199頁:優しい世界に呑まれないようにしましょう
マリーさん、やってることが完全にラスボスです。
怖い夢を見た。
たくさんの人が悲しんで、怒って、傷ついて……しかも悪いのは全部『私』。
妙にリアルで生々しくて、心がズキズキと痛む夢。
でも、一番嫌だったのは、『彼』が私を受け入れてくれなかったこと。
私が『彼』も受け入れてくれないほど、穢れてしまっていたこと。
その悲しみも絶望も、本当にリアルで、本当に苦しかった。
その夢はきっと、今まで見たことのある夢のどれよりも、これから見る夢のどれよりも、リアルなんだと思う。
もしかしたら、あちらが本当の現実で、こちらが本当は夢なのかもしれない。
胡蝶が我か、我が胡蝶か……どちらが夢でどちらが現実かなんて見ているときはわからない。
もしかしたら、それは二段階の『夢から起きたという夢だった』なんてオチのつく、どちらも夢という結果もあるかもしれない。
だけど、きっと現実は一つしかない。どちらも現実というパターンだけはない。
もしかしたらと、ふと思う。
現実と見分けのつかない夢がいくつあるかわからなくて、現実が一つしかないというのなら……もしかしたら、現実っていうのは夢の中のどれか一つを選んだものなのかもしれない。
運命とか選択とかいうものにはいろんなパターンがあって、その分岐から伸びる世界が無数にあって……その中で、最後に留まっていようと思った場所が最後に目を覚ます『現実』になるのかもしれない。
随分と身勝手で都合のいい話だと思うけど、私はそれがいいと思う。
その現実が自分の選んだものだったなら……きっと、その道を選びたくなるような何かが道の先には待っているだろうから。
≪?? ???≫
小鳥の鳴く声が聞こえる。
眩しい朝日が、瞼の上から目を照らし、視界を真っ赤に染め上げる。
目を開けばさらに眩しいのはわかっていたが、やはりそのまま真っ赤な瞼の裏を見ているのも気分が悪い。
そう思い、ナビキは光から顔をそむけつつ顔を横に向け、寝ぼけた頭で目を擦りながらゆっくりと瞼を開ける。
「ぅぅ……んう?」
ゾンビのように唸りながら目を開くと、目の前にはもう一人の『ゾンビ』……もとい、ライトの顔があった。
しかも、ナビキの動きだか声だかに気がついたのか、ナビキより後に目覚めたはずなのにパッチリと意識まで覚醒して目を開けている。
ナビキの意識も一瞬で覚醒した。
「よ、おはようナビキ」
「……きゃあ!!」
「グハッ!!」
寝起きを間近で見られて動揺し、全力でライトを突き飛ばしてしまった。
生娘っぽい声こそ上げているが、ナビキは前線屈指のパワープレイヤー……しかも、つい癖で腕を増やしてパワー増強で突き飛ばしてしまったので、ライトはアクション映画並みに派手に壁を突き破って隣部屋に消えてしまう。
そして、数秒気まずい沈黙が流れた後……壁の穴から顔を出したライトが真顔で言う。
「ナビキ……実は低血圧って寝起きの良さと無関係らしいぞ?」
「今そこに着眼点を置きますか!?」
どこか平和でのどかな空気が流れるとある朝の目覚めであった。
「『ダンジョン出禁』……ですか?」
「正確には『前線への戦力として参戦禁止』……要するに、強制だけど休暇みたいなもんだよ」
朝、簡素な一軒家のダイニングルームの素朴な木のテーブルでの朝食。(絵に描いたような和食……ライト製)
やたらと主夫力の高いライトの料理を堪能しながらナビキはライトとの会話に意識を向ける。
「えっと……私、足手まといですか?」
「逆だよ、ほらナビキ……この前手に入れた新能力で調節きかなくて、うっかりプレイヤーショップ壊しただろ? まあ運良く被害は少し壁が崩れたくらいで済んだけど。あれの後処理を押し付けたスカイが『ちゃんとコントロール出来るようになるまで前線には出るな』って言ってんだよ。ほら、さっきも壁に穴が……」
「すいませんでした!」
ちなみに、この家はプレイヤー過疎地域の町の片隅にあり、たとえ壊してもあまり迷惑にならないように配慮されているが、やはり穴あきで過ごすのは不便なので『木工スキル』を使えるライトが突貫工事で文字通りの朝飯前に塞いでしまっていた。
