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第2章 困惑の目覚め❨魔界❩


## 魔界・玄武の間


意識が戻ったとき、アルテミスは自分が見知らぬ天井を見上げていることに気づいた。


それは天界の純白の大理石でも、柔らかな雲の天井でもなく、血のように赤い石材で組まれた、威圧感に満ちた巨大なアーチ状の構造物だった。天井に刻まれた浮き彫りは、翼を持つ悪魔たちが人間を踏みつけている光景で、その目には真紅のルビーが嵌め込まれ、まるで生きているかのように見下ろしてくる。


「これは...一体...」


声を発しようとして、アルテミスは愕然とした。自分の声ではない。低く、威厳に満ち、聞く者の魂を震わせる、あの憎き魔王ベルゼバルの声が自分の喉から響いたのだ。


慌てて身を起こそうとして、異変は決定的となった。自分の手が、見慣れた白い肌ではなく、浅黒く、指の関節には古代魔法文字の刺青が刻まれている。爪は漆黒で、まるで刃物のように鋭く研がれていた。


「何と...何ということだ...」


震える手で自分の顔に触れると、そこには見知らぬ輪郭があった。天界で鏡に映していた自分の端正で穏やかな顔立ちではなく、彫りが深く、高い頬骨と鋭い顎のライン。額には二本の角が生えており、触れると確かな質量と重みを感じる。


「魔王...魔王の身体に...」


混乱の中、記憶が蘇ってきた。天魔大戦での激突。あの瞬間、世界が白い光に包まれ、そして...


「ベルゼバル!」


アルテミスは叫んだ。しかし、返事はない。代わりに、重厚な扉が音を立てて開かれた。


現れたのは三体の上級悪魔だった。先頭を歩くのは、全身が黒い鱗で覆われた竜人の悪魔。その後ろには、四本の腕を持つ女性型の悪魔と、山羊の頭を持つ巨躯の悪魔が続く。


「我が主よ」


竜人の悪魔が片膝をついて頭を下げた。声は嗄れており、まるで岩が擦れ合うような響きを持っている。


「お目覚めになられましたか。戦いの後、三日三晩も眠り続けておられましたので、我々は心配しておりました」


三日。アルテミスは愕然とした。天界では今頃、自分の不在が大問題になっているはずだ。


「私は...」


言いかけて、アルテミスは言葉を飲み込んだ。この身体が魔王ベルゼバルのものであることを悟られるわけにはいかない。少なくとも、状況を把握するまでは。


「私は...無事だ」


「もちろんです、我が主」


竜人の悪魔―アルテミスは魔界の情報から、彼が魔王の右腕である上級悪魔グリモアであることを思い出した―が立ち上がった。


「しかし、戦いの影響でしょうか。何かお加減でも悪いのですか?いつもの我が主でしたら、目覚めるなり天界への報復を命じておられるはずですが」


アルテミスは内心で震え上がった。報復?天界への?


「...報復とな?」


「はい。あの忌々しい神アルテミスめ、我が主に対して卑怯な罠を仕掛けてきました。今度こそ完全に叩き潰してやりましょう。我々は既に軍の準備を整えております」


グリモアの目が血に染まったように赤く輝いた。その瞳に映る憎悪と殺意の激しさに、アルテミスは思わず後ずさりした。


「い、いや...それは...」


「我が主?」


四本腕の女性悪魔が疑問の声を上げた。彼女はベルフェゴールといい、魔界の軍略を司る将軍だった。


「いつもの我が主でしたら、『アルテミスの首を持ってこい』と仰るはずですが...」


アルテミスの血が凍った。自分自身の首を持ってこいと?


