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桔梗が鈍い動きで立ち上がった。秀馬はまた一歩後ずさったが冷たい言葉は返さなかった。
「本当にごめんなさい……。どんなに謝っても許されないのはわかってる。でも、また秀馬と一緒に暮らしていきたい。私のことをお母さんって呼んでほしい」
完全に動揺していた。あの秀馬がこんなに迷っているのは初めてだ。すずなも後押しをするように心の中に浮かんでいる言葉を吐き出した。
「桔梗が好きだって言ってたのは、お母さんが恋しかったからでしょ?会いたいって願ってたんでしょ?お花を育てるのだってお母さんが泣いているのが嫌だったからだよね」
本当は母の元に戻りたいのに、過去の出来事が邪魔をして素直に答えられずにいる。だがあともう少しで何かが変わるはずだ。
「狭いマンションに一人きりでいるより、大きなお屋敷でお母さんたちといた方がずっと幸せだと思うよ。お花だってたくさん植えられるし。大事なのは過去じゃなくて未来だよ。あたしは二歳の時にお父さんもお母さんも死んじゃったけど、過ぎたことをいちいち考えて悩んだりしなかったよ」
ぐらぐらと心が揺さぶられている感じだ。さらに桔梗が口を開いた。
「あなたを忘れた日なんか一度もない。嫌われて当然だけど、私は秀馬を命よりも大切に想ってる。秀馬のためなら何だってする」
これが純愛というものか、とすずなは気が付いた。その人のためなら命だって惜しくない。死んでもその人を愛し続けるのだ。
項垂れるように下を向きながら透也も全て話した。
「アメリカに引っ越したって聞いた時どうしたらいいのかわからなくなった。俺はなんて残酷な人間なんだってずっと後悔してた。秀馬がいなくなってから母さんは笑わないで毎日泣き続けるし、いいことなんか一つもなかったんだ。お前が家族の中心だってはっきりと思い知らされたよ。高校で再会した時もどうすればいいのか焦った。今さら帰って来いなんて言えるわけないし」
秀馬も桔梗も透也もそれぞれ深い穴に落とされたのだ。暗い道を明かりを探しながら何年も歩いていた。そしてようやく今、一筋の光が見えかけている。
「お母さんになりたい……」
桔梗が涙混じりで呟くと、秀馬はそっと手を差し出してきた。驚いて全員が体を固くした。
「……戻ってきてくれるの……?」
もう一度震える声を出すと微かに首を縦に振った。すずなが目を見開くのと同時に桔梗は秀馬をしっかりと抱きしめた。
「ごめんね……。秀馬、本当にごめんなさい……」
ぼろぼろと涙を流し何度も繰り返した。ゆっくりと秀馬も桔梗の背中に腕を回し抱き寄せた。透也はほっと息を吐き宙を眺めていた。どれだけ長い時間、遠い場所に離れていてもやはり家族は繋がっている。決して切れない糸で強く結ばれているのだ。心の中がすっきりしていて、何もかもが終わったと感じた。
花でいっぱいの庭を見つめていると、透也がとなりに来た。
「秀馬は花の育て方も上手かった。動物や植物まで愛してたよ。悔しいけど俺にはそんなことできない。最初から表に立てる人間じゃなかったってことだな」
独り言なのかすずなに言っているのかわからないが黙って頷いた。秀馬は冷たいし意地悪だし自分勝手だが、こうして繋がれたし意外と優しいところもあった。
「卑怯なんて誰かに言われたことなかったよ。男なら正々堂々戦うべきだな。すずなさんにはいろいろと教えてもらったよ。ありがとう」
秀馬からも同じように感謝された。ふとあることに気が付いた。
「あの、東条って誰の姓なんですか」
「母さんの旧姓だ。高校で再会した時、ばれないようにそう名乗れって言ったんだ」
旧姓とは思っていなかったので少し驚いた。
「そうですか。でも今日からは佐伯秀馬でいいですよね」
うん、と頷き透也は続けた。
「すずなさんは、俺は何でも持ってるって言ってたけど、持ってるのは秀馬の方だ。勉強も運動も全部こなしてた。あいつはすごい奴だ。自慢の息子だって言われて当然だ。好きな女の子だって取られたしな」
「えっ」
目を丸くすると真剣な眼差しを向けてきた。
「すずなさんが好きなのは本当だよ。初めて付き合いたいと思ったのは君だけだ。もう手に入れることはできないけど」
どきどきと鼓動が速くなった。こんなことを言われたら誰だって緊張してしまう。焦っているのを誤魔化すためにあわてて声を出した。
「あ、あの、脇田有架っていう女の子がいるんですけど、お付き合いしてあげてくれませんか?あたしの大親友ですごく可愛くて優しい子なんです。透也先輩のことを中学生の時から知っていて、ずっと憧れてるんです」
「脇田有架さん……」
「そうです。有架のこと、心の底から愛してあげてください。幸せにしてあげてください。有架が喜んでると、あたしも嬉しくなるから」
ふっと透也は笑顔になった。仮面を被っていない自然な笑みだ。
「そうか。じゃあ卒業する前に声をかけるよ」
はい、と大きく首を縦に振ると、すずなもにっこりと笑った。