ライトが万能過ぎて、迷惑ばかりかけてる気になってしまいナビキは小さくなるばかりだ。
そんなナビキを見て、ライトは『気にするな』という表情で笑う。
「ま、その調子ならすぐ何とかなるだろう。それに今回のに関しては懲罰っていうより無理にでも休ませるって意味合いが強いからな。最近のおまえは、少し頑張りすぎてたんだ。せっかくだから、たまにはメンテナンスだと思って骨休めしとけよ。どうせ今くらい他のプレイヤーと差がついてるなら、そう簡単に取り残されたりはしないだろ」
「でも、皆が戦ってるのに留守番なんて……」
「強くなりすぎてその『皆』にプレッシャー与えてたら元も子もないだろって……忘れたのか? オレは一応、ナビキがちゃんとここで暮らせるかどうかを見守るために来たんだぜ? ナビキがちゃんと休んでくれないと、オレがスカイやらマリーやらに怒られるんだよ……『パートナー』としてな」
「パ、パートナー……先輩と私が、パートナー……」
仮想の頬を赤く染めながら、ナビキは『思い出す』。
そうだ、ナビキはかねてから思いを寄せていたライトに猛烈なアタックを繰り返し……ついに認めてもらえるようになり、『恋人』とは言えないまでもお互いに背中を任せられる『相棒』となったのだ。
そのせいでナビキの暴走の責任は連帯責任とされてしまったが、ギルドに用意されたこの家で『同棲』しているのである。
その事実を再認識したナビキは、照れ隠しに顔を俯かせ、食事に意識を集中する。
そんな様子を見たライトは、苦笑を漏らした。
「ナビキ、気に入ったのはわかるが何もそこまで効率良く食べる必要はないと思うぞ」
「え……あっ!」
食卓に並んだ品の数と同じだけの腕を生やして同時に箸を構えてしまっている自分に気付いたナビキは、ライトの『食事中までコントロールの修行とはなかなかやるな』とからかわれて、さらに赤面することとなった。
昼時の少し前。
ライトは朝食後すぐに前線近くの街まで仕事に行ってしまい暇になったナビキは、『時計の街』へと足を運んだ。
そして、ギルドの最新情報の収集と発信を扱う『狐の嫁入り新聞社』という事務所に近いプレイヤーショップへと顔パスで入り、久し振りに『攻略本』の編集室に顔を出す。
「お、お久しぶりでーす」
控えめな挨拶に、顔を上げてナビキを見る編集室の面々。かつてナビキは、初期の『攻略本』の編集関係者としてここにいるプレイヤー達とは一緒に仕事をしていたことがあるのだ。
入り口を顔パスで通り抜けられたように、ナビキに不審の目を向ける者はいない。
むしろ……
「ナービキちゃーん!!」
プレイヤー屈指の素晴らしい速力で某泥棒アニメの主人公を彷彿とさせる派手なダイブを仕掛けてくる編集所長ホタル。
ナビキは打ち合わせされたテンプレートのように腕を展開して壁を作り、猛烈なハグ狙いだかキス狙いだかわからないスキンシップを拒む。
「ちゃんぶ! いたーい……あ、でもこれはこれでナビキちゃんの手に好き放題チュッチュレロレロしても良いってこと?」
「想像以上の発想!?」
すぐさま腕を元に戻し『スキンシップ』を防ぐと、今にも指をしゃぶろうとしていたかのような態勢をしていたホタルは残念そうに声を漏らした。
相変わらずだ……これで平常運転な上、ギルドのサブマスターとして周りにも認められているのだから本当に恐れ入る。
それはさておき……ナビキはホタルを警戒しつつ、ここに来た要件を口にした。
「えっと、いつもみたいに少し手伝わせてもらってもいいですか?」
ナビキにとってここは、初心を思い出しながら落ち着いて時間を過ごせる居心地の良い場所なのだ。
昼下がり。
編集室にはナビキの二人の知り合いがやってきた。
一人は戦闘ギルド『戦線』に在籍する数少ない女子プレイヤーの一人アイコ。ナビキの親友といってもいい人物だ。
どうやら、最新の攻略情報を引き渡しに来たらしい。
そしてもう一人は……
