7
「ふわわ……」
小さくあくびを漏らすと、隣に座っていたリージが聞き咎めた。
第二王子ロアのサロンで、フレーゼとリージは二人並んで座っている。ロアも机を挟んだ眼前に腰かけて並べられていく紅茶の用意を眺めていた。
これから勉強の時間では? そう言いたげな表情だ。
「先生、何を考えているのだろう」
ロアは不思議そうにぼやいた。当のフレムはまだ到着していない。
何故か勉強の前にティータイムにしようということだけ伝えられて、こういう形になっていた。
ロアは困惑しつつも、フレムの動きには慣れているのだろう。もうなんでもいいや、という投げやりな態度も感じる。
昨晩、フレーゼは自室のベッドで眠っていた。ちゃんと寝間着姿だったので、魔法は何でも出来るのだと改めて感心した。
魔力の無いフレーゼには関係のない話だが、そのうちリージもあんな感じになるのだろうか。隣に座る義弟を見遣ると何故か睨まれ顔を逸らされる。
何こいつ。
「はーい! 皆さん! 先生のお手製パンですよおおお」
朝のテンションではない。
浮かれた大人の登場に子供三人は笑みをひきつらせた。
フレムが持つ鉄板の上で焼きたてのパンが芳醇な香りを放つ。侍女がトングを持ち机の上の皿に積み上げていく。
「先生が作ったんですか?」
ロアは積みあがるパンを眺めながら問う。
「そうだよ~」
「へえ。先生は多才ですね」
パンのいい匂いが鼻腔をくすぐっていく。
「いただきます」
ロアとリージが口をつけたのを確認し、フレーゼもパンを一口ほおばった。
熱い。
でもふかふかで美味しい。
実家で使う酵母とは別の酵母なので、馴染んだパンとは違うがとても美味しい。
「……これ……」
リージが首を傾げる。しかしそれ以上は何も言わなかった。
(勘の鋭い奴……)
フレーゼはリージを視界に入れずに黙々と食べ進める。深夜に先生の部屋でパンを作っていたと聞いたら、さすがに怒られるだろう。これは黙っていた方がいい。
フレムもそのつもりだから、自分が作ったと言いながらパンを振舞っているのだろう。
「おいしい」
ロアがふうわりと笑んだ。
「いつも食べるパンと何が違うのだろう?」
ご機嫌なフレムがロアの隣に腰かけた。
「これからもちょくちょく焼こうと思うんだ。楽しみにしててね」
そう言いながらフレムもパンを口に運ぶ。ふと赤い瞳が揺れた気がした。
フレーゼは視線を逸らせずにいたが、フレムは楽しげに笑んだ。
「今日は庭に出て本でも読もうか。食べたら休憩! これ重要!」
フレムの言葉に王子二人はぎょっとした表情に変わる。彼らは休憩の後、勉強量が増やされる事を知っている。休憩を提案するのはいつも先生なのに、何故かその分の宿題を増やされるのだ。
その点フレーゼは気楽でいい。フレーゼは宿題を増やされない立場だ。勉強量も王子二人とは違う。
どうせ、いつかはこの城を出るのだ。どんな形であれ帰る実家がある。迎えてくれる両親がいる。
唐突に腕に鋭い痛みが走った。
「っ!」
フレーゼは驚いて腕に触れるがもう痛みはない。何だったのだろう。
「義姉さん?」
リージが怪訝そうにこちらを見ている。
「あ、ううん。何でもない」
何故だろう。
両親の姿を思い浮かべたはずなのに、両親の顔が思い出せない。黒く塗りつぶしたように真っ黒で、影のような姿が眼裏に浮かぶ。
フレムがてきぱきと侍女に指示を出し、庭に何冊かの本とブランケットが用意されていった。残りのパンはバスケットに入れられていく。
「残りは外で食べよう」
フレムが楽しそうに移動していく。ロアはおもむろに立ち上がり、庭へ視線を向けた。
「準備が早いなあ。フレーゼ嬢、行こう」
「あ、……はい!」
ロアに手を差し出されフレーゼは慌てて立つ。
