第5章 虚無神カオス・ニルとの戦い
## 魔界の異変
魔界の空が、いつもの炎のような朱色から、不気味な紫に変わったのは、ベルゼバルが魔王の玉座に戻ってからわずか三日後のことだった。
「陛下、異変です」
古参悪魔グリモアが、いつになく慌てた様子で玉座の間に駆け込んできた。その表情には、千年の時を生きた古強者にも関わらず、隠しきれない恐慌が浮かんでいた。
「何事だ」
ベルゼバルは玉座に深く腰掛けたまま、冷静に問いかけた。しかし、内心では既に察していた。この異変は、彼が神の身体で天界にいた時に感じた、あの不穏な気配と同じものだった。
「魔界の各地で、存在そのものが消失する事件が多発しております。炎の大河が干上がり、溶岩の大地に亀裂が走り、そして――」
グリモアの声が震えた。
「悪魔たちが、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えているのです」
ベルゼバルの瞳が鋭く光った。神の身体で過ごした日々の記憶が蘇る。天界でも同様の異変が起きていたのだ。天使たちが突然消失し、聖なる泉が枯れ果て、黄金の宮殿に暗い影が差していた。
## 虚無神カオス・ニルの降臨
裂け目から現れたのは、形を持たない存在だった。光でも闇でもなく、ただの「無」。しかし、その無こそが全てを飲み込む恐怖そのものだった。
『我は虚無神カオス・ニル。存在するもの全てを無に帰す者』
声は聞こえない。しかし、三つの世界の全ての存在が、その「声」を理解した。それは言葉ではなく、直接意識に刻み込まれる概念だった。
『アルファ・オメガよ。久しく待ったぞ』
『カオス・ニル――ついに現れたか』
アルファ・オメガが前に出た。その存在感は圧倒的だったが、虚無神の前では色褪せて見えた。
『貴様の小細工も今日で終わりだ。神と魔王を戦わせ、その対立から生まれるエネルギーで世界を強化しようとした愚かな試み――全て無駄だった』
「何だと――」
ベルゼバルとアルテミスが同時に驚愕した。
『対立のエネルギーは、我の力をも育てていたのだ。皮肉なことに、お前たちの戦いは我を強くする糧でもあった』
カオス・ニルの嘲笑が、現実を震わせた。
## アルファ・オメガの戦い
『それでも、やらねばならぬ』
アルファ・オメガが両手を広げると、創造と破壊の力が同時に放たれた。宇宙を生み出すほどの創造力と、それを一瞬で消し去る破壊力が、虚無神に向かって放たれた。
しかし――
『無駄だ』
カオス・ニルがただ存在するだけで、アルファ・オメガの力は意味を失った。創造も破壊も、虚無の前では概念すら成り立たない。
『理解したか、アルファ・オメガよ。お前の力も所詮は「存在」の範疇。「無」を前にしては児戯に等しい』
アルファ・オメガの姿が揺らぎ始めた。始まりと終わりを司る絶対的な存在でさえ、虚無の力には抗えないのか。
『だが――お前たちには可能性がある』
アルファ・オメガが最後の力を振り絞って、神と魔王を見つめた。
『入れ替わりを経験し、互いを理解した今のお前たちになら――』
その瞬間、アルファ・オメガの存在が崩壊し始めた。しかし、完全に消える前に、彼は最後の意志を神と魔王に託した。
## 神と魔王の決意
「アルファ・オメガ――」
アルテミスが手を伸ばしたが、既に遅かった。始まりと終わりの神は、光の粒子となって散っていく。
『頼む――世界を――』
最後の言葉を残して、アルファ・オメガは消滅した。
「クソッ!」
ベルゼバルが拳を握りしめた。自分たちを戦わせ続けた存在への怒りはあったが、それ以上に世界を守ろうとした意志に敬意を感じていた。
『感動的な最期だったな』
カオス・ニルの声に嘲りが込められた。
『だが、所詮は無駄な足掻き。お前たちとて同じ運命だ』