「それに」


山羊頭の悪魔アモンが低く唸るような声で言った。


「我が主の魔力の波動が...いつもと違います。まるで...」


「まるで?」


「まるで、聖なる力が混じっているような...」


三体の悪魔の視線が一斉にアルテミスに集中した。疑念と警戒の色が濃くなっていく。


アルテミスは必死に考えた。ここで正体がばれれば、間違いなく殺される。魔界の掟は弱肉強食。敵に身体を乗っ取られた弱い王など、部下にとって何の価値もない。


「...私は無事だ」


アルテミスは努めて低い声で言った。ベルゼバルの話し方を思い出しながら。


「戦いで...多少の影響は受けたが、それだけのことだ。報復については...」


言葉に詰まった。嘘をつくことができない。それは神としての性質であり、魔王の身体になってもなお変わらない本質だった。


「については...時を見て決める」


「時を見て?」


グリモアが怪訝な表情を浮かべた。


「我が主、アルテミスは我々の不倶戴天の敵。一刻も早く滅ぼすべきです。なぜ躊躇なさるのですか?」


アルテミスは苦しんだ。目の前の悪魔たちは、確かに恐ろしい存在だった。しかし、彼らの魔王への忠誠心は本物だった。ベルゼバルのために命を捧げる覚悟すら感じられる。


そんな部下たちに嘘をつき続けることの罪深さに、アルテミスの心は痛んだ。


「...私には私の考えがある」


「しかし我が主—」


「黙れ」


思わず声を荒げてしまい、アルテミスは慌てた。しかし、三体の悪魔は即座に沈黙し、頭を垂れた。


魔王の威厳とはこういうものなのか、とアルテミスは複雑な気持ちになった。


「下がれ。私は一人で考えたい」


「承知いたしました」


三体の悪魔は深々と頭を下げ、後ずさりしながら部屋を出て行った。扉が閉まる寸前、グリモアが振り返った。


「我が主...もし何かお困りのことがございましたら、何なりとお申し付けください。我々は永遠に我が主の忠実なる僕でございます」


扉が閉まった。


アルテミスは膝から崩れ落ちた。


「どうすれば...どうすればよいのだ...」


## 魔界の現実


一人になったアルテミスは、まず自分の置かれた状況を把握しようと決めた。立ち上がり、部屋を見回す。


これは魔王の私室らしく、巨大な空間に豪奢な調度品が並んでいた。しかし、その豪華さは天界のそれとは質が違う。天界の美しさが調和と純粋さを表現するのに対し、ここの装飾は力と支配を誇示するためのものだった。


壁には無数の武器が飾られ、その一つ一つが強大な魔力を宿している。床には魔界の地図が描かれた巨大な絨毯が敷かれ、そこには赤い印で魔王軍の勢力範囲が示されていた。


窓に近づくと、魔界の風景が一望できた。


「これが...魔界...」


天界から見下ろしていた時とは、全く違う光景だった。


確かに溶岩と業火の大地ではあるが、そこには生命があった。遠くに見える街では、様々な種族の悪魔たちが行き交っている。子供らしき小さな悪魔が走り回り、商人たちが品物を並べ、職人が火を使って何かを鍛えている。


まるで人間界の街のような、日常の営みがそこにはあった。


「悪魔にも...日常があるのか...」


アルテミスは驚いた。天界にいる時、魔界の住人は皆、殺戮と破壊しか考えていない怪物だと思っていた。しかし、窓から見える光景は、確かに異なる文化と価値観を持ちながらも、一つの社会を形成している人々の姿だった。


その時、部屋の扉が再び開かれた。


「失礼いたします、我が主」


現れたのは、先ほどとは違う悪魔だった。小柄で、人間の老人のような外見をしているが、額には小さな角が生え、背中には蝙蝠のような翼が折り畳まれている。


「私はバラム、魔界の内政を司る者です。我が主がお目覚めになったとお聞きし、急いで参りました」


「内政...」


「はい。実は、緊急にご相談したいことがございます」


バラムは分厚い書類の束を抱えていた。


「第七地区で飢饉が発生しております。火山の噴火により、農地が壊滅的な被害を受けました」


「飢饉...」


アルテミスは驚いた。魔界にも農業があるのか。


「はい。約十万の魔族が食糧不足に陥っております。このままでは暴動が起きかねません」


「暴動...それは大変だ」


「我が主?」


バラムが困惑した表情を浮かべた。


「いつもの我が主でしたら、『弱い者は死ね』と仰るのですが...」


アルテミスは愕然とした。十万もの命が飢えに苦しんでいるのに、見捨てろと?


