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オススメ作品(シリアス系)

伯爵令嬢は靴職人に恋してしまった

 それは私がちょっとした遊び心で夜の町へ遊びに出掛けた時のことでした。


「お嬢様、帰りましょう。夜の庶民はどんな悪いことでもすると聞き及びますよ」


 心配そうに後をついて来るエマニュールの言葉を、私は呑気に笑い飛ばしました。


「大丈夫よ、エマニュール。こうやって町娘の格好をしてるんだもの。誰も私が3万ルーブリもする首飾りをしてるなんて思わないわ」


「心配なのは金品を盗まれることだけではありません」

 エマニュールは細い老体をせかせかと動かして、スキップする私の後をなんとか離れずについて来ます。

「お嬢様のお美しさが私は心配なのです」


「あら、ありがとう。でも、私が美しいと、どうして心配なのかしら?」


 エマニュールの言葉の意味を、私はすぐに知ることとなりました。

 建物の陰から三人の男が出てきて、私を取り囲んだのです。宮殿ではついぞ見たことのないような種類の男たちでした。


「へへへ……、お嬢さん、綺麗だねぇ」

「俺たちと遊ばねぇか?」

「いい気持ちにしてやるぜぇ」


 薄汚い口元から黄色い歯を覗かせて笑う男たちを見て、思わず背筋に悪寒が走りました。男たちの言葉の意味はよくわかりませんでしたが、それでも私の防衛本能が告げていました。『逃げなければ』と。


