婚約破棄の最中ですが、オウムが浮気相手の名前を増やしています
「クロエ、君との婚約を破棄する。鳥とばかり話している女を、妻にはできない」
ジュリアン様がそう宣言したとき、問題の鳥は、彼のすぐ後ろにいた。
暖炉から少し離れた大きな鳥籠の中で、白いオウムが片足を上げている。ピピ。亡くなった祖母から私が引き取った、たいへん口の達者な家族である。
二週間前、夜会の余興に使いたいからと、貸してほしいと言ったのはジュリアン様だ。鳥と話す女は妻にできないが、鳥に客をもてなさせるのは構わないらしい。
主催者の伯爵様が別室で来賓を迎えている間に、息子が広間の真ん中で始めた宣言だった。客たちの視線が私に集まった。
彼の腕には、淡い桃色のドレスを着た令嬢が手を添えている。もう片方の手には花束。セシル様だ。最近よくお名前を聞くので、仲がよいことは知っていた。ここまでとは、知らなかった。
「俺には、心から愛する女性ができた。彼女となら、人間らしい会話ができる」
笑おうとして、頬がうまく動かなかった。
私はこの二年、彼が嫌がる話をしないようにしていた。鳥の話も、庭の話も、好きな菓子の話も。彼が話せば相槌を打ち、訊かれたときだけ答えた。その結果が、会話のできない女なのだそうだ。
「ジュリアン様。お話は、もう済んでいると……」
セシル様が彼の袖を引いた。
彼はその手に自分の手を重ねたまま、私に笑いかける。
「クロエなら分かってくれるさ。家同士が決めた婚約だ。互いに愛情などなかったのだから」
少なくとも私は、最初からそうだったわけではない。
初めて贈られた青いリボンは、今も引き出しにしまってある。似合うと言ってくれた日のことを、たぶん彼は覚えていない。
私は唇を噛みそうになって、やめた。大勢の前で泣いたら、それも鳥としか話せない女の証拠にされる気がした。
その沈黙を了承と取ったのか、彼はセシル様に向き直った。
「見ていてくれ。今夜のために、ちょっとした趣向も用意したんだ」
短く、二つ。
ジュリアン様が口笛を吹くと、ピピが止まり木の上で背筋を伸ばした。私の知らない合図だった。
「君だけだよ、セシル」
甘い声で彼が囁く。そのすぐ後ろから、たいへんよく似た甘い声が響いた。
「キミダケダヨ、エミリア」
セシル様の手が、彼の袖から離れた。
ピピは片足を下ろし、満足そうに羽を膨らませた。私は鳥籠を見た。客も見た。ジュリアン様だけは、セシル様を見ていた。
「……鳥の、物真似だよ」
「ええ。今のは、あなたのお声でしたね」
セシル様が答えると、近くで誰かが咳をした。
ジュリアン様は困ったように笑った。まだ、それでどうにかなると思っている顔だった。
「よくある名前だ。どこかで聞いたんだろう」
確かに、エミリアという名前は珍しくない。けれども二週間前まで、ピピがよく真似していたのは祖母と私と侍女の声だった。こんな、語尾に息を混ぜる喋り方はしなかった。
「ピピは、どちらのお部屋に置いてくださっていたのですか」
私が尋ねると、彼は露骨にほっとした。
「温室だ。君が、冷たい風に当てるなと言ったからね。籠も毎日、使用人に掃除させた。大事に扱ったよ」
「ありがとうございます。では、温室によくいらした方のお声でしょうか」
彼の笑みが止まった。
私だって、最初から責めるつもりで訊いたわけではなかった。ただ、あまりに彼そっくりなのだ。似ているというより、いつもより少し大きな声のジュリアン様が、鳥籠に入っている。
「俺が教えたのは、挨拶だよ。今夜、セシルを驚かせたくて」
「それで、エミリア様に?」
「名前を間違えて覚えたんだ!」
強い声に、私の肩がすくんだ。
すぐにセシル様が、私と彼の間へ半歩入った。
「クロエ様に大きな声を出さないでください。私は、あなたにお尋ねしています」
彼は口を開き、閉じた。
私を庇ったセシル様も、かすかに指先を震わせていた。花束を持つ手も揺れている。その柄に結ばれた青いリボンは、私が昔もらったものとよく似ていた。
ジュリアン様は鳥籠へ歩いていった。
「間違いなら、直せばいい。ピピ。セシルだ。セ・シ・ル」
ピピは首を傾けた。
彼がもう一度、短い口笛を二つ吹く。客の一人が、飲みかけのグラスをそっと置いた。
「アイシテイルヨ、ルイーゼ」
今度は咳では済まなかった。
扇の陰から、短い笑い声が漏れた。ジュリアン様は鳥籠の前で振り返ったが、誰が笑ったのか分からなかったらしい。すぐにピピへ向き直る。
「セシルと言っているだろう!」
ピピは黙って、嘴で胸元の羽を整え始めた。
ジュリアン様が口笛を吹こうと唇を尖らせたところで、セシル様が言った。
