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焦りと不安でいっぱいになった。秀馬が微動だにしないので逃げられない。
「嘘でしょ。マンションに泊まるなんて……」
「嫌なら出て行ってもいいんだぞ。八時過ぎてるけど」
「えっ、もうそんな時間なの?」
さらに愕然とした。一人で帰られるか怖くなった。かといってマンションの中にいても安全とは言えない。
「あたしにおかしなことする気なの?」
恐る恐る聞いてみると秀馬はすぐに答えた。
「別に。また変な妄想してんのか」
ぎくりとして慌てて反論した。
「バカにしないでよ。子供じゃないんだから」
秀馬はにっと笑ってから、しっかりと言い切った。
「へえ。じゃあ俺たちは大人になったってことか」
ばくんと破裂する音が胸の奥で響いた。つまりすずなが秀馬のマンションに行っているのは、大人の男と女が誰にも見られない二人きりの空間で過ごしているのと同じなのだ。
「ちょっと待ってよ。心の準備ができてないよ」
すると秀馬はゆっくりと起き上がった。何もなかったかのように立ち上がり台所に向かった。水を飲んでいる音が聞こえ、びくびくしながらすずなも上半身だけ起こした。
「……どうしたの?」
頭の中でいろいろな考えが飛び交っている。秀馬は台所から出てくると目を逸らしながら椅子に座った。
「ねえ、答えてよ」
もう一度繰り返すと、固い口調の返事が飛んできた。
「……犯罪者になりたくないからな」
予想していない言葉だった。ふと透也も同じことを言っていたのを思い出した。初めて佐伯家のお屋敷に行き、さらに泊まらせてもらった時だ。まだ透也の冷たい態度を知らずに有頂天になっていたが、もう今では声も聞きたくない人に変わってしまった。
「そもそも俺は女に興味ねえしな」
「取り返しのつかないことをしようと思ってたんじゃないの?」
じっと顔を見つめると、ようやく目を合わせてきた。
「違う。俺は運命の相手と出会うまでそういうことは絶対にしないって言っただろ」
心に槍が突き刺さった。すずなは運命の相手ではないのだと確信したのが、なぜか空しくて惨めに感じた。
「そうだね。キスだって嫌だったんだもんね……」
だが唇が触れたのは事実だ。これを事故と見るか恋人同士の愛情表現と見るかは誰にも決められない。はっきり言って今のすずなにとっては大切な思い出の一つになっている。いつからそうなったのかはわからない。秀馬も同じ想いになっていればいいとこっそりと願っていた。
「秀馬の運命の相手って、どこにいるんだろう……」
「いつも思うんだけど」
遮られて、すぐに口を閉ざした。体の動きも一瞬止まった。
「俺の恋愛の心配しないで、自分の恋愛の心配しろよ。もう透也には愛想尽きたんだろ」
そして秀馬が大切な人だと確信したと心の中で続けた。もちろん口には出すことなどできない。
「あたしはいいの。ずっと彼氏なしでも大丈夫だから」
さらに秀馬の目つきは鋭くなった。指を差しながら怒鳴るように言った。
「よく考えてみろ。もし姉ちゃんがアメリカでいい男と出会って結婚して子供ができたらどうするんだよ。両親もいないし孤独になるんだぞ。人は一人で生きていけないんだろ」
確かにすずなの家族は芹奈だけだ。芹奈がどこかへ行ってしまったらすずなは一人きりになってしまう。多分芹奈はすずなを置き去りにすることはしないと思うが、愛する芹奈を束縛し続けるのも嫌だ。
無意識に拳を作っていた。秀馬に今の自分の気持ちを伝えても問題はないだろうか。本気だととってもらえず逆に悪くなるのは絶対に避けたい。自分は運命の相手ではないと既にわかっているのに告白したら、バカにされて終わってしまうはずだ。
「……でも、秀馬の恋愛の応援したいし……」
無理矢理声を絞り出した。そんな余裕など全くない。秀馬が他の女の子と仲良くしているところを見て平気でいられるわけがない。秀馬にも芹奈にも恋人ができてしまったら、すずなはどこへ行けばいいのだろう。その場所で孤独でも生活できるのか。
「応援なんかいらねえよ。お前に応援されなくても、うまく付き合うから」
崩れ落ちそうなすずなにトドメを刺すように冷たい一言が投げかけられた。そんなことをされても全然ありがたくないし、むしろ邪魔をするなという意味だ。秀馬にとってすずなはいらない存在なのだとはっきりと伝わった。勢いよくバッグを掴み玄関に向かうと、黙ったままドアを開け真っ暗闇の中を走って行った。