「貴様ら! このお方に触れるのはこのエマニュールが許さんぞ!」

 杖を振り上げ、勇ましく私を守ってくれようとしますが、私の執事は60歳のヒョロガリ爺さんです。


「うるさい、ジジイ」

 男のうち一人の蹴り一発で、みぞおちを押さえてうずくまってしまいました。


「エマニュール! 助けて!」

 男たちに無理やり服を掴まれながら、連れて来た護衛役を間違ったと後悔しました。

 男たちの酒臭い口が近づいて来るのがたまらなく嫌でした。

「助けて!」

 しかしそこは誰もいない裏通りでした。

 もう一度だけ叫んで誰も助けに来なければ、伯爵令嬢の誇りに賭けて、ゴミムシのようなこの男どもに凌辱されるよりは、舌を噛んで死のうと思っていました。

 そんな思いで、叫びました。

「誰か! 助けて!」


「おまえら何してる」


 それは低くて甘い薫りのするような、殿方の声でした。


 声のしたほうを振り向くと、白くて玩具みたいな三日月の下に、そのひとが立っていたのです。


 その時は暗くてよく見えませんでしたが、町人ながら身なりの小綺麗な男性だと感じました。立ち姿が落ち着いていたせいか、とても頼もしくも見えました。


「なんだよ、テメエ?」

 男たちが口々に彼を罵りました。

「邪魔すんな、転すぞ」

「あっち行けや! オラ!」


「わっ……、私を……」

 騎士のように現れてくれた彼に、私は叫びました。

「助けなさい!」


 すると石畳の上を滑るような動きで、彼が男たちにするすると、近づいてきました。


「おい、この女、捕まえとけ」

 三人のうち二人が拳を構えて、彼を迎え撃ちました。

「バカめ。二人相手に勝てると……」


 瞬殺でした。

 彼の拳は二人の男の顔面をほぼ同時に叩き、石畳の上に沈めてしまいました。


「おっ……、おい?」

 私を捕まえていた三人目の男が、私から手を離して逃げ出そうとしました。

「うわあああっ!?」

 しかし彼の踊るようなステップが、瞬く間に男に追いつくと、その拳がまたあっという間に石畳の上に沈めました。


「逃げるぞ」


「あっ……?」

 私の腕を掴んで走り出そうとする彼に命じました。

「エマニュールも……! 私の執事のことも助けなさい!」


 石畳に膝をついて咳をしている私の執事を、彼が肩に担ぎました。


「爺さん、大丈夫か?」


「どこのどなたか存じませんが……あ、ありがとうございますじゃ」


 その者はエマニュールを肩に担ぎ、私の手を引いて、安全な場所まで連れて逃げてくれました。





 明るい広場でエマニュールを肩から下ろすと、彼が言いました。


「ここまで来れば大丈夫だ」


「無礼者! 手を離しなさい!」


 お礼を言うより先に叱責してしまったのはなぜだったのでしょう。伯爵令嬢の私の腕をいつまでも掴んでいる平民のこの男のことを本当に無礼だと思ったからなのか、それとも酒場の明かりが照らし出した彼の顔があまりに美しかったため、気恥ずかしくなってしまったからなのか……。


