分裂・7
「春明様、灯乃様。お待たせしました」
「ありがとう」
廊下を歩いていて出会した使用人に、春明は飲み物を頼み、窓を開けて庭の景色を眺めながら灯乃と待っていると、暫くしてそれが届いた。
灯乃が休憩室の冷蔵庫にオレンジジュースが入っていたのを思い出し、それを頼んだからなのか、思っていたよりも早く現れ、春明は僅かに目を丸くする。
「春明さん?」
「何でもない。頂くわ」
春明がグラスに手を伸ばすと注がれていたジュースが揺れ、中の氷がカランと音を立てた。
刺してあったストローで吸い上げ飲めば、ふぅと一息もれ、力が抜けたように両肩が下がる。
「悪くないわね。斗真君にも何か持って行ってあげて」
彼のその言葉に使用人はホッとすると、安心したように頭を下げ去っていった。
おそらく普段はこんな簡易的なものを出すようなことはしないのだろう。
ましてや使用人たちが集まる部屋の冷蔵庫にあったものだ。
来客は勿論、春明に出すなんてことは絶対にあり得ない。
けれどそんなことなど知らない灯乃は、それを満足そうに飲んでいた。
そんなゆったりとした様子の彼女を春明は眺める。
「灯乃ちゃん、具合はどう? 何処か痛いとこはある?」
「ううん、大丈夫。起きたばかりでボーっとしてるだけ」
「そう……」
特に異変は見当たらず、とりあえず警戒を緩める。
先程、斗真を主と呼んだ灯乃を思い起こし、もしもの場合を考えもしていたが、どうやらその必要はないようだ、今は。
「ねぇ、春明さん」
するとそんな時、手元のグラスに目を落としながら、灯乃はそっと呟いた。
「――雄二は?」
「……」
「雄二は大丈夫なの、かな?」
ふと春明の顔色を伺うようにチラチラと瞳を動かしながら、恐る恐るといった様子で彼女は訊ねる。
そういえば、別のことに意識が傾いていて、春明の中で雄二のことは頭から離れていた――忘れていた訳ではないが。
そんなことを密かに春明は思っていると、灯乃が懸命に思考を働かせながら言葉を紡ぐ。
「斗真が私に命令したのは覚えてるの。紅蓮の三日鷺を呼んだんでしょ? でもその後のことはよく分からなくて、何だか……雄二が何処か遠くにいっちゃうような夢をみた気がして」
「……」
どうやらあの時の三日鷺の記憶は灯乃の中にはないようだ。
それで彼女が目覚めた瞬間の出来事が、夢なのか現実なのか分からなくなっているのだ。
確かに他に訊ねたいことは山ほどあるだろうが、まずはそれが夢であってほしいと願っているのか、灯乃は祈るように目を瞑り、グラスを包む手に力を込めると春明の言葉を待った。
しかしそんな彼女を見た春明は、途端に冷めていく気持ちと共に双眸をつり上げる。
「雄二君は……いなくなったわ、朱飛と一緒に」
「……っ!」
「あたし達よりも朱飛の言葉を信じてしまったの。止めることができなかったわ」
冷静に応える春明とは反対に、灯乃は悲しみに目を見開き、そして苦しそうに眉を歪ませ身体を縮こませるようにして俯いた。
その様子に、ますます春明の眉間にしわが寄る。
――何故かしら、見ていて苛々する
灯乃にとって、斗真や仁内よりも雄二が一番の特別なのだろうか?
いや、違う。
雄二でなくこれが斗真達であっても、灯乃は間違いなく同じ反応をしていただろう。
彼女にとっては皆が大切なのだ、平等に。
ーーまるで頭の中がお花畑。皆、仲良しこよしってこと?
