第10話(最終話) 予定通りの未来
王都の春は遅い。
だが今年は、例年よりも穏やかだった。
王城の騒動から三ヶ月。
社交界は、何事もなかったかのように動き始めている。
ただひとつ違うのは――
「氷の令嬢、ねぇ」
侍女エルナが新聞を畳みながら笑った。
「今じゃ“王国を救った理性の令嬢”ですよ」
「誇張です」
リシェルは書類から目を上げない。
アルヴェイン侯爵邸の執務室。
机の上には山のような報告書。
王政改革に伴う法整備。
原因となった事件の中心人物でありながら、彼女は表舞台に立たなかった。
――望まなかったからだ。
「それで、お客様です」
エルナが意味深に微笑む。
「予想通りの方が」
扉がノックされた。
「入れ」
現れたのは――
クラウス・レオンハルト。
王太子ではない。
ただの王族としての装いだった。
「久しいな、リシェル」
「三週間ぶりです、殿下」
穏やかな空気。
以前のぎこちなさはない。
「正式に決まった」
彼は言った。
「私は王位継承権第一位を辞退した」
リシェルは驚かない。
「そうなさると思っておりました」
彼は苦笑した。
「君には敵わないな」
窓の外を見る。
「私は王になる器ではなかった」
「いいえ」
リシェルは静かに言う。
「殿下は“正しくあろうとしすぎた”のです」
クラウスは目を見開いた。
「それは王ではなく、騎士の資質です」
少しの沈黙。
彼は笑った。
「……だから辺境防衛を任されたのか」
新たな役目。
国境騎士団総監。
失脚ではない。
適材適所。
「礼を言いに来た」
彼は頭を下げた。
「君が止めてくれなければ、私は国を壊していた」
リシェルは首を振る。
「私はただ、予定通りに動いただけです」
「その“予定”とは?」
彼女は少しだけ考えた。
「婚約破棄です」
クラウスが固まる。
「……は?」
その時。
「説明は私がしよう」
低い声。
扉にもたれかかっていたのはアルヴィンだった。
「公爵、いつから……」
「最初からだ」
当然のように言う。
リシェルはため息をついた。
「殿下。私は前から理解していました」
「王太子妃になれば、私は政治の駒になります」
「そして殿下は――利用される」
クラウスの表情が変わる。
「だから?」
「婚約が続けば、いずれ誰かが王位争いを仕掛けたでしょう」
静かな声。
「早いか遅いかの違いです」
アルヴィンが補足する。
「彼女は婚約破棄を“爆発を小さくする導火線”にした」
クラウスは息を失った。
「……最初から?」
リシェルは微笑む。
「予定通りです」
そして小さく付け加えた。
「ただし」
視線がアルヴィンへ向く。
「王国規模の政変になるとは思いませんでした」
彼が肩をすくめる。
「それが“予定外”か」
「ええ」
静かな笑いがこぼれた。
長い沈黙のあと。
クラウスは深く息を吐いた。
「……私は本当に、君を理解していなかったな」
「もう理解する必要はございません」
彼女の声は優しい。
「私たちは別の道を歩みますから」
別れの言葉だった。
クラウスは頷き、去っていく。
扉が閉まる。
静寂。
アルヴィンが近づいた。
「これで本当に終わりだな」
「ええ」
「後悔は?」
リシェルは少し考える。
春風がカーテンを揺らした。
「……ひとつだけ」
「ほう?」
「予測できなかったことがあります」
彼女は彼を見上げた。
「あなたが味方になるとは思いませんでした」
アルヴィンの口元がわずかに緩む。
「訂正しよう」
一歩、距離が縮まる。
「味方ではない」
「では?」
彼は静かに言った。
「共犯者だ」
沈黙。
そして。
リシェルは初めて、社交用ではない笑みを見せた。
氷が溶けるような、柔らかな笑顔だった。
窓の外では春が始まっている。
婚約は終わった。
だが人生は続く。
予定通りではない未来へ。
――完――