こういう時は手を重ねてエスコートを受け入れなくてはならない。貴族とは面倒なマナーが多い人々だ。
フレーゼはぶるりと体が震えるのを感じた。体が重い気がする。
「どうしたの? 体調が悪い?」
「いえ、なんか食べ過ぎたみたいで」
「そう?」
ロアの手に自らの手を重ねる。
何か変だ。体の底から湧き上がるような悪寒が抑えられない。
久しぶりに作ったパンはとても美味しかった。
フレムとロア、リージとこの場にいることも好きだ。けれど理由の分からない感情が胸に広がる。
庭に出ると、眩しい朝の日差しに目を細めてしまう。
フレーゼは額の前に手をかざした。
綺麗に整えられた庭園に、いつのまにか陽の光を遮る天幕が張られている。
庭に敷かれた布の上に腰を下ろすと、その隣にロアが座った。
「なんかピクニックみたいだね」
微笑みかけられ、フレーゼは頷き返す。
「たまにはいいね。こういうの」
「王子様が地面に座るなんて想像もできませんでした」
「うん、僕も。でも先生はそういうことも含めて経験させてくれる」
ロアがフレムに視線を向ける。フレムはまだ何かを持ってくる気なのか室内に向け言葉をかけていた。
「先生が大好きなんですね」
「その表現は慣れないけど、うん。そうだね」
照れくさそうにロアが笑む。
少し離れた庭用の丸い机にどさりと本が置かれ、リージが教科書や文房具を並べている。その隣にリージ付きの侍従が机の隣に日傘を立てた。
「リージはこっち来ないの?」
ロアの問いにリージが顔を顰める。
「殿下と違い勉強に余裕がないので」
「真面目だなあ」
リージは予習復習に力を入れることにしたらしい。
ピクニックスペースから僅かに距離をとって、彼は自分の居場所を確保したようだ。
「なんか系統がばらばらだ」
ロアが用意された本を一冊ずつ手に取りながら表紙に目を落としていく。本の他にはパンの入ったバスケットや、飲み物の入った瓶もある。
「物語や図鑑、これは……薬草学? これはなんだろう」
ロアは一人ごちながらページを捲る。横顔が綺麗な曲線を描き、とても綺麗だ。朝日に透けた黒い睫毛が光を包んでいる。
(こういう美少年がいるあたり、イケメン率の高い乙女ゲームみたいだなあ)
うんうんと頷きながら、でもこの世界が舞台のゲームや小説等の記憶はない。
この世界は物語でもなんでもなく現実だ。
フレーゼは淡い水色の表紙が目に留まり手に取ってみた。表紙に描かれたドレス姿の女性がとても繊細な色で塗られていて美しい。装丁もしっかりしている。中を見ると文字が大きく、挿絵もシンプルだ。絵本というには重厚だが随筆というには易しい。
「それ気に入った?」
ロアがついと隣に寄り添った。
距離を詰められどきりとしたが、どうやら本を覗き込もうとしたようだ。どきまぎとしている気持ちを抑えるように口を開く。
「表紙が可愛かったので、目を通してみただけです」
「それ小さい頃に乳母が読んでくれたなあ」
ロアが懐かしそうに笑う。
「魔法で女の子がお姫様になるんだ。でもその魔法には代償が伴うんだけど、なんやかんやあって、王子様と結婚して幸せに暮らすんだ」
「なんやかんやですか。大分説明を端折りましたね」
「そのなんやかんやはあまり必要ないからね。ただ女の子がお姫様になって王子様と幸せに暮らす、そんな話」
確かに前世でもそういったお話は多かった。どれもこれも王子様が出てくるのだ。
ロアがフレーゼと視線を合わせた。
「そういう話は好き? 今の君も同じような感じになってるよ」
ぎょっとして目を剥いてしまう。
そんな風に考えたことはなかったけれど、確かにその通りだ。目の前にいるのは将来有望な美少年の王子。今まで平民だったのに、何故かドレスを着て城にいるフレーゼ。
