第2話 悪役令嬢の三年間
夜会から離れた客間は、驚くほど静かだった。
先ほどまで王城大広間を満たしていたざわめきが、まるで別世界の出来事のように遠い。
リシェル・フォン・アルヴェインは椅子に腰掛け、白い手袋をゆっくり外した。
「……予定より少し早かったですね」
独り言のような声が、静寂に溶ける。
対面に立つアルヴィン・グレイフォード公爵は腕を組んだまま答えた。
「王太子は感情で動く。誤差の範囲だろう」
「ええ、その通りですわ」
リシェルは微笑んだ。
つい先ほど断罪されたばかりの令嬢とは思えないほど、穏やかな表情だった。
沈黙が落ちる。
やがてアルヴィンが低く問う。
「……本当に驚かないのだな」
「驚く理由がありませんもの」
リシェルは用意されていた紅茶を一口含んだ。
「すべて、三年前に始まったことですから」
その朝は、特別な日ではなかった。
目覚めた瞬間――世界が二重に見えた。
知らないはずの記憶が、洪水のように流れ込んできたのだ。
別の人生。
別の世界。
そして、自分が“悪役令嬢”として破滅する未来。
婚約者である王太子に断罪され、社交界から追放され、家は没落し、孤独な余生を送る結末。
「……笑ってしまいましたわ」
リシェルは当時を思い出し、小さく肩をすくめる。
恐怖はなかった。
代わりに浮かんだのは、冷静な感想だった。
――なんて効率の悪い人生なのだろう、と。
「泣く時間がもったいないと思いましたの」
アルヴィンの口元が、わずかに緩む。
三年前、彼女が最初にしたことは単純だった。
婚約者を愛するのをやめたのだ。
「感情は判断を鈍らせますから」
王太子クラウスは優しい人物だった。だが同時に、正義に酔いやすく、疑うことを知らない。
記憶の中の未来では、彼は“聖女”の言葉を一度も疑わなかった。
ならば変えるべきは彼ではない。
自分の立ち位置だった。
リシェルは三年という時間を使い、静かに準備を進めた。
侯爵令嬢として与えられていた個人資産――宝石、投資権、交易株。それらを合法の範囲で分散し、再編した。
「名義はいくつかに分けました」
「侯爵は気づいているのか?」
「半分ほどは」
父は優秀だ。気づいた上で止めなかった。それは暗黙の了承を意味していた。
同時に彼女は、社交界から少しずつ距離を取った。
友人を増やさず、派閥にも深く関わらない。
冷たく、近寄りがたい令嬢。
――氷の令嬢。
そう呼ばれる評価さえ、計算のうちだった。
「嫌われておけば、失脚しても巻き込む人が少ないでしょう?」
「普通は逆を選ぶ」
「普通は破滅しますもの」
そして最後に手に入れたのが、情報だった。
三年前、王城図書塔。
政治書を読みふける令嬢を、ひとりの男が観察していた。
アルヴィン・グレイフォード。
王弟補佐にして、王国政務の実質的な中枢。
「あなたは、私が未来を知っていると気づいた」
「確信したのは一年後だ」
彼は淡々と答える。
「だが合理的だった。未来を知る者として扱った方が説明がつく」
それが、二人の同盟の始まりだった。
アルヴィンが静かに息を吐く。
「つまり、婚約破棄は敗北ではない」
「ええ」
リシェルは迷いなく頷いた。
「予定された解放です」
王太子妃という立場は、未来では破滅へ続く鎖だった。
ならば――外してもらえばいい。
公衆の面前で。完全な形で。
「だから、あの場で否定しなかったのか」
「否定しても、殿下は聞きませんもの」
そして彼女は紅茶を置いた。
「……これで、彼女も動きます」
「ミレイユか」
「はい」
魅了魔法を操る少女。
本来の未来では最後まで暴かれなかった存在。
だが今回は違う。
「舞台は整いました」
リシェルは窓の外、夜の王城を見上げた。
その瞳に、断罪された令嬢の影はない。
あるのは、勝利までの道筋をすでに計算し終えた者だけが持つ静かな光。
「次は?」
アルヴィンが問う。
リシェルは微笑んだ。
「――噂が広がるのを待ちましょう」
社交界という戦場で、最も強い武器は剣ではない。
言葉だ。
そして今夜。
王都中が語り始める。
悪役令嬢は、なぜ笑っていたのか――と。




