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秀馬とすずなの距離が近くなっていく。こんなにも心臓がどくどくと速くなるのは生まれて初めてだ。すずなは親からキスされたこともない。誰かと唇を合わせるのは未体験なのだ。
しかし掴んでいた肩の手が急に放れた。はっとして目を開けると、本当に至近距離に秀馬の顔があった。じっと見つめられているのが伝わり、さらに鼓動がおかしくなる。
「いいのか、俺で」
一瞬意味がわからなかった。すずなの気持ちに気付いたのか、もう一度秀馬は聞いた。
「透也の方がいいって考えてるんだろ。こういうのは惚れてる奴とするもんだ。俺は運命の相手が現れるまではこんなことしたくねえ」
心の中が冷たく凍った。すずなは運命の女の子だと思われていないのだ。取り返しのつかないことをしても幸せになれる人が運命の相手。本当に自分のものにしたいなら、口ではなく体で伝える。それが秀馬の恋愛の仕方だ。そんなことは考えていないと言いそうになってあわてて堪えた。秀馬とキスをしてもいいという意味になってしまう。
「……そうだったね。それにお姉ちゃんがいないところでキスしても意味ないし……。じゃあやめよう」
秀馬のほっと息を吐く音が聞こえてきた。すずなも緊張の糸が一気に緩んでいた。
「キスにリハーサルなんてないよね。やっぱりファーストキスだよね。好きな人とするのがキスだよね」
うんうんと一人で頷いていると突然背中を強く押された。人が多いのだから誰かとぶつかるのは当たり前だ。わあっと前によろけすぐ目の前にいた秀馬と唇が重なった。微かに触れたのではなく、しっかりとキスをしてしまった。顔が真っ青に変わり冷や汗が滝のように流れた。胸の中が真っ暗になり悪夢であってほしいと祈った。まさかこんなことが起こるとはと愕然としていた。素早く離れると、ごしごしと唇を手の甲で拭った。
「……今のはキスではないよね……」
確かめるようにすずながそう言うと、秀馬も口を開いた。
「押されただけで、好きでしたんじゃないからな」
声が震えていて、かなり動揺していると感じた。
「秀馬……」
すずなが話すのを拒絶するように秀馬はくるりと後ろを振り返った。顔が見えないので怒っているのかわからない。
「帰るぞ。もう写メも撮ったし充分だろ」
「ちょ、ちょっと歩くの速いよ。置いていかないでよっ」
あわてて秀馬の腕を掴み、出口に向かった。
電車の中では一言も話をしなかった。というか言葉が見つからない。まるで他人同士のように目も合わせず窓の外を眺めていた。駅の改札口を通ると秀馬が「お疲れさん」と言って手を挙げた。すずなも「お疲れさま」と答えてそのまま違う方向に歩いて行った。
マンションへの道を進みながらつい先ほど起きてしまった出来事について考えた。あれはただ芹奈を喜ばせるためにしたことで、愛情など一つも込められていない。もし押されなかったら、すずなはまだ誰ともキスをしていない人間だった。秀馬とキスなんてありえないしファーストキスではない。お疲れと言ったのはアルバイトのようなものだと割り切っているからだろう。
マンションのドアを開けると、芹奈がご馳走を作って待っていた。
「あれ、東条くんも一緒じゃなかったの」
答えるのも面倒くさい。何も言わずに自分の部屋に入った。ベッドに飛び込むように横たわると深いため息が出た。ものすごく長い旅がようやくゴールした感じだ。たった一日でこんなに疲れるなんて、現在彼氏がいる女の子はどれだけ強いのか。それとも相手が秀馬だったからか。もし透也だったら最高のデートとなったかもしれない。枕に顔をうずめ、とにかく早く忘れようと自分に言い聞かせた。キスは大好きな人とするものなのにあろうことか大嫌いな人としてしまった。しかしもう元に戻れない。すずなができるのは完全に隠し通すことだけだ。
夜遅くに芹奈がそっと部屋のドアを開けた。
「すずな、起きてる?」
もう眠って現実逃避しようとしていたがすぐに起き上がった。
「デート、楽しくなかったみたいだね。無理矢理行かせてごめんね」
申し訳ないという表情で芹奈は俯いた。
「お姉ちゃん、本当に嬉しくってすずなの気持ち全部無視して自分勝手なことして……。ごめんね」
「謝らないでよ」
芹奈の手を握り締め、すずなは首を横に振った。
「そんなの気にしてないよ。お姉ちゃんが心の底から喜んでくれて、あたしすっごく幸せだもん。東条くんだってデート楽しんでたし、感謝してるんだよ」
ゆっくりと顔を上げて小さく笑った。
「それならいいんだけど……。帰ってきた時、すっごく落ち込んでたから」
すずなはもう一度大きく首を横に振り、そっと抱き付いた。
「落ち込んでないよ。ただちょっと疲れただけ。お姉ちゃんが幸せならあたしも幸せなの。だからそんなこと言わないでよ」
「キスは?」
突然芹奈の口調が変わった。驚いてすずなは目を見開いた。
「したの?キス」
何と答えたらいいのか戸惑った。唇は重なったがただの事故だとすずなも秀馬も決めている。
「や、やっぱり恥ずかしくてできなかったよ」
苦笑しながら嘘をつくと、芹奈は残念そうに下を向いた。
「そっか。いいチャンスだったのにね。でもいつかはできるよね」
これが最初で最後のデートだと行く前に約束した。もうチャンスなど巡ってこないがしっかりと頷いた。
「まだ高二だもん。もう少し大人になればできるよ」
そうだねと微笑んでから芹奈は部屋から出て行った。カレンダーを見てアメリカに帰る日を確かめた。芹奈とまた会えなくなり秀馬の彼女でもいられなくなる日が刻一刻と迫って来る。




