10
すずなは数学も苦手だが英語もかなり弱い。海外に行く予定などないのに、どうして覚えなくてはいけないのだろう。金曜日の英語の授業で、教師が恐ろしい一言を発した。来週月曜日にテストをするというのだ。しかも今度のテストは難しそうだ。
となりで涼しい顔をしている秀馬をちらりと見た。夏休みに嫌な思いをさせて、未だに元の関係に戻れていない。ずっとこの状態でいるなんて耐えられない。すずなはだめ元で秀馬に小声で聞いた。
「ねえ、もしよかったら一緒にテスト勉強しない?」
断られると思ったが、もうこの手しかなかった。秀馬は黙っていて答えてくれそうにない。やはり無理かと諦めかけた時に、秀馬の口は開いた。
「勉強なんかいちいちしなくたって、教科書読んでればわかるだろ」
「だから、あたしにはそれができないんだって」
無意識にあることを口走っていた。
「じゃあ、あたしのそばにいてくれないかな。一人でいるとどうしてもサボっちゃうから、見張っててほしいんだ」
「脇田に頼めばいいだろ」
厳しい口調だったが、目をつぶってもう一度言った。
「面倒なのはわかってる。そばにいてくれるだけでいいから!教えてくれなくていいから!」
手を合わせて頭を下げるすずなを見て、秀馬は仕方ないというように息を吐いた。
「そばにいるだけだからな」
ぱっと顔を上げ、すずなは感激で泣きそうになった。
「あ、ありがとう!」
これで仲直りできるきっかけができた。こじれた関係が戻ると確信した。やはり秀馬はいい人だったのだ。怒ってはいたが随分と日が経っているし、もう許してくれていたのかもしれない。
明日の一時に図書館の前で待ち合わせと言うと、秀馬は小さく頷いた。
自分から頼んだことなのに、すずなは何と三十分も遅刻してしまった。目覚まし時計より芹奈の声の方が慣れていて、もう高校生活が始まって何ヶ月も経っているのに未だに起きられない。授業中にうとうとする時もある。そして休みの日は朝から晩まで遊んでいるのだから、テストの点が低いのも当然だ。
「ごめん。寝坊しちゃった」
えへへ、とすずなが苦笑すると、くるりと秀馬は後ろを振り返った。
図書館にはあまり人がいなかったので、集中して勉強ができそうだった。秀馬は何も持ってきていない。
「秀馬くんは勉強しないの?」
軽い口調で言うと、秀馬のぶっきらぼうな言葉が返ってきた。
「早く始めろよ。二日しかないんだぞ」
「あっ、そうだね」
あわててバッグから教科書やノートを出した。
時間がとても遅く感じられた。空気がどんよりと漂っている。向かい合わせに座っている秀馬をそっと見ると、いつものように本を読んでいた。しかもそれは和訳されていない英文で書かれた本だった。
驚いて勢いよく立ち上がった。秀馬を真っ直ぐ見つめて大声を出した。
「ええっ?秀馬くんって、英語読めるの?」
「うるせえな。座れ」
はっと周りの人間の目線に気が付きすぐに椅子に座った。恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。
「ごめん。あの、秀馬くんって英語読めるの?」
秀馬は本を閉じて机に置き、ゆっくりと頷いた。
「七歳から十歳までアメリカに住んでたからな」
「だから英語得意なんだ」
芹奈がアメリカで仕事をすると知った時、すずなはわがままを言ってしまった。
「あたしもアメリカに行きたい。アメリカの高校に行く」
芹奈はすぐに首を横に振った。
「だめだよ。すずなも一緒にアメリカに行ったら、このマンションには誰が住むの?」
「だけど、あたしもアメリカに行きたいっ」
はあ、と息を吐くと芹奈は真剣な顔で言った。
「すずな、お姉ちゃんはアメリカにお仕事をしに行くの。遊びに行くんじゃないんだよ。お姉ちゃんはアメリカで頑張るから、すずなは日本で頑張って」
胸にナイフが刺さった。その通りだと思った。わかったと答えると、芹奈は頭を撫でてくれた。芹奈を安心させるためには日本でしっかり生きて行くのだと思い直した。一人暮らしになったとしても孤独じゃないと自分に言い聞かせた。人は誰かと繋がっているから生きていけるのだから。
「じゃあさ、秀馬くん……」
教科書を広げ、解けない問題を指差した。
「ここ、教えてくれないかな」
秀馬はすずなの顔を見てから教科書に目を落とした。
「だめかな?アメリカにいたなら、こんなの簡単でしょ?」
お願いと上目遣いで言うと、となりに移動してきた。数学の時と同じようにわかりやすく話し始めた。最初は真面目に聞いていたが、秀馬の横顔を見てあることに気が付いた。誰だったか覚えていないけれど、よく似た人物を見たことがある……。
「聞いてんのか」
はっとして教科書に目を戻した。
「えーっと……、何だっけ……」
戸惑っていると秀馬はもう一度同じところから話をした。面倒なことをさせて申し訳ないと思ったが、怒っているようではなかった。
図書館から出るともう外は真っ暗になっていた。
「こんな時間まで付き合ってくれてありがとう」
すずなが頭を下げると、別にいいというようにじっと顔を見つめられた。
「あ、ねえ、ちょっとご飯食べない?お茶飲みに行こうよ」
秀馬は何も答えなかったが、強引に近くの喫茶店に入った。
「俺、金持ってねえけど」
「いいのいいの!あたしが奢るから。今日のお礼ってことで」
すずなはバッグを見せ、にっこりと笑った。
しかし秀馬は紅茶を一杯飲んだだけで、一八〇円しか払えなかった。もっとたくさん注文してよと言ったが、もともと甘いものは好きではないらしい。それでも秀馬のためにお金を使ったんだと思うと、嬉しい気持ちになった。こうして頼ったり頼られたりして秀馬と友だちになれたら……。初めての男友だち。また新しく人と繋がれる。
明日も図書館に行く。次はどんな話ができるか楽しみだった。