後日談①
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王都に春が戻っていた。
長い冬を越えた庭園には淡い花が咲き始め、王城の空気もどこか柔らいでいる。数か月前まで社交界を揺るがしていた騒動が嘘のようだった。
アルヴェイン侯爵家の別邸では、穏やかな午後の光が窓から差し込んでいた。
「……静かですね」
エルナが紅茶を置きながら言う。
「騒動が終われば、こんなものですわ」
リシェルは書類から視線を上げずに答えた。
机の上には王城から届いた報告書がいくつも積まれている。王家財政改革案、貴族院再編計画、地方融資調整――どれも彼女が関わるようになった案件だった。
かつて“悪役令嬢”と呼ばれた少女は、今では王国政策に意見を求められる存在になっていた。
「ですが、お嬢様」
エルナが少しだけ口元を緩める。
「最近、来客の理由が政治ではない方も増えておりますよ?」
リシェルはペンを止めた。
「……例えば?」
「毎日のように訪問される公爵様とか」
その瞬間、扉がノックされた。
間が良すぎる。
エルナがにやりと笑いながら扉を開ける。
「お待ちしておりました、グレイフォード公爵」
アルヴィンが入室する。相変わらず無駄のない立ち姿だったが、以前よりどこか空気が柔らかい。
「仕事の話だ」
即座に言い訳のような一言。
エルナは深々と礼をしながら退室した。扉が閉まる直前、明らかに楽しそうな表情をしていた。
沈黙が落ちる。
アルヴィンは机の書類を一瞥した。
「働きすぎだ」
「公爵閣下に言われたくありませんわ」
「否定はしない」
短いやり取りのあと、彼はふっと息を吐いた。
「王城は落ち着いた。第二王子派の整理も終わる」
セドリックの失脚から数か月。政変の余波はようやく収束しつつあった。
王太子クラウスは公務に復帰している。以前より寡黙になったが、判断は慎重になったと評判だった。
「殿下は?」
リシェルが尋ねる。
「……変わろうとしている」
それは擁護でも非難でもない、事実だけの言葉だった。
リシェルは静かに頷く。
「それで十分ですわ」
過去を戻す必要はない。未来が少し良くなれば、それでいい。
窓の外では春風が花びらを揺らしていた。
アルヴィンが不意に言う。
「君は、後悔していないのか」
「何をです?」
「王太子妃という未来を捨てたことを」
リシェルは少しだけ考えた。
そして、ゆっくり首を振る。
「予定通りでしたもの」
即答だった。
だが続く言葉は、少しだけ柔らかかった。
「……ただ、一つだけ誤算がありました」
アルヴィンの眉がわずかに動く。
「誤算?」
「ええ」
彼女は立ち上がり、窓辺へ歩く。
春の光が横顔を照らした。
「こんなに穏やかな未来になるとは、思っていませんでした」
計算していたのは生存だけ。安定だけ。破滅を回避することだけ。
けれど今、胸の奥には静かな安心があった。
背後で椅子がわずかに鳴る。
アルヴィンが立ち上がった気配。
「それは君が選んだ結果だ」
低い声がすぐ後ろで響く。
「違いますわ」
リシェルは振り返った。
「共犯者が優秀だっただけです」
ほんの一瞬、沈黙。
そしてアルヴィンが小さく笑った。
それは彼を知る者なら誰も見たことがないほど、穏やかな表情だった。
「では責任を取ろう」
「責任?」
「最後まで付き合う」
言葉は簡潔だったが、意味は明白だった。
リシェルは瞬きをする。
計算外の提案だった。
数秒の沈黙のあと、彼女はふっと笑う。
「……それは長期契約になりますわよ」
「望むところだ」
窓の外で花びらが舞い上がる。
婚約破棄から始まったすべては終わり、そしてようやく、本当の意味で新しい物語が始まろうとしていた。
リシェルは静かに思う。
破滅は予定外だった。
けれど――この未来もまた、予定にはなかったのだと。




