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日曜日の朝早くに芹奈がチケットのようなものを持って部屋に入ってきた。すずなはゆっくりとベッドから起き上がり聞いた。
「何それ?」
「決まってるじゃない。デートのプレゼントよ。可愛い妹の恋愛を応援しなくちゃ」
「デート?」
眠気が一気に覚めた。芹奈があまりにも飛躍しすぎていて焦った。
「待ってよ、そんな約束してない……」
「たくさん遊んで楽しんできてね。あと写メでいいから記念写真もよろしくね」
芹奈は新しい洋服を持っていた。わざわざこの日のために買っておいたのか。
「アメリカに戻る前に、すずなが東条くんとデートをしているところを見ておきたいのよ」
ここまで言われてしまったら頷くしかない。小さい頃からずっとすずなのことを大切に護ってくれた芹奈に恩返しをしなくてはいけない。嫌だなんて絶対に答えてはいけないと自分に言い聞かせた。
「……じゃあ東条くんに電話してみる……」
満足そうに部屋から出て行く芹奈を見つめながら携帯の番号を押した。思った通り「面倒くさい」の一言が飛んできた。
「俺抜きでそういうこと勝手に決められると困るんだよ」
「決めたのはお姉ちゃんで、あたしも全く知らなかったの。一日だけだからいいじゃない。どうせまた花の水やりか本読んでるかのどっちかなんでしょ」
電話を切られてしまうと心配したが、意外にも真っ直ぐにすずなの思いを受け止めてくれたようだ。
「一回だけだからな」
「えっ、いいの?」
「だって恋人なのにデートに行きたがらないって何となくおかしいだろ。もしかして好きじゃないのかとか怪しまれたらもっと面倒になる」
確かにそうかもしれない。恋人同士だったら勉強より愛する人を優先するだろう。一日くらいは勉強を休んで彼女とデートしてもいい。というか、そうでなければ必ず別れがくるはずだ。自分と勉強のどちらが大切なのかと不満が出る。
「ありがとう。じゃあ待ち合わせは……」
言い終わらないうちにぶちっと電話が切れた。やはり気分が悪いのだろう。すずなも全く気乗りしていなかった。嫌な予感しか感じられない。
芹奈がくれたチケットは、二駅先に最近できた遊園地のものだった。電車に乗り込むと秀馬は俯きながらあからさまに不機嫌な口調で言った。
「本当にこれが最初で最後だからな」
「わかってるよ。あたしもせっかく楽しい時を過ごすならもっと違う優しい人がいいもん」
むっとして言い返すと、秀馬は小さく息を吐いた。
新しいのでやはり人の数が多かった。さらに広いので一度迷ったら外に出られないと不安になった。秀馬とはぐれないように気を付けなくてはいけない。楽しいデートというより辛い試練のようだ。
「手、繋いでいいかな」
前を行く秀馬に言うと黙ったまま手を差し出してきた。ぎゅっと掴みまた引きずられながら歩いた。以前から手に触れるのは何回もあったので恥ずかしいとは感じなかった。
まず始めに目に入ったのは、巨大なジェットコースターだった。かなりスピードが速いと有名だった。すずなはぎくりとし、あわてて秀馬に言った。
「何か冷たいものでも飲もうよ。あたし喉乾いちゃって」
しかし秀馬はずんずんとジェットコースターに向かっていく。
「あれ面白そうじゃねえか。乗るぞ」
体から冷や汗が噴出した。すずなはジェットコースターなどの絶叫系な乗り物が苦手なのだ。
「あんなのすぐ終わっちゃうよ。もし乗るんだったらもっとゆったりしたのにしよう」
「大声出したら、ストレス全部吹っ飛びそうじゃねえか」
にやりと笑いながらすずなの顔を見つめる。恐怖でどくどくと心臓が速くなる。
「あんたにストレスなんてないでしょ。あたしああいうの怖くて乗れないんだよ。だめだよ。絶対無理だよっ」
泣きそうになったが足を止めない。嫌だ嫌だと繰り返したが結局乗る羽目になってしまった。そもそもこの男が他人の話を聞いてくれるわけがないのだ。すずなたちの座る席は一番後ろになった。前より後ろの方が下降するとスピードが速くなるらしい。スタート地点で既に「ひゃあああっ」と叫び、一気に落ちる時は意識を失いそうになった。となりに座っている人間が死神に見えた。終わると足から力が抜けてしまいその場にしゃがんだ。
「あんた、一生許さない……」
唸るように言ったが、秀馬には何も効果がない。さらにレベルの高いお化け屋敷に入ったり、ここでもぶんぶん振り回された。途中で本当に泣いたが全て無視し一人で好き勝手に楽しんでいた。そして気が付くとすっかりと周りは暗くなっていた。
「あんたと一緒にいるだけで疲れるわ……」
そう言うと、にっと秀馬は意地悪く笑った。
「デートなのにそんな顔してたら、姉ちゃんにバレるぞ」
ふとあることに気が付き目を丸くした。芹奈から写メを撮ってきてほしいと頼まれていた。