「次は、どなたでしょう」
彼の口が、その形のまま止まった。
笑ってはいけない。
そう思った私の口元まで、勝手に動いた。ついさっきまで、笑うどころか息を吸うのも苦しかったのに。
「違うんだ、セシル。これは、練習で」
「何の?」
「その……愛の言葉にも、言い方というものがあるだろう。舞台の台詞のように、いくつか試していたんだ」
温室で。
私の鳥に聞かせながら。
私は二週間、ピピが元気にしているか気にかけていた。鳥を寂しがるなんて子供じみていると言われたくなくて、迎えに来てもよいかという手紙も、一度しか出さなかった。
彼はその間に、ずいぶん念入りに準備をしていたらしい。
「では、エミリア様もルイーゼ様も、舞台の役名なのですね」
「ああ。そういうことだ」
返事が早かった。
セシル様は少し考え、静かに続けた。
「『月も君の前では霞む』も、そのお芝居の台詞ですか」
「それは君に書いた手紙だろう。二人だけのものを、ここで……」
ジュリアン様は途中で黙った。
セシル様の顔から、最後に残っていた迷いが消えた。
「昨日、同じことを私に囁いてくださいましたね。口笛を吹いてから。とても機嫌がよさそうでした」
籠の中でピピが、羽繕いをやめた。
誰も口笛は吹かなかった。それでも、しばらく嘴をもごもごさせたあと、ピピは覚えたばかりらしい文句を言った。
「ツキモ、キミノマエデハ、カスム。セシル」
今度は合っていた。
よりによって、今度だけ。
セシル様はゆっくりと頷いた。
「私の分も、こちらで練習なさったのですね」
「ほら、分かっただろう! 君のために教えたんだ!」
「ほかの方のお名前も、あなたがお教えになったのでしょう?」
「ルイーゼとは、もう会っていない。エミリアにだって、君と付き合い始めてからは――」
彼は息を呑んだ。
セシル様は、ゆっくり首を傾げた。
「舞台のお役では、なかったのですか」
ジュリアン様の口が閉じた。
広間の端で、年配のご婦人が扇を広げた。肩が、小刻みに揺れていた。
私は鳥籠を見つめた。ピピには誰が誰の婚約者か分からない。愛していると、おはようの違いも分からないだろう。
それでも、教えた人の声と名前は、なかなか上手に覚えていた。
「……クロエ」
彼が、助けを求めるようにこちらを向いた。
「君の鳥だろう。どうにかしてくれ」
今夜初めて、私が必要になったらしい。
鳥としか話せない女が、鳥を黙らせるときには役に立つ。
「お返しいただければ、連れて帰ります」
「そういうことじゃない。今の言葉を忘れさせるとか、正しい名前だけ言わせるとか、あるだろう」
「ありません。私は、一度覚えた言葉を、好きなところだけ消せません」
ピピがまた「キミダケダヨ」と言いかけたので、彼は鳥籠の下の棚から掛け布を引き出した。
私が移動用につけておいた、紺色の布だ。
「もういい!」
ばさりと籠が覆われた。
急に暗くなったのか、羽が動く音がした。私は思わず一歩寄った。籠の脚は床についたままで、羽音もすぐに収まった。
ジュリアン様は布を押さえ、ようやく静かになった広間に向き直った。
「皆様、お騒がせを――」
「アイシテイルヨ、ルイーゼ」
紺色の布の中から、彼より落ち着いた声がした。
さっきグラスを置いた紳士が、とうとう顔を背けた。隣の奥様に肘でつつかれている。その奥様も、口を押さえていた。
ジュリアン様は布を持ち上げかけ、やめた。覆っても喋る。取れば姿が見える。どちらを選んでも、自分の声だった。
「ジュリアン。その手を離しなさい」
扉の前にいた家令が脇へ退き、伯爵様がいらした。
客の輪が割れる。伯爵様は息子と、布のかかった鳥籠と、息子から離れた二人の令嬢を順に見た。
「婚約を破棄したと聞いて来たが、私には何の相談もなかった。まず、その説明をしなさい」
「父上、これは鳥が勝手に――」
「鳥に婚約を決めてもらった覚えはない」
低い声だった。
私は背筋を伸ばした。笑いかけていた口元も、自然に引き締まった。
「伯爵様。ジュリアン様からの婚約破棄を、お受けいたします。父へのご説明をお願いいたします」
「クロエ嬢……」
「それから、ピピを返していただけますか。今夜でお返しいただく約束でしたので」
伯爵様が私を見た。
ジュリアン様も見た。彼だけが、まだ何かを待っているようだった。私がいつものように、場を収める返事をするのを。
「一つ、訂正させてください」
私は彼に向き直った。
「私は、あなたとお話ししたくなかったわけではありません。お話しするたび、そんなことはどうでもいいと言われたので、しなくなったのです」
声が震えるかと思った。