「これは悪かった」

 彼は少し不機嫌そうな顔になって、そして──

「貴族のお嬢さんがこんな夜更けに町をうろつくな。危険だろうが」

 こともあろうにこの私に説教のようなことを言ってきました。しかも私の正体を見抜いたのです。


「なっ……! なぜ私が伯爵令嬢だと……?」


「伯爵令嬢なのか。そこまではわからんかったが……」

 彼がブスッとした顔のまま、言いました。

「言葉遣いから立ち居振る舞い……少し接しただけでそりゃわかるわ。特にその、偉そうな物言いで、な」


「お嬢様! お礼をしなければなりません」

 横からエマニュールが口を挟みました。

「危ないところを助けていただき、ありがとうございました。よろしければお名前を教えてはくださいませんでしょうか?」


「平民相手に何をへりくだってるの、エマニュール!」と言いかけて、私は黙りました。彼の名前が知りたかったので、耳をそばだてました。


 すると彼は私たちに、くるりと背中を向けてしまいました。

「礼なんぞいらん。それよりサッサと無事に帰れ。せっかく助けてやったのに、また襲われたら無駄になるからな」


「何よ! 名前ぐらい教えなさいよ! せっかくだから覚えておいてあげるわ!」


 その背中に投げつけるように私が言うと、


「……ピエールだ」


 低いその声がはっきりと聞こえ、私はその名前をしっかりと覚えました。

 そしてその背中に向かって、自分の名前を投げつけました。


「私はボードリヤール伯爵家令嬢! ジャンヌよ! 覚えた? ピエール! この私に名前を覚えられることを光栄に思いなさい!」


 なぜあんなに子供のようにムキになってしまったのでしょう。私はその時十六歳。もう子供ではありませんでしたのに。

 今、思えば、彼に心惹かれたことを必死で誤魔化そうとしていたようにしか思えません。



*****



「お嬢様! 大変です!」


 エマニュールがそう言いながら駆け込んで来たので、私は期待に目を輝かせて、紅茶をお皿に戻しました。


「彼が見つかったの!?」


 しかしエマニュールの答えは私をがっかりさせるものでした。


「不覚でした。ピエールという名前の者は、町に数え切れないほどおりまして……、その中からあの方を特定することは……」


 私は立ち上がり、言いました。


「町へ出掛けましょう。自分の足で探すわ」



*****



 エマニュールを連れて、あの晩襲われた辺りを歩きました。

 顔はよく覚えておりました。忘れるはずがありません。見かけたらすぐに彼だとわかる自信がありました。

 でも広い町で偶然に再会できる望みは薄く、エマニュールが膝に手をついて息を整えるほどに歩き回っても、手掛かりすら得ることが出来ません。


「ピエールという名の、二十代前半ぐらいの、美しい方をご存知ありませんか?」

 遂に私は貴族の誇りも捨てて、平民たちに聞いて回りはじめました。

「背はこれぐらいで、黒髪の、目つきのちょっと悪い、綺麗な身なりの殿方なのですが……」


 するとおじさんとおばさんが、声を揃えて教えてくれました。


「そりゃあ、靴屋のピエールさんのことじゃないか?」






 教えられた靴屋は街角にありました。

 小さなその店先で、ちょうどお客らしき中年の男性が、美しい黒髪の店主に向かって、怒鳴り声をあげているところでした。


「あんたが優れた靴職人だって聞いたから、このブーツを買ったんだぞ!」

 中年のお客は胸を張り、偉そうに店主を見下しながら声を張り上げていました。

「ところが……見ろ! 泥がついてしまった! こんな汚れるような靴は返品する! 払った金を返してくれ!」


 黒髪の店主はお客が突き出した短いブーツを受け取り、しげしげと眺めると、言いました。


「これはすみませんでした。汚れるような靴を作ってしまった私が確かに悪い。代金はすべてお返ししましょう」



 お客がお金を受け取り、勝ち誇った笑いを浮かべて帰って行くのと入れ替えに、私は店主の前に立ちました。


「いらっしゃい」

 彼が私の顔を見上げて言いました。

「お客様……。今日は真面目にお昼の散歩かい?」


「何よ、今の客!?」

 ピエールと再会するなり、私はまくし立てました。

「靴に泥がついたから返品ですって!? バッカじゃないの!? そりゃあ汚いところを歩いたら靴に泥ぐらいつくわよ! あんた、なんであんな理不尽なクレームを受け入れちゃったの!? 卑屈にも程があるわよ!」


「卑屈じゃない」

 ピエールは表情ひとつ変えず、返品されたばかりのブーツを布で拭きながら、言いました。

「これは靴職人としての誇りだ」


「はあ……!? 卑屈よ、卑屈! どう考えてもね! あんた、もしかして親から『なんでもおまえが悪い! カラスがマドレーヌを盗んで行ってもおまえが悪い!』とか言われて育てられたの? それでそういう歪んだ性格になっちゃったの? かわいそう!」


「見ろ」

 ピエールが私の顔の前にブーツを差し出して、言います。

「泥がついた部分の革が明らかに劣化している。こんな脆弱なブーツを作ってしまったのは俺のせいだ」


 確かに靴の革が一部分、ヨレヨレになっていました。でも──


「こんなのぐらいでイチャモンつけられたらキリがないって程度じゃない?」


「俺は完璧な靴を作りたいのだ」

 厳しい目で、ピエールは言いました。

「ところで偶然また会ったな、伯爵令嬢。この間の礼なら要らんと言った筈だぞ」


 その厳しいまなざしを見つめ返した時、痛いほどまでに、私は自分の気持ちに気づかされたのです。

 平民の、靴職人ごときに、自分がどれだけ夢中になっていたかを、もう私は認めるしかなかったのです。


「探したんですよ、ピエールさん」

 エマニュールが私の後ろから言いました。

「お嬢様が何が何でもあなたにまた会いたいと言うので……ゲボッ」

 私の肘をみぞおちに食らって、黙ってくれました。


「お礼代わりにあなたに仕事を差し上げに来たのよ」

 再会できた喜びを隠しながら、私はピエールに命じました。

「私の靴を作りなさい。今度の舞踏会にはピカピカのハイヒールを履いて行きたいの。目が覚めるような真っ赤な靴がいいわ。出来るかしら?」


「仕事なら受けるしかありませんね」

 

 こうして私とピエールは、靴職人とその客という関係で繋がり合い、また幾度も会うこととなったのでした。



*****



 ピエールは独り身で、たった一人でその靴屋を営んでいました。



「ピエール!」


 私が店先から顔を覗かせると、彼はあからさまに溜め息をつきました。


「……また来たのか。伯爵令嬢様は暇を持て余しあそばされているだろうとはいえ、毎日来るとは相当暇なんだな」


「あら! 私が毎日来てはご迷惑?」


「どうでもいいが、一人で来るのはやめておけ。そんな貴族丸出しの綺麗な格好で町を歩いては危険だぞ。あの執事の爺さんはどうした?」


「綺麗? 私のこと、綺麗だと言ったのね? 大丈夫! 何かあってもピエールが守ってくれるでしょう?」


 フ……と、ピエールが笑いました。


 彼の笑顔を見て、私は有頂天になってしまいました。だって初めて笑顔を見せてくれたんですもの! 本当に、ただそれだけのことで、私の足は空に浮かび、高いところへ駆け昇って、戻らないぐらいの気持ちになってしまったのです。


