射干玉の咲く夜に玉塵の舞う
山裾を舐める夜風には、濃い血の香りと、焦げ付いた霊力の臭いが混じり合っていた。
垂れ込める暗雲の下、玉の塵が舞う夜、闇を割って逃れてゆく影があった。
かつてその名を呼ぶだけで国中の童が泣き止み、帝の宮廷すら恐怖に震え上がらせた大妖——射干玉の毛並みと二股に分かれた長大な尾を持つ、異形の巨大な猫であった。
「ハッ……ハッ……」
咆哮をも込めて吐き出す息は熱く、鉛のように重い。
その巨躯には至るところに深手が生々しく刻まれていた。
高僧らの結界を破り、数千の兵を屠り、殺戮の限りを尽くした報いが今、この身に押し寄せていた。
胴を薙いだ霊剣の傷口からは黒ずんだ霊血が絶え間なくしたたり、一歩足を踏み出すごとに、強大な妖力が砂のように流れて落ちてゆく。
深山幽谷のさらに奥、人の足の届かぬはずの古道へと逃げ延びたものの、もはや爪一本動かす気力すら尽きかけていた。
(ここまで、か……)
大妖は冷たい苔の上に巨躯を折りたたむように倒れ伏した。
胸の上下は速く、視界は白く霞んでいる。
万物を屠り、国を揺るがした己の終わりが、この寂れた山中で訪れる。
くつくつと喉の奥で嘲笑が漏れた。
人を滅ぼすために生きた己にふさわしい、孤独な野死であると。
その時だった。
カラン、と小さな乾いた音が静寂を破った。
妖の黄金色の瞳が、残された最後の力を振り絞って鋭く光る。殺気を感じ取ったわけではない。あまりにも無防備で、あまりにも小さく弱々しい存在が、すぐ近くに近づいていたからだ。
闇の向こうから現れたのは、一人の老婆であった。
背は丸く曲がり、継ぎ接ぎだらけの着物を纏っている。その手には使い古された竹の杖が握られていた。
手負いとはいえ、目の前にいるのは血に塗れた巨獣である。並の人間であれば、一目見ただけで狂乱し、腰を抜かして命を乞うはずであった。だが、老婆は足をも止めず、ただ淡々と、妖のすぐ脇を通り抜けてゆく。
(己の姿が目に入らぬか……? いや、そうではあるまい)
状況も忘れ、妖は霞む目を凝らした。
老婆の顔を見上げたとき、納得がいった。
老婆の両の瞳は濁り、光を失っていたのだ。
盲目ゆえに、血の匂いと己の息遣いに不審を覚えつつも、それが国を滅ぼしかけた化け物であるとは気づいていないらしかった。
老婆は妖の数歩先で立ち止まると、ゆっくりと顔を上げた。
光のない瞳が向けられている先には、一本の大きな木が立っていた。
それは、とうに生命を失った枯れ桜であった。
胴回りは大人が数人で抱えるほどに太く、天を突くように伸ばされた枝々は、まるで空に手を伸ばす巨人の骨のようであった。葉の一枚もなく、皮は剥がれ、死してなお広く枝を広げるその佇まい。往時はどれほどのものであったことか。
老婆は杖を置き、ゴツゴツとした年老いた手で、枯れた桜の幹を慈しむように撫でた。
そして、絞り出すような、か細い声で呟いた。
「……もう、この桜を見ることは叶わないのかねぇ」
その声が、夜の静けさにぽつりと落ちた。
「あの頃は……見事だったのになぁ。春になれば、山が丸ごと薄紅に染まるようで……。もう一度だけでいい、あの花の下で……」
呟きは風にさらわれて消えた。
その声を耳にした瞬間、大妖の脳裏に、千年の時を超えて落雷のような衝撃が走った。
(……この、声は……)
失われかけた妖力の底から、引き上げられるようにして蘇る記憶があった。
それは、まだ己が大妖などではなく、国を荒らす牙も爪も持たぬ、ただの小さく脆い生身の猫であった頃のこと。
雨の降る日だったか。荒れたお堂の軒下で、生まれたばかりの非力な柔毛を震わせ、寒さと飢えに震えていた。親にも捨てられ、ただ死を待つだけだった幼き日の記憶。
あの時。
冷え切った身体を包み込むように抱き上げ、優しく、本当に愛おしそうに頭を撫でてくれた手がありはしなかったか。
濡れた毛並みを温かな布で拭い、「生きておくれよ」と囁いた、あの稚い少女の声。
——目の前で枯れ木を撫でている老婆の顔に、あの日己を救った少女の面影が重なった。
幾百年という途方もない年月。己は強大な力を手に入れ、人を憎み、血に飢えた妖へと成り果てた。
命を救ってくれたあの少女のことなど、凄惨な殺戮の歴史の底にとうに埋もれてしまっていたはずだった。
そして己もまた、全身を切り刻まれ、命の灯火が消えようとしている。
(この身は千年もの時を生きた、脆弱な人の子などもはや生きているはずもない。だが---)
妖は静かに息を吐き出した。
流れ出る血はすでに止まらない。残された妖力も、もはや己の肉体を維持することすらできぬほど衰えている。
