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恋愛小説のはずでした

婚約破棄の最中ですが、オウムが浮気相手の名前を増やしています

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/09/12

「クロエ、君との婚約を破棄する。鳥とばかり話している女を、妻にはできない」


 ジュリアン様がそう宣言したとき、問題の鳥は、彼のすぐ後ろにいた。

 暖炉から少し離れた大きな鳥籠の中で、白いオウムが片足を上げている。ピピ。亡くなった祖母から私が引き取った、たいへん口の達者な家族である。

 二週間前、夜会の余興に使いたいからと、貸してほしいと言ったのはジュリアン様だ。鳥と話す女は妻にできないが、鳥に客をもてなさせるのは構わないらしい。


 主催者の伯爵様が別室で来賓を迎えている間に、息子が広間の真ん中で始めた宣言だった。客たちの視線が私に集まった。

 彼の腕には、淡い桃色のドレスを着た令嬢が手を添えている。もう片方の手には花束。セシル様だ。最近よくお名前を聞くので、仲がよいことは知っていた。ここまでとは、知らなかった。


「俺には、心から愛する女性ができた。彼女となら、人間らしい会話ができる」


 笑おうとして、頬がうまく動かなかった。

 私はこの二年、彼が嫌がる話をしないようにしていた。鳥の話も、庭の話も、好きな菓子の話も。彼が話せば相槌を打ち、訊かれたときだけ答えた。その結果が、会話のできない女なのだそうだ。


「ジュリアン様。お話は、もう済んでいると……」


 セシル様が彼の袖を引いた。

 彼はその手に自分の手を重ねたまま、私に笑いかける。


「クロエなら分かってくれるさ。家同士が決めた婚約だ。互いに愛情などなかったのだから」


 少なくとも私は、最初からそうだったわけではない。

 初めて贈られた青いリボンは、今も引き出しにしまってある。似合うと言ってくれた日のことを、たぶん彼は覚えていない。


 私は唇を噛みそうになって、やめた。大勢の前で泣いたら、それも鳥としか話せない女の証拠にされる気がした。

 その沈黙を了承と取ったのか、彼はセシル様に向き直った。


「見ていてくれ。今夜のために、ちょっとした趣向も用意したんだ」


 短く、二つ。

 ジュリアン様が口笛を吹くと、ピピが止まり木の上で背筋を伸ばした。私の知らない合図だった。


「君だけだよ、セシル」


 甘い声で彼が囁く。そのすぐ後ろから、たいへんよく似た甘い声が響いた。


「キミダケダヨ、エミリア」


 セシル様の手が、彼の袖から離れた。


 ピピは片足を下ろし、満足そうに羽を膨らませた。私は鳥籠を見た。客も見た。ジュリアン様だけは、セシル様を見ていた。


「……鳥の、物真似だよ」


「ええ。今のは、あなたのお声でしたね」


 セシル様が答えると、近くで誰かが咳をした。

 ジュリアン様は困ったように笑った。まだ、それでどうにかなると思っている顔だった。


「よくある名前だ。どこかで聞いたんだろう」


 確かに、エミリアという名前は珍しくない。けれども二週間前まで、ピピがよく真似していたのは祖母と私と侍女の声だった。こんな、語尾に息を混ぜる喋り方はしなかった。


「ピピは、どちらのお部屋に置いてくださっていたのですか」


 私が尋ねると、彼は露骨にほっとした。


「温室だ。君が、冷たい風に当てるなと言ったからね。籠も毎日、使用人に掃除させた。大事に扱ったよ」


「ありがとうございます。では、温室によくいらした方のお声でしょうか」


 彼の笑みが止まった。

 私だって、最初から責めるつもりで訊いたわけではなかった。ただ、あまりに彼そっくりなのだ。似ているというより、いつもより少し大きな声のジュリアン様が、鳥籠に入っている。


