25
瞼を開くと、そこはフレムの魔法の部屋だった。
窓から暖かい陽光が差し込んでいる。
立て続けに二度も魔法で移動したせいで、フレーゼは足元が覚束ない。フレムが長椅子にフレーゼを促し、座らせる。
「傷、治すよ」
フレムはフレーゼの隣に腰かけ、彼女の手首の鎖を外した。そして手首に触れる。血が滲んでいた手首から痛みが消えていく。
「こっち、向いて」
フレーゼは言われるがまま、フレムに顔を向けた。彼は眉尻を下げ、フレーゼの右頬に触れる。
「痛かったね……」
優しく労わるような声音にフレーゼは目を瞠った。
フレムの掌から熱が伝わってくる。彼の魔法は熱い。
いや、熱くなっているのは自分の身体かもしれない。
フレーゼは胸奥がざわつく気配を誤魔化すように、息を詰める。
「先生なら、手をひと振りするだけで、全身の傷を治せるんじゃないですか?」
「ふふ、ばれたか」
フレムは愉快そうに笑う。フレーゼは竜花を採りに行った際にも怪我を治療されている。その時は一瞬で治った。
けれど今のフレムは、一つ一つを確認するように触れてくる。その優しい触り方が不思議と嫌ではなかった。
「セクハラですよ」
「あ、またそういうこと言う?」
フレーゼが、前世で使っていた言葉を口にすると、フレムは笑みを深める。
「この世界でこの言葉を使ったのは初めてです。まさか先生、前世でも、そう言われたことがあるんですか?」
「なになに? 気になっちゃう、俺のこと」
フレムの一人称が変わった。フレーゼがフレムの顔を見やると赤い瞳と視線が絡んだ。
魔法使いの、試すような含みのある感情を感じて、フレーゼは怯む。
「もう、痛むところはないよね」
フレムの手が不意に離れた。フレーゼは頷き、思い出したことを恐る恐る聞く。
「あ、あの、私意識を失っている時に、もしかしたら……」
フレーゼは乱れた胸元を隠すように、羽織る上着を握りしめる。唇を噛みしめながら口にすると、フレムは驚いた顔を向けてくる。
「え、それ俺に聞く? まさか股でも開いて確認させる気?」
「……そ、そんなつもりは!」
フレーゼは顔を赤くして頭を振る。
何故こんなことをフレムに言ってしまったのか。城の女性侍医に伝えるべきだった。
いつもフレムが助けてくれるせいで、つい頼ってしまったのだろうか。
「俺は構わないけど、どうする?」
フレムの言葉にフレーゼの顔が真っ赤になる。
前世では今より年上の年齢まで生きていた。それなりの経験もしていた。思い出せるのは夢で見た年齢の記憶だけだが、社会人の頃の記憶には、そういった記憶もうっすらと残っている。
「ごめん、冗談。フレーゼが気にしていることは無かったよ」
「え……?」
「だって、あの場で君を助けたのは俺だから」
フレーゼは言葉に詰まってしまう。
眼前の魔法使いは、顔色一つ変えずに、世間話のように告げた。
「君が気を失った直後、あの男たちを焼いたのは俺。君はあれ以上の辱めは受けていない」
「……ど、どうして、先生があそこに?」
「フレーゼが考えているよりも、俺はフレーゼを気にかけているよ」
甘い言葉のようにも聞こえるが、あの男たちの成れの果てを思い出し吐き気がこみ上げる。
「確かに少しやりすぎたかもね。フレーゼは俺が怖い?」
フレーゼは首を横に振るが、何とも言えない心地がするのは事実だ。
「わ、私……」
「フレーゼ、お風呂入って体を洗っておいでよ。服は用意しておくから」
「と、とんでもない! 先生の家のお風呂をお借りするなんて!」
必死の形相で断るフレーゼの姿を見て、フレムは声を立てて笑う。
「きっと、気に入ると思うけどなあ」
フレムは立ち上がり、浴室へ続く扉を開けて手招きをする。フレーゼはつい素直に従ってしまい、誘われるまま浴室を覗いた。
「ふわあああああ!」
フレーゼは感嘆の声を上げた。
