第4話 王都の噂
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王都の朝は、いつもより早く目を覚ました。
理由は一つ。昨夜の夜会で起きた前代未聞の出来事――王太子による婚約破棄。そして、断罪されたはずの悪役令嬢が見せた微笑だった。
「聞いた? アルヴェイン侯爵令嬢、泣かなかったらしいわよ」
「それどころか、最初から分かっていたような態度だったとか」
「グレイフォード公爵が跪いたって本当?」
王都中央通りのカフェは朝から満席だった。貴婦人たちの声は抑えられているはずなのに、興奮を隠しきれていない。
本来なら噂は単純に広がるはずだった。
悪役令嬢、断罪され没落。
だが現実は違った。
「ねえ、それっておかしくない?」
一人の貴婦人が首を傾げる。
「本当に罪人なら、公爵が保護なんてする?」
その一言で、卓上の空気が変わった。
誰もすぐには答えない。だが疑問だけが静かに残る。
噂とは事実ではない。人々が納得できる“物語”に従って形を変えるものだ。そして今、王都の人々の中で納得できない点が増え始めていた。
なぜ公爵が介入したのか。
なぜ令嬢は動揺しなかったのか。
なぜ証拠が公開されなかったのか。
疑問は、やがて疑念へと変わっていく。
同じ頃、王城の貴族控室ではルーカス・ベルディアンが書類を机へ置いていた。
「状況が妙です」
対面に座るアルヴィン・グレイフォードは視線だけを向ける。
「妙、とは?」
「令嬢への同情が増えています」
アルヴィンの目がわずかに細められた。
「早いな」
「はい。本来なら彼女は社交界から消える流れでした」
だが現実は逆だった。“気高く断罪を受け入れた令嬢”という像が広まり始めている。
「誰かが誘導している可能性は?」
「あります。ただし、非常に巧妙に」
ルーカスは意味深に微笑んだ。
その頃、侯爵家別邸ではリシェルが窓辺で紅茶を飲んでいた。穏やかな午前の光が差し込み、小鳥の声が静かに響いている。
「順調ですね」
侍女エルナが新聞を差し出した。
見出しには『夜会の波紋 公爵が保護した令嬢の真実とは』とある。
リシェルは小さく笑った。
「“真実とは”――便利な言葉ですわね」
「断定していない分、想像が膨らみますから」
「ええ、その通り」
彼女は紙面を閉じた。
今回、彼女は何も嘘を流していない。ただ否定されない情報を、適切な場所に置いただけだった。
三日前、社交界の数名へ匿名で届けられた手紙。そこには、令嬢は静かに婚約解消を望んでいたこと、公爵が以前から彼女を評価していたこと、そして証拠提出がなかったことへの疑問が記されていた。
すべて事実だ。
だが、並べ方によって意味は変わる。
「人は空白を自分で埋めます」
リシェルは穏やかに言った。
「そして自分で出した結論を、最も信じるものです」
王都の人々は今、自らの意思で考え始めている。
――もしかして、令嬢は冤罪ではないのか。
一方、王太子クラウスは執務室で報告書を叩きつけていた。
「なぜだ! 彼女を非難する声が増えない!」
側近が困惑した様子で答える。
「公爵の介入が大きく……」
「だから何だ!」
理解できなかった。断罪は完璧だったはずだ。証言も揃えた。なのに世論が味方しない。
「……殿下、証拠の公開を求める声が出始めています」
クラウスの表情が固まる。
「証拠、だと?」
「はい。“なぜ提示されなかったのか”と」
沈黙が落ちた。
昨夜は気づかなかった。だが今になって理解する。彼は決定的な証明を示していないのだ。
同じ頃、ミレイユ・ローゼンは自室で鏡を見つめていた。
「……どうして」
本来なら今頃、王都はリシェルを糾弾しているはずだった。なのに風向きが違う。
胸の奥がざわつく。
まるで見えない誰かに盤面を動かされているようだった。
「……おかしい」
その瞬間、鏡の中の瞳がわずかに揺れる。淡い光が一瞬だけ宿り、すぐに消えた。誰にも気づかれない魔力の残滓。
再び別邸。
「次は?」
エルナが尋ねる。
リシェルは紅茶を静かに置いた。
「まだ何もしません」
「え?」
「噂は、育てるものです」
焦って結論を出せば反発が生まれる。だから今は疑問だけを残す。人々が自分の意思で真実へ近づくように。
「もうすぐです」
彼女は静かに微笑んだ。
「“証言”が揺らぎ始めますから」
王都ではすでに、新しい囁きが生まれていた。
――あの令嬢、本当に悪人だったの?
その疑問こそが、王太子側の足元をゆっくりと崩し始めていた。