「俺が教えたのは、挨拶だよ。今夜、セシルを驚かせたくて」


「それで、エミリア様に?」


「名前を間違えて覚えたんだ!」


 強い声に、私の肩がすくんだ。

 すぐにセシル様が、私と彼の間へ半歩入った。


「クロエ様に大きな声を出さないでください。私は、あなたにお尋ねしています」


 彼は口を開き、閉じた。

 私を庇ったセシル様も、かすかに指先を震わせていた。花束を持つ手も揺れている。その柄に結ばれた青いリボンは、私が昔もらったものとよく似ていた。


 ジュリアン様は鳥籠へ歩いていった。


「間違いなら、直せばいい。ピピ。セシルだ。セ・シ・ル」


 ピピは首を傾けた。

 彼がもう一度、短い口笛を二つ吹く。客の一人が、飲みかけのグラスをそっと置いた。


「アイシテイルヨ、ルイーゼ」


 今度は咳では済まなかった。

 扇の陰から、短い笑い声が漏れた。ジュリアン様は鳥籠の前で振り返ったが、誰が笑ったのか分からなかったらしい。すぐにピピへ向き直る。


「セシルと言っているだろう!」


 ピピは黙って、嘴で胸元の羽を整え始めた。

 ジュリアン様が口笛を吹こうと唇を尖らせたところで、セシル様が言った。


「次は、どなたでしょう」


 彼の口が、その形のまま止まった。


 笑ってはいけない。

 そう思った私の口元まで、勝手に動いた。ついさっきまで、笑うどころか息を吸うのも苦しかったのに。


「違うんだ、セシル。これは、練習で」


「何の?」


「その……愛の言葉にも、言い方というものがあるだろう。舞台の台詞のように、いくつか試していたんだ」


 温室で。

 私の鳥に聞かせながら。

 私は二週間、ピピが元気にしているか気にかけていた。鳥を寂しがるなんて子供じみていると言われたくなくて、迎えに来てもよいかという手紙も、一度しか出さなかった。

 彼はその間に、ずいぶん念入りに準備をしていたらしい。


「では、エミリア様もルイーゼ様も、舞台の役名なのですね」


「ああ。そういうことだ」


 返事が早かった。

 セシル様は少し考え、静かに続けた。


「『月も君の前では霞む』も、そのお芝居の台詞ですか」


「それは君に書いた手紙だろう。二人だけのものを、ここで……」


 ジュリアン様は途中で黙った。

 セシル様の顔から、最後に残っていた迷いが消えた。


「昨日、同じことを私に囁いてくださいましたね。口笛を吹いてから。とても機嫌がよさそうでした」


 籠の中でピピが、羽繕いをやめた。

 誰も口笛は吹かなかった。それでも、しばらく嘴をもごもごさせたあと、ピピは覚えたばかりらしい文句を言った。


「ツキモ、キミノマエデハ、カスム。セシル」


 今度は合っていた。

 よりによって、今度だけ。


 セシル様はゆっくりと頷いた。


「私の分も、こちらで練習なさったのですね」


「ほら、分かっただろう! 君のために教えたんだ!」


「ほかの方のお名前も、あなたがお教えになったのでしょう?」


「ルイーゼとは、もう会っていない。エミリアにだって、君と付き合い始めてからは――」


 彼は息を呑んだ。

 セシル様は、ゆっくり首を傾げた。


「舞台のお役では、なかったのですか」


 ジュリアン様の口が閉じた。

 広間の端で、年配のご婦人が扇を広げた。肩が、小刻みに揺れていた。


 私は鳥籠を見つめた。ピピには誰が誰の婚約者か分からない。愛していると、おはようの違いも分からないだろう。

 それでも、教えた人の声と名前は、なかなか上手に覚えていた。


「……クロエ」


 彼が、助けを求めるようにこちらを向いた。


「君の鳥だろう。どうにかしてくれ」


 今夜初めて、私が必要になったらしい。

 鳥としか話せない女が、鳥を黙らせるときには役に立つ。


「お返しいただければ、連れて帰ります」


「そういうことじゃない。今の言葉を忘れさせるとか、正しい名前だけ言わせるとか、あるだろう」


「ありません。私は、一度覚えた言葉を、好きなところだけ消せません」


 ピピがまた「キミダケダヨ」と言いかけたので、彼は鳥籠の下の棚から掛け布を引き出した。

 私が移動用につけておいた、紺色の布だ。


「もういい!」


 ばさりと籠が覆われた。

 急に暗くなったのか、羽が動く音がした。私は思わず一歩寄った。籠の脚は床についたままで、羽音もすぐに収まった。

 ジュリアン様は布を押さえ、ようやく静かになった広間に向き直った。


「皆様、お騒がせを――」


「アイシテイルヨ、ルイーゼ」


 紺色の布の中から、彼より落ち着いた声がした。

 さっきグラスを置いた紳士が、とうとう顔を背けた。隣の奥様に肘でつつかれている。その奥様も、口を押さえていた。


 ジュリアン様は布を持ち上げかけ、やめた。覆っても喋る。取れば姿が見える。どちらを選んでも、自分の声だった。


「ジュリアン。その手を離しなさい」


 扉の前にいた家令が脇へ退き、伯爵様がいらした。

 客の輪が割れる。伯爵様は息子と、布のかかった鳥籠と、息子から離れた二人の令嬢を順に見た。


「婚約を破棄したと聞いて来たが、私には何の相談もなかった。まず、その説明をしなさい」


「父上、これは鳥が勝手に――」


「鳥に婚約を決めてもらった覚えはない」


 低い声だった。

 私は背筋を伸ばした。笑いかけていた口元も、自然に引き締まった。


「伯爵様。ジュリアン様からの婚約破棄を、お受けいたします。父へのご説明をお願いいたします」