まるで物語の主人公のようだ。玉の輿とふざけた会話をリージとしたけれど、改めて自分の現状を見ると夢のようである。
ロアが試すように目を眇めた。フレーゼの反応に興味があるようだ。
「確かにこういうお話は好きです。綺麗なドレスもかっこいい王子様も憧れます。でも」
「でも?」
「王家って一夫多妻が多いですよね?」
「は?」
予想しなかった返しに次はロアが困惑の表情を浮かべる。
「私、ずっと思っていたんです。なんで何処の王国も一夫多妻が多いんだろうって。奥さんが複数いるなんて嫌です。男性はそれで満たされるのでしょうけど、私は嫌です。たった一人でも私を見て愛してくれるなら、別に王子様じゃなくてもいいです」
フレーゼはお姫様の載った本を閉じた。
「だから私、村に帰って両親の後を継ぎ、そのうち同じ村の人と恋をして結婚出来たらなって思うんです」
「…………この国の王家は一夫多妻制じゃないよ」
ロアがフレーゼの勢いに圧されつつ、やっと言葉を発することが出来たのがこれだ。少々狼狽えつつもロアは先を続ける。
「確かに異国には後宮がある王家もあるけれど」
「でも、こ」
そう言いかけてフレーゼはとんでもなく失礼な言葉を発しそうだったことに気付いた。脳裏に浮かんだこの国の王は彼の父親なのだ。口を両手で塞ぐと、ロアは気が付いたようで苦笑を返す。
「政略結婚だからね。そうは言っても色々あるよ」
「殿下、ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないよ」
ロアが困ったように笑う。
「国王に本命の女性がいること自体は珍しいことじゃないんだ。お祖父様もそうだったし、なんだったら実はお母様も別に想い人がいるんだ」
フレーゼは言葉を失った。
「でもこの国は権力の集中を避けるため、側室は置かないと決められているし、王妃に子が出来なかった場合にのみ養子をとる事になっている。今回のリージの場合は、そもそも王位継承権は与えられない前提だからね」
「……え?」
全く知らなかった事実にフレーゼは言葉を詰まらせる。その反応に驚いたのはロアだ。
「知らなかったの? リージは魔力を制御出来ないから、王家で引き取ることになったんだよ」
リージに魔力?
だって先生に会った時も、そんなものを今まで感じたことないと言っていたのに?
いや、リージに魔力があることは、魔法の授業でリージが練習している姿を見て知っていた。けれど、城に来る前から彼が魔力を自覚していたことは知らなかった。
「でも政略結婚は楽だよ」
ロアはいつもの作り物の笑顔で言った。
「相手は僕の地位と結婚したんだとはっきりと分かるから。こんな地位だと信じられないよね。愛情を持って結婚するのかどうかなんて」
あなたが私を好きだなんて信じられない。私は何も感じない。
頭の中で声が響く。そう言ったのは誰だった?
ううん、違う。これは前世で自分が言った言葉だ。
誰に言った?
「フレーゼ嬢?」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「顔色が悪いよ。疲れているんじゃない?」
そうかもしれない。
フレーゼは額に手を当てながら眩暈を抑える。頭の中がぐるぐる回っている。
「先生! フレーゼ嬢が」
ロアが声を上げた。
何故だろう、瞼が重く開けていられない。頭も重くロアを見返すこともできない。
ざくざくと芝生を踏む音がして、慌てたような誰かの声も聞こえるが、音が遠くで聞こえるようで聞き取りづらい。
「フレーゼ、目を閉じて」
フレムの声がした。こつんと額に何かが当たる。
ひんやりとした温度が伝わり、何だろうと思う間もなく、フレーゼはそのまま意識を手放した。




