1-11 3歳になった
マッツァナンが作れるようになって、大公家では焼マッツァがすべて置き換わった。
クレープの時は、みっちりねっちりした感じの焼き上がりになるために、冷めるとゴムっぽい食感になっちゃって美味しくなかったんだけど、マッツァナンだと多少膨らんでいるし風味もあるから、冷めても普通に食べられるのだ。
作り置きができるということで、カンナもジョーンも負担が減ったらしい。
負担と言えば、やはり乾燥マッツァを粉にするのは、多くの人にとって重労働だったみたい。ジョーンは何でもない事のように言っていたけど、みんながみんな、あんな親仇復讐道路工事みたいなこと、出来るわけないもんね。あれは普通に死ぬから。
なので、おろし金は画期的な道具扱い……実際作ったのはドン爺なんだけど……
だから、今までジョーンが焼マッツァを焼いて料理することが多かったらしいんだけど、今はカンナも結構な頻度で大公家の食事を作ってる。ジョーンが自宅にいる時間を少しでも延ばせるように。子供いるらしいからね。
ジョーンと言えば、マッツァナンが世に出たあと、興奮して実家で話したらしく、その実家の準男爵家経由で、南の村にもマッツァナンが広がったらしい。職人たちの村だし、冷めても手軽に食べられて作り置きもできるし、とても重宝するって。南の村は鋳造や鍛冶をしているから、熱源があるもんね。公都では焼けないけど、南の村だと調理可能だったから、以前から焼マッツァは食べられてたみたい……
だからお祖父さまが許可して、南の村でもマッツァナンが作られ始めた。でも、南の村だと公都より酵母の増殖に時間がかかるらしく、時々大公家から元気な酵母種を持って行ってるみたいだ。南は魔力がほとんど無いからだよねぇ、多分。
その大公家の酵母種は継ぎ足しだけでガバガバ増えていくから、今のところ新たにレーズンは使用せずに済んでいる。
ということで、3歳になったことだし!
そろそろ南の村へ行ってみたい。
***
「母上~」
「どうしたの? また散歩?」
「うん、散歩……かな? ある意味」
「なあに? 何か言いにくいことなの?」
「うーん……言いにくいっていうか、迷惑かける事……かな?」
「ミチイルが迷惑になることなんて、ある訳ないじゃないの。何も気にせず、いくらでも好きなことなさい。誰も何も言わないし、皆ものすごく協力してくれるはずよ」
「そ、そうかな」
「もちろんよ。少なくともアタシーノ公国内でなら、何でも好きにしていいわ。むしろ好きにやってちょうだい! マッツァナンもオロシガーネも、どれだけ皆の助けになっていることか」
「うん。じゃ、迷わず好きなようにやっちゃうね~」
「で? 何がしたいのかしら?」
「うんとね~、南の村に行きたい」
「そうねぇ、まだ3歳だから自分の足では歩いていけないだろうし……いいわ。少しお父様と相談するから、何日か待ってくれる?」
「うん! ありがと~母上」
***
「ねぇアイちゃん」
『はい』
「今まで深くは考えてなかったけどさ、この世界の言葉って、日本語じゃないよね?」
『もちろんでございます。ですが、女神の権能によって、救い主様は言葉に不自由することはございません。誰とでもお話することができます』
「じゃあさ、僕は知ってる言葉だけど、この世界に存在しない言葉とかさ、そういうのは勝手に自動で翻訳?されるって事?」
『はい。例えば「時間」という言葉と概念ですが、この世界では時を計る機械などありませんので、本来なら存在しない言葉と概念なのです。しかし、救い主様は「時間」という概念を既にお持ちでいらっしゃいますから、それにこの世界が自動で合わせ、皆が理解するのです。この世界の者は、それほど不思議に思う事もありません』
「なるほど……じゃあ、この世界にあるとか無いとか、こんな表現が理解されるのかとか、そんなことは考えなくてもいいんだね?」
『もちろんでございます。救い主様は、思うがままに言葉を発し行動し、何の斟酌も躊躇もする必要はないのです。なにせ、救い主様なのですから。何か不都合が生じるような時には、女神が調整するはずですので、心配はご無用でございます』
「そっか。でもさ、自動翻訳?がさ、ちょっと変だったりしない? オロシガーネとかさ」
『はい。私めも経験がございます。証明ができる訳ではありませんからはっきりとは申せませんが、おそらく食文化スキルに関係する日本語の場合、意味や概念などが翻訳されないのでは、と愚考いたしております』