その時、ベルゼバルとアルテミスは視線を交わした。互いの身体で過ごした日々の記憶が、今こそ真の意味を持つ。
「行くぞ、アルテミス」
「ええ、ベルゼバル」
二人は同時に立ち上がった。
## 第一次攻撃の失敗
「全軍、出撃!」
ベルゼバルの号令と共に、魔界の軍勢が舞い上がった。数万の悪魔たちが、それぞれの得意とする破壊魔法を発動する。
「業火よ、燃え盛れ!」
「雷鳴よ、轟け!」
「暗黒よ、全てを飲み込め!」
同時に、アルテミスも天使の軍勢を率いて攻撃を開始した。
「聖なる光よ、闇を照らせ!」
「浄化の風よ、吹き荒れよ!」
「神聖なる力よ、悪を滅ぼせ!」
天界と魔界の全力攻撃が、虚無神に向かって放たれた。その威力は、大陸を消し飛ばすほどの破壊力だった。
しかし――
『児戯だな』
カオス・ニルが「呼吸」するだけで、全ての攻撃が消失した。炎も光も、雷も風も、すべてが最初から存在しなかったかのように無に帰した。
「馬鹿な――」
「そんなことが――」
神も魔王も、愕然とした。これほどまでに力の差があるとは。
『理解したか?お前たちの「ある」という概念では、「無い」を理解することすらできぬ』
その瞬間、虚無の波動が拡散した。最前線にいた天使と悪魔の半数が、悲鳴を上げる間もなく消失していく。
## 人間界の絶望
人間界でも、状況は絶望的だった。各地で黒魔法使いたちが魔王に祈りを捧げ、神官たちが神に救いを求めていたが、どちらの魔法も全く機能しなくなっていた。
「なぜだ!なぜ魔法が使えない!」
王都の魔法使いギルドでは、かつて強大な力を誇った大魔法使いたちが、絶望に顔を歪めていた。黒魔法の詠唱を完璧に行っても、魔王からの加護が届かない。
「神よ、なぜ我らをお見捨てになるのですか」
聖堂でも同様だった。神官たちの祈りは空しく響くだけで、神聖魔法は沈黙していた。
そんな中、一人の老人が静かに立ち上がった。
「皆よ、聞いてくれ」
それは、かつて賢者エルドラの弟子だった老魔法使い、セオドアだった。
「エルドラ様は最期に言われた。『真の力は、愛にある』と」
人々がセオドアを見つめる中、彼は続けた。
「神も魔王も、今は戦っておられる。ならば我らも――特定の存在ではなく、生きとし生けるもの全てのために祈ろう」
## 調和への気づき
「退避しろ!」
ベルゼバルとアルテミスは、残った軍勢に命令を下した。通常の攻撃では、被害を増やすだけだった。
『逃げるのか?』
カオス・ニルの嘲笑が響く。
『それが賢明だ。お前たちでは我には勝てぬ』
その時、人間界から微かな光が上がってきた。
「あれは――」
アルテミスが気づいた。
「人間たちの祈りね」
「だが、神にも魔王にも向けられていない」
ベルゼバルも同様に感じ取った。
「全ての存在への――愛?」
二人は同時に理解した。アルファ・オメガが言っていた「可能性」とは、これのことだったのだ。
## 真の調和の発動
「ベルゼバル」
「アルテミス」
二人は向かい合った。
「私たちが入れ替わりを経験したのは――」
「互いを理解するためだった」
「対立ではなく――」
「調和を学ぶために」
二人は手を取り合った。その瞬間、天界と魔界の境界が溶け始めた。
天使と悪魔の軍勢も、互いに手を差し伸べた。敵味方の区別を超えて、存在するもの同士が結びついていく。
『何をしている!』
カオス・ニルの声に、初めて動揺が混じった。
『対立こそが我が力の源!調和など――』
「調和こそが、真の力よ」
アルテミスとベルゼバルは、一つの声で答えた。
## 存在肯定の力
二人の力が融合し、新たなエネルギーが生まれた。それは破壊でも創造でもない。「存在を肯定する力」だった。
天使と悪魔が手を取り合い、人間たちの愛が加わり、三つの世界が一つの意志で結ばれた。
『馬鹿な!そんなことが可能なはずは――』
