とされていく様を見ていた。
私の命のようだな。それを見て思った。儚く散りゆく様が、私の命そっくりだった。ただ一つ、私の思い出はあんな風に散ってほしくない。それだけは思った。
医師によると、ただの寿命らしい。体力の低下がかなり進行していて、予想通りの一週間にも満たない命らしい。
家に帰り、私は残り少ない余生をどう過ごそうか考えた。そんな時、「思い出」と書かれた箱を母親が持ってきた。
「一緒にみよっか」
母親の粋な計らいだった。彼が帰ってこないであろうから、思い出だけでも、ということであろう。私の余生を埋めるには充分だろう。
「これが、ユウトと一緒に公園で遊んでいる時ね。それから…」
と様々な写真を見せてくれる。一緒に遊んだ写真、一緒に寝ている写真、制服を着たユウトと一緒に写っている写真…とにかくそれらは、私とユウトの十三年間を熱く物語っていた。
楽しかったな…。彼との生活は。毎日何かしらの色を身にまとって、私に駆け寄ってくる姿。抱いてくれた時に感じた温もり。無色で冷たい日など一日たりとも無かった。
すると母親が、ユウトが十歳の誕生日の時の写真を見せてくれる。ああ、私がこの家に初めて上がり込んだ日の写真だな。
彼が満面の笑みを浮かべながら、私の背中に手を回している。その写真は、他の写真とは一味違ったように見えた。初めて会ったのに、彼は私を拒むことなく抱いてくれている。
あの時気付いてくれていなかったら…そう思うと今の幸せに有り難みを感じる。あの日私の中に灯った火は、体力は衰え、ユウトに会えない今でも、消えることはない。明るく灯り続けている。彼が灯してくれたこの火は、私が死んでも絶えることはないだろう。
私の受けた温もりは、永久に消えることはない。確かにそう感じた。
私は覚悟していた。恐らく今日が最後の日だということを。
宣告を受けてからずっと、彼との思い出を眺める日々を送っていた。しかし、私は思い出に触れる度に、実物の彼を強く欲するようになっている。その気持ちは、次第に強くなるが、心の内では殆ど諦めていた。
彼が帰ってくることは、まず無いであろう。彼の知らないうちに、目に触れないうちに死ぬのもまた良しか。そう思うようになっていた。
大人しく死の時を待とう。いくら願っても無駄であろう。このまま眠るように、息を引き取ろう。
そんな時、ピンポーンと音がした。同時にあの懐かしい、無垢なる少年のような声が聞こえてきた。ユウトだ。
帰ってきたのか…。私は、駆け寄ってくる彼に向けて、力なくも尻尾を振って応える。
「なあ、コロ。今日は嬉しい報告があるんだぞ」
彼が嬉々としてそう話すと、顔立ちの整った美しい女性を呼び出す。
「この子がコロちゃん?とっても可愛いのね」
撫でてくれた彼女の手は、とても暖かかった。ユウトと同じくらい。良い人に会えたね。素直にそう思った。
私は嬉しさで全身の力が抜ける。最後に彼らと散歩にでも行きたかったが、昔みたいに、彼が笑って駆け寄ってきて、嬉しい報告をしてくれた。それだけで充分だった。
視界が狭まる。ただ、私の目の前を覆うのは、暗い闇ではなく、ロウソクの火のように暖かくて、明るい光だ。その光はとても安心できる光だ。私の最期がこれで良かった。
ありがとう。新しいパートナーと共に、暖かく生きるんだよ。じゃあね。
君だって僕にいっぱいくれたじゃあないか。僕だって感謝している。受け取ったものに恥じないように生きるよ。