「食文化スキルねぇ。使えないから全然ピンとこないんだけど」
『より正確にいうと、救い主様の根本の力と言いますか……救い主のミチイル様には、地球で言うところのイエスキリストに与えられていた人類を救う力が、全部食文化スキルに変換されて与えられているのです。あの女神から』
「ん? 何か……まあいいか。そう言えば女神様も、最初は、僕のことイエスキリストって言ってたもんね」
『ですので、救い主様の根本の力に関係する言葉、今の場合で言うと食文化関係と食文化スキルと魔法ですね、その力に関係する言葉は、この世界の人間には「日本語のまま」聞こえているのではと思います。ですから意味も理解できないし、ただの音の羅列としか聞こえていないのではないでしょうか』
「そうかもね、っていうか、きっとそうなんだろうね。外国語とか呪文とかに聞こえるんだろうなあ」
『ですが、救い主様が気にする必要はございません。どこにも気を遣わず、普通にお話くださって構いません。後のことはどうにでもなりますので』
「なんかアイちゃんから不穏な空気を感じる気もするけど……ま、そうだね。いちいち細かいこと気にしてたら救い主なんてできないよね~ 僕の名前の事とか……?」
『…………』
***
「ミチイル、南の村に行く手筈がようやく整ったわよ」
「あ、母上、ほんと? いつ、いつ?」
「明日には行けると思うけど、ミチイルの好きになさいな」
「うん、じゃあ明日」
「この公都から南の村までは20km近くあるから、普通の大人の足でも2時間?くらいかかるのだけれど、足の速い人にミチイルを担いで行ってもらうことにしたから、すぐに着くと思うわよ」
「えっ? 20kmを2時間で歩くの? ものすごく速い気がするけど」
「そう? それくらいがアルビノ人にとっては普通よ。女の人でも歩けるわ。エデン人はもっとノロノロしているけれど。でも、ミチイルを連れて行ってくれるトム爺は、もっと速いのよ」
「トム爺?」
「ええ、トム爺よ。元は石切り職人でね、今は引退して公都にいるわ。ドン爺みたいに、無理のない範囲で石道具を今でも作っているわよ。この大公屋敷の竈房の石道具も、全部トム爺が作ったものなのよ」
「あの石の鍋とか石の台とか? すごいね。石を削るだけでも大変そうなのに……」
「ふふ、そうね。他の職人ももちろん作れるけど、トム爺は今でも公国一の石職人ね」
「でもさあ、お年寄りに運んでもらうのは申し訳ない気がするんだけど」
「それは大丈夫よ。石切り職人は、公都の北にある岩場から切った石を、南の村まで運ぶんですもの。ミチイルくらいなら問題ないわよ」
「えええ? 石を人力で遠くまで運ぶの? 川を使って運搬したりしないの?」
「川? アタシーノ川? 川で石は運べないじゃない。石を川に入れても水に沈むだけなのだし」
「ああ、そうだった。アルビノ人は木材使えないから、船も作れないもんね」
「船? 船っていうのは知らないし見たことがないけれど、何だか便利そうに思えてきたわ……」
「う、うん。でも木材ないからね……」
「まあとにかく、トム爺なら問題ないわ。問題なのはね、私なの。私の足じゃトム爺に着いていけないから、一緒に行けないのよ……」
「母上に無理とかして欲しくないから、大丈夫。トム爺と行ってくるよ!」
「ごめんなさいね……トム爺は魔獣を狩れる位とっても強いし、この公国の中にはミチイルを害するものも居ないから、トム爺とミチイルと二人だけになるけれど、何も問題ないから心配いらないわ」
「うん」
「じゃ、明日一緒にトム爺の所へ行きましょう」
「は~い」
***
「ト~ム爺~、準備できてる~?」
「おうマリア様、準備は万端じゃ! カッカッカ! そちらの坊ちゃんがミチイル様じゃな?」
「ええ。ミチイル、ご挨拶なさい」
「トム爺、初めまして~」
「カッカッカ、こりゃまた賢そうな坊ちゃんじゃの! ほんなら早速行こうかの!」
「じゃトム爺、お願いするわね」
「お易い御用じゃ! 坊ちゃん、背中に負ぶさってしっかり掴まっとくれの!」
「は~い。じゃ母上、あっ、……姉上?」
「ふふ、ドン爺もトム爺も知ってるから大丈夫よ。公国内なら大丈夫だから、心配しないで好きになさいね。エデン人にだけ知られないようにすれば良いから」
「あ、だから今日は布を被ってないんだね~ じゃ、母上、いってきま~す」
「楽しんでくるのよ」
***
「ぎゃーーーーーー」
***
――こうしてミチイルは、トム爺とともに南の村へ出発した