たっちゃん
<つくしの子>
ーやだ、やだ、やあだー
「やだってばあ」
平屋建ての官舎の隣にある雑貨屋の軒先。黄色い電話から幼稚園へ電話を掛けている母親のエプロンを僕はぐいぐい引っ張って、駄々をこねる。母親は僕の手を振り払い、話しを続ける。
「では、来週から通わせますので、よろしくお願いします」
受話器が置かれて、黄色い電話の下にジャラリと十円玉が落ちてきた。
「来週の月曜日から幼稚園、行くのよ」
「やだ、やだ、やあだ」
「ダメ。家にいるといたずらばっかりしているでしょ。悪いことばっかりしている子、お母さんは手におえません」
月曜日になった。赤いスモックを被せられてベージュのタイツを履かされた僕は、母親に幼稚園へ引きずられて行った。官舎を出て左に曲がると「さら」と書かれた店が2つ、並んでいる。少し薄暗くて、ひんやりとしている。
「ねえ。この『さら』って、なんのお店なの」
「子供には、関係ないの」
「さら」という看板のお店は大人だけにしか分からない、子供には謎のお店らしい。そのまま、緑地帯に挟まれた広い路を進む。やがて、小さいけれど朱色と白に塗り分けられた小さなドームが左に現れた。『この街にこんな建物、あったかな』と思っていると、母親は手入れの行き届いた植え込みの門を通り、その建物に向かっていく。
母親が入園の手続きをしている間、僕は窓の外で朝露に濡れて光っている色とりどりのチューリップを見ていた。オルガンの音が聞こえている。
「ではこの子、お願い致します。やんちゃで手に負えないかもしれませんが。ピシピシ叱ってください」
そう言い残して、母親は帰って行ってしまった。
「たつやくんだから、たっちゃんて呼んでいいかしら」
今日から担任になると紹介された、丸顔の先生が言う。
「はい」
「よかった。じゃあ、今日からゆり組のたっちゃんね。先生の名前は、ヒビね」
「へび?」
「ちがうちがう。ヒビ。ヒビ先生って呼んでね。ゆみこ先生でもいいわよ」
「はい」
ヒビ先生に手を引かれて、ツルツルに磨かれた廊下を通り教室へ連れて行かれる。魚が焼けるにおいが漂っている。もうすぐお昼だった。
「たっちゃん、明日も遊ぼうね」
「うん」
気が付くと、幼稚園最初の1日が終わっていた。母親に重い足を引きづられてやって来たことなどケロリと忘れ、官舎の玄関を開けた。
「ちゃんと、帰ってきたみたいね。楽しかった」
「うん」
玄関から上がろうとすると、ドアが開いた。
「たっちゃん、あそぼ」
同じ教室の子が4人、立っている。
「あら、もうおともだちできたのね」
嬉しそうに言う母親。向かいの小学校の校庭で遊んで帰る頃には、とっぷりと暮れていた。