 でもピエールは冷たく言うのです。

「綺麗と言ったのはあんたのことじゃなく、その着てる服のことだ。靴が出来上がったら、あんたのやしきまで届けさせる。毎日来られてもそうすぐには完成せんよ。大人しくおやしきで待っていてくれ」


 私は負けずに言いました。

「だってお仕事なんてしてる殿方のことが珍しいんですもの! 私の友達の殿方はみんな、毎日狩猟をしたり、錠前作りをしたり、遊んでばっかりなのよ? 働いてるのは下々の者ばかり。あなたみたいに、誇りに溢れたお顔をして働いてらっしゃる方なんて、見たことがないのよ。そんな珍しいものを見に来て何が悪いのかしら?」


 するとピエールが唐突なことを聞いてきました。

「おまえ、王妃殿下とは遊ばないのか?」


「王妃樣? どうしてここでマリー様の話が出てくるの?」


「王妃様は毎日退屈されて、遊び相手を欲してらっしゃると聞く。俺のところへ来るぐらいなら、王妃様の遊び相手になって差し上げろ」




 そんなのは無視して私はそれからも毎日、ピエールのお店に顔を出しました。

 王妃様の遊び相手なんて、ごく限られた高貴なマダムにしか務まりませんし、もしもお声がもしも私にかかったとしても、私は王妃様よりもピエールの傍がよかったのです。




「ピエール! 靴はまだ?」

「……精魂込めて作ってるんだ。そんなに簡単に完成はせん」



「ピエール! 靴は……」

「安心しろ。舞踏会までには間に合わせる」



「ああピエール! あなたはどうしてピエールなの?」

「知らん。俺は俺だからだ」





 何度顔を合わせても、ピエールはちっとも私のことを見てはくれませんでした。

 笑顔を見せてくれたのもあれきりで、そのあとはずっとあのブスッとした表情でした。


 物陰に隠れさせて待たせていたエマニュールのところへ戻ると、私はぶちまけました。


「伯爵令嬢でとってもかわいい私がこれほど足を運んであげてるのに……あの男、ちっとも嬉しそうな顔をしないわ! ホモなのかしら!?」


「お嬢様……」

 エマニュールは優しい目をして、私に言いました。

「身分違いだということをわきまえてらっしゃるだけです、ピエール様は。お嬢様はとても魅力的なレディーでございますよ」


「身分違い……」


 私は彼に夢中になるあまり、そのことを考えたことがあまりありませんでした。

 確かに、彼と結婚したいと私が言い出しても、お父様はきっと許してはくださらないでしょう。由緒正しい家柄の男性とでなければ。町の靴職人との結婚など、認めてはくださらないでしょう。


「ああ……」

 私はもう一度、先程の台詞を、今度は独り言として呟きました。

「ピエール……。あなたはなぜ、ピエールなの?」



*****



 しかし、それからすぐに、ピエールがただの靴職人ではないということがわかったのでした。


 私の執事はとても有能で、お城のご婦人たちの噂話からその情報を知り、持ち帰ると、すぐに私に報告してくれたのです。


「お嬢様! あの靴職人のピエール様のことですが……」


「ピエール?」

 読書をしていた私は急いで本を閉じ、身を乗り出しました。

「ピエールがどうかしたの?」


「あの方、平民ではございませんでした」


「どういうこと?」


 するとエマニュールは私に教えてくれました。


 ピエールの本名は、ジャン・ピエール・フォン・フェルゼン。公爵家の次男でした。彼はあるゴシップによりお城の婦人方のあいだでは有名人だというのです。


 私はちっとも知らなかったのですが、彼は二十二歳の若さで昨年まで、王妃様直属の近衛隊長を務めていました。王妃様のお近くにずっといるうちに、王妃様と恋仲になり、そのことが発覚して国王様の激しい怒りを買ったのだそうです。