「クロエ嬢……」


「それから、ピピを返していただけますか。今夜でお返しいただく約束でしたので」


 伯爵様が私を見た。

 ジュリアン様も見た。彼だけが、まだ何かを待っているようだった。私がいつものように、場を収める返事をするのを。


「一つ、訂正させてください」


 私は彼に向き直った。


「私は、あなたとお話ししたくなかったわけではありません。お話しするたび、そんなことはどうでもいいと言われたので、しなくなったのです」


 声が震えるかと思った。

 けれど、最後まで言えた。


「鳥の話ばかりしていたのも、あなたの前ではありません。ピピは、私が喋っている途中で、つまらないとは言いませんから」


 布の下で、かり、と爪の音がした。

 私はその小さな音に、少しだけ助けられた。


 伯爵様が頭を下げた。


「息子が失礼をした。お父上には私から謝罪する。婚約解消についても、両家で速やかに手続きを進めよう。鳥はもちろん、君のものだ」


 私は礼を返した。

 胸の真ん中に詰まっていたものが、ようやく動いた。深く息を吸うと、少し痛かった。


「待ってくれ。クロエ、二年だぞ」


 ジュリアン様が手を伸ばした。

 私は鳥籠の取っ手に触れる前に、その手から離れた。


「二年も婚約していたんだ。こんなことで、全部なかったことにするのか」


「最初にそうおっしゃったのは、あなたです」


「だから、あれは……」


 言い直す言葉が見つからないらしい。

 布の中でピピが「キミダケダヨ」と言った。今度は、そこでやめた。ジュリアン様は続きを警戒するように籠を見た。


「二週間で、あんなにたくさんの言葉を覚えたのですね」


 私も籠を見た。

 いくつもの名前に重なる、甘い声。


「あなたの声で呼ぶ私の名前は、一度もありませんでしたけれど」


 彼の手が下りた。

 なかったことにはならない。青いリボンを嬉しかった私も、好きになってもらえるよう努力した私も、確かにいた。

 でも、これからも同じことを続ける理由にはならなかった。


「クロエ様」


 セシル様が近づいてきた。花束はもう持っていなかった。少し離れた卓の上に、青いリボンをこちらへ向けて置かれている。


「お二人の婚約は、解消の話し合いが済んでいると聞いていました。でも、何も確かめずに、今夜ここへ来てしまいました。申し訳ありません」


 私は彼女を見た。

 彼女もまた、つい先ほどまで、あの声を信じていたのだ。


「庇ってくださって、ありがとうございました」


 そう言うと、彼女は唇を結んで頷いた。

 許すかどうかを今すぐ決める気にはなれなかった。それでも、彼女が私への侮辱を止めてくれたことは、本当だった。


 ナンシーを呼ぶと、扉のそばで待っていた彼女はすぐに来た。伯爵様の指示で使用人が二人、鳥籠を運んでくれることになった。

 私は布の片側を少し上げて、中を覗いた。ピピはいつもの止まり木にいた。


「帰ろうね」


「ピピ、イイコ」


 それは私の声だった。

 嘴が動いたのを見て、やっと安心して笑えた。布を掛け直し、使用人にお願いする。ナンシーが先に馬車までついていった。


 私が広間を出ようとしたとき、背後でジュリアン様の声がした。


「セシル、誤解だ。俺が愛しているのは――」


 途中で、止まった。

 遠ざかる鳥籠から「ルイーゼ」と聞こえた。


 籠を運ぶ使用人が、一度だけ咳払いをした。

 私は扉の外へ出てから、とうとう声を出して笑った。笑いすぎて目に涙が浮かんだので、今度は我慢せず、ハンカチで拭いた。


     ◇


 翌朝、伯爵様から父へ使いが来た。

 父は婚約解消に同意し、残る書類のやり取りも引き受けてくれた。私は、自分の気持ちは変わらないと伝えた。それで、その話は父の書斎を出る前に済んだ。


 庭に面した明るい小部屋へ戻ると、ピピの籠の前にナンシーがいた。運搬用の布は畳まれ、水も餌も新しくなっている。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「クロエ、オカエリ」


 少ししゃがれた、祖母の声。

 ピピが昔から覚えている挨拶だった。二週間聞かなかっただけなのに、私は籠の前で立ち止まった。


「……ただいま」


 呼ばれたかった名前が、ここにはあった。


 ナンシーが窓辺にお茶を置いてくれた。小皿には、私の好きな砂糖をまぶした焼き菓子が二つ載っていた。

 私は椅子に座り、一つを取った。ジュリアン様に子供っぽいと言われてから、人前では選ばなくなっていたものだ。噛むと、砂糖が気持ちよく崩れた。


「ナンシー、昨日ね。あの方が二度目の口笛を吹こうとしたとき、私、次も違ったらどうしようと思ったの」


「お嬢様まで心配なさることは、ございませんよ」


「ええ。でも、違ってしまったでしょう」


 彼女は一度、真面目に頷こうとした。

 失敗して、二人で笑った。私はお茶を飲んで、ようやく息を整えた。


「ピピ。あなたにまで、つまらないと思われたら困るわね」


 私は籠へ話しかけた。

 もう、誰の顔色も見なかった。


 ピピは首を伸ばし、ジュリアン様の声で言った。


「ツキモ、キミノマエデハ、カスム。セシル」


「ごめんなさいね。今日はクロエなの」


 ナンシーと目が合って、私は慌ててお茶のカップを置いた。

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