「それは...」


「もちろん、我が主のお考えは理解しております。弱い者を淘汰することで、魔界全体が強くなる。それが魔界の掟です」


「しかし」


アルテミスは思わず言った。


「十万もの魔族が死ねば、魔界の国力も低下するのではないか?」


バラムの目が見開かれた。


「我が主...まさか、救済をお考えですか?」


「救済...」


言葉に詰まった。神として、困っている者を救うのは当然のことだった。しかし、ここは魔界。自分は魔王の身体にいる。


「...どのような方法がある?」


「え?」


バラムは完全に混乱していた。


「我が主が...救済の方法をお尋ねに?」


「答えろ」


「は、はい。備蓄倉庫から食糧を分配する方法がございます。ただし、それには魔王の許可が必要で...」


「許可する」


即答だった。


「し、しかし我が主、それでは魔界の掟に反します。弱い者を救えば、魔族は軟弱になり—」


「構わん」


アルテミスは立ち上がった。魔王の身体は大きく、立ち上がるだけでバラムを威圧した。


「十万の魔族を見殺しにして、それで魔界が強くなるというのか?死んだ者は何も生み出さない。生きていてこそ、強くなることもできる」


バラムは呆然としていた。


「我が主...本当に我が主ですか?」


その問いに、アルテミスは答えることができなかった。


## 夜の訪問者


その夜、アルテミスは眠ることができずにいた。魔王の寝室は豪華だったが、どこか居心地が悪い。天界の自分の部屋の、あの純白で静謐な空間が恋しかった。


窓の外では、魔界の月が不気味な赤い光を放っている。その光に照らされた街並みは、昼間見た活気あるものとは違い、どこか陰鬱だった。


コンコン。


軽いノック音が聞こえた。


「誰だ?」


「失礼いたします、我が主。グリモアでございます」


先ほどの竜人の悪魔の声だった。アルテミスは身構えた。


「入れ」


扉が開き、グリモアが現れた。しかし、昼間の威圧的な態度とは打って変わって、どこか憂いを帯びた表情をしている。


「我が主、お休みの最中に申し訳ございません」


「構わん。何用だ?」


グリモアは少し躊躇してから、口を開いた。


「我が主...率直にお尋ねします。今日のあなたは、いつもの我が主とは違います。何かあったのですか?」


アルテミスの心臓が跳ね上がった。やはり気づかれていたか。


「何のことだ?」


「飢餓の件です。いつもの我が主でしたら、『弱い者は死ね』の一言で終わりです。それが今日は、救済を命じられた」


グリモアはアルテミスに近づいた。


「そして、天界への報復についても煮え切らない。まるで...まるで戦うことを躊躇しておられるような」


「それは—」


「我が主」


グリモアが跪いた。


「もしも、もしも我が主に何か異変が起こっているのでしたら、この忠実なるグリモアにお聞かせください。我が主のためなら、この命も惜しくはございません」


その真摯な眼差しに、アルテミスは心を打たれた。この悪魔は、確かに魔王を慕っている。純粋な忠誠心を持っている。


「グリモア...」


「はい」


「お前は...魔王である私を、なぜそこまで慕うのだ?」


グリモアは驚いた表情を浮かべた。


「なぜって...」


少し考えてから、彼は答えた。


「我が主は、確かに厳しい方です。弱い者には容赦がない。しかし、それは魔界のためです。この弱肉強食の世界で生き抜くために、我々を強くしてくださる」


「強く...」


「はい。我が主は、決して部下を見捨てません。強い者には相応の地位を与え、弱い者には強くなる機会を与える。そして何より...」


グリモアの声が震えた。


「我が主は、魔界を愛しておられる。この荒廃した土地を、この醜い我々を、それでも愛してくださっている」


アルテミスは息を呑んだ。


「愛...だと?」


「はい。我が主の愛は、天界の神々のような甘やかしではありません。厳しく、時には残酷ですが、それは真実の愛です。我々を本当に強くするための愛です」


アルテミスは混乱した。ベルゼバルが?あの冷酷な魔王が?愛のために?


