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「あなたを産んでよかった。ずっと覚えていてね。あなたが大好き、愛してる」
幼い私は、腕の中で温もりに微睡んでいた。
覚えているよ。
ずっとあなたの言葉を信じてる。
「あんたなんかいらない! 死ねばいいのに!」
どうして、こんなことになったのだろう。
瞼に焼き付いたかのように、そう叫ぶ貴女が忘れられない。
そうだね。なぜ私は生きているのだろう。
何度ぶたれても、何度酷い言葉を投げつけられても、ただ覚えていた。ずっと信じていた。
あなたが私を好きだって言ってくれたこと。
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ごぼごぼと口から息が漏れていく。
フレーゼは慌てて口を両手で抑えた。
意識が飛んでいたせいで、口から空気が出てしまった。
必死に目を開き、フック穴を探し視界に捉える。掌に、何度も練習した光を発現させた。
今なら伸ばせる。
フレーゼは流れに逆らいながら、手を伸ばした。光の縄がくねくねと伸び水中を進んで行く。そしてフック穴に巻き付いた。
光の縄を強く握り、縄を伸縮させる。フレーゼの体は伸縮の勢いで水面に飛んだ。そのまま柵が上がった部屋の床に、弧を描くように叩き落とされた。
「はあ、はあ、はあ……げほっ」
フレーゼは全身を強く打った痛みに呻いた。
息も絶え絶えで、水を飲んだせいで咳が止まらない。肺が痛い。
ずぶ濡れの体を丸め、その場で短い呼吸を繰り返す。
竜花を採りに行った時も、こんな風に全身を強くぶった。
こんな経験、二度もしたくない。
痛い。
痛いのは体なのか、前世の記憶なのか。
「フレーゼ!」
ロアが駆け寄り、フレーゼの体をそっと抱き起こした。
二階のレバーを固定して一階に来たのだろう。さすがだ。
「何があった! どこが痛む?」
「大丈夫です。そんなことより箱を」
フレーゼは部屋の中央で青く光る箱を指差す。腕を上げることが辛く、顔を顰めてしまう。
ロアは指差した先を見ることもなく、険しい表情を浮かべた。
「そんな物どうでもいい! 今は怪我がないか聞いているんだ!」
「…………っ!」
「なんでいつも君はそうなんだ! 大丈夫じゃない時に、大丈夫って答えるな!」
ロアは苛立ちを隠さない。彼の黒い双眸は、様々な感情を宿し揺れている。
「どうして殿下は、いつも私を助けてくれるんですか? 頭では理解しているんです。殿下は私を友人だと思ってくれていて、それで助けてくれるんだって」
「フレーゼ……?」
「でも、分からないんです。信じられないんです……」
フレーゼは涙が溢れて止まらなくなる。ぼろぼろと嗚咽まじりに泣いてしまう。
「私なんて助けないで下さい。親にも嫌われていたのに、信じられない。どうして私なんか」
全て過去であり、前世。今の自分とは関係ない。
それなのに、胸奥に澱のように溜まる記憶が、辛くてやりきれない。
「……フレーゼ、少し待っていて」
ロアはおもむろに立ち上がり、青の箱に近づいた。箱を開けると、紐の巻かれた羊皮紙が出てくる。
そして青い光が舞った。
光が傷ついた体に触れ、次第に痛みが抜けていく。
フレーゼは驚きで涙が止まった。
髪や制服も全く濡れておらず、綺麗になっていた。
怪我もない。
「これは幻を相手にしている試験だから、負った傷もこうすれば治る。もっと早く気付けばよかった。僕も冷静じゃなかったね」
ロアは苦笑した。そして膝をつき、フレーゼと視線を合わせる。
「フレーゼ。君が不安に思うなら、何度でも言葉にして伝えるよ。僕は君を信じている。だから君を助けたいし、君を守りたい」
「殿下……」
「だから僕を頼ってほしいな?」
ロアの言葉に、フレーゼの頬が赤く染まる。
「で、殿下、なんか、あの」
「うん? どうしたの?」
ロアはいつもの甘い笑みで、フレーゼを見つめた。彼は跪いているせいで、ますます童話の王子様のようだ。
彼は指の背でフレーゼの頬を撫でる。
「また、辛いことを思い出したの?」
フレーゼが首肯できずにいると、ロアは寂しそうに笑む。
「……前世の私は、幼い頃から、母の酷い折檻を受けて育ちました。たまに愛してると言ってくれて、その言葉だけを信じていて……それで」
フレーゼは喉が塞がったように言葉が出なくなった。
深く息を吸い、吐く。
「思い出したくなかった。こんな記憶、忘れたい」
「記憶があるから、僕が好きな疑り深いフレーゼも、怖がりなフレーゼも存在するんじゃないかな?」
「でも前世の私なんか忘れたい。思い出すほど、今の私が、おかしくなっている気がして、……怖い」
「……できれば、前世の君を否定しないであげて欲しいな」
ロアは言葉を選びながら、真っ直ぐな眼差しで告げた。
「君が想いを寄せてあげないと、前世の君は否定された子で終わってしまうよ。今の君が幸せなら、そうできないかな?」
「……幸せです。みんな大好き。人も世界も、みんな」
前世を思い出すたびに、心が今と結びついて、現世の幸福が消えそうな気がしていた。
頭では分かっていた。
過去には戻らない。戻れない。だから、怖がることも不安に思う必要もないのだ。
「あ! 箱を開けたから、魔法が解ける! フレーゼ、急いで部屋を出よう」
ロアは消え始めた天井を振り仰ぎ、手を差し出した。フレーゼは一瞬躊躇してしまったが、そっと手を重ねる。
彼は眉尻を下げ、笑んだ。
なんて嬉しそうに笑うのだろう。
「ロア様、嫌な態度をとってごめんなさい。いつも、ありがとうございます」
「……!」
ぱっとロアの頬が紅潮した。素早く顔を背けられる。
「君は、たまに本当に憎らしいね……」
ロアが扉を開くと、背後で光が爆ぜた。今まで存在していた空間が全て白に戻ってしまう。
扉の外で待機していた教師に羊皮紙を渡し、広場で待ってくれていた友人の元に戻る。
「フレーゼ、目が腫れているわよ。なに、泣いたの? そんなに大変だったの? みんな試験内容が違うって聞いたけど、殿下と一緒だから難易度が上がったのかしら」
ユファーはフレーゼの頬を両手で挟み、目元を凝視している。
「フレーゼ、寮に戻って目を冷やそう?」
ステラが心配そうに、こちらを見やった。
「うん、二人とも待っていてくれて、ありがとう」
「何言ってるのよ。逆の立場だったら、貴女も待ってるでしょう?」
フレーゼは目を丸くし、相好を崩した。
「うん、そうだね」
友人たちと寮に戻ろうと思ったが、ふと立ち止まり振り返る。
ロアが離れた場所からこちらを見ていた。ぺこりとお辞儀をすると、彼は表情を和らげ笑みを返す。
「フレーゼ、行こう」
ユファーに促され、フレーゼは寮へ走った。
記憶を取り戻したばかりなのに、こんなにも暖かい気持ちになるなんて。
前世で一人泣いていた幼い自分が、ロアに肯定され抱きしめられたような心地がした。
改めて、今を生きているこの世界が好きだと思う。