 本来なら斬首刑に処せられるところを、お城からの追放で済んだのは、王妃様のお力が働いたのでしょうか。お城勤めをしていた頃からの趣味だった靴作りの才能があったため、一人町で暮らして行くことが出来ているのだそう……。


「ピエールに会いに行くわ」

 立ち上がると、エマニュールにお伴を命じました。






 ピエールは小さな彼のお店の中で、考え事をしているように、頬杖をついて粗末な椅子に座っていました。私が訪れたことに気がつくと顔を上げ、二度目の笑顔を見せてくれました。


 それはなんだか寂しそうな、あるいはそのどうしようもない寂しさを私に救われたような、そんな笑顔でした。


「ちょうどよかった」

 ピエールは言いました。

「もうすぐで完成なんだが、その前に靴のサイズを合わせてみてほしかったところだ」


 私が彼に何と声をかけようかと迷っていると、まだ色のついていない革のハイヒールが私の前に置かれました。


「この椅子に座って。履いてみてくれ」


 言われるままに椅子に座ると、履いて来た黒いハイヒールを脱ぎました。その足をどうしようかと思っていると、ピエールが両手で私の素足に触れて来ました。


 声が出そうになりました。


 恋してしまった彼の手が、王妃様にも触れたかもしれないその手が、私の素足を優しく掴み、とても大切なものを扱うように、作りかけの真新しいハイヒールの中へと導いてくれたのです。なぜかはわからないけれど、泣きそうになってしまいました。


 涙が出るのを堪えていると、彼が靴職人の声で、言いました。


「うん。ぴったりだな。しかし合わせてみて、よかった」

 そして顔を上げたピエールに気づかれてしまいました。

「どうした? なぜ、そんな泣きそうな顔をしている?」


「ジャン・ピエール・フォン・フェルゼン様」

 震える唇で、彼の本名を口にしました。

「聞きました。……あなたの噂話」


「……聞いたのか。噂好きなお喋りマダムどもから?」


「王妃様直属の近衛隊長さんだったのですね」

 私は幼い子供のように、ぽろぽろと涙を零しはじめてしまいました。

「王妃様のことが好きだったのね?」


「昔のことだ」

 ピエールはその美しいまつげで目を隠して、寂しそうに微笑みました。

「今はただの靴職人さ」



*****



 それから彼に会いには行かなくなりました。

 自分がばかのように思えてしまいました。身分違いは私のほう。ピエールがまさか私よりも爵位が上の公爵家令息で、しかも王妃様直属の近衛隊長だったなんて……。


 私の恋敵は王妃様でした。ただの伯爵家令嬢が、なんて身の程知らず。


 そして追放されたピエールの心を考えると、私などの入り込む隙間はそこになかったのだと、そう考えると、涙が止まらなくなるのでした。


「でも……彼が好き」

 一日中ソファーに横たわりながら、そればかり呟いていました。

「それでも私、ピエールが好きなの」


 窓の外には生温かい雨が降っていました。


「お嬢様」

 エマニュールが部屋に入って来ました。

「ピエール様より、ご注文の靴が仕上がったとの知らせでございます」


 そろそろ完成する頃だとは思っていました。

 その靴を受け取ったらこの恋を終わりにしよう。その靴をピエールとの思い出にして、すべてを諦めよう。もう、会うのはやめよう。

 そう思っていました。


 するとエマニュールが言ったのです。

「お嬢様じきじきに取りに来てほしいとのことでございます」


「え?」

 私は思わず身を起こしました。

「なぜ? やしきに届けさせると言っていたわ」


 エマニュールは私を嬉しがらせるように、柔らかく笑顔を浮かべました。


「お嬢様に会いたいとのことです」





 私は一人で町へ向かって駆け出しました。


 ピエールが私に会いたがってくれている! それは私を元気づけるためのエマニュールの嘘ではないかしらとは少々思いながら、それでも彼に会いたくて仕方がありませんでした。私が少しでも彼の心の慰めになるのなら、私はただ彼の傍にいるだけの愛玩動物でもいいと思っていました。