ーーふざけた糞思考
春明の中で、押さえ込んでいた黒いものがじわじわとにじみ出てくるようだった。
するとその時、灯乃が突然ハッとした様子で春明の方を向く。
「……大丈夫? 春明さん」
「え……あたし?」
どういう訳か急に春明の心配をする灯乃。
意味が分からず彼は妙な戸惑いを表情に浮かべると、灯乃が少し言い難そうにモジモジしながら呟いた。
「……その……春明さんって、雄二のこと……好き、みたいだし」
「……あぁ」
気になっている相手がいなくなって心を痛めている、おそらく彼女はそう思っているのだろう。
そんな風に言われると春明の癖なのか、つい考えさせられてしまう。
――心を痛める、か……はたして痛めているのだろうか?
「……ショックよねぇ。せっかくタイプだったのに」
とりあえずの返答をする春明。
けれどショックとは言うものの、それがダメージに繋がっているのかと訊かれれば、自身のことであっても手を拱いてしまうところだ。
だからなのか抑揚がなく、感情のこもらない声が出る。
しかし灯乃はそれを言葉通りに受け取ったようで、顔に力を入れて彼を見た。
「あのっ、元気出して。雄二ならきっとすぐ戻ってくるから。じゃなきゃ、私が連れ戻すし!」
「えぇ?」
灯乃は励まそうとしているのか。
そんな彼女に、春明は茫然とした。
無知というか、単純馬鹿というか。
きっと斗真達からすれば、これを純粋と呼ぶのだろう。
そうやって誑し込まれたのだろうか、この少女に。
確かに彼女にも全くその気がないのは分かるが、だからこそ余計にタチが悪い。
そもそもこんなものに斗真達が引っ掛かることにも呆れてしまう。
春明はそう思った。
「なあに、あたしを慰めようとしてんの?」
「えっ、そりゃあ春明さんにもいつも笑ってて欲しいし、せっかくの美人さんが台無しでしょ?」
「ふーん」
表裏のない、まっすぐな答え。
清廉潔白とでも言わせたいのか。
――虫唾が走る
どうにかして真っ白なこの少女を黒く塗りつぶしてグシャグシャにして引き裂いてやりたい、そんな気持ちに春明は駆られた。
イケナイこと。斗真が知ったらどれ程の反感を買うか。
けれど春明の口元が、悪意を帯びた嘲笑に歪む。
「それじゃあ――慰めてよ」
「――え……?」
彼はグラスをそっと側へ置き直すと、空になった手を灯乃の手元へと伸ばした。
その手がグラスを持つ彼女のそれに触れると、そのまま少しだけ持ち上げ、春明は灯乃のストローに口づける。
チュルチュルとワザと音をたてるようにして、ゆっくりとジュースを飲み干していけば、そんな彼の唇がヌルリと色っぽく光った。
途端に灯乃はドキッとする。
そこは先程まで自身の唇が触れていた場所、何だか恥ずかしい気持ちになる。
それに、彼の顔もすぐ触れられるくらいに近い。
視線も手元におりているせいで、彼の長い睫毛がより一層優美に灯乃の目に映った。
――なんて綺麗な人
そんな時、灯乃はハッとする。
相手は春明、女友達のように接していた彼に見惚れてしまうなんてどうかしている。
それに気づいてか、灯乃は慌てて手を払い除けようとした。
だが、グッと強い力で押さえ込まれ、それを止められる。
「――駄目。まだ足りない」
低い声で囁かれた。
ビクリともしない力に包まれ、手に熱がこもる。
いつの間にかグラスの中のオレンジ色は消え、白銀の冷たさだけが残っていたが、それもすぐに溶けてしまうのではないかと思う程に熱く感じる。
強くて大きな手。
女装していても、彼がまぎれもなく男性であることを示していた。
ドクドクと心臓の音が響いてくる。
「あっあのっ、ジュースなら春明さんのがまだ……っ」
取り残された彼のグラスに目を向け、灯乃は春明から何とか顔を背けようとした。
がその瞬間、頬に温かなその手が添えられ引き戻される――彼のもとへ。
そして――
「ねぇ、あたしの眼を見て――灯乃」
彼の、艶やかなその眼を、灯乃は見てしまった。