「なんだよ『姉ちゃん』、とうとう戦場からは引退してお淑やかなパート奥様にでも転向したか?」
「お、奥様って、こら! 『お姉ちゃん』をからかうんじゃありません!」
ナビキの『妹』……ナビだ。
最近はアイコとは特に仲がよく、親友を盗られたようで少しムッとするが……
「おいおい、からかうくらい大目に見ろよ。同じ獲物狙ってるってわかった直後に抜け駆けしやがったのはどこのどいつだったっけ?」
「あ、はい、その節は誠にすいませんでした」
『妹』に頭の上がらない『姉』であった。
しかし、そうは言うもののナビはそれほど根に持っているわけではないらしく、平謝りするナビキを見て笑いながらアイコに言う。
「ま、ぶっちゃけあんまりにも『姉ちゃん』が焦れったいから発破かけるために話持ちかけたんだけどな。あたしの感情はラブよりライクっていうか、戦闘バカのあたしにはまだ恋愛とかは早いって思ってたし」
「私の罪悪感返して!」
「なんか凸凹だけど仲良し姉妹だね、二人って」
アイコの言葉に、思わず互いに顔を見合わせて笑ってしまうナビキとナビ。
以前は奇異の目で見られるのを恐れて姉妹の関係を秘密にしていたが、今はそれを笑い合えるような間柄として受け入れられている。
ナビに発破をかけられてライトへとアプローチをしたとき、協力を求めるためにアイコに秘密を打ち明けることを決意して、本当に良かったと思っている。
「それにしても、ナビキちゃんはライトとどんな感じなの? 一緒に住んでるんでしょ?」
アイコは恋路の手伝いをしたものとして当然の権利とでも言うように、ナビキの状況をストレートに聞いてきた。
ナビキは少し悩み……
「あんまり進展はないですね……ほら、先輩はあんまり男女で一緒に暮らしてても変なこと意識しないタイプだし……」
「変なことって、全く邪念を抱かない男が居たらそっちの方がちょっと変だと思うよ? そもそもあれだけ熱烈なアプローチしといて気づかないわけでもないだろうし……ま、あたしとしては親友が夜な夜な襲われたりしてないなら安心するべきかもしれないけど。うまくいかなさそうだったら、また相談してよ」
「アイコちゃんったら先人ぶっちゃって……そういうアイコちゃんの方はどうなんですか? 赤兎さんと上手く行ってます? 何か進展しました?」
「えっと……うん、上手く行ってるよ? ほらでも、あいつ鈍感じゃん? だから、その、なかなか一線を越えてくれないっていうか、いい雰囲気になるといつも雷とか女の子が降ってきたりとか邪魔が入って上手く行かないっていうか……」
「相変わらずですね、人のこと言えないし」
「あと、思っても見ないタイミングで突然チャンスが来ても心構えがないとつい殴り飛ばしちゃったり……」
「あ、それはわかります。今朝も起き抜けでびっくりして隣の部屋まで突き飛ばしちゃって……」
「あるよねー」
「ありますよねー」
「いや進展しない理由お前らの方だろDV嫁共」
正論としか言えないナビの言葉には二人とも沈黙するしかなかった。
その後、長い間他愛の無い世間話をした三人は、それぞれに後の予定もあるので誰が言いだすともなく解散の流れになった。
しかし、そういった『女子トーク』というものはなかなか終わろうとし始めても終わらないもので、最終的には夕暮れ時まで会話が絶えることはなく、アイコにギルドからの催促メールが来たことによって一人抜け、なし崩し的にナビも編集室を出て行こうとする。
そして、去り際に振り返ったナビは……少し、寂しそうな顔をした。
「じゃ、あたしはもう行っちまうけど……一つ言い忘れてたよ。悪かったな、『姉ちゃん』が大変な時に近くにいてやれなくて」
それを聞いたナビキは、先日の新能力の暴走でプレイヤーショップを破壊してしまった一件のことだと思い、軽く首を横に振る。その時、ナビは遠く離れた場所にいてすぐには駆けつけられなかったのだ。
「気にしないで、あれは私がうっかりしてただけだし。ナビが責任感じる事じゃないよ」