 赤い部屋着のドレスのまま、人だかりを掻き分けて、石畳にハイヒールの音を急がせて、駆け続けました。エマニュールがいないので少し迷いましたが、やがて目の前に彼の靴屋が見えて来ました。ピエールが店先の椅子に腰を掛けて、私が来るのを待っているのが見えました。


 駆け寄る私の姿を認めると、彼の顔に、ぱあっと笑顔の花が広がりました。隠すように、すぐにそれを消すと、息を切らして店先で立ち止まった私に、彼が言いました。


「最近店に来なかったから心配したぞ。どうしたんだ?」


 その言葉を聞いて、ついいつもの調子になってしまいました。


「私が来なくて、寂しかった?」


 膝に手をついて息を整えながらも、上から目線で私がそう言うと、ピエールもようやくいつものブスッとした顔になってくれました。


「毎日見ていた顔がある日突然見られなくなったんだ。そりゃあ寂しくはなる。……まぁ、よく来てくれた。靴が完成した。履いてみてくれ」


 それは思わず笑顔になってしまうほどにかわいい赤色をした、世界にひとつのキラキラとした輝きを放つハイヒールでした。


 私は椅子に座ると、履いて来た靴を脱ぎ、胸を高鳴らせながら、素足をその中に入れようとしました。


「待て。履かせてやる」


 彼の両手が私の素足を受け止めました。


 温かく、逞しいその手が、真新しい赤い靴の中へ、私を導いてくれました。


 彼との最後の思い出が、とても美しいものになった。そう思うと、涙よりも笑顔が溢れて来ました。


「フェルゼン!」

 表で女性の声がしました。


 ピエールは顔を上げると、驚いた表情でそのお方を見つめ、そして言いました。

「王妃様!」


 見ると、高い所に窓を背にしてしか見たことのなかった高貴なお顔が、すぐそこにありました。白いウィッグをつけて、豪華なドレスをお召しになった王妃マリー様が、こんな町の靴屋の店先に立ってらっしゃったのです。