「私は...」


「我が主、もしも何かお困りのことがございましたら、必ずお聞かせください。たとえそれがどんなに恥ずかしいことであっても、どんなに不名誉なことであっても、この忠実なるグリモアは我が主をお見捨てしません」


その言葉に、アルテミスの心は大きく動いた。


真実を話すべきか?


しかし、もしも正体がばれれば...


「グリモア」


「はい」


「もしも...もしもだが、私が魔王ベルゼバルではなかったら、お前はどうする?」


グリモアは長い間沈黙していた。そして、ゆっくりと顔を上げた。


「我が主がどなたであろうと、今、ここで魔界のことを真剣に考えてくださっている方であれば、このグリモアは忠誠を誓います」


「たとえ...たとえそれが神であっても?」


「神...」


グリモアの表情が変わった。しかし、それは憎悪ではなく、深い悲しみだった。


「もしも、もしも神が魔界を救おうとしてくださるなら...この愚かなるグリモアは、その神を崇めるでしょう」


## 魔界の朝


翌朝、アルテミスは早く目を覚ました。魔王の身体は思っていたより体力があり、短い睡眠でも十分だった。


窓の外では、魔界の朝が始まっている。赤い太陽が地平線から昇り、街に活気が戻ってきた。


昨夜のグリモアとの会話が頭から離れない。魔王ベルゼバルへの忠誠、そして魔界への愛。それは確かに本物だった。


コンコン。


またノック音が聞こえた。


「入れ」


現れたのはバラムだった。昨日よりも表情が明るい。


「我が主、おはようございます。昨日の件、ありがとうございました」


「何のことだ?」


「飢餓の件です。食糧の配給が始まりました。十万の魔族が救われました」


「それは...良かった」


「ただ」


バラムの表情が曇った。


「一部の上級悪魔たちから、不満の声が上がっております」


「不満?」


「はい。『魔王が軟弱になった』『これでは魔界の威厳が保てない』と」


アルテミスは苦い気持ちになった。良いことをしたつもりなのに、批判される。


「しかし」


バラムが続けた。


「救われた魔族たちは、我が主への忠誠を新たにしております。『こんなに慈悲深い魔王様は初めてだ』と」


「慈悲深い...」


「はい。今までの我が主は...失礼ですが、恐怖で支配しておられました。しかし、昨日の我が主は違った。慈悲を持って統治された」


その時、部屋の扉が勢いよく開かれた。


「我が主!」


現れたのはベルフェゴールだった。四本の腕を持つ女性悪魔は、明らかに動揺している。


「大変です!天界の動きが異常です!」


「天界の?」


「はい!神アルテミスが姿を消しました!三日前から行方不明です!」


アルテミスは心の中で安堵した。やはり天界でも異変が起こっている。ということは、ベルゼバルも同じような状況にいるのだろう。


「そして」


ベルフェゴールが続けた。


「天界の軍勢が動き始めています。どうやら、我が主を討伐しに来るようです」


「討伐...」


「はい。神アルテミスが消えたのは、我が主との戦いの影響だと考えているようです。天使たちは激怒しています」


アルテミスは青ざめた。天界の軍勢が攻めてくる?しかし、今の自分には戦う意思がない。


「我が主」


グリモアが現れた。


「迎撃の準備を整えましょう。魔界の全軍を動員すれば—」


「待て」


アルテミスは手を上げた。


「戦いを避ける方法はないか?」


三体の悪魔は呆然とした。


「我が主...戦いを避ける?」


「天界軍が攻めてくるのに?」


「そんなことをすれば、我が主の威厳が—」


「構わん」


アルテミスは立ち上がった。


「私は...私はもう戦いたくない」


その瞬間、部屋に沈黙が落ちた。


「我が主...」


グリモアが震え声で言った。


「まさか...病気でも?」


「病気ではない」


アルテミスは窓の外を見つめた。