カオス・ニルの声が揺らぎ始めた。
虚無は、存在の対立から力を得る。しかし、存在同士が調和した時、虚無は力を得る術を失う。それどころか、調和した存在の前では、虚無もまた一つの「存在の形」として定義されてしまう。
「あなたも、存在の一部よ」
アルテミスが優しく語りかけた。
「虚無もまた、存在があるからこそ意味を持つ」
「破壊があるからこそ、創造の価値がわかる」
ベルゼバルも同様に語った。
「あなたは、存在の価値を教えてくれる大切な存在」
## 虚無神の変化
『我が――存在?』
カオス・ニルの声が変わり始めた。
『我は全てを否定する虚無なのに――なぜ肯定される?』
「否定があるからこそ、肯定の意味がある」
二人の声が重なった。
「あなたがいるからこそ、私たちは存在することの素晴らしさを知ることができる」
『そんな――そんなことが――』
虚無神の存在が揺らぎ始めた。自分が全てを否定する存在だと思っていたのに、逆に肯定されている。この矛盾が、虚無神の根幹を変えていた。
## 最終的な調和
『我は――何なのだ?』
カオス・ニルから、虚無の力が薄れていく。代わりに現れたのは、透明だが確かに存在する美しい姿だった。
「あなたは、バランスの神」
アルテミスが微笑みかけた。
「存在と虚無のバランスを保つ、大切な役割を持った存在」
『バランス――私が?』
新しい神となった存在は、自分の手を見つめた。透明だが、確かに存在している手を。
「これからは一緒に、世界を守っていきましょう」
ベルゼバルが手を差し伸べた。
『私も――仲間に?』
「もちろんよ」
アルテミスも同様に手を差し伸べた。
三人が手を取り合った時、三つの世界に新しい光が満ちた。それは対立を超えた、真の調和の光だった。
## 新世界の始まり
戦いが終わった後、世界は新しい姿を見せていた。
天界と魔界の境界は曖昧になり、天使と悪魔が自由に行き来できるようになった。対立ではなく、異なる価値観を持つ存在として、互いを尊重し合っていた。
人間界では、黒魔法と神聖魔法の区別がなくなった。代わりに「調和魔法」という新しい魔法が生まれ、愛と理解に基づく奇跡を起こすようになった。
そして、元虚無神は「ニルヴァーナ」という名前で、三つの世界のバランスを見守る新しい神として、静かにその役割を果たしていた。
## アルファ・オメガへの感謝
三人は、かつてアルファ・オメガが消えた場所を訪れた。
「ありがとう、アルファ・オメガ」
アルテミスが静かに語りかけた。
「あなたの導きがなければ、私たちは真の調和を知ることができなかった」
「千年の戦いは、確かに多くの犠牲を生んだ」
ベルゼバルが続けた。
「だが、その全てが今日の平和につながっている」
『アルファ・オメガ様の意志は、この世界に永遠に生き続けるでしょう』
ニルヴァーナの透明な声が、そよ風のように響いた。
三人は、消えた神への感謝を込めて、静かに祈りを捧げた。
## エピローグ
数日後、三つの世界では新しい祭りが始まっていた。
それは神を讃える祭りでも、魔王を崇める祭りでもない。存在することの喜びを祝う、「調和祭」だった。
天使と悪魔が共に踊り、人間たちが笑顔で手を取り合い、新しい神ニルヴァーナがその全てを見守っている。
「美しい光景ね」
アルテミスが微笑んだ。
「ああ。これが本当の平和というものか」
ベルゼバルも同感だった。
『皆が幸せそうで、私も嬉しいです』
ニルヴァーナの声にも、温かみが宿っていた。
遠くで、子どもたちが歌っている。それは新しい世界の讃美歌だった。
「存在することは素晴らしい
愛することは美しい
違いを認め合い
共に歩んでいこう」
三つの世界に、真の平和が訪れた。
対立を乗り越え、調和を学び、愛を知った存在たちによる、新しい時代の始まりだった。