「そうかい……ま、どっちかっていうとあたしが言うべきなのは『勝手に無理すんな』ってことなんだろうけどな、あんたを守る第二人格としては。もし……あんたが何か間違えても、仮にそれであたしがどうにかなっちまっても、それは間違いを止めてやれなかったあたしの責任だ。怨念なんざ残す気はねえし、そもそもいっちょ前にそんなもの残す資格もねえ」
「ナ、ナビ……? やめてよ、そん重い話……なんか……」
「わりい、別にあんたの世界を壊す気はねえんだ。ただ、せっかくの機会だからこれだけは伝えておきたいんだ」
夕日に照らされたナビの横顔は、翳り一つない満面の笑みを浮かべていた。
「どんなに離れてても、どんなに変わっても……あたしたちの心は一つだ。それに……大好きだぜ、あんたの一部としてじゃなく、あたし自身の気持ちとしてな」
「なるほど……で、編集を手伝って女子トークに花を咲かせ、最終的にスカイに『一応コントロールの練習してることになってるんだからこんなところで油売ってないで帰れ』と追い返されたのか。引き取りに来いってメール来てたから何事かと思ったが、まあ何事もなかったようでよかったよ」
「ご迷惑おかけして誠にすみませんでした……」
夕食時。
ライトの少し皮肉交じりのからかいを受けながら『中華料理』(やはりライト作。料理の腕ではナビキには勝ち目がないらしい)を食べるナビキ。どうやらクエストで新しく取得した技能を試してみたらしいが、そもそも満漢全席を一日で作れるようになる人間がどれほどいるだろうか……まあ、そもそも『人間』ではないのかもしれないが。
今問題になっている新能力を修得してからやたらお腹が空くと相談した気はするが、まさかこんなふうに即解決してくるとは思わなかった。
二人の食卓で満漢全席はさすがに……
「確かに食べきれますけど……このレベルの大食いキャラとか、女子力の欠片もないですね……」
栄養の補給と引き換えに女子としての大事なものを失っている気がするのは気のせいだろうか?
「無理なダイエットは女子力云々以前に男にひかれるぞ? あれだ、『この栄養が私のスタイルの秘訣です』とか言っとけばいいんだよ。ゲームの世界なら太りゃしないんだし」
「大食い癖がついちゃったら現実世界に戻ってから本当に太っちゃいますよ」
「その時は責任とって健康管理しにいってやるよ。なんなら社会復帰とかもいろいろ面倒になるだろうし、その間ゲーム内で一緒に住んでたって説明してルームシェアでもするか?」
「え、それってリアルでも同棲してくれるって……ことですか?」
「別に嫌ならいいぞ? ダイエットメニューくらい作って送ってやるから」
「え、ちょ、いや、えっと……」
ナビキがまたしてもからかわれていることに気がついたのは少し後のことだった。
そして夜遅く。
ナビキとライトは同じ部屋で、二つの布団を横に並べて眠る。
案の定ライトは完全に自分を制御しているので『寝る』と宣言した直後に熟睡。しかし、おそらく夜襲などがあればすぐさま跳び起きて平時と同じパフォーマンスで戦えるのだろう。
しかし、そんな精神のオンオフをスイッチ一つで制御できないナビキは、昼の会話のせいか無いと分かっていながらもあらぬ想像をしてしまっていた。
(もし今先輩が私に抱き着いて来たら……)
なんとなく、面と向かい合っているのはやり辛くなる気がしたので寝返りを打ってライトに背を向ける。
そして、想像の中だけでライトとの『触れ合い』をシュミレートする。
後ろから体の前へ回される二本の腕。優しく、しかし強く抱きしめられる感触から言外の想いを感じ取り……
(いつも思いきりのいい先輩なら大胆に首筋にキスとか……それか、逆にそっと髪を撫でてくれたりとか……いや、やっぱり『何もしない』が一番先輩らしいんですよね……)
ライトは、自分の主観というものを持たないし、興味がない。
恋愛感情だろうと性欲だろうと、自由自在の思いのままで衝動的な行動はありえない。だからこそ、全てを自分を観測する他人の希望に委ねて生きている。人間として死んだ心のまま、生きていたころのままを装って生きている『ゾンビ』。