「ただ...戦いが全ての解決策ではないということを、理解したのだ」


「しかし我が主、天界軍は既に—」


「分かっている」


アルテミスは振り返った。


「だからこそ、他の方法を考えるのだ。グリモア、お前は魔界を愛していると言った。ならば、魔界の民を無意味な戦いで死なせたくはないだろう?」


グリモアは答えることができなかった。


「我が主の仰る通りです...しかし、どうすれば...」


「それを考えるのだ。戦わずして、この問題を解決する方法を」


## 真実への道


その日の午後、アルテミスは一人で魔界の街を歩いた。魔王の外見では目立つため、フードで顔を隠している。


街では、昨日配給された食糧のおかげで、人々の表情が明るくなっていた。子供たちが笑い、商人たちが活気よく商売をしている。


「ねえ、聞いた?魔王様が食糧をくれたんだって」


「本当?あの恐ろしい魔王様が?」


「うん。今度の魔王様は優しいんだって」


そんな会話が聞こえてきて、アルテミスは複雑な気持ちになった。


魔界の隅にある小さな神殿に足を向けた。そこは、魔界では珍しい平和の神を祀った場所だった。


神殿の中には、一人の老いた悪魔がいた。彼は魔界では珍しく、争いを好まない平和主義者として知られていた。


「どなたですか?」


老悪魔が振り返った。アルテミスはフードを取った。


「!魔王様...」


「静かに。私はここに祈りに来た」


「祈り...ですか?」


老悪魔は困惑した。


「魔王様が祈りに?」


「おかしいか?」


「いえ...ただ、魔王様が平和の神に祈られるとは...」


アルテミスは祭壇の前に跪いた。


「私は...迷っている。戦うべきか、平和を求めるべきか」


老悪魔は驚いた。


「魔王様が...迷いを?」


「人は変わることができるのか?悪魔も変わることができるのか?」


「もちろんです」


老悪魔は確信を持って答えた。


「心があるなら、誰でも変わることができます。たとえそれが神であっても、悪魔であっても」


その言葉に、アルテミスは希望を感じた。


「ありがとう」


神殿を出ると、夕日が魔界を赤く染めていた。しかし、その赤さは血の色ではなく、温かい光のように見えた。


## 決断の時


魔王城に戻ると、緊急事態が待っていた。


「我が主!」


ベルフェゴールが駆け寄ってきた。


「天界軍が魔界の境界に現れました!明日の朝には、ここに到達します!」


「そうか...」


アルテミスは意外にも冷静だった。


「軍議を開け。全ての上級悪魔を集めろ」


「はい!」


一時間後、魔王城の大広間に魔界の幹部たちが集まった。グリモア、ベルフェゴール、アモン、バラム、そして他の上級悪魔たち。


「諸君」


アルテミスは玉座に座り、全員を見回した。


「天界軍が攻めてくる。しかし、私は戦いを避けたい」


ざわめきが広がった。


「我が主、それは無理です」


「天界軍は我が主の首を狙っています」


「戦わなければ、魔界が滅びます」


アルテミスは手を上げ、静寂を求めた。


「聞け。私は諸君に嘘をついていた」


一同が息を呑んだ。


「私は...魔王ベルゼバルではない」


衝撃が走った。数人の悪魔が立ち上がり、武器に手をかけた。


「私は神アルテミスだ。あの戦いで、魔王と魂が入れ替わった」


完全な沈黙が落ちた。


「だから、私は戦えない。なぜなら、あちらにいるのは私の身体を持つベルゼバルだからだ。そして、私は魔界の民を愛するようになったからだ」


「愛...だと?」


グリモアが震え声で言った。


「そうだ。この二日間で、私は学んだ。魔界の民も、天界の民も、同じように愛され、守られるべき存在だということを」


アルテミスは立ち上がった。


「私は神として、そして今、魔王として宣言する。天界と魔界の戦いを終わらせる。そのために、私は自分の身を犠牲にしてもかまわない」


長い沈黙の後、グリモアが跪いた。