「フェルゼン……。探したのですよ」

 屈強そうな護衛の男を下がらせると、王妃様がピエールに言いました。

「陛下に知られずお城に戻れる場所を作ってあげます。どうか、お戻りになってくださいまし」


 あの気高い王妃様のお顔が、ただの恋する女になっていました。


「王妃様……。お帰りください」

 ピエールが言いました。

「貴女はこんな靴屋に来るようなお方ではありません」


「あなたこそ……こんな靴屋にいるべきお方ではないわ! お城へお戻りになって……」


 するとピエールが決然とした表情で、顔を上げました。


「お言葉ですが王妃殿下。今の私の誇りは靴職人であることです。私は靴屋に身を落としたのではなく、靴屋になれたことを誇りに思っております」


 いきなり私はピエールに、後ろから抱きしめられました。驚いている私を尻目に、ピエールは王妃様に向かって言いました。


「私はこの女性……ジャンヌ・ド・ボードリヤールを嫁にします。どうか、お城へお帰りください。そして、国王陛下を助け、どうか良い国をお作りください」


「靴屋……」

 王妃様は汚らしくなってしまったものを見るように、嘆き悲しむお顔をされると背を向けて、

「あなたは靴屋になってしまったのね……。おお……!」

 声を震わせて、行ってしまわれました。



「よかったの? ピエール」

 私は彼に聞きました。

「せっかく王妃様が、よきに計らってくれようとしてたのに」


「あのお方は国を幸せにするお方だ」

 ピエールは答えました。

「俺一人の恋心のために、国を疎かにさせてはいけない」


「卑屈なのね。『国なんかよりも俺の恋心のほうが大事だ!』とか言えばいいのに」


「卑屈じゃない。これは俺の誇りだ。この国と、そして何よりあのお方の平穏な幸せを願うことこそが、俺の誇りなのだ」


「ふーん……。それより……そろそろ離してもらえるかしら?」


 私が言うと、ずっと後ろから抱きしめていたその腕を、ピエールがようやくほどきました。


「王妃様にあきらめていただくためとはいえ、おまえを利用して悪かったな」


 それを聞いて、私は真新しい赤いハイヒールで思わず地面を蹴ってしまいました。

「本当にそうよ! 失礼を通り越して無礼だわ! あんな嘘をつくなんて……!」


「いや、あながち嘘というわけでもない」


「……え?」


「この数日、おまえが店にやって来なくて、寂しい思いをしていたのは本当だ」


「本当に?」

 私は自分の目が輝いてしまったのを感じました。

「じゃ、これからも、毎日ここへ来てもいい?」


「ああ」

 そう言って、ピエールが今まで見せてくれたことがないほどの笑顔を、私に見せてくれました。

「いつの間にか、おまえの顔を見るとなごむようになってしまった。おまえがいると心が救われる。明るくなれる。どうか、毎日その顔を見せてくれ」


 この時、私は決めたのでした。


 ピエールは、この私が幸せにする、と。



*****



 そしてあれから10年後の私たちの生活が今、ここにあります。

 私はお父様をなんとか説得し、ピエールと結婚しました。

 子供が3人産まれました。

 親子5人で町に住んでおりますが、2人の息子には英才教育を受けさせ、5歳の娘には淑女(レディー)としての行儀作法を身につけさせております。実家には月に一度は必ず帰り、エマニュールと子供たちもすっかり仲良くなりました。


 夫の靴屋は大きくなりました。

 町どころか国一番の靴職人と認められ、国外の貴人も夫の靴を買い求めに来るほどです。



 今日は私、町の婦人会に出席するため、あの赤いハイヒールを履きました。10年前、夫が私のために作ってくれた、あの靴です。


「あら」

 履こうとして、思わず声を出してしまいました。

「入らないわ」


「さては太ったな?」

 後ろで見送ろうとしてくれていたピエールが、意地悪に言います。


「む……、むくんでるだけよ!」

 私は無理やり足をねじ込むと、颯爽と立ち上がってみせました。


「靴は俺が作ってやったのをいっぱい持ってるだろう。何もそんな窮屈なのを履いて行かなくとも……」

 ピエールは呆れ顔です。


「出会った頃のことを思い出して、今日、小説みたいにして書いたのよ。そうしたら、なんだかこの靴が無性に履きたくなっちゃったの」


 私が笑いながらそう言うと、ピエールが急にすまなそうな顔になり、私に聞きました。


「今さらだが……、本当によかったのか? 靴屋の嫁なんかになってしまって……」


「あら! あなたには珍しく卑屈ね?」


 彼は言葉を失い、苦笑しました。


「私は靴職人の嫁になったことを誇りに思っているわ」

 私は本心からそう言い、笑顔を見せました。

「あなたという靴職人の、ね!」


 ピエールはいつもの誇り高い顔になって、とても幸せそうに、笑ってくれました。







 

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[良い点]  ホコリをたてて違いをみせれば、くらいと気持ちにハカリをかける♪
[良い点] なんで靴職人なのかと思っていましたが、最後のサイズが合わなくなっても絶対に履くという心意気を描きたかったのかなぁ、とぼんやり考えていたりします
[良い点] 素晴らしかったです。 本当に素敵なお話でした! ジャンヌがピエールを求めるために街を急ぐ描写がとてもよかったです。 極上の恋愛作品でした。
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