エピローグ(数年後・子ども視点)
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王城の庭は、今日も静かだった。
朝露の残る芝生を踏みしめながら、私は本を抱えて歩く。侍女たちは少し離れた場所で控えていて、誰も声をかけてこない。
それが普通だった。
私が近づくと、大人たちは少し背筋を伸ばす。
理由は知っている。
「公爵令嬢様は、お母君によく似ていらっしゃる」
そう言われるからだ。
母上――リシェル・グレイフォード公爵夫人。
王都でその名を知らぬ者はいない。
氷の令嬢。
鉄血の公爵夫人。
王国改革を支えた女傑。
……などなど、物騒な呼び名ばかり並ぶ。
けれど、私の知る母上は、朝になると必ず髪を撫でてくれる人で、夜には本を読んでくれる人だ。
怖いと思ったことなど、一度もない。
「また難しい本を読んでいるのか」
低い声が背後から降ってきた。
振り向かなくても分かる。
父上だ。
アルヴィン・グレイフォード公爵。
王弟補佐にして、王国政務の実質的な頂点に立つ人物。
そして――無表情で有名な人。
「歴史書です。授業で必要なので」
「七歳にしては早いな」
「理解できます」
父上は少しだけ目を細めた。
それが笑顔だと知っているのは、家族だけだと思う。
父上は私の手から本を取り、ぱらりと頁をめくった。
「……この時代か」
「はい。王太子失脚の前後です」
一瞬、空気が静かになった。
その出来事は、王国の歴史を大きく変えた転換点として記録されている。
愚かな断罪劇。
偽りの聖女事件。
王家内乱未遂。
そして、大規模な政治改革。
けれど教科書には、詳しい名前はほとんど書かれていない。
「父上、この時代の記録はどうして曖昧なのですか?」
父上は本を閉じた。
少し考えるように視線を遠くへ向ける。
「記録とは、時に守るために曖昧にされる」
「誰を?」
「未来をだ」
よく分からなかったけれど、父上がそう言う時は、それ以上聞かない方がいい。
そこへ足音が近づいた。
規則正しく、迷いのない歩き方。
私は思わず振り返る。
母上だった。
淡い色のドレスをまとい、陽光を背に歩いてくる姿は、絵画のように整っている。
侍女たちが一斉に頭を下げた。
母上はそれを当然のように受け流し、私の前で足を止める。
「朝から勉強とは感心ね」
「歴史が気になって」
「歴史はね、結果しか残らないものよ」
母上は穏やかに微笑んだ。
社交界では決して見せない表情だと、後で知った。
父上が隣に立つ。
二人は特別な会話をしない。
それでも、並んでいるだけで空気が落ち着く。
不思議だった。
王城では、誰もが父上を恐れ、母上を畏れる。
けれどこの二人は、互いの前ではただ自然にそこにいる。
「母上、この時代に“氷の令嬢”という人物がいたと書かれていました」
侍女たちが小さく息を呑んだ。
母上は一瞬だけ目を瞬かせ、それから肩をすくめた。
「昔のあだ名ね」
「怖い人だったのですか?」
父上がわずかに咳払いをした。
母上は少し考えてから答える。
「どうかしら。きっと、必死だったのよ」
「何に?」
「自分の人生を守ることに」
その言葉は静かだったけれど、なぜか胸に残った。
父上が母上を見る。
ほんの一瞬だけ、柔らかい視線を向ける。
それを見て、私は気づく。
ああ、この人たちは。
たくさんの戦いを越えて、ここに立っているのだと。
遠くで鐘が鳴った。
執務の時間らしい。
父上は私の頭に手を置いた。
「午後は剣術だな」
「はい」
「無理はするな」
母上がすぐに言い添える。
「でも手加減もしないで。あなたはグレイフォードの娘なのだから」
厳しい言葉なのに、声は優しい。
私はうなずいた。
二人が並んで歩き出す。
王城へ戻る背中を見送りながら、侍女の一人が小声で言った。
「本当に仲の良いご夫婦ですこと」
もう一人が頷く。
「ええ。あの婚約破棄がなければ、今の王国はなかったでしょうね」
私は思わず振り向いた。
「婚約破棄?」
侍女たちは慌てて口を閉ざした。
けれど私は気になって仕方がない。
歴史書には書かれていない。
けれど確かに存在する“始まり”。
私は再び本を開いた。
空白の多い頁を眺めながら思う。
きっとそこには、誰かの失敗と、誰かの選択と、そして――
今へ続く道があったのだ。
風が吹き、庭の花が揺れる。
遠くで母上が振り返り、私に手を振った。
その笑顔を見た瞬間、私ははっきりと理解した。
氷の令嬢なんて呼ばれていた人が、本当に冷たいはずがない。
だって――
私にとって母上は、世界でいちばん優しい人なのだから。