「我が主...いえ、神アルテミス様。あなたが神であろうと悪魔であろうと、私はあなたに従います。あなたこそ、真の王です」


一人、また一人と、悪魔たちが跪いていく。


「我々も従います」


ベルフェゴールが四本の腕を胸に当てて誓った。


「あなたは二日間で、魔界に真の変革をもたらしました」


アモンも重々しく頷いた。


「弱者を救い、平和を求める。それは魔界が忘れていた道です」


バラムが涙を流していた。


「神様...あなたこそ、我々が待ち望んでいた真の指導者です」


しかし、一部の上級悪魔は納得できずにいた。


「馬鹿な!神に従うなど、悪魔の恥だ!」


「我々は戦うべきだ!天界を滅ぼすべきだ!」


反対派の悪魔たちが剣を抜いた。一触即発の空気が流れる。


「待て」


アルテミスが静かに言った。


「諸君の気持ちは分かる。私も最初はそう思っていた。しかし、憎しみでは何も生まれない。愛こそが、真の力なのだ」


「綺麗事を!」


一人の悪魔が襲いかかった。しかし、グリモアが立ちはだかった。


「我が主に刃を向ける者は、このグリモアが相手だ」


「グリモア、お前まで神に洗脳されたか!」


「洗脳ではない」


グリモアは静かに答えた。


「目が覚めたのだ。真の強さとは何か、真の王とは何かが分かったのだ」


戦いが始まろうとした時、大広間の扉が開かれた。


「止めろ、全員」


現れたのは、見知らぬ人物だった。白い髪、金色の瞳、そして神々しいオーラを纏った人物。しかし、その身体からは確かに魔王の力を感じる。


「ベルゼバル...」


アルテミスは息を呑んだ。自分の身体を持つ魔王がそこにいた。


「久しぶりだな、アルテミス」


ベルゼバルは皮肉っぽく笑った。


「天界でも、なかなか興味深い体験をさせてもらった。お前の部下たちは、お前以上に堅物だった」


「天界で何があった?」


「お前と同じようなことだ。最初は戸惑い、次に理解し、そして...」


ベルゼバルは複雑な表情を浮かべた。


「そして、天界にも問題があることを知った」


「問題?」


「天使たちの中にも、戦いを望む者がいる。お前の失踪を良いことに、魔界への総攻撃を主張している」


アルテミスは愕然とした。


「そんな...」


「お前がいない間、天界は分裂状態だ。平和派と強硬派に分かれて、内紛寸前だ」


「それで、お前はここに?」


「この状況を収拾するためだ」


ベルゼバルは魔界の悪魔たちを見回した。


「聞け、魔界の者たち。私が真の魔王ベルゼバルだ」


悪魔たちがざわめいた。


「この二日間、お前たちはアルテミスに従った。そして、魔界は良い方向に変わった」


「我が主...」


グリモアが困惑した。


「私は認める。アルテミスの統治は、私以上に優秀だった」


会場に驚きの声が上がった。


「魔王が神を称賛するなど...」


「しかし、これが現実だ」


ベルゼバルはアルテミスに向き直った。


「お前は魔界で何を学んだ?」


「...愛だ」


アルテミスは答えた。


「厳しさの中にある愛。強さの中にある慈悲。そして、指導者としての責任を」


「そうか。私は天界で何を学んだと思う?」


「...分からない」


「謙虚さだ」


ベルゼバルは苦笑した。


「完璧だと思っていた天界にも、問題があった。綺麗事だけでは解決できない現実があった。そして...」


言葉を切って、彼は続けた。


「お前の部下たちの、お前への愛の深さを知った」


## 新たな契約


「では、我々はどうすべきか?」


アルテミスが問いかけた。


「元に戻るか?それとも...」


「戻ることはできる」


ベルゼバルは答えた。


「賢者エルドラから方法を聞いた。しかし...」


「しかし?」


「戻ったところで、同じ問題が残る。天界と魔界の対立、互いへの憎しみ、そして...」


ベルゼバルは悪魔たちを見た。


「そして、変化への恐れだ」


グリモアが前に出た。


