死にたがりおじさん
とある町に、一人の奇妙な中年の男がいた。ついた呼び名が、『死にたがりおじさん』。彼はいつも「死にたいなあ」と呟きながら、町をぶらついているのだ。薄汚れた服を着て歩くその姿からは、悲壮感そのものが匂ってくるかのようだった。
最初の頃は心配して声をかける者もいたが、どんな言葉を投げかけても、返ってくるのは決まって――「死にたいなあ」。
「何かあったんですか?」
「死にたいなあ」
「大丈夫ですか?」
「死にたいなあ」
そんな調子では、お節介焼きな人も匙を投げる。やがて人々は関わらなくなり、その存在は日常の風景の一部になっていった。
ある夜のことだった。
おじさんは駅近くの花壇の縁に腰掛け、ため息混じりに「死にたいなあ」と呟いた。背中は石のように丸まり、目はどこか遠くをじっと見つめている。街灯に照らされた横顔は、沈んだ色を帯びていた。
そこへ、数人の若者が通りかかった。コンビニ袋をぶら下げ、酒瓶を歯で押さえ、品のない笑い声をまき散らしている。酔いと気分の高揚で妙に肩を揺らしながら歩き、いかにも調子づいた若者グループといったところ。
「お? 『死にたがりおじさん』じゃん」
「はあ? なんそれ?」
「“死にたいなあ”しか言わねえおっさんらしいぞ。姉貴が言ってた」
若者たちは足を止め、檻の中の動物を見るように、おじさんの顔を覗き込んだ。そして、そのうちの一人がにやりと口角を上げ、ポケットから折りたたみナイフを取り出した。
「おい、おっさん。これ貸してやるから、ここで死んでみろよ」
他の若者たちは口では「やめとけって」と言いながらも、同じような笑みを浮かべていた。
おじさんは差し出されたナイフを無言で見つめ、やがてゆっくりと首を横に振った。
「死にたいなあ……」
「だから、これで喉を掻っ切れって」
「死にたいなあ……」
「ほら、取れよ。イライラすんなあ……。おい、殺してやろうか?」
「ははは、もう行こうぜ」
「いや、この死に方が嫌なんじゃね?」
「どっかにロープとか落ちてねえかな。首吊りのほうがいいだろ」
「いや、おれんちにもっといいもんがある! ちょっと取ってくる!」
一人が意気揚々と駆け出した。しばらくして、戻ってきた彼の手には――。
「はい、手榴弾」
「……いや、いやいや、お前なんでそんなもん持ってんだよ」
「偽物だろ?」
「たぶん本物。福岡に家族で行ったときに拾った」
「じゃあ本物だな」
「あ、うちに花火あるぞ。どうせなら派手なほうがいいだろ」
「いいじゃん。じゃあ、おれはガソリン持ってくるわ」
「うちはサラダ油しかねえや」
「一応持ってこいよ。おれはロープを持ってくる。あと、何人か声かけよーぜ」
そして――。
「死にたいなあ! 死にたいなあ!」
若者たちは、おじさんを駅前の緒方大二郎の銅像に縛りつけた。ラッシュを過ぎた駅前は人通りこそ少なかったが、異様な騒ぎに気づいた通行人たちが足を止め、次々と集まり始めた。
おじさんの足元には、まるで供え物のように、ガソリンの入ったポリタンク、束ねられた花火、ダイナマイト、ナイフ、そして不発弾までもが並べられていた。
「ところで、あの銅像って誰?」
「町出身の演歌歌手。半年くらい前のニュースでやってた」
「ああ、金の無駄遣いって騒がれてたやつか。しかも市長のやつ、賄賂もらってたとかなんとか」
「なんでもいいだろ。おい、おっさん! いつでもいけるぞ! ピン抜くだけだからな!」
おじさんは、手榴弾を握りしめたまま、「死にたいなあ! 死にたいなあ!」と繰り返し叫び続けた。肩は小刻みに揺れ、額にはじっとりと汗がにじんでいる。