だからこそ、彼はその辺り『希望』の採用には厳しい。
その希望を本当にかなえる覚悟が固まるまでは……ちゃんと意思表示するまでは、意思を察してもそれに対する反応は示してくれないのだ。
もしナビキが今想像したことを現実に変えるとするなら……
(私から先輩に……そうすれば、きっとこの人は私の希望をそのままに応えてくれる)
しかしそれは、ナビキにとって罪悪感を伴う行為だ。
言ってみれば、友人が自分を信用して託してくれた合鍵でその友人の家から家宝を盗むことへの罪悪感に近い。仮に相手が『あなたになら盗まれてもいい』というほどに心を許してくれていたとして、ペナルティがなかったとして、やはりそれでもそう簡単に手を出そうとは思えないのだ。
(いっそ、『欲しければ力ずくで奪い取れ』とか言われたなら楽なんですけどね……)
そう考えながら、苦笑して目を閉じる。
手に入れた『強さ』……しかし、それは欲しいもの全てを手にできるオールマイティーカードではなかった。
そんなことを考え、『強さ』などなくとも欲しい日常を過ごせた一日の記憶に思いをはせながら、ナビキの意識は夢へと落ちて……
『イヴ』『どうして邪魔するの!』『イタイイタイ痛い痛い痛い!!』『ナビが消えた……私のせい……』『ただの人殺しじゃないですか!!』『どうして先に言ってくれなかったの!!』『私、殺しちゃったんだ……』『暑い熱いあついアツい!!』『毒!!』『ぁぁあああああ!!』『頭が割れそうに痛い』『全部私になればいい』『ロボット』『差別しないで』『偽物なんてひねりつぶしてやる』『私、なんのためにたたかってるんだっけ』『人殺し』『誰も味方してくれない』『ここでやめたら全部無意味になる』『騙されてる』『どうしてこうなったんだっけ』『勝てないと思ったら……』
「ぅぅぅ……あ、あ、あ、ギ、ァァァあアアアア■■■■!!!!」
何が起こったかわからない。
悪夢のような感情に、苦痛の認識が遅れて襲ってくる。
暴れ回る無数の腕、壊れる壁、反動で跳ね回る身体、頭を打ちつけた痛み、わけのわからない絶望感と敵意、拒絶反応を起こす脳。
「落ち着け、ここにはオレがいる……だから、大丈夫だ」
自分では踏みとどまれない領域に堕ちつつあったナビキを引きとどめたのは、自分を真正面から見つめるライトの口から発された言葉だった。
急速に落ち着きを取り戻し、状況を把握するナビキ。
自分はまた……暴走してしまったのだ。
そして、それをライトが止めてくれた。
「せ、先輩……私……」
言い訳をしようとしているのか、それとも謝ろうとしているのか、自分でも判然としないまま紡ごうとした言葉は途中でせき止められる。
ライトが、変容したナビキを強く抱きしめ、自身の胸に押し付けるようにしてナビキを黙らせたのだ。
そして、一方的に囁く。
「いい……何も言わなくていい。何も言わなくても、全部受け入れてやる」
ナビキの目から涙があふれる。
視界がぼやけ、涙が眼尻から真横に流れたことで初めて自分がライトに押し倒された形になっていることに気付く。
そして……
「おまえがどんな姿になったって、オレはおまえを遠ざけない。それを、証明してやるよ」
ライトがナビキを抱きしめる力を緩め、身体をずらしてそっと口づけをする。
そして……
「さあ、最後の許可はナビキが自分の口で言ってくれ。そうすれば、後は全部オレに任せてくれればいい。ナビキはただ……」
ぼやけた視界の中、優しげに微笑んだ『ライト』は、ナビキの心の壁を侵す甘い言葉を口にする。
「……ただ、『私の全てを委ねます』。何も考えずそう言ってくれれば、最後の防壁を取り除いてくれれば、それでいいんですよ」
目の前に、黄金の輝きが広がった気がした。
ナビキは、熱に浮かされたようにその言葉を反唱する。
「私の……全てを……」
残りの言葉を口にするだけで、全て楽になれる……その確信があった。
それに従うことこそが正しい道なのだという、どうしようもないほどの説得力があった。