「我が主...いえ、お二方。我々はどちらに従えばよいのですか?」


「それは自分で決めろ」


ベルゼバルが答えた。


「ただし、どちらを選んでも、もう昔のような対立は続けられない」


「なぜです?」


「お前たちが変わったからだ。そして、我々も変わった」


アルテミスが頷いた。


「この二日間で、私は魔界の美しさを知った。そして、ベルゼバルは天界の問題を知った」


「美しさ?魔界の?」


ベルフェゴールが驚いた。


「そうだ。お前たちの忠誠心、仲間への愛、そして家族への愛。それは天界のそれと何も変わらない」


「では、どうするのですか?」


バラムが不安そうに聞いた。


「新しい関係を築く」


アルテミスとベルゼバルが同時に答えた。


「対立ではなく、協力を」


「憎しみではなく、理解を」


「破壊ではなく、創造を」


二人は互いを見つめ合った。


「我々は敵ではなかった」


アルテミスが言った。


「ただ、互いを理解していなかっただけだ」


「お前の理想主義と、俺の現実主義」


ベルゼバルが続けた。


「それは対立するものではなく、補完するものだったのかもしれない」


その時、大広間の窓から、天界軍の光が見えた。


「来たか」


ベルゼバルが呟いた。


「ああ。しかし、今度は戦いではない」


アルテミスが立ち上がった。


「今度は話し合いだ」


「諸君」


アルテミスは悪魔たちに向かって言った。


「私たちと一緒に来てくれるか?新しい世界を築くために」


「もちろんです」


グリモアが即答した。


「我々はどこまでもお供します」


他の悪魔たちも次々に頷いた。


「では、行こう」


ベルゼバルが歩き始めた。


「新しい歴史を作りに」


## 境界にて


魔界と天界の境界で、二つの軍勢が対峙していた。


天界軍を率いるのは大天使ミカエル。彼の後ろには、純白の鎧に身を包んだ天使たちが整然と並んでいる。


対する魔界軍は、グリモアを筆頭とした上級悪魔たち。しかし、いつもの殺気立った雰囲気とは違い、むしろ静謐さが感じられた。


「アルテミス!」


ミカエルが叫んだ。


「ついに現れたか、卑怯者め!魔王と結託して、何を企んでいる!」


「ミカエル」


アルテミス(魔王の身体)が前に出た。


「私は卑怯者ではない。そして、企んでもいない」


「嘘を!お前の失踪で天界は大混乱だ!責任を取れ!」


「責任なら取る」


ベルゼバル(神の身体)が現れた。


「しかし、お前たちが考えているような形ではない」


天使たちがざわめいた。


「あれは...神アルテミス様の身体...」


「しかし、魔王の力を感じる...」


「いったい何が...」


ミカエルは混乱していた。


「魔王ベルゼバル...まさか、アルテミス様を...」


「殺してはいない」


ベルゼバルが答えた。


「ただ、互いの立場を体験しただけだ」


「体験?何を言っている?」


「説明しよう」


アルテミスが前に出た。


そして、この二日間の出来事を詳しく説明した。魂の入れ替わり、魔界での体験、そして学んだこと。


天使たちは呆然としていた。


「そんな馬鹿な...」


「神様が魔界を...愛する?」


「信じられない...」


しかし、ミカエルは鋭い眼差しでアルテミスを見つめていた。


「証明してみせろ」


「何を?」


「お前が本当にアルテミス様だということを」


アルテミスは微笑んだ。


「ミカエル、お前が初めて天界に来た日のことを覚えているか?」


「...」


「お前は道に迷って、泣いていた。私がお前を見つけて、手を差し伸べた。そして、お前は言った。『僕も神様のように、みんなを守りたい』と」


ミカエルの目に涙が浮かんだ。


「アルテミス様...本当にあなたですか?」


「ああ。しかし、私は変わった。この二日間で、多くのことを学んだ」


「学んだ?魔界で何を?」