「……ちょっと写真撮らない?」
すぐに秀馬は不機嫌な顔に変わった。腕を組んでじっと睨んできた。
「何でだよ。そんなもんいらねえだろ」
「お姉ちゃんが記念写真欲しいんだって」
「人の数が多すぎて写真撮ってる余裕なんかなかったって言えばいい」
すずなは真っ直ぐに秀馬を見つめた。本当はそんな写真など撮ったって意味がないのはわかっている。だが芹奈に恩返しをするためなら嫌でもそうするしかない。今まで芹奈がどれだけすずなを大事に護ってきてくれたか。このデートだって芹奈が恋愛を応援するために考えたことなのだ。
「今日一日ずっと秀馬のわがままに付き合って苦手な乗り物にも頑張って乗ったんだから、秀馬もあたしに付き合ってよ」
ふんと横を向いたが、それもそうかと思ったらしく嫌々ながら答えた。
「すぐに削除しろよ」
「わかってるって。お姉ちゃんに見せたらすぐに消すよ」
バッグから携帯を取り出し撮影場所を探しに行くことにした。
しばらくして光がよく当たっているところを見つけ、二人で並んで立った。
「誰かに頼もうか」
すずながきょろきょろと周りを見渡すと、秀馬が携帯を奪い取った。
「いい。俺が撮る」
「でも、そんなにうまくいくかなあ……」
パシャっと音が鳴り、はっとした。
「えっ、もう撮ったの?」
驚いて携帯の画面を見た。カメラ目線の秀馬のとなりにとぼけたすずなが写っている。
「ちょっとこれ、あたし笑ってないしバカみたいだからまた撮り直して」
ふふん、と秀馬は笑い、嫌味な口調で言った。
「バカな奴は何回撮ったってバカな顔しかできないからもういいだろ」
「バカバカって……」
だが秀馬はすたすたと歩き出してしまい結局この写メを送った。どう見ても恋人同士には見えない。プレゼントしてくれたデートを思い切り楽しんでいる写真ではなくて心の中で謝った。一分も経たずに返信が来た。
『ラブラブだね。お姉ちゃんも嬉しいよ。』
メールの文章だけで胸が暖かくなる。しかし突然驚くべき言葉が目に入った。
『もうキスでもしちゃえばいいのに。』
携帯を落としそうになった。秀馬とキスなんて絶対にごめんだ。大事なファーストキスを秀馬に奪われてはいけない。顔が焼けるほど熱くなっていく。アメリカではキスは挨拶代わりと言われているためただの冗談のつもりかもしれない。しかし日本人は気軽に誰かとキスをしない。海外での生活が一年以上なので感化されたのか。
さすがにそれは恥ずかしい、と打とうとしたが、ひょいと秀馬に携帯を取られてしまった。
「何立ち止まってんだよ。邪魔だろ」
「返してよ。今お姉ちゃんからメールが……」
言い終わらないうちに秀馬は画面に目を落とした。まずいという言葉が頭の中で飛び交っている。
「……キスしちゃえ……?」
呟いた秀馬は石のように固まっていた。わけがわからないという表情だ。
「アメリカに影響されたんだよ。ただの冗談だから気にしないで……」
すずなの声が耳に入っていないらしく、黙ったまま何かを考えている。
「ねえ、聞いてる?」
「任せる」
「えっ」
携帯を返しながら、もう一度言った。
「お前に任せる。したいのかしたくないのか」
「キスをするか、あたしが決めろって?」
あわてて大声を出した。近くにいた人間がちらちらと見て何か小声で話していた。すぐに秀馬に口を塞がれた。
「姉ちゃんの願い叶えたいからこうして恋人のフリしてデートまで来てるんだろ」
驚いて目が丸くなった。芹奈のことをバカにしていたが、そうではなかったのか。
「うん。あたしと秀馬が恋人同士になれたら嬉しいって言ってた。あたしが幸せになったらお姉ちゃんも幸せなんだって。わざわざデートのチケットも、この服も用意してたくらいだし」
緊張している自分を落ち着かせようと早口で話し、さっと横を向いて赤くなった顔を隠した。いくら芹奈のためとはいえ大嫌いな秀馬とキスなんかしていいのか。ファーストキスが大好きな人でなかったら後悔するに決まっている。
「……してみる?」
無意識に口走っていた。秀馬はかなりの衝撃を受けたのか一瞬後ずさった。すずなも動揺してどくんどくんと心臓が速くなった。
「いいのか」
「いや……その、まあ……何ていうか、練習ってことでどうかな……。ファーストキスじゃなくて、リハーサルキスとか……」
「そんな言葉聞いたことねえぞ」
もう周りは真っ暗なので秀馬の顔が見えない。どんな表情なのかわからず焦りと不安の汗が流れる。
「どうでもいいじゃない。愛情とか全部抜きなら、問題ないんじゃないかな」
自分があまりにも頭が悪いことに今になって反省した。話していることがめちゃくちゃで意味がわからない。もっとたくさん勉強すれば、秀馬からバカバカと言われずに済んだ。
決意をしたようにぐいっと両肩を掴まれ、どきんと大きな音がすずなの全身に鳴り響いた。ゆっくりと秀馬の顔が近づいているのに気が付き、目をそっと閉じた。