けれど、最後まで言えた。
「鳥の話ばかりしていたのも、あなたの前ではありません。ピピは、私が喋っている途中で、つまらないとは言いませんから」
布の下で、かり、と爪の音がした。
私はその小さな音に、少しだけ助けられた。
伯爵様が頭を下げた。
「息子が失礼をした。お父上には私から謝罪する。婚約解消についても、両家で速やかに手続きを進めよう。鳥はもちろん、君のものだ」
私は礼を返した。
胸の真ん中に詰まっていたものが、ようやく動いた。深く息を吸うと、少し痛かった。
「待ってくれ。クロエ、二年だぞ」
ジュリアン様が手を伸ばした。
私は鳥籠の取っ手に触れる前に、その手から離れた。
「二年も婚約していたんだ。こんなことで、全部なかったことにするのか」
「最初にそうおっしゃったのは、あなたです」
「だから、あれは……」
言い直す言葉が見つからないらしい。
布の中でピピが「キミダケダヨ」と言った。今度は、そこでやめた。ジュリアン様は続きを警戒するように籠を見た。
「二週間で、あんなにたくさんの言葉を覚えたのですね」
私も籠を見た。
いくつもの名前に重なる、甘い声。
「あなたの声で呼ぶ私の名前は、一度もありませんでしたけれど」
彼の手が下りた。
なかったことにはならない。青いリボンを嬉しかった私も、好きになってもらえるよう努力した私も、確かにいた。
でも、これからも同じことを続ける理由にはならなかった。
「クロエ様」
セシル様が近づいてきた。花束はもう持っていなかった。少し離れた卓の上に、青いリボンをこちらへ向けて置かれている。
「お二人の婚約は、解消の話し合いが済んでいると聞いていました。でも、何も確かめずに、今夜ここへ来てしまいました。申し訳ありません」
私は彼女を見た。
彼女もまた、つい先ほどまで、あの声を信じていたのだ。
「庇ってくださって、ありがとうございました」
そう言うと、彼女は唇を結んで頷いた。
許すかどうかを今すぐ決める気にはなれなかった。それでも、彼女が私への侮辱を止めてくれたことは、本当だった。
ナンシーを呼ぶと、扉のそばで待っていた彼女はすぐに来た。伯爵様の指示で使用人が二人、鳥籠を運んでくれることになった。
私は布の片側を少し上げて、中を覗いた。ピピはいつもの止まり木にいた。
「帰ろうね」
「ピピ、イイコ」
それは私の声だった。
嘴が動いたのを見て、やっと安心して笑えた。布を掛け直し、使用人にお願いする。ナンシーが先に馬車までついていった。
私が広間を出ようとしたとき、背後でジュリアン様の声がした。
「セシル、誤解だ。俺が愛しているのは――」
途中で、止まった。
遠ざかる鳥籠から「ルイーゼ」と聞こえた。
籠を運ぶ使用人が、一度だけ咳払いをした。
私は扉の外へ出てから、とうとう声を出して笑った。笑いすぎて目に涙が浮かんだので、今度は我慢せず、ハンカチで拭いた。
◇
翌朝、伯爵様から父へ使いが来た。
父は婚約解消に同意し、残る書類のやり取りも引き受けてくれた。私は、自分の気持ちは変わらないと伝えた。それで、その話は父の書斎を出る前に済んだ。
庭に面した明るい小部屋へ戻ると、ピピの籠の前にナンシーがいた。運搬用の布は畳まれ、水も餌も新しくなっている。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「クロエ、オカエリ」
少ししゃがれた、祖母の声。
ピピが昔から覚えている挨拶だった。二週間聞かなかっただけなのに、私は籠の前で立ち止まった。
「……ただいま」
呼ばれたかった名前が、ここにはあった。
ナンシーが窓辺にお茶を置いてくれた。小皿には、私の好きな砂糖をまぶした焼き菓子が二つ載っていた。
私は椅子に座り、一つを取った。ジュリアン様に子供っぽいと言われてから、人前では選ばなくなっていたものだ。噛むと、砂糖が気持ちよく崩れた。
「ナンシー、昨日ね。あの方が二度目の口笛を吹こうとしたとき、私、次も違ったらどうしようと思ったの」
「お嬢様まで心配なさることは、ございませんよ」
「ええ。でも、違ってしまったでしょう」
彼女は一度、真面目に頷こうとした。
失敗して、二人で笑った。私はお茶を飲んで、ようやく息を整えた。
「ピピ。あなたにまで、つまらないと思われたら困るわね」
私は籠へ話しかけた。
もう、誰の顔色も見なかった。
ピピは首を伸ばし、ジュリアン様の声で言った。
「ツキモ、キミノマエデハ、カスム。セシル」
「ごめんなさいね。今日はクロエなの」
ナンシーと目が合って、私は慌ててお茶のカップを置いた。