「愛にも様々な形があるということを。厳しさも愛。優しさも愛。そして、真の平和は、一方的な勝利ではなく、互いの理解から生まれるということを」


アルテミスは振り返り、魔界軍を見た。


「この者たちは敵ではない。ただ、異なる価値観を持つ隣人だ」


「隣人...」


ミカエルは困惑した。


「悪魔が隣人?」


「そうだ。そして、我々にも学ぶべきことがある」


ベルゼバルが口を開いた。


「天界にも問題がある、ミカエル。お前たちは完璧だと思っているが、実際は違う」


「何だと?」


「偏見だ。魔界への偏見、変化への恐れ、そして...自分たちこそが正義だという傲慢さ」


ミカエルは反発しようとしたが、言葉が出なかった。


「我々は新しい道を提案したい」


アルテミスが続けた。


「天界と魔界、そして人間界の三界が協力する道を」


「協力?」


「そうだ。互いの長所を活かし、短所を補い合う。それが真の調和だ」


グリモアが前に出た。


「大天使ミカエル殿、我々も同感です」


「貴様が?」


「はい。この二日間、神アルテミス様の統治を見て、学びました。力だけでは何も生まれない。愛があってこそ、真の強さが生まれるのです」


他の悪魔たちも頷いた。


「我々は変わりたいのです」


「より良い存在になりたいのです」


「天界の皆様と、友になりたいのです」


天使たちは動揺していた。これまでの敵が、友になりたいと言っている。


「ミカエル」


アルテミスが手を差し伸べた。


「私たちと一緒に、新しい世界を築かないか?」


ミカエルは長い間迷っていた。そして、ゆっくりとアルテミスの手を取った。


「...分かりました、アルテミス様。あなたを信じます」


その瞬間、空に虹がかかった。三界を結ぶ、美しい虹が。


## エピローグ:新たな始まり


それから一年が経った。


天界と魔界の関係は劇的に変化していた。定期的な交流が始まり、互いの文化を学び合うようになった。


魔界では、アルテミスの改革が続いていた。弱者救済制度、教育制度、医療制度。多くの革新が行われ、魔界の生活は大きく改善された。


天界では、ベルゼバルの現実的な政策が取り入れられていた。完璧主義の見直し、効率的な運営、そして魔界への理解促進。


そして、人間界では、神と悪魔が協力する奇跡が頻繁に起こるようになった。


アルテミスとベルゼバルは、月に一度、境界で会合を持っていた。


「どうだ、調子は?」


ベルゼバルが聞いた。彼らは元の身体に戻っていたが、心の変化は残っていた。


「順調だ。魔界の発展は目覚ましい。そちらは?」


「天界も変わった。以前より活気がある」


二人は満足そうに微笑んだ。


「あの時、魂が入れ替わったのは偶然だったのだろうか?」


アルテミスが呟いた。


「偶然かもしれないし、必然かもしれない」


ベルゼバルが答えた。


「ただ、あれがなければ、我々は永遠に敵同士だっただろう」


「そうだな。今思えば、愚かなことだった」


「しかし、それも必要な過程だったのかもしれない。対立があったからこそ、和解の価値が分かった」


空を見上げると、三界を結ぶ虹が今日も美しく輝いていた。


「これからも、この関係を大切にしていこう」


「ああ。我々の友情が、三界の平和の礎となるように」


二人は固く握手を交わした。


かつて不倶戴天の敵同士だった神と魔王が、今では最良の友として、新しい世界の建設に励んでいた。


そして、魔界の街では、今日も子供たちの笑い声が響いている。


「お母さん、アルテミス様と魔王様は、本当に友達なの?」


「そうよ。とても仲良しなの」


「すごいね。僕も天使さんと友達になりたいな」


「きっとなれるわ。今の世界では、みんなが友達になれるのよ」


新しい時代が始まっていた。愛と理解に基づく、真の調和の時代が。



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