それこそがこれまでの道筋の到達点なのだという、否定しようのない想いがあった。
その『愛』に応えないなどという選択肢など、どこにもなかった。
しかし、心の中にほんの一点、その流れに逆らう動きがあった。
どうしようもなく正しくて、どう考えても否定しようがなくて、どうやっても抗えないように感じたものへの……自分を全て受け入れてくれるという『愛』の吸引力に抗う心の深淵に突き刺さった『楔』。
揺すられ、緩むその根元から吹き出す闇がナビキの心を染める。
『ワタシは、ヒトゴロシ』
『マトモになっては、イケナイ』
『ツゴウの悪いカコは、受け入れてはイケナイ』
『ショウキに戻っては、イケナイ』
『クルエ、クルッテいる限りはサキノバシできる』
『世界の全てが私を赦しても、自分が私を赦さない』
苦しい……首が苦しくて、痛い。
首に巻きついた何かが……ガラスの鎖が、棘を作って首を締め上げる。
心のどこかで自分を引き留めようとしてくれる声が聞こえるが、誰のものかわからない。
苦しくて……言葉が出ない。
目がかすんで、気分が悪くなって、どうしようもなく『幸せ』や『愛』なんて気分じゃなくなって……
そして見えてくる。
自分を押し倒してるのは自分の求めた相手ではない……認識を偽装し、幻覚を見せていた『マリー』だ。
「■!!」
「あら……心のこんな奥に楔が打ってありましたか。行けるかと思ったのですが、私への対策はしてあったんですね」
現状を再認識。
現在のアバターの形態は千手観音に似たタイプ。
ナビキは『イヴ』をコントロールし、自分の本体に覆いかぶさるようにしていた『マリー』を払い落として立ち上がる。
『マリー』は空中浮遊のような重力を感じさせない動きで着地すると、困ったような笑みで問いかける。
「えっと……一応訊いておきますが、気持ちは落ち着きましたか?」
「■■■■■■■■■!!!!」
「ですよねー……」
同刻。
『アマテラス』は、指で作った輪を覗きながら呟く。
「あららー……まさか弱体化状態とはいえ、あの子の作った仮想世界を抜け出すとはねー……正直これで決まる可能性は高いと思ってたのに。やっぱりウルトラCの対策はちゃんとしてあったみたいね」
対して、キングは望遠鏡を覗きながら言う。
「まあ確かに惜しかったんじゃねえの? けど別にこれが最終手段ってわけでもねえし、仕切り直しになっただけだろ」
しかし、『アマテラス』は首を横に振る。
「いいえ、多分かなり追い込めてると踏んであの『端末』としての全力の出力で精神世界に引きずり込んだみたいだけど……記憶のリセットも使わずに抜けられたのは誤算よ。それも、結構ヤバいかもしれないわ」
「ん? どういうことだよそれ」
「さっきも話したけど、あの子の精神操作の基本は自分の人格の『転写』なのよ。8%っていうのは、新しく人格を植え付けられても相手方の人格が大幅に変質したりせずに思考パターンや行動パターンを埋め込む限界みたいなものなの。普段のちょっとした暗示程度なら問題は無いけど、精神空間まで使ったとなるとかなりの人格を植え付けていたはず。そして、それを構成する中核となる要素……『因子』っていうのは、あの子の能力の源であり、いわば演算に欠かせない公式みたいなもの」
公式さえ知れば……それを自力で導き出すほどの頭脳がなくても、それを応用した計算はできる。
「もちろん人格が違えばそれをそのままに使うってわけにはいかないっていうのはさっき話したけど、それでも精神操作系の能力の中でも最高クラスに強力な部類の法則の一部を余すところなく体験して、押しつぶされることなく乗り越えてしまったことにはかわりないわ」
「……それってつまり……」
冷や汗をかき始めるキングの言葉に、『アマテラス』は『ワクワクが止まらない』という表情で答えた。
「『イヴ』はあろうことか『マリー=ゴールド』の『因子』を取り込んだ。それを自分自身の精神制御に使えば……もう、今までみたいにはいかないわね」
そして、この手の理想郷は破られるのがお約束。