どうせこの傷では、もう長く生きることは叶わない。あと数刻もすれば、己はただの腐肉となって土に還るだけだ。
ならば。
人を殺め、世を乱すために使い古した己の魂。
その最後に遺された全霊を、人の子にくれてやるもまた一興。
妖は力なく横たわっていた巨躯を、最後の意志でゆっくりと起こした。
喉の奥で静かに鳴らされた鳴き声は、かつて人を恐怖させた絶叫ではなく、ただの愛おしい猫の足音のようであった。
老婆は不審そうに耳を澄ませたが、妖は問答を許さぬように、残された全ての魂を焦がし始めた。
血塗られた巨躯が、内側から眩いばかりの薄紅の光を放ち始める。
大妖としての存在、積み重ねた千年の劫火、数多の命を奪ってきた怨嗟の力——それら全てを、純粋な「生命」の奔流へと昇華させる。
妖は一歩、また一歩と枯れ桜へ近づき、その巨大な頭を幹へと押し当てた。
(咲け……)
魂が砕ける音がした。
妖の身体が、足元から光の粒子となって崩れ去ってゆく。
その膨大な霊気の全てが、枯れ桜の根を通って、幹へ、枝へと駆け昇って行った。
「咲くのだ!」
刹那。
死んでいた桜の木が、歓喜に震えた。
カサカサと乾いた音を立てていた枝々に、みるみるうちに青々とした息吹が通い、次の瞬間、爆発するように数千、数万の蕾が吹き出した。
「……え?」
老婆が息をのんだ。
盲いているはずの視界に、温かな、あまりにも眩い光が満ちてゆく。
鼻腔をくすぐるのは、懐かしい、甘く優しい桜の香り。
パラパラと、何かが頬に触れた。
続いて、頭の上に、肩の上に。
「花……? 桜が……咲いたのかねぇ……?」
満開であった。
真冬の山中に、時を無視して顕現した巨大な満開。枝という枝を埋め尽くす薄紅の花弁は、妖の魂そのものであった。花びらは絶え間なく舞い散り、散る側から柔らかな光の粒となって、夜空へと消えてゆく。
老婆はゆっくりと両腕を広げ、落ちてくる光の花びらを全身に受けた。
その顔には、長年の孤独も苦痛も消え去り、ただ幼子のような穏やかで満ち足りた笑みが浮かんでいた。
「あぁ……綺麗だ……。なんて、綺麗なんだろうねぇ……」
光の花吹雪の中で、老婆は桜の根本に静かに腰を下ろした。
幹に背を預け、瞼を閉じる。
暖かな春の陽気に包まれているかのような錯覚の中で、老婆の呼吸は次第に小さくなり、やがて、安らかな眠りの中へと落ちて行った。
◇
「——ここか!」
松明の火光と、殺気立った掛け声が山道を割った。
法衣を纏い、数条の念珠を腕に巻き付けた高僧が、背後に大勢の山伏を従えて駆け込んできた。
「化け物の血痕はここで途切れている! 油断するな、手負いとはいえ国を揺るがした大妖だ、いかなる術を……」
高僧の言葉が、途中で凍りついた。
彼らが辿り着いたひらかれた場所にあったのは、身の毛もよだつ異形の怪物でも、血の海でもなかった。
そこにあったのは、夜の闇を払うほどに輝く、巨大な満開の桜であった。
「な……なんだ、これは……」
山伏たちが言葉を失い、手にしていた長刀を降ろす。
桜は息を呑むほどに美しく、胸を締め付けるほど儚かった。
咲き誇る花々は絶え間なく散り落ち、地面に届く前に美しい光の粒子となって夜空へ消えてゆく。
木そのものが、自身の命を燃やし尽くしながら咲いているのだと、一目で知れた。
高僧は息を呑み、静かに歩み寄った。
桜の根本。散り逝く光の花吹雪に包まれた場所に、一人の老婆が座していた。
古びた着物を着たその顔は、まるで良い夢でも見ているかのように穏やかで、すでに息を引き取っている。その膝の上には、光となって消えゆく直前の、小さな小さな——猫の形をした光の残滓が、丸くなって寄り添っているように見えた。
「これは……」
高僧は手にした錫杖を静かに地面についた。
老婆の体からも、猫の残滓からも、かつて世界を害した恐ろしい邪気は一切感じられなかった。あるのはただ、澄み渡った無垢な霊気と、深い慈悲の余韻だけであった。
高僧は深く首を垂れ、静かに念仏を唱え始めた。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」
山伏たちもまた、誰からともなく膝をつき、手にしていた武器を置いて鎮魂の祈りを口にする。
夜風がひととき強く吹き抜けると、桜の木は最後の一片まで花を散らし切った。
光の花吹雪が天へと昇りきると同時に、枯れ桜は静かにその役割を終え、老婆を守るかのように静まり返った。
あとに残されたのは、満月の光に照らされた静かな山頂と、まるで長年の旅を終えて寄り添い眠るような、二つの魂の生きた証だけであった。




