後日談②
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王都の夜は、静かな祝祭の気配に包まれていた。
昼間の喧騒が嘘のように消え、貴族街には柔らかな灯りだけが並んでいる。明日は王国中が知る式典の日だった。
グレイフォード公爵邸の一室で、リシェルは窓辺に立っていた。
夜風がカーテンを揺らし、月明かりが床に淡く落ちている。
「眠れませんか?」
背後からエルナの声がした。
「少しだけ」
リシェルは正直に答えた。
明日、彼女は結婚する。
かつて王太子妃になる未来を失った少女が、今は自分の意思で選んだ相手と新しい人生を始めようとしている。
「緊張、ですか?」
「……どうでしょう」
自分でも分からなかった。
恐怖ではない。不安でもない。ただ、人生が大きく変わる前の静けさが胸に広がっている。
エルナは微笑みながら言った。
「お嬢様が眠れないなんて、珍しいですね」
「合理的に考えると、睡眠不足は明日に響くのですが」
「それでも考えてしまうんでしょう?」
図星だった。
リシェルは小さく息を吐く。
「予定外のことばかりでしたから」
婚約破棄。断罪。陰謀。政変。そして――求婚。
あの日、アルヴィンが淡々と告げた言葉を思い出す。
「最後まで付き合う」
あまりにも彼らしい、不器用な告白だった。
「……本当に不思議ですわ」
「何がです?」
「一番予想していなかった未来が、一番自然に感じるのです」
エルナは何も言わず、静かに頭を下げて部屋を出た。
入れ替わるように、控えめなノックが響く。
リシェルは振り返る。
「どうぞ」
扉が開き、アルヴィンが姿を現した。
礼装ではなく、普段の落ち着いた装いだった。
「こんな時間に訪問とは、規則違反では?」
「明日からは問題ない」
即答だった。
思わずリシェルが笑う。
彼は部屋の中央で立ち止まった。
しばらく言葉を探すような沈黙。
「……確認に来た」
「何をです?」
「後悔していないか」
その問いに、リシェルは瞬きをした。
数か月前にも似た質問をされた気がする。
彼は続けた。
「君は合理的だ。より有利な選択もあったはずだ」
政治的利益だけを考えるなら、別の縁談はいくらでも存在した。
だが彼女は首を横に振る。
「合理的だからこそです」
一歩、彼へ近づく。
「未来を計算した結果、あなたが最適でした」
「……それは求婚の言葉としてどうなんだ」
「事実ですもの」
少しだけ沈黙。
そしてリシェルは、珍しく視線を逸らした。
「ですが」
声がわずかに柔らぐ。
「感情が理由で選んだのも、初めてです」
アルヴィンの表情が止まる。
彼女は続けた。
「あなたといると、警戒しなくていい。計算し続けなくていい。それが……思ったより心地よかったのです」
月明かりが二人の間に落ちる。
長い沈黙のあと、アルヴィンが静かに言った。
「では契約成立だな」
「ええ」
「生涯契約だ」
リシェルは微笑んだ。
「途中解約は?」
「認めない」
即答だった。
思わず笑い声が重なる。
外では夜風が花を揺らしている。
明日になれば、彼女の名前は変わる。立場も変わる。けれど不思議と不安はなかった。
未来はもう、破滅へ続く一本道ではない。
選び取れる道になったのだから。
「そろそろ休め」
アルヴィンが言う。
「明日は長い」
「ええ」
彼が扉へ向かい、ふと立ち止まる。
振り返らないまま、静かに言った。
「……明日を楽しみにしている」
扉が閉まる。
部屋に再び静けさが戻った。
リシェルは窓の外の月を見上げ、小さく呟く。
「私もです」
婚約破棄から始まった物語は、ようやく終わる。
そして今、新しい物語が始まろうとしていた。