浴室を囲む二面の壁はガラス貼りで、窓の外は満天の星空だ。
「こ、こんな……ええ、嘘でしょ……」
「フレーゼが好きそうだなぁ、と思ったけど、嫌なら無理強いしないよ」
「入りたいです! ぜひ!」
女の子としてどうかと思うが、欲求が勝ってしまう。
フレムは笑いを深め、そう思ったと告げて浴室から出て行った。
信じられないくらい美しい光景が、浴室に広がっている。
窓の外の星空に合わせたのか、浴室の天井にも夜空が広がり暗い。しかし、小さな銀光の粒が舞っていて、入浴に困るほどの暗さではない。
魔法使いが万能すぎてやばい。
フレーゼは何度も口内で呟き、服を脱いで浴室に入る。
眩く光る星空に見惚れながら、身体の汚れを洗い流し、湯の張られた湯船に身を委ねた。
湯船も大きめだ。温かいお湯に浸かると、体の中の汚いものがどっと流れていく心地がする。
フレーゼは膝を抱え、湯の中に潜る。水の中を髪が漂う。その感覚が心地良くて、目を閉じ微睡んだ。
先生はどうして自分を守ってくれるのだろう。
確かにあの悲惨な光景はやりすぎだと思うが、正直当然の報いだとも思った。
前世でも、他者に虐げられることは多かった。どんなに呪詛を唱えても報復が叶うわけではなく、ただ耐えるしかなかった。
けれど、圧倒的な力で蹂躙された姿を見て、心が晴れる気もした。
最低だが、本心だ。
そんなフレーゼの歪みに、きっとフレムは気がついている。だから彼はフレーゼを救ったことを隠さない。自分を否定されないと確信しているのだ。
実家で夕飯準備をしている時、間違いなくあの侯爵令嬢を見た。彼女が大きな魔法陣を顕現させた姿も、この目で見た。
それらを伝えた時の、王子二人の表情が思い浮かんだ。
リージはともかく、ロアは信じると言ってくれたのに。
フレーゼは、ぶくぶくとあぶくを口から出しながら、湧き上がる苛立ちを抑え込む。
自分だってそう簡単に人なんか信じない。だから信じていたわけじゃない。
そう自分に言い聞かせる。
そうしないと心がいつか壊れてしまう。
(……誰の心が?)
フレーゼの思考が止まった。
いつからそんな風に考えるようになった?
小さい頃からそうだった?
温かい両親のもとで育った幼少期が霞みのようで、すぐに思い出せなくなる。己の心のはずなのに、心の奥にずっと潜んでいた感情を見つけてしまった心地だ。
(これは……前世の私?)
泣き出しそうな感情に驚き、水の中で目を開く。
瞬間、ぐいっと腕を引き上げられた。ざぱっと湯船から体を引き起こされる。
「ん、あれ?」
声の主はフレーゼと目が合うと、驚いた表情を浮かべる。
「びっくりした、沈んでいるのかと思った」
フレムが茫然とそう言った。
フレーゼは腕を掴まれたまま、湯船に立ち尽くす。
ぽたりと前髪から落ちた雫が睫毛にあたり、我に返った。
「セ、セクハラです‼」
大声で叫ぶと、フレムが慌てて体の向きを変えた。
「ごめん! いや、見てない! 何も見てない! 着替えをそこに置いたんだけど、返事がなかったから!」
「それは謝ります! でも……でも」
「分かる! 言いたいこと分かる! ごめん!」
フレムは慌てて浴室から出て行った。フレーゼは膝を抱えて湯船の中で体を丸める。
強く掴まれた腕が痛い。きっと驚いて力の加減が出来なかったのだ。今夜、あんな恐ろしい目に遭ったばかりだ。フレムが心配するのも分かる。
分かるけど。
恥ずかしい。
とにかく恥ずかしい。
用意された服に着替え部屋に戻ると、気まずそうなフレムがこちらを見た。
「ご、ごめんね、フレーゼ」
「もういいです、気にしてません……」
叱られた犬みたいに、しゅんと落ち込まれると許すしかない気持ちになる。
そもそも誤解させたフレーゼのせいでもある。
「夕飯食べてないよね? これどうぞ」