やがて、マスコミの車が滑り込むように現れ、慌ただしくカメラや照明が設置された。レンズが一斉におじさんへと向けられる。どうやら生中継しているらしい。
リポーターがマイクを構えて何やら話し始め、人々が手にしたスマートフォンの画面には、テレビ局のスタジオが映り、アナウンサーやコメンテーターが険しい顔で議論していた。
『これは、市長への抗議でしょうか?』
『いえ、社会全体に対する怒りの表明でしょう。間違いないですね』
『孤独な中年男性の悲哀が感じられますね……』
『いや、故緒方大二郎氏の熱心なファンで、彼の後を追おうとしているのではないでしょうか』
『いや、脱出ショーらしいですよ。ほら、SNSでもそう言われてます』
「死にたいなあ!」
「セイ! 死にたいなあ!」「死にたいなあ!」「死にたいなあ!」「死にたいなあ!」
「し、死にたいなあ!」
「セイ! し、死にたいなあ!」「し、死にたいなあ!」「し、死にたいなあ!」「し、死にたいなあ!」
「しし、死にたいなあ!」
「セイ! しし、死にたいなあ!」「しし、死にたいなあ!」「しし、死にたいなあ!」「しし、死にたいなあ!」
群衆は、おじさんの言葉を合いの手のように繰り返し、リズムをつけて盛り上がった。駅前はいつしか祭りの広場のような熱気に包まれ、事情を知らない通行人も拍手や笑い声を送っていた。
「し、し、死にた……」
「おっさん! もっと大きな声で! セイ、死にたいなあ!」
「し、し、し……」
おじさんは言葉を詰まらせ、ついには黙った。群衆は構わず、叫び続けた。
「死にたいなー!」「死にたいなー!」「死にたいなー!」「死にた――」
「ねえ、あのおじさん、本当は死にたくないんじゃないの?」
それは、母親と手をつないだ一人の少女の声だった。
その無垢な問いは夜風に乗って広がり、駅前のざわめきの中へと染み込んでいった。
周囲は静まり、視線が一斉におじさんへ注がれた。おじさんは、しばし動かず、やがてゆっくりと頷いた。頬を伝う涙がアスファルトへ落ち、吸い込まれていった。
「……縄、ほどいてやるか」
「ああ……」
若者たちは無言で縄を解き、おじさんの背中を優しく叩いた。人々はどこかばつが悪そうに目を伏せた。後ろめたさに駆られてそそくさと去る者、「つまんねー」と吐き捨てる者。そして、まばらな拍手が起きた。それは、とてもやさしい音だった。
おじさんは、手榴弾をそっと銅像の足元に置くと、人波の中へ消えていった。
彼は死にたいのではない、生きたいのだ。確かに、人生はつらい。孤独で、理不尽で、思い通りにはいかない。それでも生きたい。その想いは、確かに「死にたいなあ」という一言に奥底に潜んでいた。
死者は喋らない。本当に死を選ぶ者は、「死にたい」などと口にしない。声も残さず、この世から去っていく。だから、「死にたい」と口にする者は構ってほしいだけだ――そんな蔑みにも似た見方は、間違っていないのかもしれない。
だが、だからこそ、彼は生きたいのだ。生きたくて、何度も叫んでいたのだ。みんな、生きたいのだ! 彼も、あなただって、きっと。
もしかすると、この結末はあなたが期待していたものではなかったかもしれない……。
けれど、私は伝えたい。死にたいと願う孤独な者たちよ。あなたは一人ではないのだと!
「何ですか、これ? エッセイ?」
「遺書なんじゃないか? まあ、なんでもいいだろ。処分で。引き取り先もないしな」
「うわあ、畳替えないと駄目ですね。完全にシミになってる」
「この現場じゃよくあることだ。最近は特にな。ま、慣れることだな」
「きついっすね。特殊清掃の仕事って……死にてえなあ」
「はは、孤独死の現場で言うセリフじゃないだろ、それ」