ざわり。
何か、いる。
仕事から帰り、自宅のドアを開けた。いつものように荷物をベッドに放り投げ、一人用のソファに体を沈めて目を瞑ると、体の上を何かが蠢く気配がする。
ざわり、ざわり。
不快感に目を開けたが、何もいない。
気の所為、か?
大きくため息をつく。
一人暮らしも長くなった。
いわゆる独身貴族というと聞こえはいいが、誰かと共に暮らすことが性に合っていないだけなのだ。
一人の家に帰り、コンビニで買った弁当とビールを飲みながらダラダラと過ごす生活が気に入ってはいるが、少し寂しくなったのかもしれない。
なんとも言えない違和感はそのままに、いつもの通りシャワーを浴び、テレビをつけようとした。
リモコンがきかない。
「電池切れかよ…」
本体の電源をつけ用と手を伸ばしたところに、ぽとり。
蜘蛛だ。
手の甲の上に小さな蜘蛛が落ちてきた。
「わあ!」
別に虫が特別嫌いなわけではないが、流石に突然のことに驚いて声をあげた。
手を振り払い、落ちた蜘蛛をティッシュで捕まえて潰す。
「くそがっ!」
なんだか今日はうまくいかない。
とりあえず買ってきた弁当をビールで流し込み、さっさとベッドにもぐりこんだ。
明日は電池を買わなければ。買い置きをしていないのはいたかった。
残業がなければなんとかカメラにでも寄って買ってこれるんだが。
うとうととまどろみ始めたその時だ。
ざわり。
足元に何かが触れた。
全身に鳥肌が立つ。
柔らかくもない、硬くもない。
なにかが、いる。
飛び起きて布団を跳ね上げた。
何も、ない。
「なんなんだよ…」
全身汗びっしょりだ。
このままだと眠れないだろう、とシャワーを浴びる。
全身に低めの温度の湯を浴びていると、頭もはっきりしてきた。
今日はどうやらうまくいかない日らしい。
有給も溜まっていて作業も今日の残業でひと段落したところだし、来週あたりに少し休みをもらってもバチは当たらないだろう。
仕事の休みのことを考えると、ざわざわしていた心も落ち着いた気がする。
ああ、俺はストレスが溜まっていたらしい。
休みにはレンタカーでも借りて少し遠出をしてみよう。陳腐だが海に行くなんていうのもいいな。
ワクワクした心持ちになったところで、バスルームから出ようとドアに手をかける。
開かない。
一人暮らしなんだからバスルームに鍵なんてかけることはない。
ドアの前にものが置いてあるようなこともないから、開かなくなるなんてことはないはずだ。
さっきまでのウキウキとした心が急に冷えていく。
「くそ、なんでだ!」ガタガタとドアを揺らすが、びくともしない。
万一の場合でも内側から外せるようになっているはずのドアなのに、何かが隙間に埋め込まれているかのように動かなくなっている。
「掃除をサボっていたせいか…?」
不思議に思いながらドアの上側に手を伸ばそうとしたその時だ。
バスルームのドアの上に、びっしりと、蜘蛛が、小さな、蜘蛛が、何百匹も。
「うわああああああああっ!!!!」
水で流してしまおうとシャワーをつかむが、レバーをひねっても水が出ない。
手当たり次第ものを投げつけるが、小さな蜘蛛に多少当たってもどんどんと新しい奴らが増えていく。
いつの間にか体にまとわりつき始めた奴らをなんとか払おうとするが、数が多すぎてキリがない。
耳の中に何かが入ってきた。
ごわり、と気持ちの悪い音がする。
黒く染まったたくさんの目を見た気がした後、俺は、
***
「おはようございます!」
「なんだ、今日は随分調子が良さそうだな?」
「ええ、昨日ゆっくり眠れたのでスッキリしたみたいです」
「そうか、新しい案件が来たけど疲れてるみたいだったから割り振るのやめようかと思ってたんだが…」
「大丈夫ですよ!ガンガン働きます!」
「そうか?じゃあメンバーに入れておくぞ」
「よし!頑張るぞ〜!!!」
(あいつ、昨日まではあんなにこの世の終わりみたいな雰囲気でどんよりしてたのにな。睡眠不足だっただけか。ちょっと、目が、怖かったが。ん?何か、あいつの足元…)
ざわり。