机に用意されたものにフレーゼは息を飲んだ。ふんわりしたパンケーキと暖かい紅茶が並べられている。
「ふわわわ……」
フレーゼが目を輝かせ変な声を漏らすと、フレムは小さく笑む。
「前にさ、自分でパンケーキを焼くって話したよね。結構自信あるんだ。さあ、どうぞ」
フレムが慣れた手つきで椅子をひいた。優雅な所作で作法も完璧だ。
素直に腰かけると、甘い匂いがフレーゼの鼻腔をくすぐる。
「これ、メープルシロップですか……」
「そう! あたり! これはね、北の国で見つけたのだけど」
フレムはそのまま勢いよくシロップを発見した話を語り始める。
前世で慣れ親しんだ味は、この世界で探すのは色々大変なようだ。見た目が異なるのは勿論、調理法も違っていたりして、偶然見つけることもあるが、大体は調べて足を運んで探しているらしい。
フレムはそういう物を見つけては手に入れて、この部屋で保存している。
「先生、もしかして寂しかったんですか?」
「は?」
フレーゼが脈絡のない質問をしたせいでフレムが固まった。
「あ、失礼だったら謝ります。でも先生、こうやって世界中を巡り前世の味を探しているから、前世が懐かしくて恋しくて探してしまうのかと思って」
「ああ、そういう意味か……」
フレムは困ったように眉尻を下げる。そしてフレーゼの隣に椅子を引き、腰かけた。
「そう言われてみるとそうかもね」
フレムは太ももの上で手を組み、指を弄びながら苦笑する。普段、見られないような表情だ。
「誰に話しても、前世なんて信じてくれない。ずっと過ごしてきた今の世界が、突然知らない過去の世界に支配される感覚がしてた」
それはフレーゼも同じだ。時折、頭の中がごちゃごちゃになる。そういう状態が続くと、前世を思い出すのが、酷く怖くなるのだ。
「……先生」
フレーゼは二の句が継げず、フレムを見つめる。
「でも、あらかた思い出してしまうと、それも自分なんだって思えた。俺は前世も男だし、考え方もあまり変わっていない。そこらにいた一般人が、魔法使いに転職したようなもので、ただ俺の経験が増えているだけなんだ」
フレーゼは目を瞠った。確かにその通りだ。
「俺は、長い一つの人生を、異なる二つの世界で生きていると思うようにしてるんだ」
フレムは赤い瞳にフレーゼだけを映している。
紅玉の中に浮かぶ縦長の虹彩が、彼の雰囲気をより神秘的にしていた。
「先生はどうして私によくしてくれるのですか? 同じ転生者だから?」
フレムはフレーゼの問いには答えず、小さく笑む。
「まだ、フレーゼは前世を忘れたい?」
「私が思い出す記憶は、あまりいい記憶じゃなくて」
「嫌なことばかり思い出す? いいことは?」
「……あまりないですね。人って嫌なことばかりを、覚えているものだなって思います」
「それはそうかもね。どの記憶も覚えておきたくない程なの?」
「うーん。前世でも優秀ではなかったですし、役立ちそうな記憶もなさそうです」
フレーゼはふざけた口調で笑うが、フレムは逆に表情を曇らせた。
「先生?」
「同じ転生者同士だから、ちゃんと協力してあげるよ。この世界では僕の方が年上だしね~」
わざと目を逸らされた。
フレーゼはそう思い、強引にフレムと視線を合わせる。彼はいつもの微笑みを向けてくれた。
「なに? 僕の顔に何かついてる?」
「い、いえ……」
フレムの一人称が元に戻っている。
彼自身、気づいているのかどうか分からないけれど、どちらかが素なんじゃないだろうか。
きっと今のフレムが仮面をつけているフレム。
(気づかなければよかった……)
彼の静かな微笑みに突き放された気がした。
「さあさ! 冷めちゃうよ! パンケーキ、食べて食べて!」
フレムに促され、フレーゼはパンケーキを一切れ口に入れる。
甘くて美味しいはずなのに、胸に苦々しい気持ちが広がっていった。




